催眠の歴史:ガスナー神父、メスメルからエリクソンまで



催眠の歴史を学ぶことはどうして必要なのか?
それは催眠がどうしてこんな扱いなのかを理解できるから。
1 メスメル大地に立つ
2 暗示説、出撃す
3 メスメリズム拡散する
4 論争、ナンシー学派 対 サルペトリエール学派
5 感情表出による「煙突掃除」:カタルシス療法
6 行動心理学者たち
7 「魔術師」エリクソン

※別冊 日本の催眠の歴史

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動物磁気をめぐる相関図



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1 メスメル大地に立つ

祓魔術を行う
ガスナ−神父
 メスメルの先行する同時代人「ガスナー神父」:ヨハン・ヨーゼフ・ガスナー(Johann Joseph Gassner:1727〜1779) は、オーストリア西部山岳地方のフォアアールベルクVorarlbergにある非常な寒村ブラーツ(Braz)に生まれた。「神父」と呼ばれることからわ かるように、彼は1750年、カトリック教会に入り、1758年からスイス東部の小村クレースターレで聖職者として活動を開始した。メスメルをして、「彼 は格別の磁力を持っており、彼にくらべてわずかな力しかない私は磁石を使って力を増幅する必要がある」といわしめた強力な治療力は、ガスナー自身の頭痛が きっかけだった。彼は説法やミサの最中に自分を襲うこの頭痛を、自分を妨害しようとする悪魔の仕業と考えた。カトリックの牧師らしく、ガスナーは祓魔術 (エクソシスト)と祈祷でこれを「退けた」。その後、ガスナーは多くの信者を集め、祓魔術を行うことになる。

 ガスナーは、非常な成功を重ねたが、惜しむらくは生まれるのが遅過ぎた。ガスナーの祓魔術は、啓蒙の時代に咲いた、心霊 療法の仇花だった。新参のメスメルが、打ち倒し名をあげるには、うってつけの存在だった。
 ガスナーは古来からの霊的治療の技を自家糧中のものとし、カトリックの神父という既成宗教の権威をも後ろ楯にしていた。しかしそのどちらも、歴史的な役 割としては、そろそろ耐用期限が切れようとしていた。ヨーロッパは封建制と教会の支配をようやく抜けて、いくつかの国民国家の集合体になろうとしていた。 絶対王政に集中した権力と同じく集中した知識=情報を前提にした啓蒙思想が席巻しようとする中(これら新しい二つは、いずれもガスナーのところに押し掛け た民衆たちが手にしようがないものだった)、彼の治療効果を認める貴族・諸候ですら、表立って積極的には支持することはできなかった。要するに、時代の流 れはガスナーに利することはなかった。

 ガスナーの祓魔術を、その伝統的権威を背景にした権威催眠の一種と見なすなら、登場の際に持ってくる特大の十字架も、術 中に用いる荘厳なラテン語も、一種の威光暗示を強調した演出に見えるだろう。彼は病気を、自然が原因で引き起こされるものと(これは医者の領分である)、 悪魔が原因で引き起こされるものがあると考えた(よりによって説教やミサの最中に自分を邪魔する症状は、悪魔のせいに違いないというわけだ)。ガスナーは クライアントに(あるいは彼に巣食うヤツラに)対して、こう言い渡す。「もしこの病が自然以外によるところあらば、余はイエスの名において免ずる。直ちに 正体をあらわせ!」。そうして何度か症状を出させる(これは悪魔が彼の命令に従っていることを示す)。こうなれば、支配下に入った悪魔を退散させる(すな わち病を治す)ことは、もはや簡単なことだった。ガスナーはクライアントに「呼吸が止めよ」と命じて、仮死状態に陥らせ、悪霊に退去を命じた後、クライア ントに再生を命じる。こうしてクライアントが息を吹き返した後には、病はすっかり癒え
ているのである。

 しかし歴史を直線的・進化するものとして語るのは注意を要する。今もこの地球上では、心霊療法家は、催眠療法家に催眠術 師の数を足しあわせても、それをはるかに凌駕するほど存在するし、我々が催眠現象だとみなすものを、「肉体を持たない霊的存在(悪霊だったり動物霊だった り死霊だったり……)」の仕業とみなす人の方が、はるかに多いはずである。心霊療法は、歴史上、決して全面的には負けたことはなかったし、それはこの先も 多分ないであろう。心霊説は、ある特定の地域、文化・文明において衰退したに過ぎないのである。メスメルの勝利は、地域的にも、社会階層的にも極めてロー カルなものに過ぎなかった。



 近代催眠の起源は、ルイ16世の時代に活躍したウィーン出身の医師メスメル(Franz Anton Mesmer:1734〜1815)だと言われる。またメスメルは、アメリカ大陸を発見したあのコロンブスと比しても語られる。曰く、どちらも未 開の新領域を発見した、しかしどちらも自分が発見したものが本当には何であるかを最後まで知らないままだった。そしてどちらも様々な伝説で彩られた彼等の 生涯は、多くのことが謎のままだ、と。

 メスメルは、ドイツとスイスにまたがるコンスタンツ湖(ボーデン湖)のドイツ領岸の小村イツナングに生まれ、晩年市民権 を取得したスイスの、同じくコンスタンツ湖付近の小村フラウンフェルトで生涯を終えた。18歳でイエズス会神学校に入学し、その後、神学から哲学へ、次い で法律へ、最後に医学へと進路変更を繰り返した。1760年よりウィーン大学で医学を学び、1766年論文「人体疾患に及ぼす惑星の影響について」にて医 学ドクトルを取得した。翌年、裕福な未亡人と結婚し(貧しい野心家が当時よくとった手)、ウィーンで内科医として開業した。その資産で社交界の人となり各 種芸術(例えば作曲家のハイドン、モーツァルト)のパトロンとなった。

 彼が我々が知る磁気術師の祖となり始めるのは、1773年、27歳のエスターリーン嬢を治療したところからだった。彼女の症状が激化するのは(メスメル はこれを分利クリーズと呼んだ)、まるで天体運動のように周期的であることに気付いた。ちょうどそのころ、イギリスで磁石をつかった治療が行われているこ とが聞こえてきた。メスメルは磁力を人為的に変化させることで、彼女の分利クリーズの周期を変えることができないか試みた。鉄を含んだ薬を飲み込ませ、彼 女の体に磁石を張り付けた(笑ってはいけない)。患者はまもなく不思議な「流体」が自分の体を通り抜けていくのを感じて、数時間の間に症状は消失してし まった!この日、1774年7月28日を「歴史的な日」と書き記し、メスメルはこの流体に「動物磁気」という名前をつけた。

 メスメルはこの発見に夢中になり、結局、生涯を「動物磁気」に費やした。メスメルは何度も「奇跡のような」治療を行い、 有名になったが、医学界は彼を認めなかった。彼の(はやすぎる)絶頂期はおそらく、「歴史的発見」の一年後、1775年、バイエルン侯によってガスナー神 父の祓魔術の正当性を調査するために招聘された時だった。メスメルは、自分は動物磁気で患者を治すことができると公言し、そればかりか「これは祓魔術抜き のガスナー法である」とまで言った。「ガスナー神父は、それと知らずに動物磁気治療を行っていたのである」とも。そして自分の磁気術を公開披露し、そのお かげでバイエルンの科学アカデミーの一員となった。

