車椅子に乗ったこんなにイカす催眠ヤロウを知ってるか
その名はミルトン・ハイランド・エリクソン
知れば誰もが首ったけ
エリクソンの生涯

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エリクソンの臨床と技法

 
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エリクソンの生涯


1900年 パブロフ、条件反射の研究。フロイト『夢判断』。
1901年 レヴィ・ブリュール『未開社会における精神機能』。

1901年  12月5日ネヴァダ州オーラムの銀鉱のキャンプでミルトン・エリクソン誕生。
1902年 ユング『神秘現象の心理学と病理学』。W・ジェイムス『宗教的体験の諸相』。
1903年 ブラムウェル『催眠学』。ラッセル、集合のパラドクスを発見。ライト兄弟、初飛行。
1904年 パブロフ、ノーベル賞。チェーホフ「桜の園」上演。ロダン「地獄の門」。
1905年 マッハ『認識と誤謬』。アインシュタイン、特殊相対性理論発表。「シオンの議定書」出回る。

1905年  家族でウイスコンシンに引っ越し。農業を開始。エリクソン3歳。
1906年 福来友吉『催眠心理学』。フランク・ロイド・ライト、ユニティ教会設計。ソシュール「一般言語学講義」。
1906年 ことばが話せるようになる。エリクソン 4 歳。

彼は話すでしょう


 私は4歳になっても話さなかったので、多くの人が心配しました。私の2歳下の妹はすでに話していましたが、これといったことを言うわけではありませんでした。私は4歳の子どもだというのに話せないので、多くの人々が弱っていました。
 私の母はゆったりとして言いました。「そのときがくれば、話すでしょう」


1907年 ユング、フロイトと出会う。ベルクソン『創造的進化』、クローリー、魔術結社「A∴A∴」結成。
1908年 ザルツブルグで第一回国際精神分析学会議。T型フォード、大ヒット。中東で石油生産開始。
1908年 「m」と「3」の違いがわかって、自然なトランス状態。エリクソン 6 歳。


mと3の違い


6歳のときエリクソンはあきらかに失読症であった。女性の教師は、なかなか彼に「3」と「m」が同じではないということをわからせられずにいた。ある日、先生がエリクソンの手に自分の手を添えて3を書き、それからmを書いた。それでもしばらくエリクソンはわからなかった。が、突然目も眩むような光の中で違いが明らかになるという自然な幻視体験が起こった。

エリクソン
「どんなに驚くようなものだったかわかりますか?ある日、突然目も眩むような光の中に「m」と「3」を見ました。
「m」はその足で立ち、「3」は足の出ている横のところで立っていました。何というまばゆい光。とてもまぶしかった。他のすべてのことは忘れられていました。まぶしい光の真中に「m」と「3」が見えたのです。」


1909年 マリネッティ「未来派宣言」。シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を組織するか』。
1910年 カッシーラ『実体概念と函数概念』。ラッセル・ホワイトヘッド『プリンキピア・マセマティカ』。レヴィ・ブリュル『未開社会の思惟』
1910年 乳絞りを覚える。エリクソン 8 歳。


医者を志す


 医者になろうと思ったのは、昔、8歳のとき、ひどい歯痛になりましてね。家庭医のところに行って、そのお医者さんが歯を抜き、痛みを和らげてくれて、それだけじゃなくて、でっかい5セント硬貨をくれたんです。なんだか自分が世界一金持ちの、最も幸せな人間になったような気がしましたね。その場で私は、大きくなったら医者になって人々を幸せにしてあげるんだ、と心に誓ったんです。それから医者になろうという思いはいつもありましたね。
1911年 ソーンダイク、動物実験による心理学研究開始。ハヴァロック・エリス『夢の世界』。
1912年 ヴェルトハイマー『運動視の実験的研究』(ゲシュタルト心理学誕生)。ユングとアドラー、フロイトから離脱。
1913年 クレペリン『躁鬱病とてんかん』。ヤスパース『精神病理学原論』。
1914年 J.B.ワトソン『行動』(行動主義心理学)。アームストロング、フィードバック回路を発明。

催眠と遭遇


 12歳のとき、ある友達が催眠の安っぼいパンフレットを取り寄せたんです。彼は私に催眠をかけたかったんですよ。私は彼に、僕が大人になるまで、ものがわかるようになるまで待ってるよって言いました。僕も催眠を勉強するよ、本当だよって。
 
1915年 キャノン、ホメオスタシス研究。アインシュタイン、一般相対性理論発表。ワトソン、アメリカ心理学会会長に就任
1916年 ルイス・ターマン『知能の測定』(IQ知能指数を導入)。クラウスら喘息とアレルギーの関係を研究。
1917年 高校まで4、5マイル歩いて通学していた。同級生は6人で男子学生は2人だった。エリクソン 15 歳。
1917年 レヴィン、生活空間の理論着想。ケーラー『チンパンジーの知恵試験』。
1918年 アドラー『個体心理学の実践と理論』。デンディ、大脳のX線撮影に成功。ゴダード、ロケット理論完成。
1918年 この頃辞書の使い方がわかる。自然なトランス状態。エリクソン 16 歳。

辞書の使い方を知る


 もっとも目も眩むようなまぶしい光が起こったのは高校2年生のときです。私は小学校から高校まで「国語辞典(Dictionary)」というアダナをつけられていました。というのも、とても多くの時間を部屋の後ろで辞書を読んで過ごしていたからです。ちょうど辞書の使い方を発見できたそのときに突然激しく目も眩むようを光が起こったのです。そのときまで単語を引くときは、最初のページから順番にページをめくって探していたのです。そのまぶしい光の中で、単語を探すためにアルファベットを順序づけられたシステムとして使えばよいことに気が付いたのです。学生たちはいつも1階で昼食を買って食べていました。どのくらいの間その光の中で座っていたのかわかりません。私が1階に降りたときはほとんどの学生が食事を終えていました。彼らに何をして遅くなったのか開かれてもちょうど今辞書の使い方がわかったのだとは言えませんでした。
 どうして辞書の使い方を理解するのにそんなに時間がかかったのかわかりません。私の無意識が、辞書を読むことで莫大な知識を得ることができるので、その方法をわからないようにしていたのでしょうか?

辞書を読んだ効用


 農場には2冊の本、合衆国の歴史の本と完全な辞書がありました。私は辞書をAからZまでくり返し読みました。それで、語彙がとても豊富になりました。
 後になって、私がモンタナで教えていたとき、ある医者が私を夕食に招いてくれました。そのとき、彼は特殊ならせん形のものを持ってきて尋ねました。「これが何かわかるかね?」私は答えました。「はい、イッカクの牙です」。彼は言いました。「これを見てわかった人は、君が初めてだよ。私の祖父は捕鯨をしていて、イッカクからこの牙を取ったんだ。この牙は、ずっとこの家にあった。私はずつとこれについて沈黙を守ってきた。私はこれを人に見せては、不思議がらせてきた。でもどうしてこれがイッカクの牙と知っていたのだい?」私は言いました。「私が5歳か6歳のとき、辞書のイラストで見たんです」



