近代催眠の起源は、ルイ16世の時代に活躍したウィーン出身の医師メスメル(Franz Anton
Mesmer:1734〜1815)だと言われる。またメスメルは、アメリカ大陸を発見したあのコロンブスと比しても語られる。曰く、どちらも未
開の新領域を発見した、しかしどちらも自分が発見したものが本当には何であるかを最後まで知らないままだった。そしてどちらも様々な伝説で彩られた彼等の
生涯は、多くのことが謎のままだ、と。
メスメルは、ドイツとスイスにまたがるコンスタンツ湖(ボーデン湖)のドイツ領岸の小村イツナングに生まれ、晩年市民権
を取得したスイスの、同じくコンスタンツ湖付近の小村フラウンフェルトで生涯を終えた。18歳でイエズス会神学校に入学し、その後、神学から哲学へ、次い
で法律へ、最後に医学へと進路変更を繰り返した。1760年よりウィーン大学で医学を学び、1766年論文「人体疾患に及ぼす惑星の影響について」にて医
学ドクトルを取得した。翌年、裕福な未亡人と結婚し(貧しい野心家が当時よくとった手)、ウィーンで内科医として開業した。その資産で社交界の人となり各
種芸術(例えば作曲家のハイドン、モーツァルト)のパトロンとなった。
彼が我々が知る磁気術師の祖となり始めるのは、1773年、27歳のエスターリーン嬢を治療したところからだった。彼女の症状が激化するのは(メスメル
はこれを分利クリーズと呼んだ)、まるで天体運動のように周期的であることに気付いた。ちょうどそのころ、イギリスで磁石をつかった治療が行われているこ
とが聞こえてきた。メスメルは磁力を人為的に変化させることで、彼女の分利クリーズの周期を変えることができないか試みた。鉄を含んだ薬を飲み込ませ、彼
女の体に磁石を張り付けた(笑ってはいけない)。患者はまもなく不思議な「流体」が自分の体を通り抜けていくのを感じて、数時間の間に症状は消失してし
まった!この日、1774年7月28日を「歴史的な日」と書き記し、メスメルはこの流体に「動物磁気」という名前をつけた。
メスメルはこの発見に夢中になり、結局、生涯を「動物磁気」に費やした。メスメルは何度も「奇跡のような」治療を行い、
有名になったが、医学界は彼を認めなかった。彼の(はやすぎる)絶頂期はおそらく、「歴史的発見」の一年後、1775年、バイエルン侯によってガスナー神
父の祓魔術の正当性を調査するために招聘された時だった。メスメルは、自分は動物磁気で患者を治すことができると公言し、そればかりか「これは祓魔術抜き
のガスナー法である」とまで言った。「ガスナー神父は、それと知らずに動物磁気治療を行っていたのである」とも。そして自分の磁気術を公開披露し、そのお
かげでバイエルンの科学アカデミーの一員となった。
しかしウィーンに戻ってきても、医学界は冷淡だった。そればかりか、公然とメスメルと対立した。メスメルはこの年の終わ
りに、盲目の天才少女音楽家マリーア=テレージア・パラディース嬢の治療を自宅で行った。メスメルは患者をしばしば自分の家に寝泊まりさせた。メスメルの
磁気術は、はた目にはちょっとエッチだった。患者に向かい合ってすわり、自分のひざを患者のひざに触れさせて、自分の両手で患者の親指をぎゅっとかたく
握って、相手の目をじっと見つめる。それから肋骨の下の方に触れ、患者の手足を撫でるように表面から少し離して手かざしを上下させる……。多くの患者が奇
妙な感覚を感じ、中には分利(クリーズ)に陥るものもいた(喘息患者にとっては喘息発作が分利(クリーズ)であり、てんかん患者にはてんかん発作が分利
(クリーズ)である)。そして、これが病気を治すというのである。
この少女音楽家は、目が見えるようになった、と告白した。少女が最初に見たのは、メスメルの顔だったらしい。家族は喜んだ。視力はだんだんに回復して
いった(と少女は言った)。メスメルも回復宣言をした。しかし他の医者達は、少女が目が見えるのが、メスメルと共にいる時だけだと批判した。家族とメスメ
ルの間は気まずくなった。結局、少女は(また?)視力を失ったからである。
この事件のしばらく後、メスメルはウィーンを去った。ライバル達は「インチキ医者が強制退去された」と噂し合ったが、治
療失敗の失意が動機だという話もあった。『無意識の発見』を著したエレンベルガーは、メスメルとこの少女が「いい仲」になってしまったのではないか、とも
推測している。メスメルは妻をウィーンの残したままだった(そしてこれっきり二度と会うことはなかった)。とにかくメスメルは、パリへと向かった。パリは
騒がしい都市だった。そして磁気術師メスメルを歓迎した。
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