 しかしウィーンに戻ってきても、医学界は冷淡だった。そればかりか、公然とメスメルと対立した。メスメルはこの年の終わ りに、盲目の天才少女音楽家マリーア=テレージア・パラディース嬢の治療を自宅で行った。メスメルは患者をしばしば自分の家に寝泊まりさせた。メスメルの 磁気術は、はた目にはちょっとエッチだった。患者に向かい合ってすわり、自分のひざを患者のひざに触れさせて、自分の両手で患者の親指をぎゅっとかたく 握って、相手の目をじっと見つめる。それから肋骨の下の方に触れ、患者の手足を撫でるように表面から少し離して手かざしを上下させる……。多くの患者が奇 妙な感覚を感じ、中には分利(クリーズ)に陥るものもいた(喘息患者にとっては喘息発作が分利(クリーズ)であり、てんかん患者にはてんかん発作が分利 (クリーズ)である)。そして、これが病気を治すというのである。

 この少女音楽家は、目が見えるようになった、と告白した。少女が最初に見たのは、メスメルの顔だったらしい。家族は喜んだ。視力はだんだんに回復して いった(と少女は言った)。メスメルも回復宣言をした。しかし他の医者達は、少女が目が見えるのが、メスメルと共にいる時だけだと批判した。家族とメスメ ルの間は気まずくなった。結局、少女は(また?)視力を失ったからである。

 この事件のしばらく後、メスメルはウィーンを去った。ライバル達は「インチキ医者が強制退去された」と噂し合ったが、治 療失敗の失意が動機だという話もあった。『無意識の発見』を著したエレンベルガーは、メスメルとこの少女が「いい仲」になってしまったのではないか、とも 推測している。メスメルは妻をウィーンの残したままだった(そしてこれっきり二度と会うことはなかった)。とにかくメスメルは、パリへと向かった。パリは 騒がしい都市だった。そして磁気術師メスメルを歓迎した。


メスメル
動物磁気術の創始者
バケー(磁気樽)を
つかって治療を行う

メスメル
 メスメルがパリに登場したのは1778年の2月だった。当時のパリは有名外国人をもてはやした。そしてメスメルはすで に有名だった。押しが強いし、社交慣れした振るまいも、社交界に溶け込ますのを容易にした。彼は自宅を治療院に定め、上流階級の患者をとびきり高額の医療 代で診察した。そして高貴な人々からは協力者や弟子も得た。たとえば医師デスロンは、国王の弟の侍医だった。メスメルは自分を売り込むために、デスロンに も磁気術の本を書かせた。

 パリではすでに磁石をつかうのはやめていた。かわりに、溢れかえる患者をこなすために、有名な磁気桶(バケー Baquet)をつかった集団治療をはじめた。これは、磁気桶と称する木製の桶にガラス粉と鉄粉を混入し、メスメルがこれを凝視して動物磁気を宇宙より呼 び寄せるものだった。 この桶に鋼線を数十本立てて、暗闇で患者に触れさせると、患者の身体は分利(クリーズ)を経験し、中には気絶してしまう者もいた。やがて、それでもこなし 切れず、もっと貧しい連中のためには立ち木を磁化し、一種の野外集団療法を行った。

 しばらく後、多分1782年頃には、メスメルはスランプを感じ出した。最初にエスターリーン嬢を治療して以来、自分のな かに感じた磁気の力が弱まっているように思えたのだ。確かに不吉なしらせだった。メスメルや取り巻きに有力者の働きがけにもかかわらず、あいも変わらず、 その「いかがわしい」磁気治療は決してまともな医者の取り合うところとはならなかったし、メスメルが望んだような国立病院での採用など夢また夢だった。そ して取り巻きと温泉旅行中、あのデスロンが自分を裏切り、メスメルにとってかわろうと動物磁気術の医院を開業したという知らせを受け取った。晴天の霹靂! 独占欲と猜疑心の人一倍強いこの創始者は、裏切り者デスロンが自分の術はおろか患者まですべて奪ってしまうに違いないとパニックに陥った。一緒に温泉に来 ていた取り巻きの法律家と銀行家が妙案を出してくれた。メスメルの秘術を独占し高額をとって普及教育する会員組織を設立することだった。1784年、この 企画は、調和協会として結実した。

 しかしこうしたお家騒動は、フランス国王ルイ16世をして王立科学学士院・王立医学学士院メンバーより審査委員会を設立 せしめ、動物磁気術を審査させることに相成った。メスメルは調査を拒否した。調査委員たち(化学者ラボアジエ、アメリカ大使フランクリン、天文学者バイ イ、ギロチンの発明者・医師ギヨタンなど)はしかたなくデスロンの磁気医院へ出向き、やがて調査結果を発表した。治療効果は肯定するも、動物磁気という磁 気流体の存在を否定、治療の効果は「想像力によるもの」と回答したのである。

 実はここに、ガスナーの退魔術とメスメルの動物磁気術との決定的な差がある。それ自身、意志をもった霊体は、必ずしも術 者の思い通りにはならない(可能性がある)。しかしメスメルのいう「動物磁気」は、(メスメルたちの考えでは)純粋に物理学的な存在であり、適切な条件設 定ができれば、操作可能である。つまり、霊体は科学実験には乗らない(乗りにくい)が、「動物磁気」はそうではない。これこそ、メスメルが己が術を科学的 と呼び、その原理を「科学的」に説明した帰結であった。実験によって反証(否定)可能なほどに、「動物磁気」は「科学的」であったのである。

 もっとも、この報告がすぐさま動物磁気術に打撃を与えた訳ではなかった。しかしより大きな打撃を与えたのは、パリ市民の 飽きっぽさ(彼等はすでに新しく表れた高等詐欺師「カリオストロ伯爵」に夢中になっていた)と、何よりもメスメルの忠実な弟子ピュイゼギュール侯爵が、メ スメルの所説に合致しない「磁気睡眠」を発見してしまったことだった。悪いことというのは重なるもので、メスメルは社交界で、再び視力を失ったあの天才少 女音楽家パラディース嬢と再会、またも体面を失った。続々とメスメルへの徹底批判が行われ、弟子達はここぞとばかり離反、反発、調和協会を発案した取り巻 きの弁護士ベルガス自身が教会を脱退するなど、時間が相次いだ。結局、この年(1784年)がメスメルにとって、ガスナーにおける1776年(メスメル自 身が神父を追い落とした年)となった。

 以後、死後直前までの20年間、メスメルは消息不明となり、各地を流転することになる。


 しかし、メスメルは、舞台の中央にいたのは確かだとしても、催眠の歴史のなかでは、どちらかといえば狂言まわし的な主 人公だったように思える。

 催眠史上の重大な発見は、むしろ彼の弟子にあたるピュイセギュール(Amand-Marie-Jacques de Chastenet, Marquis de Puyse'qur:1751〜1825)によってなされた。ノ−ベル生理学賞を受賞しただ けでなく、酔狂にも催眠術の科学的研究に着手した奇特なシャルル・リシュ(1850〜1935)は、こう言う。ピュイセギュールなしには、 メスメリズムとよばれた治療は短命に終わり、ただ磁気桶を中心に置いた心霊現象(治療)の度を過ぎた流行が一時ヨーロッパを席巻したという記憶が残っただ けだっただろう……。