1919年 ボルデ、免疫学の貢献でノーベル賞。ホイジンガ『中世の秋』、カール・バルト『ロマ書』。
1919年 ポリオ羅患。エリクソン 17 歳。

その少年は朝までもたないだろう


 私は、1919年6月に高校を卒業しました。8月に私は、3人の医者が隣の部屋で母に「この少年は朝までもちません」と言っているのを聞きました。
 健康な子供に戻った後、私はそのことに憤りました。私たちの地方の医者は、2人のシカゴの医者に往診を依頼しましたが、彼らも母に「その少年は朝までもたないだろう」と言いました。
 私は激怒しました!息子が朝までに死ぬ、とその母親に告げるなんて!とんでもない!
 しばらくして、母は穏やかな顔つきで、部屋に入ってきました。母は私がうわ言を言っていると思ったでしょう。というのは、私は母に、部屋の大きなたんすをベッドの近くの住みに移すように言ったからです。母が移しても、なお私は満足できるまで、位置を変えるよう言い続けました。そのタンスのために、窓の外を見ることができなかったのです。「ちくしょう、陽が沈むのを見ずに死ぬものか!」と思っていました。私は日没を半分だけ見ることができました。そして3日間意識を失っていました。
 私は母に何も言いませんでした。母も私に何も言いませんでした。


身体麻痺、そして回復


 1919年の8月、私は小児麻痺になりました。その後ようやく松葉杖を使い始め、それからそれがステッキ2本になり、そして1本になりました。次の年の夏までには随分回復して、豆の缶詰工場で座り仕事くらいはできるようになって、それで大学に進むためのお金を少し稼ぎました。ポリオは、右脚と右腕にきましたね。ポリオのために、身体感覚のほとんど全てがなくなりました。脚がどこにあるのかわからない。それで看護婦さんが、私の顔にタオルをかぶせて、それからこんなふうに私の腕を置くんです。それで私は私の腕がどこにあるのかを捜さなくちゃいけない。それが私の課題だったのです。ここなのか、ここなのか、ここなのか、わからない。全然見当もつかないんです。
 その後、身体感覚が回復していく中で、手首や手や肩の場所がわかるようになる前に、まず肘の位置がわかるようになってきたんですね。空中に浮かんでいるこれは、他の身体の部分との位置関係からすると肘なんだろうなっていう感じで。太股の場所はわかるんだけれども、脚がどこにあるのかわからない。脚の位置がわかってきても、くるぶしから下がわからない。足の親指や小指はわかって、それが同じ足にあるということはわかってきても、その関係がわからない。こういうふうに、親指と他の指があるでしょ?ここのところに親指が浮かんでいて、ここに浮かんでいるのが小指ですよね。でも普通だったらわかるそんな関連さえわからないんです。それで本当にたくさんの時間を費やして、朝も昼も晩も、一つひとつ順番に、ゆっくりと身体の配置の感覚を作り上げていったわけです。


1920年 ユング『心理学的類型』。フロイト『快感原則の彼岸』。森田正馬「森田療法」の提唱はじめる。
1920年 ウィスコンシン大学入学。ピーナッツ缶詰工場での労働。エリクソン 18 歳。

豚の背を掻く


 ある夏、私は本を売って、大学へ通うための稼ぎとしていました。私は5時頃、景場に入り、本を買ってほしいと農夫に話しかけました。彼は言いました。「若いの、俺は何も読まない。何を読む必要もない。俺は自分の豚にしか興味はないんだ」「あなたが豚に餌をやっているあいだ、そばに立って話をさせてもらえませんか」と私は尋ねました。
 彼は言いました。「だめだ。あっちへ行きな、若いの。あんたにとってちっともよいことなんてないよ。俺はあんたをかまってやれないよ。豚の餌やりに忙しいんだ」
 それでも、私は自分の本について話しました。私は農場少年だったので、地面に落ちている屋根板片を2〜3枚取り上げて、話しながら無造作に豚の背を掻き始めました。これを見て農夫は手を止め、こう言いました。
「豚の背の掻き方を知ってるようなやつ、しかも豚の好むやり方でできるやつは、どんなやつか知りたくなった。今夜、うちに来て夕食を食べないか。ただで泊って行きな。本も俺が買ってやろう。あんた、豚が好きなんだね。あんたはどう掻けば豚が喜ぶかよくわかっているよ」

1921年 ロールシャッハ『精神診断学』。クレッチマー『体型と性格』。サーピア『言語の研究序説』。
1921年 カヌー旅行。エリクソン 19 歳。

カヌー旅行顛末

 大学1年が終わったとき、大学の保健部から呼び出されて、野外に出て脚を使わない運動をたくさんしなさい、と言われました。それで、1年が終わった夏、6月14日から9月にかけて、私はカヌー旅行に出かけたんです。マジソンの湖から入って、オヘア川を抜けて、ロック川、ミシシッピー川と下って、セントルイスのちょっと上辺りまで行って、それから戻ってきてイリノイ川を遡って、ヘニペン運河を通ってロック川に戻って、オヘア川まで来て、マジソンに帰ってきたわけです。カヌーで1200マイル(約1900km)ほど走りましたかね。その夏の生活費として2ドル32セント持って出かけたんです。頭にハンカチ巻いて、水泳着を着てです。それとシャツ1枚、オーバーオール1本、スニーカー1足。ほとんど水泳着でハンカチ頭に巻いて過ごしてましたね。17フィート(約5.2m)のカヌーに、豆の入った小袋1つと米の小袋1つ積み込んで、それとブリキの片手鍋、飯ごう1つ、小鍋1つ、ナイフとフォーク1本ずつ、手斧1本、それから毛布2枚を入れてね。食料は釣りをするとか、野草を採ってくるとか、あと川から頂くんです。川岸には、食べられる草がたくさん生えてますよ。
 ミシシッピー川での私の暮しは、それはぜいたくなものでした。だって、蒸気船が皮を剥いたジャガイモをでっかい籠に入れて置いていってくれるんですよ。船からジャガイモの皮が捨てられるんだけど、その中には必ずいくつかジャガイモ本体が紛れ込んでいてね、それがプカプカ流れてくるんですよ。リンゴもそう。時にはバナナとかトマトなんかも流れてくる。それを収穫するわけ。それとか、漁船を見かけたら、声が届くくらいの距離までカヌーで近づいていってね。頭にハンカチ巻いて、真っ黒に日焼けしている若造を見つけると、漁師さんたちは面白がって声をかけてきて、いろいろ聞いてくるんですよ。それで、自分はウイスコンシン大学の医学部の学生で健康のためにカヌーをしている、とか答えるわけ。釣りの方はどうだい、とか知りたがるから、いやまだ日が浅いですから、とか答える。そしたら彼らは必ず、頼みもしないのに魚をくれるんです。たいていキャットフィッシュ(食用ナマズ)をくれようとするんで、いつも私はそれを断わるんです。キヤツトフィッシュっていうのはすごく高い魚で、被らはそれで生計を立ててるわけです。断ると、その2〜3倍の量のミシシッピー・バーチ(スズキの仲間)をくれましたね。
 まだありますよ。川沿いにピクニック場があるでしょう。そこで野宿するといいんです。ピクニックに来ている人たちっていうのは、いつも食べきれないくらいの食料を持ってきています。で、私は片手鍋いっぱいのオートミールやら米やら豆を炊き始める。するとピクニックの人たちがやってきて、私の様子を見てあきれるわけです。それで私はですね、彼らの余分な食料、家に持ち帰りたくなんかない余り物を頂戴することになるわけです。川沿いで野宿していると、時には仕事にもありつけました。ある男が、粉挽き小屋を建てようと使い古しの煉瓦を洗ってたんです。彼は、この牧場で野宿させてあげるかわりに、この箱のところに座って煉瓦を洗ってくれないか、と言いました。時給もはずむし、ベッドも使っていいと言ってくれたんです。私は、3日間分の仕事とベッド、そして3度の食事を手にいれ、その上給料までもらったんですよ!そのあと、また別のところでは、牧場の柵を作っている間の牛の番っていうのもやりましたね。仕事は牛の番と、夜と翌朝の乳搾りだけ。牛は16頭。それでベッドが貰えて、1日50セント。こんなふうにして稼いだ金でテントを買って、オートミールとコーンミールを少々買い足しました。
 ある晩、ロック川の川縁でキャンプしようと座っていたら、でっかいトラックに乗って、2人の髭面の乱暴そうな男たちがやってきたんです。
 トラックを止めて、「ここで何やってるんだ、坊主」って言うから、「テントを張るところ」って答えました。そしたら、ここはテントを張る場所じゃないって言うんですね。もう張りかけていると言っても、だめだつて言うんです。私は手斧をぶらぶらさせながら、航行可能な川の岸30フィート(約9m)以内というのはキャンプしていい場所じゃないですか?と聞きました。すると彼らは、「お前のようなびっこの小僧が、こんなキャンプをしちゃいけない。俺らは、ここから半マイル(約800m)ほど上流にある中州にいる。そこだったらベッドもあるし、テントも張れるぞ」って言ったんです。それで行きました。彼らはチンビラなんだけど、とっても心根の綺麗な人たちでしたね。私のカヌーを川から引き上げ繋いでくれて、てきばきと私を抱え上げロッキング・チェアーに載せてくれたんです。彼らは私のためにビスケットを焼いたり肉を揚げたりしてくれました。ベッドも作ってくれて、夏の間はずっとここにいろ、とまで言ってくれました。何をしている人たちかって?夏の間は外でキャンプをしている。マーブはハマグリ採り。ビートは畜牛を買う。彼らは家を建てているわけじゃないから、冬はとても島では暮らせない。だから、たいていはイリノイのロックフォード辺りに、煉瓦を持って出かけて行く。どこかの家の窓ガラスを叩き割って、しょっぴかれて、それで冬の間は90日間刑務所で暮らすっていうわけ。
 私はそこに2週間いたんですが、よく食べ、水泳したりカヌーを漕いだりしてました。そしてまた、川を下って旅を続けることにしたんです。
 2人は悲しがってくれましたけど、また来たら立ち寄るんだぞ、と快く送り出してくれました。
 初めの頃は、自分一人ではカヌーを水から引き上げることもできませんでした。泳げるのは25フィート(約8m)くらい。テントも持参してなかった。どこでも野宿。それが帰って来た頃には、私の胸囲は6インチ(約15cm)増えていました。上流に向かって1日、朝6時から夜10時まで50マイル(約80km)、時速4マイル(約6km/h)の流れに逆らって50マイルも漕ぎあがっていくことができるようになったのです。肩と胸がすごく発達しました。カヌーを頭上に担ぎ上げて、堰を越えることができるようになりました。川を下ってきて、堰のところまで来ると、そういう所にはたいてい杭があるんですね。そこで私はその杭によじ登って、トランクスー丁で頭にハンカチ巻いて、持って行ったドイツ語の本を、杭に腰掛けて読んでいるわけです。それを見て人が集まって来る。その人たちに私はいつも、カヌーが堰を越えるのを待っているんですって言うんです。そうするとボランティア・サービスを受けられる(笑)。