 事実、フランス革命後、メスメリズムは単に「磁気術」を指す言葉としてつかわれ、その言葉の由来する「メスメル」が人名 であることも忘れらる始末だった。実際には、ピュイセギュールの手法や発見した現象が、メスメリズムの名で流通することになるのである。

 先に述べたように、ルイ16世の審査委員会が動物磁気術に審判をくだした1784年は、ピュイセギュールが、磁気睡眠と いう現象を発見した年でもあった。ピュイセギュールは「磁気睡眠」の中で、術者への患者の注意の集中すること、暗示に対して疑問を挟まず従順すること、そ して「磁気睡眠」から出るとその最中の記憶を患者が健忘していることに気付いた。いうまでもなく、これは後に「催眠トランス」と呼ばれる現象だった(当時 は、「人工夢遊病」とも呼ばれた)。分利(クリーズ)という激しい発作痙攣こそ、動物磁気術の核だとメスメルは考えていたし、忠実なピュイセギュールもあ えてこれに逆らおうとはしなかったが、彼の初期の患者であったヴィクトル・ラースが、彼に以上のことを教えた。我々もやがて知るように、催 眠家は被催眠者からこそ、ほとんどすべてといってもいいほど、多くを学ぶのである。

 ヴィクトルは、ピュイセギュールの領地に何世紀に渡って住んできた農民一家の息子だった。一方、「領主様」であるピュイ セギュールの方は侯爵で、フランスでも屈指の名門貴族の家系だった。そして当時のフランス貴族の進歩派に属していた。進歩派の貴族達は、その勢力を、博打 や狩猟ではなく慈善事業や(素人)科学研究などに投じた。当時の社会通念からして、貴族には金儲けは禁じられていた。メスメルが高貴な御婦人達から多額の 治療費を巻き上げたのとは反対に、ピュイセギュールは自分の領民に無料で磁気術を施した。そしてメスメルの弟子となった多くの貴族たちもピュイセギュール と同様だった。
 
 メスメルの患者は分利(クリーズ)という劇的な反応を起こしたのに対し、ピュイセギュールの患者は非常に静かで穏やかな、我々が知る催眠トランスに入っ たのはどうしてだろう? 原因はおそらく、術者と被術者それぞれの立場と出自、そして両者の関係にあった。19世紀末のウィーンの成功したブルジョアジー だったフロイトの患者たちが決して人類のよきサンプルではないように、メスメルの患者も極めて偏ったサンプルだった。彼等の両方とも、そこから普遍的な理 論をつくろうとした(それが旧時代のガスナーとは違っていた点だ)。彼等の治療は高価であり、そのことが患者の出身階層を極めて限定していた(精神分析に 関して言えば、それは今もあまり変わらない)。メスメルが観察した分利(クリーズ)は、実のところ、当時の貴婦人の間によくみられたvapeur(気ふさ ぎ, 憂鬱症)の除反応に過ぎなかった。そしてピュイセギュールと彼のヴィクトルの間にも、両者の関係が反映していた。

 「磁気睡眠」中のヴィクトルは、メスメルの分利(クリーズ)とはまるで違い、分別を失わず、それどころか、むしろもっと 聡明で、言葉の訛りすら少なくなった……つまり、術者である領主様により振る舞いでも立場でもより近付いた。従属と親しみの入り交じったこの関係は、モリ エールの劇に見られる主人と召し使いの関係に見られるものに近かった。付け加えるなら、間もなく起こるフランス革命後、貴族と平民の区切りに大きな変化が 起こり、何よりも市民(ブルジョワ)階級の台頭するなか、失われていった関係でもあった。革命後の次世代の術者たちは、同じ現象を手に入れるのに、より強 い威厳をふりかざす暗示中心の働きがけに移行していくのである。


ピュイセギュール侯爵
磁気睡眠の発見者


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2 暗示説、出撃す

王立調査団によって
打ち負かされ、

退散するメスメリストの図
(拡大して、下のキャプションも
読んでね)。

  我々が知る催眠術へとつながる流れは、「動物磁気」という物理的実体から、「暗示」という心理的現象へと、その中軸 を移していった。催眠hypnotismの名付け親であるブレイドがそうだったし、それよりずっと以前に、(ジャネによればナンシー派の真の創始者である とする)ファリア師が、あるいは忠実なメスメルの徒であったとはいえ「磁気睡眠」を発見したピュイセギュールもまた薄々気付いていた節がある。しかし、そ れよりも先に催眠(磁気術)の要が心理的側面であることを看破していたのは、先に我々がみたルイ16世の審査委員会だった。

 メスメルは分利(クリーズ)が磁気流によるものだとしたが、審査委員達は術にかけられた当人がそれを自覚していなければ 分利(クリーズ)が生じないことに気付いた。分利(クリーズ)が物理現象であれば、もちろん被術者の自覚の有無は無関係のはずである。ある分利(クリー ズ)しやすい女性は、目隠しされ、術を施されていると告げられるとそれだけで分利(クリーズ)した。また施術されてもそれを知らされないと、分利(クリー ズ)しなかった。

 委員のひとり、フランクリンが立ち会ったケースはもっと極端だった。実験は、磁気化された樹木を使うもので、施術者デス ロンによれば、一度磁気化された木であれば誰でもその影響を受けるはずである。さて、果樹園の木の一本が磁化されて、これまた分利(クリーズ)しやすい少 年が目隠しされて果樹園の木の間を歩かされた。1本目、2本目、3本目と、磁気化されてない木の側を通ると、すでに少年はふらふらしていた。そして4本目 にはたどり着けなかった(それこそ磁気化された木だったのに)。少年には分利(クリーズ)が起こって四肢が硬直してしまったのである。

 結局、審査委員会は、磁気ではなく、想像が分利(クリーズ)を引き起こすこと、及び想像が伴わない場合は何も起こらない ことを、明確な実験的手法で明らかにしたのである。

 フランス革命後、ピュイセギュールはまだ存命で磁気術に関しての著作をものしている。その著作はその後も長らく磁気術 の大古典としての地位を維持したが、すでに革命後、パリには新世代の術師たちが、新たな手法と概念を携えて登場した。

 その嚆矢はポルトガル人司祭であったファリア師(Abbe' Faria)である。もっとも本人はインド から来たバラモンと称してした。ただの山師かといえばさにあらず、しかしその手法と磁気術についての認識はより新しく、現在の我々から見ると科学的ですら ある。1813年にパリで超覚醒睡眠(Sommeil lucide)に関する公開実験を行い、ピュイセギュールらの旧派の物理的流体論と”交流(ラポール)”論を批判した。それどころか、磁化過程の本質的 は、多くが治療者よりも被治療者に負うものであると主張した。あるタイプの人間は磁化されやすいと講義し、そういう人を天然幻視者と名づけた。現代の用語 では、被暗示性をはっきり指摘し、磁気術の本質を、暗示の力に求めたものといえる。また後催眠暗示に関しても完璧な知識をもっており、患者に幻影を見せる こともできた。おそらく自覚的に、言語暗示だけで相手を催眠状態に入れたのは、ファリア師がはじめてであったろうと言われる。