1922年 クレッチマー『医学的心理学』。ビンスワンガー『医学的心理』、マリノフスキー『西太平洋の遠洋航海者』、ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』刊行。
1922年 カレッジの2年生のときに新聞に論説を投稿し続ける。
     自己催眠を使用。
     クラーク・ハルとの出会う。催眠に対して本格的に興味を持つ。エリクソン 20 歳。

催眠をはじめる


 大学2年の終わりまで、私は催眠のことは何も勉強しませんでしたけど。そのとき、クラーク・L・ハルClark L.Hullが医学部生を相手に催眠のデモンストレーションをやっているのを見たんです。私も、そのときの被験者の1人を私の部屋に連れて行って、催眠をやってみました。別の学生にもやったし、もう1人やりましたね。その夏、自分の兄弟姉妹、ウイスコンシン州ローウェルの子ビもたち何人かに、私は催眠をやり始めたんです。暇さえあれば催眠をやっていて、被験者に何かをしてもらうためのいろんな技法、様々な方法について工夫を凝らしたんです。3年が始まり大学に戻り、ハルはそのとき催眠に関するゼミを始めたんです。私はそのゼミで、その夏寸暇を惜しんでやったことの全部を詳細に報告しました。ハルや心理学の院生たちが、その意味について議論しました。その年は、私は大学生を使ってたくさんの催眠実験をやり、それをその年のゼミで報告しました。大学3年の終わり頃までには、私は数百の人に対して催眠を行ない、実験室ではかなりの数の実験をやっていました。メンドータ州立病院で、医学部や心理学科の教授らを前にして、催眠のデモンストレーションをやったこともあります。
 医学部時代、私はずっと催眠のことをやってたんです。薬理学教室も私のことを後押ししてくれましたし、クラーク・ハルも協力してくれました。医学部長も後援してくれたし、内科学教室も好意的でした。だから医学部の中では、私は守られていたんです。
 

1923年 ピアジュ『言語と思考』『児童の自己中心性』。オグテン&リチャーズ『意味の意味』。
1923年 催眠の研究に打ち込む。3年の終わりまでに数百人の人に催眠をかけ、数多くの実験をおこなう。
     医学部に進学。エリクソン 21 歳。

働いて学費を稼ぐ


 1年目、医学部の中で常勤の仕事を見つけたかったんですけど、ひとつ重大な事態がありましてね。仕事がない。それで9月から私が始めたことは、州管理統制局に行き、毎週1つか2つ犯罪に関する統計的なレポートを書き、州管理統制局長の机の上に置いておくってことをやったんです。局長は、これを元にニュース発表ができるって興味を示してくれました。ところが11月に入った最初の月曜日に、レポートが出てない。局長は激怒して、私を呼んでこいということになったんです。彼はあからさまに、いったいお前は何で給料貰ってるんだって私に言ったんです。なぜレポートを出さないんだ?私は答えました。給料貰ってませんって。そしたら被が「あ−、そういうことなら、たった今、君の名前は給料支払簿に載った!」って。これで私は仕事にありつけたんです。加えて、毎休日や休暇のときには、経費と日給を貰って局から要請があった特別な検査をやってました。だから結構忙しかったです。クリスマス休暇のときは、確か、検査をして1日10ドルプラス経費を貰ってましたかね。だからお金のことはなんとかやれました。医学部1年目で、75ドル貯めたんです。
 それを元手に何かいいものはないかと、マジソンの街中を自転車で探し回ったんです。それで月70ドルの貸家を見つけたんですね。その家をざっと見て、家主さんと会って、70ドル払って、看板を立てた。「学生向け貸し部屋」って。登記係の人には頼み込んで支払いを遅らせてもらって。働きながらやっている学生たちは、喜んで自分のシーツとかを安い値段で提供してくれたし、ベッドとか家具とかはいくつか中古品倉庫屋さんにお願いして入れてもらいました。そうやって家具付きの部屋を用意して、それを貸したんです。学生時代は、こうやって自活してました。管理統制局からの給料に加えてね。本当にすごく良かったですよ。
 

1924年 マイアー・グロース『錯乱の自己描写集—夢幻様体験型—』。ワトソン『行動主義』。ピアジュ『幼児の判断と推理』。ココ・シャネル、香水会社設立。
1925年 フォン・ノイマン、集合論の公理化。マルセル・モース『贈与論』、ヒトラー『わが闘争』。マンハイム『知識社会学の問題』。
1925年 初めての結婚。エリクソン 23 歳。

(大学時代に、工業高校の生徒、ミルウォーキー郡矯正施設に入所している人たち、少年鑑別所の少年、孤児院の子どもたち、ウイスコンシン中の囚人や犯罪を犯した精神障害者の心理検査をおこなう)

1926年 エードリアンら神経インパルスの研究(感覚生理学の基礎)。ミンコフスキー『精神分裂症』。シュレディンガー、波動函数導出。
1927年 ハイゼンベルグ、不確定性原理唱える。ボーア、相補性原理。エルトン『動物生態学』(食物連鎖・ニッチ概念確立)。ライヒ『オルガスムの機能』。
1928年 フォン・ノイマン、ミニマックス定理(ゲーム理論の開始)。マーガレット・ミード『サモアの思春期』。
1928年 ウイスコンシン大学を心理学修士と医学博士を習得して卒業。コロラド州でインターンに入る。
     コロラド精神医学病院(3カ月間)で精神科のインターンの研修をおこなう。
     約1200人の子どもの病歴を分析し、児童精神医学のリサーチをおこなう。エリクソン 26 歳。
1929年 ベルガー、脳波計測。ラシュレー『脳の機能と知能』。パウリ・ハイゼンベルグ、場の理論(量子磁気学)。
1929年 ロードアイランド州のハウアードにある精神疾患のための
     州立病院(the State Hospital for Mental Deseases in Howard、Rhode Island)で勤務した。エリクソン 27 歳。
1930年 ゲーデル「論理計算の完全性について」。アストベリ、分子生物学はじめる。ビンスワンガー『夢と実存』。フロイト『文化の不安』。
1930年 マサチューセッツ州ウースター州立病院勤務。アドルフ・マイヤーやブリルがいたこともある有名な病院であった。
    この4年間に生活史の徴底的研究をおこなっている。
    「実験的催眠による有害的効果の可能性(Possible Detrimental Effects from Experimental Hypnosis)」を著す。
    催眠に対する暗く恐ろしいという敵意のある雰囲気の中で、実験的に催眠が安全な手続きであるということを示している。
    この病院勤務時代にエドワード・サピーアと知り会う。彼にエリクソンの話すリズムはアフリカ中部のある部族のリズムと
    似ていると指摘される。エリクソン 28 歳。

ウースターで催眠の研究を再開する


 ウースター州立病院に研究部門が開設され、ノイエス博士はそのポストに私を推薦しました。ウースター州立病院のことは、私がコロラドにいた頃から聞いて知っていました。精神医学を学びたいと思う人間なら一度はそこに行くべきだと言われていて、というのも、合衆国の著名な精神科医はみんな、ウースター州立病院で少なくとも一時期は過ごしているからです。アドルフ・マイヤーAdolf Meyerはそこを出た人だし、ブリルBrillもいたし、他にもね。ノイエス博士が私に行くように勧めてくれたとき、私はとても嬉しかったですね。喜び勇んでその研究部門の精神科下級医貞の仕事につきました。すぐに上級医員になって、その後主任になりました。
 コロラド総合でインターンをやっていたときは、催眠の仕事はやらせてもらえませんでした。こちらからあえてそのことを口にすることもありませんでした。私がそこのインターンに応募したとき、彼らは私のことを調査してましたから、優秀な医学生であることは認めてくれていたんです。でも、もし催眠をやったらインターンは取れなくなるよって、私は警告されました。
 インターンの話が持ち上がり、新開なんかでいろいろ書かれてますから、催眠に対する疑念は強かったですね。ロードアイランドに行ったときも、ここの理事会は催眠には寛容でないよってノイエス博士から忠告されました。だからそれはやめておきなさいって。
 でもウースターの研究部門に行って、病院とは別組織なんですが、そこの雰囲気は全体的に「なんでもあり」でしたね。カイロプラクティツクから催眠まで。だからそこではたくさん論文を書きましたし、たくさん実験をやりました。

少女ルースのこと

  
 ウースター病院である日、院長が言いました。「誰かルースをあつかう方法を見つけてくれるといいんだがな」私は、とてもかわいくて小柄で愛嬬のある12歳の少女のルースについて尋ねました。誰でも彼女を好きにならずにはいられないでしょう。お行儀もとてもよかったのです。そして、看護婦はみんな、新入りの看護婦に「ルースに近づかないで。あの子はあなたの服を破るし、腕か脚を折るでしょう!」と忠告しました。
 新しい看護婦には、かわいくて愛嬬のある12歳のルースが、そんなだなんて信じられません。そして、ルースは新人看護婦にこう頼んだものでした。「お願いですから、お店でアイスクリームとキャンデイーを買ってきてください」 看護婦がそのとおりにすると、ルースはキャンデイーを受けとって、とてもやさしく感謝のことばを言ってから、空手チョップで看護婦の腕を折つたり、服を引き裂いたり、むこうずねを蹴ったり、足のうえに飛び乗ったりしました。それがルースの、いつものお決まりの行動です。ルースは楽しんでいました。彼女はまた、周期的に璧の漆喰をはがすのも好きでした。
 私は院長に考えがあると話し、このケースをあつかわせてほしいと頼みました。彼は私の考えをよく聴いて言いました。「うまくいくでしょうね。喜んで君の手助けをしてくれる看護婦を教えましょう」
 ある日、電話がありました。「ルースがまた騒いでいます」。私は病棟へ行きました。ルースは、璧の漆喰をはがしてしまっていました。私はベッドのシーツを破りました。彼女がベッドをこわすのを手伝いました。窓ガラスを割るのも手伝いました。私は病棟に行く前に、病院の整備士に話をつけていました。その日は寒い日でした。私は提案しました。「ルース、暖房の機械を璧からはがして、パイプをもぎとってしまおう」。それで、私は床に座って、二人で、ぐいっと引っ張りました。私たちはパイプをもぎとってしまいました。
 私は部屋を見画して言いました。「ここではもうできることがないね。別の部屋へ行こう」
 ルースが言いました。「本当にこんなことしていいの、エリクソン先生?」 私は答えました。「もちろん、おもしろいだろう? 僕にはおもしろいよ」。私たちが別の部屋へむかって廊下を歩いているとき、廊下にある看護婦が立っていました。私たちが彼女と並んだとき、私は1歩踏み出して、彼女のユニフォームとスリップを引き裂いたので、彼女はブラとパンティーだけの姿になりました。
 ルースが言いました。「エリクソン先生、そんなことしてはいけないわ」。
彼女は部屋へ駆け込んで、破れたベッドシーツを持ってきて、その看護婦に巻きつけました。
 その後、彼女はよい子になりました。私は彼女のおこないがどのようなものかを実際に見せたのです。もちろん、その看護婦はベテランの看護婦で、彼女も私と同様にこの一件を楽しみました。他の看護婦は全員、私の行動にあきれました。院長と私だけが、私の行動は正しいと、意見が一致していました。
 ルースは病院を抜け出し、妊娠して出産し、子どもを養子縁組に出すことで、私さえも困らせようとしました。それから、彼女は自発的に病院へもどり、とてもよい患者になりました。2〜3年後、彼女は退院を申し出て、ウエイトレスとして働き、青年に出会って結婚し、妊娠しました。私の知るかぎりでは、幸せな結婚生活で、2児をもうけました。ルースはよき母、よき市民になりました。