 現代につれてきても、立派に催眠術師として通用する腕前と説明概念を持っていたファリア師であったが、パリで成功するに は致命的な欠点があった。フランス語がへたくそだったのである。その弟子にあたるノワゼによれば、語学的ハンディから、施術を求めた悪意ある俳優の罠にま んまと乗ってしまい、とうとうパリ中の笑い者になってしまった。

 けれどもファリア師の術は、その公開実験を見たフランス陸軍の将校ノワゼによって、継承された。一方、医師と工学技師の 教育訓練を受けたベルトランは、動物磁気現象について、しっかりとした実験的・科学的研究法を導入しようとしていた(ジャネによれば、催眠現象の科学的研 究の創始者はベルトランであるという)。ベルトランと知り合ったノワゼは、彼に物理的流体論を改めさせた。二人は研究を続け、どちらもベルリン・アカデ ミーの懸賞論文に応募したが、どちらも返却された。ベルトランは論文に手を入れ、教科書Traite'(提要)にまとめた。ノワゼも原稿を私家版で出版し た。これが後にナンシ−学派の創始者リエボーに継承されたので、ファリア師の手法は、ナンシー学派の標準手法となった。

ファリア師
術をかけるポーズの像
(何故に逆光?)
光る物体を
凝視させて
婦人に術をかける
ブレイド
 イギリスへの上陸を、磁気術はなんども失敗していた。大陸で見せ物としての磁気術が、詐欺師、イカサマ師によって跋扈 し、科学的合理主義の台頭がその痕跡をも押し流そうとしていた1840〜50年代になってようやく、イギリスにも磁気術は上陸した。1843年にはイギリ スの医者エリオットスン(JohnElliotson:1791〜1868)が、1847年にはイギリス出身のインドの外科医エズデ イル(James Esdalie:1808〜59)が、それぞれ磁気睡眠によって無痛手術を行ったと発表した。エーテル麻酔がまだ存在しない時 代、彼等は外科手術という(伝統的だがほとんど洗練されてこなかった)医学に、新しい磁気術を応用し、その成功率を著しく高めたのである。当時の外科手術 は死亡率が5割に及ぶ、一か八かの方法だった。磁気麻酔はその死亡率を5%ほどにまで激減させた。この画期的な成果が、外科手術への関心と麻酔術への動機 付けにつながり、やがて医学そのものを外科手術的に一変させた端緒となったのである。しかし6件の事例を報告したエリオットスンはおろか、3000件以上 の成功例を報告したエズデイルすら、医学界には黙殺された。

 こうした中、エリオットスンと同じくエジンバラ大学から学位を得たマンチェスターの医師ブレイド(James Braid:1795〜1860)もまた、フランスからの亡命貴族によってもたらされた磁気治療を目にしていた。最初疑ったが、何度も吟味するこ とで、メスメリズムのなかに医学的につかえる手法が存在することにブレイドも確信した。しかしブレイドはもはや動物磁気による説明を受け入れなかったし、 彼が用いた手法はファリア師やベルトランが使っていた方法だった。

 ブレイドは、磁気睡眠によって引き起こる「人工夢遊病」を「神経性睡眠」として説明し、磁気を用いなくても、一点を見つ め続けるなどして目の筋肉を疲れさせることで生み出すことができることを示した。エリオットスンの磁気睡眠による無痛手術発表と同じ1843年、ブレイド は『神経催眠学』を発表し、その中でギリシャ語の「眠る」を意味する語からhypnotism催眠術と名付けた。「磁気術」からのこの命名変更により、一 部の医学サークルにこの現象と手法を受け入れさせることに成功したブレイドは、催眠術の創始者としての功績は英国では受けることになった。

 しかし、ブレイドはギリシア語の眠りからとったこの「催眠」という現象が、眠りとは似て非なるものであることに1年もし ないうちに気づいた。が、その時はすでに遅く、その後いくつもの代案が出されたにもかからず、この語が現在まで使われることになる。



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3 メスメリズム拡散する

ケルナー
千里眼ハウフェの
治療で有名

 一方、ドイツでは、メスメリズムはアカデミズムによって受け入れられた。哲学者や詩人達が それにぞっこんとなった。

 こうしてドイツ・ロマン派の哲学者や詩人の中に多くのメスメリストを生み出したが、催眠の歴史的には特筆すべき人があまり見い出せない。相当なページ数 を動物磁気に割いた雑誌『アスクレペイオン』を発行したヴォールファールト(彼はメスメルの最後の著作となる未完原稿を預かり、それを紛失 したそそっかしい人である)、また磁気術の哲学的な教科書を書いたクルーゲなどがいる。

 ケルナー(ユスティーヌス Justinus Kerner 1786-1862)は、最初にメスメルの伝記的研究を始めた人として記憶 される。彼はヴェルテンベルク公国の小都市ヴァインスベルクの市専従医であり(医学者としてはボツリヌス病にあたる食中毒の最初の記載をしている)、やは り医者兼詩人という人だった。人をもてなすのが好きで上手であり、清濁合わせのみ、人を心地よくさせる会話の名人、博識で自然を愛し動物愛護者で、民話民 謡を大いに好み、しかもオカルト好き、これで人気者にならないわけがない。ケルナーの家は、詩人、作家、哲学者、王侯貴族、身分の上下に関わらずあらゆる 人たちが集う一大サロンとなった。

 1826年に有名なフリーデリケ・ハウフェを磁気治療した。この千里眼を持つという彼女ハウフェの告げる不思議で神秘的な話に、哲学者や 神学者がこぞってやってきて、そして心うたれた(その中には哲学者シェリングや神学者シュトラウス、シュライエルマッハーなどがいる)。ケルナーは彼女の 状態を克明に記録し『プレフォールストの千里眼』として出版した。これは精神医学上、はじめて一人の患者に焦点をあてたモノグラムだった。

 後年、妻を亡くし盲目となった後も、インスピレーションは衰えを見せず、気晴らしによくインクをたらした紙を折り曲げ、出来上がった複雑な模様に手を加 えて現実にないものをしたてあげ、その下に詩を書いたりした。死後まとめられ『墨滴図形集(Klecksographien)』として出版されたが、これ がロールシャッハのインクブロットテストを考案する時のインスピレーションとなるのはずっと後の話である。



 やがて心霊術ブームの発信地となるアメリカにも、それに先んじてメスメリズムは上陸した。

 アメリカン・メスメリズムを語る上で、欠かせない一人にフィニアス・P・クィンビー(Phineas P. Quimby:1802-1866)が いる。 クィンビーは、あるとき重い病気にかかり、メスメル派の治療者によって癒されて、 これに傾倒し、彼自身も治療者となった。