1931年 スキナー『反射の概念』。ゲーデル『自然数理の不完全性定理』。ホルクハイマー、フランクフルト社会哲学研究所所長就任。
1932年 シュルツ『自律訓練法』、ベルタランフィ『理論生物学』、バシュラール『火の精神分析』、ソーンダイク『学習の基礎』。
1933年 ハル『催眠と被暗示性』、古沢平作、阿闍世コンプレックス提唱。ライヒ『ファシズムの大衆心理』。ミンコフスキー『生きられる時間』。
1934年 ベネディクト『文化の類型』。ルイス・マンフィード『技術と文明』。サルトル『自我の超越』(サルトル、デビュー)。
1934年 ミシガン州エロイーズのウェイン郡総合病院に勤務。精神医学リサーチ部門のディレクター。
     離婚。3人の子どもを引きとる。エリクソン 32 歳。

エロイーズのウェイン郡総合病院に勤める


 ミシガン州のウェイン郡立総合病院が、精神医学研究・教育部門のヘッドとなる人材をずっと何年も探していたんです。そこには7名のスタッフと3、000人を越える患者さん、精神科の患者さんがいました。でもそこのスタッフは誰も、精神医学の研修をちゃんと受けていなかったんです。それで私が、精神医学研究・教育室長として、ウースターで貰っていた給料よりも、またそこのスタッフの給料よりもはるかに高い額で雇われることになりました。私はこう言われたんです。
「君はショーウインドーの見本です。私は理事会にここのスタッフの改善をさせたいのです。君には高い給料を出してあげるし、君に釣り合うスタッフを揃えるべく理事会を説得することだって、私にはできる」。
 実際、彼はその計画を実行しました。スタッフの数は7名から26名に跳ね上がり、スタッフの給料も一様に上がりました。私は1934年の春にエロイーズに行き、ウェイン医科大学の精神科教授とお会いしました。2人で精神医学について話し合っていたら、自分はもう年だから私の代わりに来ないかっておっしゃったんです。それで助手(Instructor)から始めて、すぐに講師(AssistantProfessor)に上げてもらいました。
 そのあと精神科の資格を取って、それで1939年に助教授(Associate Professor)になりました。心理学教室と共同で学生を指導し、心理臨床のトレーニングをやりました。毎夏、1人か2人の臨床心理のインターンを見てましたね。心理学科の修士論文や博士論文の指導もやり、それはウェイン大学とミシガン大学の両方でやってました。社会福祉学教室でも教えていて、それはウェイン大学が私のことを、大学院の教授(Full Professor)として任命したからです。私の催眠の仕事が評価され、ミシガン州立大学より臨床心理学教授職が与えられましたので、加えてそこでも教えていました。
 エロイーズは、ウェイン郡立貧民救済農場Wayne County Poor Farmとして100年以上前に設立されたものです。あるとき一人の精神病の患者さんを連れてきて、その後、だんだんもっと連れてくるようになって、たくさんの患者さんが集まるようになり、ついには郵便局が必要だということにまでなったんです。それで名前を付けてくれって、そこの指導監督者が頼まれたわけです。郵便局には通称があって、その通称名リストを参考にした名前リストを、彼は提出したんですね。その一番最後のところに、冗談で、自分の孫娘の名前であるエロイーズっていうのを入れておいたんですよ。そしたらそれが採用されちゃった。
 その後1940年代に、名前がエロイーズ病院・診療所からウェイン郡立総合病院・診療所へと変更されました。郡の施設だったのですから。郵便局の名前はまだミシガン州エロイーズのままですけどね。エロイーズの町全体が病院なんです。
 

1935年 アントニオ・モーニス、ロボトミー手術創始。ローレンツ『鳥の環境世界における仲間』(動物行動学はじまる)。シュレディンガーの猫、提唱。
1936年 セリエ『警告反応』でストレス学説提唱。ケインズ『雇用および利子・貨幣の一般理論』。エイヤー『言語・心理・理論』。
1936年 エリザベスと結婚。エリクソン 34 歳。

結婚、離婚、そして再婚

 1度目の結婚は1925年です。私はすごい夢想をしてたんです。「結婚したら幸せになるんだ」って。でもすぐに気がつきました。もし幸せがあるとしたら、それは子どもの中にあるんだって。パート、ランス、キヤロルが生まれました。1934年に離婚して、結婚なんてもうまっぴらだって思ってて。そしたらその後、ミシガン大学のキャンパスを歩いているかわいい娘さんを3月に見かけて、あの娘と結婚しようって決めちゃった。8月に離婚したんです。翌週その娘とデートして、婚約しました。
 私は彼女の名前を知らなかったんです。ウェイン大学に電話して、研究を手伝ってくれる人を1人欲しいって言ったんです。そしたらミシガン大学のキャンパスで見かけたその娘を紹介してきて。彼女はそこの芸術学院に通っていたんです。被女を助手として雇ったのが6月18日。8月までは離婚がはっきりしなくてね。離婚手続きが終わったらすぐに、彼女とデートしました。そのあと彼女は大学を終えて。私が学士号、修士号、医学博士号をとったのが6月18日でした。ベティを私の助手として雇ったのも6月18日。彼女は6月18日に卒業し、われわれが結婚したのが6月18日。

1937年 ホーナイ『現代の神経症的性格』(フロイト批判、女性心理研究)。パーソンズ『社会的行為の構造』。ディズニー世界初の長篇アニメ『白雪姫』。
1938年 スキナー『有機体の行動』(オペラント行動の概念)。バーナード『経営者の役割』。
1939年 S・I・ハヤカワ『行動の言語』。パノフスキー『イコロジー研究』。ジョン・フォード『駅馬車』。
1939年 精神医学リサーチ部門と訓練部門のディレクター。ウェイン大学精神科準教授。ウェイン大学では心理学も教え、またミシガン大学でも臨床心理学を教え、教授の資格を得る。
    アブラハム・マズローの紹介でマーガレット・ミードやグレゴリー・ベイトソンから協力を求められる。特にミードはバリ・ダンスにおけるトランス状態の研究について彼の意見を求める。エリクソン 37 歳。