 メスメル派の治療者としてスタートしたクィンビーだが、 やがて信念によって病が作られているという強固な「信念」に取りつかれることになり、 最終的に彼はメスメル派とは袂を分かつことになる(これも一種の動物磁気から暗示説への脱皮だといえよう)。 まもなく、彼は自分の治療が、イエス・キリストが行なった治療と同一であると 主張するようになる。 すなわち、神とはこの世の本質=「科学」であり、 イエスがキリストとして説いた原理である。 そして、自分はそのキリスト科学を再発見したのだというのである。

 こうしてクィンビーの流れを汲んだ、ゆるやかな宗教運動が発生する。この宗教運動はニューソート(New Thought)と呼ばれ、代表的な教派に 磁気療法士時代の患者だったメアリー・ベイカー・エディが始めた「クリスチャン・サイエンス」、のちに「思考は実現する」的なアメリカの成功哲学の源流と なったジョセフ・マーフィーが神父をしていた「ディヴァイン・サイエンス教会」、 「ユニティ(Unity)」、 「宗教科学」などがある。ジョセフ・マーフィーやナポレオン・ヒルなどを通じて、クィンビーはアメリカ成功哲学の守護聖人として現在も祭られている。

 アメリカン・メスメリズムを語る上で、欠かせないもう一人は、アンドリュー・ジャクソン・デーヴィス (Andrew Jackson Davis)である。デーヴィスは毎日自らに磁気術を施し、トランス中に経験したことを霊界に関する啓示として 口述し出版した。本は売れに売れ、この後すぐにアメリカで大流行する心霊術の露払いとなった。心霊術はその後、ヨーロッパに上陸し、瞬く間に席巻すること になる。

クィンビー
ニューソート運動の父

シェブルール

シェブルール
化学者であり工場主でもあった彼は、脂肪酸を使った石鹸や色彩の分野(「シェブルールの色立体」)で も名を残している。
 心霊術と興行催眠術の大流行は、催眠術の地位を突き落とし、さんざんに悪評まみれにした。

 しかしその一方で、この流行は大きな果実を産み落としもしていた。ひとつは心理学者や精神病理学者たちに、「自動書記」という精神への接近法を提供した こと、もうひとつは興行催眠術師の巡業・公開実験が、(すでにブレイドの例に見たように)医師や神経学者たちが催眠術を実見する機会をヨーロッパ中で提供 したことだった。

 またメスメリズムや心霊術を科学的に見直す動きも生まれていた。シュブルール(Michel Eugene Chevreul:1786〜1889、「シュブルールの振り子」に名を残す)は、心霊現象が施術者のひそかな意向に左右されることを発見してい たし(1832年)、のちには無意識行動によって心霊術の様々な現象が説明できることを示した(1854年)。



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4 論争、ナンシー学派 対 サルペトリエ−ル学派

リエボー
無料で磁気術を施したので、
一文無しになり、
著作業に転業したが
10年間で1冊しか
売れなかった。

 1880年代、公然と催眠術を用いることは、医者として自殺行為だった。地位のある医者 が、隠れ家をつくって極秘に催眠療法を行ったりしていた。

 フランスのナンシーの町近くで開業していた内科医リエボー(Liebeault, Ambrose August :1823-1904)は、公然と催眠術を用いていた数少ない一人 だった。彼はロレーヌの貧農の12番めの子であり、苦労して医学を学んだ。リエボーの医院はそこそこ繁盛し、ちょっとした財産もできた。田舎医者としては それなりの成功をおさめていた。

 リエボーは医学生時代、磁気術についての古書(ひょっとするとノワゼの書いたものだったかもしれない)を一冊手に入れ、それを試してもいた。リエボーが 危険を冒してまで磁気術を用いようと思ったのかは定かではない。試そうにも、悪評は広く行き渡り、患者の方が嫌がった。

 そこでリエボーは磁気術の方は無料で施すことにし、患者に「普通の料金での正規の治療を受けるか、それとも無償で磁気治療を受けるか」を選ばせることに した。磁気治療を選ぶ患者は急増した。4年もすると、リエボーの病院はものすごくはやったが、収入は一文もなしだった。おまけにこれは、医学界から20年 にも渡ってインチキ医者扱いされるはじまりだった。

 医者達はリエボーをいかさま師として扱った(磁気術を持ちいたからである)が、また彼を阿呆扱いした(料金をとらなかったからである)。

 1882年、田舎町の開業医であったリエボーが催眠史上に名を残すことになる事件が起こる。チフスの研究などで有名な内科医学者であったベルネー ム(Bernheim, Hippolyte-Marie:1840-1919) が、奇跡的治療を行う田舎医者を来訪し、 その術に改宗したのである。それというのも、長年座骨神経痛で苦しんでいたベルネームの患者が、磁気術を施す老人によって完治したと聞いたからである。


 これはベルネームにとって青天の霹靂だった。自分では治すことができなかった患者が、わけ のわからぬ(というか、極めていかがわしいと蔑まれていた)方法でいとも簡単に治ってしまったというのである。しかし、直接リエボーに会ってその治療場面 を自分の目で確かめたベルネームは、リエボーの治療法の価値を認め、公然とその賛美者となり、弟子となり、友人となった。リエボーは一躍、医学界の寵児と なった。

 これを機にふたりは生涯のパートナーとなり、手を携えて直接暗示による症状除去を基本とした催眠治療を精力的に行なっていった(もっともベルネームの方 は、術がかかりそうな時だけ催眠治療を行う慎重さだった)。1884年と1886年の2回に渡って出版されたベルネームの『暗示とその治療への適用』は、 ふたりの名をヨーロッパ中に知らしめることになった。また、この書は、後にみるサルペトリエール学派との論争の、主たる舞台ともなった。すなわち、この書 の第1版に対して,シャルコーらサルペトリエール学派は攻撃を行い、返すベルネームは第2版でその攻撃に詳細な反論を加えたのである。

 ヨーロッパ中にその名を轟かせた彼らの治療法を学ぼうと、各国から多くの医者がリエボーとベルネームのもとにに参集し、催眠研究に加わっていった。この リエボーとベルネームらを中心としたゆるやかなつながりで結ばれた研究グループは、ナンシー学派と呼ばれるようになった。



ベルネーム

シャルコー
「神経症のナポレオン」
の異名をとった。

この絵のポーズは
まさにぴったり。

サルペトリエール学派は、別名パリ派とも呼ばれ、パリのサルペ トリエール病院を中心にした一団だった。その筆頭にして、学派を強い権威とカリスマで学派を支配したのが、シャルコー(ジャン=マルタンJan- Martin Charcot 1825-1893)である。

 シャルコーは、パリの馬車製造人の子として生まれ、苦労して学び、博識あふれる医学者となったが、若い頃はなかなか芽が 出なかった。4〜5000人の貧しい老婦人を収容している医療養老院に成り果てていた当時のサルペトリエール病院との出会いが、シャルコーに大きな転機を 与えた。すべてが古びたこの伝統ある大病院は、当初病理解剖学者としてそのキャリアを始めたシャルコーにとって、豊富な症例の宝庫に思えたらしい(彼は偶 然ではなく、この朽ち果てかけた病院に確かに目をつけていた)。36歳(1862年)で、念願通りサルペトリエール病院のあるセクションの医長となると、 神経学者デュシェンヌの指導を受けながら、詳細な病歴を取り剖検を始めることを命じ、また医院内に実験室を開設した。こうして夥しい症例が集められ、彼を 当代切っての神経学者にのしあげた。1870年女性痙攣患者用とした特別病棟の医長を兼務。癲癇性発作と癲癇を覚えたヒステリー(転換)患者の発作との鑑 別法の発見に力を尽くした。