サラーム


 私がウェイン州立医学校の教職についた最初の年に、2つ特別なことが起きました。私のクラスに、高校のときに授業毎に遅刻していた女子学生がいました。彼女は教師たちに呼ばれ、今度は間に合うように来ますと、いつもかわいらしく約束しました。そしてまじめに謝りました。彼女は高校で、すべての授業に遅刻して、なおかつオールAの学生でした。いつもとても申し訳なそうにしていて、信じられそうな約束をたくさんしました。
 彼女は大学ですべての授業に遅刻して、それぞれの講師や教授に叱りつけられました。彼女はいつもかわいらしく、またまじめに謝罪して、いつもこれからはもっとうまく行動すると約束し、そして遅刻を続けました。
 彼女は大学でもオールAでした。
 それから、彼女は医学校へ行きましたが、すべての授業や講義や研究室に遅刻しました。彼女の同級生は、彼女の遅刻のために、研究の進行が妨げられたので、彼女を責めたてました。それでも彼女は、自分の思いどおりにふるまい、謝罪し、約束しました。
 さて、私を知っている医学校の教師陣のうちのある人が、私が教師に採用されたと知って、こう言いました。「彼女が工リクソンの授業を襲うまで待て!すごい爆発がおこるぞ!世界中になりひびくぞ!」
 私は授業の最初の日に、8時の授業のために7時30分に到着しましたが、あの遅刻屋のアンを含めて全員が待っていました。
 8時に、アン以外は、わたしたち全員列を作って大講義室に入りました。
 大講義室の両側は通路でした。部屋の後ろには通路があって、西側にも通路がありました。学生は私の講義を聴いていませんでした。彼らはドアを見ていたのです。私は平静に講義をしていました。そのとき、ドアが開いて、とても穏やかに優しくゆつくりと、アンが20分遅れで歩いて入つてきました。学生は全員頭をすばやく動かして私を見つめました。彼らは、私が立つように合図するのを見て、みんな私の意図を理解しました。
 アンがドアから入つて部屋の前の方を横切り、ついで後方を横切り、反対側を途中まで上ってから自分の席、まん中の通路に面した席へ座るあいだ、私は彼女にサラーム(回教徒式の敬礼)をしていました。そして、クラスの全員がずっと、彼女に黙ってサラームをしていました。その授業が終わつたとき、外へ出るのにひどく混雑しました。アンと私が、最後に大講義室を出ました。私はデトロイトの天候の話だとか、その他その手の話題について話しながら歩きました。廊下を私たちが歩いていると、門番が黙って彼女にサラームをしました。何人か学部生が廊下をこつちへむかってやってきて、黙って彼女にサラームをしました。学部長が部屋から出てきて、彼女にサラームをしました。学部長の秘書が出てきて、彼女にサラームをしました。かわいそうにアンは一日中、サラームをうけることになりました。翌日の授業には、彼女は一番乗りで出てきました。そして、それ以来ずっとそうしました。彼女は学部長の叱責に耐え、教授全員からの叱責に耐えてきましたが、サラームは別でした。

ミシガン大学医学部での最初の授業


 ミシガンの医学部に就任したとき、最初の授業で私はこう言いました。
「みんなもうわかっていると思うが、ばかげたことに大学教授というものは、おしなべて自分の講議が一番重要だと思っているものだ。私は、その手の教授ではないし、自分の授業が重要だとは思っていない。自分が一番よく知っている」。
 「自分が一番よく知っている」と言ったのには、自分でも大変驚きました。それから、本のリストを渡しました。そして、精神医学に本当に興味を持っている人には、さらに別のリストを渡しました。最初の授業が終わった後、多くの学生が、私を医学部からやめさせろという学部長宛の嘆願書に署名しました。学部長からこの件について尋ねられたので、答えました。「ちょっと嫌な気がします。私は真剣に教えようとしています」すると学部長は、「では君は、私にどうしてほしいかね?」と尋ねてきました。私は「その嘆願書をください。気を付けますから」と答えました。
 6週間ほどたつと、学生たちは心から私を慕うようになり、授業も好きになりました。
 ある朝、例の嘆願書を黒板に張りつけました。そして、そのことについては一言も言いませんでした。誰も尋ねてきませんでした。誰もぐ−の音も出ませんでした(笑)。

患者の生活史について研究する

 
 ミシガンでは、私の出版物や私の書いたものが載っているたくさんの新開とかを見て、すごい数の人々が私のところにやってきました。だから私は面白いケースを選ぶことができたんです。精神医学研究・教育室長として、私はいつでも病院の患者さんを選択できました。
 新患に対しては精神検査を非常に丹念にやって、生活歴とかは全く取らないようにしていました。妄想の内容とか、幻覚の内容とか、その人の感情反応とかは、ちゃんと記述しておくんです。そしてそれらに基づいて、その人の病歴とかを書いてみる。あるいは、患者さんの福祉歴をまず読んでおいて、それから推測によって、その患者さんの精神検査の結果を書いてみる。自分の立てた推測と実際どうなのかを比べられるように、こんなことをよくやっていたんです。このおかげで私は、この幻覚、この妄想から予想されるものは何か、この実験的なことから期待されるものは何かを、より良く判断できるようになりました。ウースターの4年間、そんなことをしていたんです。

1940年 サリヴァン『現代精神医学の概念』。チャップリン『独裁者』。ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』。
1940年 学会誌“神経系疾患Disease of the Nervous System”誌のAssociated Editorを務める(〜55年まで)。エリクソン 38 歳。

1941年 ワロン『子供の心理的発達』。フロム『自由からの逃走』。オーソン・ウェルズ『市民ケーン』。
1941年 第2次世界大戦中は国の要請で日本人の性格特徴とナチの宣伝の効果について分析する仕事をしている(非公開)。
戦争中は、選抜徴兵局でも精神科医として働く。また積極的に催眠の有効性を訴え、各方面に取り入れられる。エリクソン 39 歳。

第2次大戦中、選抜徴兵局でも働く


 戦争が始まってからは、徴兵局でも働きましたよ。私の職場は代用病棟だったから、局の仕事と医学生教育を組み合わせることもできました。医学生をそこに連れていって、応用的な臨床精神医学の講座をやって、徴集兵について被らと詳細な議論をするわけ。医学生たちはとても喜んでました。臨床心理学の学生も連れて行ったから、彼らも実際の臨床体験を得ることができました。


1942年 ベイトソン『バリ島的生活』。メルロ・ポンティ『行動の構造』。ダーシー・トムソン『成長と形態』。
1943年 マカロック&ピッツ『神経に内在する概念の計算法』。サルトル『存在と無』。バタイユ『内的経験』。サンタナヤ『人と所さまざま』。
1944年 ビンスワンガー『精神分裂症』。ユング『心理学と錬金術』。ポランニー『大転換』。
1945年 ウォルベルグ『催眠分析』。レヴィン、グループダイナミクス研究所設立。ポパー『開かれた社会とその敵』。メルロ・ポンティ『知覚の現象学』。
1946年 ルース・ベネディクト『菊と刀』。ドラッガー『会社の概念』。
1947年 ピアジュ『知能の心理学』。サイモン『経営行動』。ヴェイユ『重力と恩寵』。
1947年 重篤な血清病に雁患。エリクソン 45 歳。
1948年 ウィナー『サイバネティックス』。アシュビー『脳のための設計』。ホグベン『コミュニケーションの歴史』。
1948年 フェニックスに引っ越す。アリゾナ州立病院に勤務す。エリクソン 46 歳。
1949年 リチウムに抗躁作用があることが発見。ワトキンス『戦争神経症の催眠療法』。レヴィ=ストロース『親族の基本構造』。ローレンツ『ソロモンの指輪』。
1949年 フェニックス、サイプレスで個人開業。料金は長い間1時間40ドルだった。エリクソン 47 歳。