 シャルコーはさらに、旧式のサルペトリエール病院に、治療・教育・研究のための施設を次々新設した。その中には、いくつ かの実験施設・写真サービス部門・眼科・耳鼻科、後には病理解剖博物館、男性患者をも受け入れる外来施設、巨大な講堂があった。神経学の一大メッカとなっ たこの病院にはヨーロッパ中から優秀な医学者が集い、その弟子にはブールヌヴィル、ピートル、ジョフロワ、コタール、ジル・ドゥラ・トゥレット、メイ ジュ、ポール・リシェール、スーク、ピエール=マリー、レイモン、バビンスキーなどがいた。

 シャルコーはまた、パリ大学病理解剖学の教授を兼ね、各地の王侯貴族の侍医(時には腹心まで)を勤めるヨーロッパ最大の 医学的権威となった。現在も残る医学的業績も多く、多発性硬化症についての正確な症状学的記述(1863)、筋萎縮性側索硬化症の記述や脊髄癆の際の関節 症の記述(1869)は有名である。ブラジル皇帝ペドロ二世はシャルコー邸を訪問し、シャルコーにビリヤードの相手をさせ、サルペトリエールの講義を聴講 した。ウィーンのベーネディクトとも知己で、稀な神経麻痺にベーネディクト症候群の名を与えている。ロシアでの知名度は高く、皇帝一家の顧問医として何度 もロシアに招かれ、フランス首相ガンベッタとロシアのニコライ大公との非公式会談の根回しをしてのちの露仏同盟締結のきっかけを作ったという。

 大医学者シャルコーの快進撃は続いた。1881年ロンドンでの学会では脊髄癆性関節症を示説し、嵐のような拍手で迎えら れた。1882年催眠術に関する有名な論文でその声望は頂点に達した。そしてメスメル以来の100余年、ひたすら磁気術(催眠術)を否定し続けてきたフラ ンス医学界、そして科学界は(科学アカデミーは過去1世紀に3回「磁気術」を退けていた)、ついにこれを認めるに至ったのである。怪しげな祓魔術の延長か ら科学的にまじめに向き合うべき存在への、この脱皮は、シャルコーの医学的偉業と政治的手腕(この二つは、サルペトリエール病院の運営を見れば分かる通り しっかと結びついていた)なしには、到底なしえなかったであろう。

 しかし好事魔多し。やり手であったシャルコーは、自身の組織のトップとしての力量故に、大きな過ちを犯していたことにこ の時まだ気付いていなかった。


 1882年に発表された催眠についての研究は、その内容においても、1878年の「催眠の 3段階」の発見を含む「画期的」なものだった。シャルコーは磁気術が買った不評の一因がその非科学性にあることを、もちろん自覚していた。彼は被術者に欺 かれることを、そのためひどく恐れたこともあり、本当に磁気の影響を受けたものでなければ真似できない客観的な徴候を確立しようとした。そしてその徴候に よって、完全な催眠(大催眠)と不完全な催眠(小催眠)を分け、あのナンシーの連中が夢中になっているのは小催眠に過ぎないと「看破」したのである。

 シャルコー曰く、「完全な催眠(大催眠)」は、その生起順に、3つの段階に分けられる。すなわちレタルジー、カタレプシー、夢遊の3つである。このうち レタルジーは目を閉じさせることによって生じ、この状態では被術者は聞くことも話すこともできず、また神経のある部分を押すと痙攣が生じる。次にカタレプ シーは硬直であり、四肢は実験者のなすがままの位置にいつまでも保持する。最後に、被術者のアタマのてっぺんを撫でさすることで最後の状態に移行し、夢遊 状態に至る。これらが「本当の催眠」の徴候であり、「催眠の3段階」である。

 シャルコーははっきりした徴候を求めるあまり、催眠をあまりに狭いものに、閉じ込めてしまった(それは結局のところ、神経に病的素質を持った者に起こる 異常な現象になってしまった)。同情を交えていえば、この間違いは科学性の行き過ぎた追求と自らが抱える多くの学生達が分かりやすいように単純な分類を採 用しようというの配慮からきていた。今の我々からすれば、シャルコーがあげた3つは、「催眠の客観的徴候」などではなく、ただ催眠中の暗示でいくらも引き 起こすことのできる数多の現象のごく一部でしかない。そしてシャルコーはもっと大きな過ちを知らずに犯していた。シャルコーは、被術者・被験者となるサル ベトリエールの患者達にあまり関心を払っていなかった。回診をしたことが一回でもあったかどうか怪しいほどであった。弟子であったジャネ(Janet, Pierre-Marie-Felix:1859-1947) はのちに、「催眠の3段階」が暗示の結果に過ぎな いことを明らかにしたが、それは権威的すぎたシャルコーに対して、その弟子やスタッフが彼が見たいものを見せようとしてしむけた準備したものだった。ある スタッフなどは、患者とリハーサルしてから、シャルコーに合わせるという周到ぶりだった。シャルコーの方も迂闊にも、患者がいる目の前で、症例検討をやる おっちょこちょいぶりだった(それは容易にシャルコー大先生が求めているものを、患者に知らせてしまっただろう)。そして、まじめな弟子やスタッフも、 シャルコーに逆らってまで進言できなかった。すべては、シャルコーが作り上げた権力の陰画だったのだ。

 シャルコーの忠実な弟子だった、ビネ(Binet, Alfred:1857-1911)(のちに知能テストを開発するあのビネ)とフェレは、シャルコー の理論を全面的に支持し、ベルネームの『暗示とその治療への適用』(1886)に対して、遅れること2年、1888年に『動物催眠』を世に出し、ベルネー ムらの暗示説に反駁を試みた。彼らはいくつかの実験から、暗示や予期注意などの要因を排しても「大催眠」が生じたと論じ、磁気理論の正当性まで主張した、
 前述の通り、ベルネームの『暗示催眠』の第2版(1889)では、磁気説および彼らの実験法の根本的誤りを指摘した。結局、1889年にパリで開かれた 国際会議でナンシー学派の正しいことが証明され、終止符を打つことになったのである。


サルペトリエールにおける
シャルコーの臨床講議

 
シャルコーはこの講義を、医学生ばかりか一般にも公開していた。こうしてヒステリー患者がシャルコー教授の催眠術で発作 を起こすこの「講義」はパリ社交界で大人気の「見せ物」となった。講義によばれたのは、年若い美女の患者で(しかもハムレットのオフィーリアの衣装など身 に付けて)、しかもいかにもそれらしい「発作」を演ずることができる患者が選ばれた。
 画面で、後ろに倒れようとしている女性の左に立つのがシャルコー、
そしてその後ろにいるのが、磁気治療で名をあげたの に、のちにシャルコー批判をやらかす弟子のバビンスキー。
 実は、画面左端にかかった説明図や聴衆に向けたシャルコーの解説が、被術者への暗示になってしまっ ていることを、この絵ははからずも示している、とか。
Coue
クーエ
リエボーの教えを受けた
元薬剤師だった

 さて、サルペトリエール学派とナンシー学派の論争に決着がついた頃、老リエ ボーはナンシーの町で開業していた若き薬剤師、クーエ(Coue, Emile:1857〜1926)に出会い、催眠の技術を教えた。

 クーエは、自分の店に通っていた薬だけでは効果のなかった客に、暗示を与えることで治療効果があることを偶然発見した。その後、工夫を加え、新ナンシー 派を称して、師のように自宅にクリニックを開業した。

 クーエはやがて催眠トランスを捨て、もっぱら暗示だけで治療を行い、これを自己暗示と名付けた。催眠暗示を含めたあらゆる暗示は、本質的には被術者本人 が行う自己暗示に過ぎないとクーエは考えていたのである。催眠の暗示説はここに極まった(ずっと後に、T.X.バーバーらが、催眠でできることはすべて暗 示や他の動機付けでできることを、周到な実験で証明した。これは他の研究者の実験によっても追認された)。

 クーエは20年の経験から、暗示について、以下のようなエッセンスを得た。我々にも有益だと思えるので、ここに記しておこう。
  1. 意志の力と想像力が葛藤すると、想像力は意志の力の二乗の割合で正比例する(つまり想像力に逆らう努力は、逆効果となる。努力がしばしば失敗する理由であ る)。
  2. 意志の力と想像力が合意すると、1+1=2以上の力を発揮する。
  3. 想像力(暗示によって)に指示をあたえることは可能である。



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5 感情表出による「煙突掃除」:カタルシス療法

ブロイアー

ブロイアー


 のちに「アンナ・O」という仮名で知られるようになる裕福なユダヤ人の娘21歳の時に最愛 の父が死んだことで発症し、1880年から2年間、神経性の咳や麻痺、言葉が話せなくなったり目が見えにくかったりといった「ヒステリー症状」に苦しみ、 ウィーンの医師ブロイアー(Breuer, Josef:1842-1925)の診察を受けていた。当時の催眠治療家がそうしたように、ブ ロイアーは彼女に対して症状除去の催眠暗示(症状は存在しないと暗示することにより、症状を抑えるもの)によって治療を行なっていたが、結果ははかばかし くなかった。この時代、催眠は未だエリオットスン風の外科手術の麻酔(痛みの除去)か、リエボー風の(現在なら心身症とみなされるものの)症状除去にのみ 用いられていた。彼らは外科医及び内科医であって、「心の病」を治そうとしたわけではなかったことに注意されたい。

 アンナは、長い間ひどくのどが渇いているのに水が飲めなくなった(その間、彼女は果物などから水分を摂取した)。あるとき彼女は催眠をかけられると、そ の理由を語りはじめた。彼女の嫌っていたイギリス人の侍女が、飼っていた犬にコップから水を飲ませているシーンを目撃して、すごく嫌な感じを持ったという のだ(しかし侍女には何も言わなかったらしい)。ところがアンナは、このことをうちあけた後で、急に水が飲みたいと希望し、催眠からさめた。そしてグラス の水を飲み干し、ブロイアーにおかわりを要求した。トラウマとなった経験をただ想起すること(そしてそれを話すこと)が、症状を取り除くことにつながると ブロイアーは考えた。
 
 ブロイアーは、アンナの持つ多くの症状をトラウマ経験に結び付けるべく、催眠中に語らせる この方法を何回も繰り返していった。アンナは過去の出来事を思い出すたびに激しい感情表出をした。そして催眠中に語られたことからそれぞれの症状の原因が 解明され、それとともに次々と症状も消えていった。アンナはこの治療を「お話療法」とか「心の煙突掃除」と呼んだ。

 シャルコー、そしてリエボー&ベルネームに、それぞれ学んだ後、ウィーンに戻ってきたフロイト(Freud, Sigmund:1856-1939は、 ブロイアーと協力し、アンナの治療を含むヒステリー研究にあたった。彼らはトラウマの適切な除反応によって得られる効果を「カタルシス」と呼んだ。この語 は、元々「浄化」「解除」を意味するギリシャ語である。アリストテレスが『詩学』のなかで、悲劇が観客に及ぼす影響(=諸感情の浄化)を述べるときに用い たものである。

 ブロイアーとフロイトは、『ヒステリー研究』(1895)を著わし、カタルシス法とその理論を提出した。それによれば放出の道を見い出すことができな かった情動は「閉じ込められた」ままとなり、病的影響を与える。催眠は、もはや症状消去を直接に暗示するためのものではなく、「抑圧された」体験を意識に 再登場させるための想起の手段として用いられた。この想起され、劇的な強さで再体験された記憶は、トラウマ体験と結びつき、すぐさま抑えられていた情動 を、患者が放出し表現することを可能にする。フロイトはのちにカタルシス理論をこう要約する。「ヒステリー症状は、ある心的過程のエネルギーが意識的操作 にまで到達できず、身体的神経支配へ移動する(転換する)ときに生まれると考えられる。治癒は、横道にそれた情動が解放され、正常な道をとおって放出され ること(=除反応)によって起こる」。

 しかし催眠治療のこの転換は、まもなくフロイトに催眠を捨てさせることになる。フロイトは、患者の額に手を当てるといった簡単な暗示で、症状の原因と なった記憶を想起できると確信するようになった。最後には、まったく暗示を用いずに、患者の自由連想だけに頼るになる。

 のちに、我々も知るように、フロイトと彼が創始した精神分析の影響は大きく広がっていった。彼が催眠をまた捨てたことは精神医学界に大きな影響を及ぼす ことになる。フロイドの娘のアンナ・フロイドは、催眠法が父フロイドの意図に反して精神治療に乱用されるのを恐れ、精神分析療法に催眠法を使用せぬよう提 唱した。 彼女は、催眠は自我の同意なしに他人の心の中に土足で踏み込むので危険であるといっている。こうしたこともあり、精神治療における催眠法の利用は衰退のー 途を辿ることになった。


フロイト
フロイト

アンナ・O
アンナ.O
(本名、ベルタ・
ハッペンハイム)

 この催眠にとって皮肉な顛末には、いくつかのエピソードが付け加わる。

 まず、アンナ・Oこと、ベルタ・パッペンハイム(Bertha Pappenheim:1859〜1936)は、ブロイ アー&フロイトの「画期的な」カタルシス療法では完治せず、彼らから離れた後、ボーデン湖畔クロイツリンゲンにあったルートヴィッヒ・ビンスヴァンガーの 私立療養所〈ベルビュー〉に入り(ここは全ヨーロッパ的に有名な精神病院であり、その患者にはダンサーのニジンスキーや画家のキルヒナー、美術史家アビ・ ヴァールブルクなどがアンナとほぼ同時代に入院していた)、そこを出たときは30歳だった。その後、フランクフルトで女性最初のソシャールワーカーになり 孤児院を設立するなど社会問題の解決に奔走し、また最初期のフェミニストとしてナチの強制収容所からユダヤ人を救出する運動などを行ったユダヤ女性連盟と いうところの創始者ともなった。