アリゾナのフェニックスに移る


 1947年、バイクに乗ってて、というのも歩くのが困難だったから、そしたら転んじゃって、額のところがパックリ割れちゃったんです。そして大量の泥がそこにすり込まれちゃった。
 私は馬血清アレルギーなので、破傷風ワクチンを打ってなかったんです。だから2、3日ずっと、抗破傷風血清を打つかどうか、そのリスクを冒すどうかで悩みましたよ。周りの医者たちはみんな「やってみるべきだ」と言いました。それで打った。すると7日後にアナフイラキシー・ショックが出て、何度もアドレナリンによる救急治療を受けなくちゃいけなくなってしまった。その後15カ月間、血清による障害のために調子は良かったり悪かったり。関節痛、筋肉痛、それに血清障害からくる突然の虚脱とかね。
 また、ますます花粉に対して過敏になりました。私はいつも枯草熱(花粉症)になっていたんだけど、花粉に対する感受性が飛躍的に増大したために、何度かかなりひどい状態になって病院に担ぎ込まれました。
 ミシガンを離れて全く別の気候の所へ移った方が良いんじゃないかって勧められました。地図を検討して、それでアリゾナ州フェニックスを選んだのです。
 フェニックスには1948年の7月に来ました。
 ミシガンを7月1日に発ち、ここにやって来てしばらくは休暇期間だから、給料なしでした。辞表をちゃんと提出するまではね。
 夏を健康回復期間に充て、秋になってからアリゾナ州立病院にいた私の友人と会ったんです。彼はそこの病院管理者で、ミシガンのデトロイトで知り合った人です。
 エロイーズを退職したのが確か10月14日で、その目にアリゾナ州立病院の職を引き受けたんです。医員として就職し、すぐに臨床部長兼副管理部長代理になりました。6カ月その病院にいて、その間、私はいろいろな医学生から、そこで精神科のレジデントをやらせてもらえないかという依頼の手紙をもらいました。でも当時のアリゾナ州立病院は、政治的な争いが多いということで有名で、そのため経営体制が変わっちゃったんです。だからそこには、10月からその管理者が辞めた4月までいて、私もすぐに辞めました。あと2人ぐらい辞めましたかね。それからここで個人開業したんです。私のつもりとしては、1年くらいアリゾナ州立病院に寄宿させてもらって、家の建築費用を稼いで、それから個人開業を始めようという算段だったんです。それが実際は半年早まったということですね。
 

1950年 エリク・エリクソン『幼年期と社会』。チューリング『計算機構と人間』。セリエ『ストレス』。ピアジュ『発生的認識論序説』。
1950年 アルダス・ハクスレーと共同研究。
    クーバーと時間歪曲について共同研究を開始。エリクソン 48 歳。
1951年 ベイトソン『コミュニケーションー精神医学の社会的マトリクス』。ノイマン『人工頭脳と自己増殖』。マクルーハン『機械の花嫁」。
1952年 最初の向精神薬クロルプロマジンとレセルピン開発。ペンフィールド、人の脳の機能地図製作。ハル『行動の体系』。アレン『異常心理学の発見』。
1953年 ヴァイツェンホッファー『催眠』。ワトソン&クリック、DNAの二重螺旋構造モデル提唱。
1953年 ポリオの悪化。再び右手が動かなくなり、左手で書かなければならなくなる。しかし17歳のときの経験が生きる。エリクソン 51 歳。

(50年代前半から60年代前半までベイトソン、ヘイリー、ウイークランドから助言を求められる。また各地から招かれて講演、ワークショップ、セミナーをおこなうようになる)。

ベイトソンたち、エリクソン診療所に通う


 私(ジェイ・ヘイリー)がコミュニケーション研究計画でグレゴリー・ベイトソンの元にいた1953年の1月、私はある得難い機会に恵まれた。当時ジョン・ウィークランドもこの研究計画に参加していたが、ベイトソンは我々にコミュニケーション過程に見られるパラドックスに関するものである限り、どんなことでも好きなように研究してよいという完全な自由を与えてくれていた。ちょうどその初めの年、ミルトン・H・エリクソンが我々の地域で催眠の週末セミナーを催した。私が出席を希望するとベイトソンが手はずを取ってくれた。彼はマーガレット・ミードと共にバリ島で制作したトランスの映画について、エリクソン博士に意見を求めたことがあり、随分昔からの知り合いであった。
 そのセミナーのあと、私の研究は催眠を伴う人間関係におけるコミュニケーション的側面を取り上げることになった。ジョン・ウィークランドもこの計画に参加することになり、我々はエリクソンが開業するフェニックスを定期的に訪問し始めた。我々は何時間も費やして催眠の本質について語り合ったり、彼の治療場面を見せてもらったりした。エリクソンは月に何度も、合衆国のあちこちへ出掛けて講演や指導をするかたわら、忙しい開業生活を送っていた。2度のポリオの発作に襲われ、杖に頼るぎこちない歩行ぶりではあったが、非常に健康で活気にあふれていた。彼の診療所は私邸であって、居間に接する小さな部屋が診察室で、居間が待合室となっていた。彼には8人の子どもがあったが、1950年代にはまだ皆幼少でほとんどが家にいた。そこで待合の患者は彼の家族と入り交じっていた。その家は静かな通りに面する質素な煉瓦造りであった。この指導的な精神科医ならば恐らくもっと見栄えの良い診療所にいるであろうと期待して全米の各地から訪れた愚者は、これを見て果たしてどう感じただろうと私はいつも考えていた。


1954年 マズロー『人間性の心理学』。オルダス・ハスクリー『知覚の扉』。スキナー、ティーチングマシン製作。
1955年 ソーク、ポリオワクチン実用化。レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』。エーリッヒ・ノイマン『グレート・マザー』。
1956年 ベイトソンら『精神分裂病の理論化に向けて』。サリヴァン『精神医学の臨床研究』(新フロイト派)。ゴフマン『行為と演技』。
1957年 ヴァイツェンホッファー『催眠の一般技法』。ボス『精神分析と現存在分析』
1957年 アメリカ臨床催眠学会創設会長(〜1959年)。エリクソン 55 歳。
1958年 ベイトソン『ナーベン』(スキズモジェネシス理論)。マイケル・ポランニー『個人的知識』。中国ではり麻酔実施。カイヨワ『遊びと人間』。
1958年 アメリカ臨床催眠学会雑誌編集主幹(〜1968年)。エリクソン 56 歳。
1959年 エイク・エリクソン『アイデンティティとライフサイクル』。パロアルトにD.ジャクソンらMRI設立。。
1960年 レイン『引き裂かれた自己』。ランスロット・ホワイト『フロイト以前の無意識』。ベル『イデオロギーの終焉』。
1961年 ヒルガード&ヴァイツェンホッファー、スタンフォード催眠尺度つくる。家族療法の専門誌「Family Process」発刊。フーコー『狂気の歴史』。
1962年 ジャクソン&ワツラヴィックら『人間コミュニケーションの語用論』。エサレン研究所心理療法センター設立。クーン『科学革命の構造』。
1963年 ローレンツ『攻撃』(動物行動学の人間への適用)。ミンスキー『人工知能への道』。
1964年 アイゼンク『犯罪とパーソナリティ』。エクルズ『シナプスの生理学』。ジョン・リリー、LSD実験。マクルーハン『メディアの理解』。
1965年 ルロア・グラン『身ぶりと言葉』。リクール『フロイトを読む』。
1966年 ホール『隠れた次元』。ワイゼンバウム『イライザ・人と機械の自然言語コミュニケーション』。
1967年 エドモンド・モリス『裸のサル』。デリダ『声と現象』。ガーフィンケル『エスノメソドロジー研究』。
1967年 この頃より、車椅子中心の生活となる。
     ジェイ・ヘイリーが編集したエリクソンの論文集『Advanced Techniques of Hypnosis and Therapy』出版。
     ザイク、エリクソンを知る。エリクソン 65 歳。
1968年 ベルタランフィー『一般システム理論』。チョムスキー『言語と精神』。ナイサー『認知心理学』。
1969年 ドゥルーズ『差異と反復』。ハイゼンベルグ『部分と全体』。「サイコロジー・トゥデイ」創刊。
1969年 旅行を断念する。エリクソン 67 歳。
1970年 マノーニ『反ー精神医学と精神分析』。ルーマン『社会システムのメタ理論』。ミレット『性の政治学』。
1970年 フェニックス、ヘイワードに引っ越す。エリクソン 68 歳。
1971年 プリコジン『構造・安定・ゆらぎ』(散逸構造論)。R・ポッター『バイオエシックス』。コリン・ウィルソン『オカルト』。
1972年 ルネ・トム、カタストロフィ理論展開。ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』。ベイトソン『精神の生態学』。
1972年 アーネスト・ロツシーが弟子入りする。エリクソン 70 歳。