 一方、ブロイアーに紹介された時から彼女に強い興味を覚えたフロイトは、口さがない研究者によれば、アンナにかなり陽性転移していたらしく、あの「ヒス テリー研究」もフロイトが「アンナ」に向けてつづったラブ・ストーリーのようなもの、という話まである。その関係はさだかではないが、彼は娘にも「アン ナ」という名を付けた。このアンナ・フロイトは、後に精神分析家になり、また催眠の批判者ともなった。

 アンナ・Oこと、ベルタ・パッペンハイムもまた、後年,頻繁に精神分析の批判を行い,フロイトが下した分析に対しても否定的だったという。



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6 行動心理学者たち

ハル
 ほとんどの神経学者(ほとんどの精神疾患が彼らの領分だった)は、フロイトの理論と方法に影響を受け、催眠を使うのを やめてしまった。

 そうした中、条件反射で有名なパブロフ(Pavlov, Ivan Petrovich:1849-1936)は、フロイト以後にも催眠を使い続けたわずかな人々のうち の一人だった(彼は催眠の部分催眠説を立てている)。このことは、行動主義心理学が催眠の歴史に果たした役割を考えると興味深い。(他には、フランスのピ エール・ジャネ(彼は、シャルコーの高弟であり、ブロイラーたちとほとんど同時期、催眠によるカタルシスを発見していた)、イギリスのブラムウェルやモ ル、アメリカのマクドガルなどがいる)。

 心理学は19世紀末に生まれたばかりだった。当然ながら、それは最初「意識の学」としてスタートした。そうして催眠は、意識とは何か別の作用を示唆して いた。ヴント流の内観報告は、トランス状態にいるものには、不可能でないにしろ、いささか場違いというものだった。心理学が催眠と出会うのは、心理学が意 識を捨てた後、すなわち行動主義心理学の台頭を待たねばならなかった。

 行動主義は、20世紀前半の「科学的」心理学において大きな影響力を持った。その創設者、ワトソン(John Broadus Watoson:1878-1958)は、大胆にも内観なき心理学を宣言した。ワトソンは(先駆者パブロフのように)、彼が動物や幼児の行動を研 究しているとき、意識に関する主張はしなかったし、その必要もなかった。このことが心理学を「実験科学」にすることを可能にした。


 ワトソンは心理学的データは他のいかなる科学と同様に公共の検分に開かれるべきであると主張した。行動は公共であり; 意識は私的である。科学は公共の事実を扱うべきである。この主張は受け入れられ、新しい行動主義が、特に1920年代に急速に流行した。一時は、(アメリ カではしばしばあることだが)若い心理学者のほとんどが自身を「行動主義者」と呼んだ。

 外部から観測できる範囲での研究は、催眠という現象の実験研究とその公共化に寄与したことは確かである。たとえば新行動主義の旗手であったクラー ク・ハル(Hull, Clark Leonard:1884-1952)は、 これまで催眠に関わった多くの臨床家と異なり、実験科学者だった。ハルは催眠研究のルネサンス運動を提唱し、初めて正確な実験方法による催眠現象の検証を 行った。エール大学でその弟子20名の協力を得て実験チームを作り、心理学的方法を駆使して多くの外部条件をコントロールした催眠実験を行い、その成果を 有名な『催眠と被暗示性』(1933)にまとめた。

 行動主義心理学の知見を心理療法に適用した諸手法を『行動療法』(1959)にまとめた、イギリスの心理学者ハンス・J・アイゼンク (Eysenck, Hans Jurgen:1916-97)もまた、被暗示性についての広範な因子分析研究を行い、たとえば被暗示性と知能と の研究(暗示にかかるのは頭が悪いから、という俗説を排した)をはじめ、多くの実証研究をあげた有名な催眠研究家である。実際、行動療法は、脱感作法やメ ンタルリハーサルなどの形で催眠の手法を取り入れた。

アイゼンク


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7 「魔術師」エリクソン

ミルトン・エリクソン
 ミルトン・エリクソン(Milton Hyland Erickson:1901-1980)は、ハル が、エール大学に移る前に教えていたウィスコンシン大学の学生だった。エリクソンは、ハルの催眠実習を見て、催眠を学びはじめたという。そのせいもあっ て、エリクソンはハルの「弟子」だと紹介されるときがある。逆にハルの『催眠と被暗示性』が、「あのエリクソンの師匠の本」と宣伝されているのを見たこと がある。本当のところ、エリクソンは、催眠も心理療法も独学だった。名著の名も高い『催眠と被暗示性』も、後にウェルズにいわせれば「未熟な実験者による 結果の記録」と酷評されている。ハルを含めて彼ら実験チームの催眠の腕はさほどでもなく、被験者を初歩的な浅い催眠にしか入れられなかった。その結果を もって、催眠全体を論じているのだから、シャルコーのごときそしりを受ける隙がハルにもある。
 
 さて、エリクソンの功績は、催眠にかぎっても、大きく分けて次の3つがある。

 ひとつは、初期の研究者としての業績である。エリクソンは膨大な数の催眠実験を行い、実証的科学的な知見を蓄積した。彼は催眠についての研究を実証科学 の域に高めたひとりであり、催眠にまつわる数々の神話や迷信を払拭し、またクーパーと共に最後に発見された催眠現象である時間歪曲についても古典的名著を 残している。

 ふたつめの功績は、臨床家としてそれである。エリクソンは様々な催眠手法を新たに開発し、その適応者の範囲を大幅に広げた。大雑把に言えば、催眠はすべ ての人に必要なだけ十分にかかるわけではなく、そのために催眠療法の適応は限られていたが、エリクソンは実質的にほとんどすべての人に催眠をかけることが できるようにした。エリクソンは、催眠嫌いの人間にすら、トマトの話をするだけで、あるいは催眠への抵抗を逆に利用して、催眠に入れることができた。これ により、ショービジネスの種から、また「特異/異常な心理状態」という心理学者の研究材料から、再び効果的な治療手段として催眠を取り戻したといえる。

 みっつめの功績は、心理療法における催眠の利用について抜本的に改革したことだ。単なる暗示を深く刻み込む手段でも、また心の奥底に隠されたトラウマと 取り出す手段でもなく、エリクソンはクライアントが持つリソースを使い、クライアント自らが変化していけるきっかけ/援助として催眠を使った。そして卓越 した催眠の技も、エリクソンが駆使する様々なアプローチのひとつに過ぎなかった(もっとも彼は多くのアプローチを同時に使ったのであるが)。エリクソンは 治療のプロセスをこう考えていた。たとえわずかな変化でも、雪だるま的に拡大していく(また、そのように治療者の働きかけは行われなければならない)。症 状を維持・強化する悪循環のシステムを逆手に取り、改善を拡大していくこのアプローチは、その後新しい心理療法に取り入れられていった。


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