最晩年の治療スタイル


 70歳になり引退してからのエリクソンは彼自身の終章に向かっている。
 症状がひどくて車椅子を離れることができなくなり患者を診ることもごくまれになった。彼が晩年に行なった治療法はとても簡潔で効率的となり、これは多くの芸術家たちの晩年の作品を思い起こさせる。ピカソの絵画も簡潔さを増し、ボルヘスの小説もますます要素的なものになっていった。エリクソンの治療スタイルも経済性に富み患者の状況のポイントを素晴らしい迅速さで把握し、治療法もまるでダイアモンドカッターの動きのように無駄な努力のない簡潔で精緻なものとなった。年を取ると共に賢明さは増すのだが、それを十分に使える体力を失うということは人生の避け難いアイロニーであろう。

1973年 木村敏『異常の構造』。アンダーソン、記憶モデル(HAM)を情処理モデルとして提唱。シュマッハー『人間復興の経済』。
1973年 ジェフリー・ザイクが弟子入りする。エリクソン 71 歳。
     ジェイ・ヘイリー著『Uncommon Therapy』出版。エリクソンの療法が広く知られるようになる。オハンロンもこの時、エリクソンを知る。

親愛なるザイク様


 お手紙をいただき大変嬉しく存じます。お会いできれば嬉しいのですが、あいにく現在私は日に1人か2人しか患者を診ていませんので、あなたの役には立てないと思います。それに彼らをあなたの教育のために利用することもできません。また私の身体の状態が思わしくないので、日に1時間の教育を2日間続けて行うと言うことさえ約束できません。
 それで、人と人との間の関係性や人の心の中での関係性、そして行動上の変化における雪だるま効果などについてよく注意しながら、私の論文を読まれることをお勧めします。
 それから強調しておきたいのは、決まりきった言葉遣いや指示、暗示などは、全く重要ではないと言うことです。真に重要なのは、変わりたいという動機と、誰も自分の持っている真の能力を知らないと言う理解なのです。
1973年11月9日
ミルトン・エリクソン

 
1974年 MRIメンバー『変化の原理』(エリクソン序文)、第一世代ブリーフセラピーの誕生。ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』。
1974年 この頃、診療から退く。セミナーは続ける。エリクソン 72 歳。
1975年 ボブロー&コリンズ『表現と理解』 (副題に「認知科学」の語、初登場)。 J.メイナード『進化の論理』(進化ゲーム)。ウィルソン『社会生物学』。
1976年 ドーキンス『生物=生存機械論』(利己的遺伝子)。ビンドラ『知的行動の脳モデル』。
1977年 エクルズ&ポパー『自我と脳』。シャンクら、スクリプト概念を提唱。ケン・ウィルパー『意識のスペクトル』。
1977年 ウィリアム・ハドソン・オハンロンが弟子入りする。エリクソン 75 歳。

オハンロン、庭仕事とバーターで心理療法を学ぶ


 私(W・H・オハンロン)は、エリクソンに関するジェイ・へイリーの本(Haley、1973:『Uncommon Therapy』のこと)を買いに出かけた。以来、私はエリクソンの虜となった。
 エリクソンのもとでトレーニングを受けたいと申し出る勇気を奮い起こすまでに、それから数年がかかった。その間に私は大学を卒業し、少しの間、庭師として働いていた。ようやく彼に連絡を入れたのは、修士号を取るために大学に戻ってきた時だった。手紙を書いたのである。「この何年もの間、私が先生を訪問するもっともな理由を、いろいろ思いつきました。例えば、誰かが先生の仕事に関する記事を「サイコロジー・トゥデイ」誌に書くべきだと思ってみたり、先生の人生はきわめて魅力的なので、私が先生の伝記を書いてみようかなとも思っていました。また、私の庭師の技術と先生の授業とで取り引きしようかな、などとも思いました」といろいろと書いて、「要するに私はただ、先生と奥様にぜひお目にかかりたいのです」と縛めくくったのである。
 その後の週末、私はたまたま家を留守にしていた。家に帰って来ると、ルームメイトが、お前に変な男から毎朝早く電話がかかってくるぞと教えてくれた。電話の男は、そちらは“オハンロン造園店”か、と開いてくるらしい。
そして私がいないと知ると、何の伝言も残さずに電話を切ってしまうとのことだった。
 はたして翌朝、オハンロン造園店かと開いてくる“変な男”からの電話がかかってきた。ビル・オハンロンですが、と答えると電話の男は、「君は、仕事を引き受ける前に、まず現地調査をすべきだとは思わないかい?」と尋ねた。私は、エリクソン先生ですか、と尋ねた。男は、そうだと答えた。もちろん現地調査をすべきだと考えております、と私は言った。われわれは、次の週に会う約束を交わした。
 私は一番いい服を身に纏って出かけて行った。到着すると、エリクソンと妻ベティが家の中をいろいろ案内してくれ、いくつかのスクラップ・ブックを見せてくれた。それから、エリクソンは庭へ出ようと言った。私は、庭師というのは単なるメタファーだと思っていた。確かにメタファーであったのかもしれないが、メタファーだけでもないということに、すく気づかされた。エリクソンは私に、薔薇の周りの“雑草nut grass”を抜いてくれ、と言ったのである。私は、上等の服を着ていたので、この要求に応じたくはなかったが、かと言って拒否する勇気もなかった。その後、私は定期的に庭仕事をするようになり、時には面接に同席させてもらうこともあった。エリクソンが何をしているのか、私はますます混乱し、わからなくなった。私が庭仕事をしていると、彼は横に座って話しかけてくるのだが、あれは治療なのだろうか? エリクソンはいつも、庭をどうして欲しいかと言う質問にははっきりと答えてくれたが、治療については、なるほどと思わせてくれるようなことは何もいってくれなかった。だから、始めたときよりも終わったときの方が、私はいっそう混乱していたのである。私は、いつか必ずエリクソンのアプローチを明らかにしてやろう、と心に誓った。エリクソンが言ったことをもっと理解できたら、それだけでも自分の治療は格段と進歩するだろう、とジェイ・ヘイリーはいったが、その意味が私にもよく分かったのである。


1978年 E.O.ウィルソン『人間の本性について』。サイード『オリエンタリズム』。グッドマン『世界の作り方』。
1979年 アメリカで認知科学学会、創設。デイビット・マー『視覚情報の表象と計算』。ベイトソン『精神と自然』。ラブロック『ガイヤ』。
1979年 ミルトン・B・エリクソン財団が設立される。エリクソン 77 歳。
1980年 ブルデュー『実践感覚』。サール『心・脳・プログラム』。ドゥルーズ=ガタリ『ミル・プラトー』。
1980年 3月25日死亡。エリクソン享年 78 歳。
1980年 12月、第1回国際エリクソニアン催眠・心理療法学会。
1981年 D.ノーマン『認知科学の展望』。イリイチ『シャドウ・ワーク』。ハバーマス『コミュニケーション的行為の理論』。
1982年 リン・ホフマン『セカンドオーダー・サイバネクス』、第一世代ブリーフセラピー批判、構成主義家族療法の端緒となる。



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