催眠用語小辞典(少し辛口)

Glossary
素敵な催眠の専門用語の世界。
たかが言葉じゃないか。簡単解説しましょう。


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ア行
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ア行

アンカリング(Anchoring)

 ふたつの用法がある。同じ人が両方の用法を使うことはないが、どちらを使うかでその人のバックグラウンドがわかったりする。

(1)NLPでは、生理学的な状態(たとえばある 感情)を引き起こす引き金になるような刺激をアンカーといい、新たにアンカーをつくることをアンカリングと呼ぶ。
 アンカリングは日常生活でもごく自然に起こる。たとえば、目覚まし時計が鳴れば起きる時間である。これは聴覚的なアンカーである。赤信号は止まれを意味 し、うなずきは「はい」を意味する。これらは視覚的なアンカーである。あるいは、新しく敷いたアスファルトの匂いが魔法のように、貴方をその匂いを初めて 嗅いだ幼年時代に連れ戻す(嗅覚的アンカー)。
 自分の欲する状態とアンカーの結びつきを、自由につくれれば、たとえばスイッチを押すように、リラックスしたり、集中力を高めたりできるかもしれない。 たとえば気に入った感情的状態を選び、必要なときにいつでも呼び出せるように、それをある刺激(アンカー)と連合させる。スポーツマンは幸運のマスコット を自分の技術とスタミナを動員するために利用する。スポーツマンが同じ目的でおまじないのような仕草をするのをよく見かけるであろう。アンカーを用いてリ ソースを動員するのは、貴方自身の行動を変える最も効果的な方法である(とNLPでは言う)。

(2)エリクソンの最晩年の弟子オハンロンは、ある状態(たとえば恐怖や抵抗や症状などの悪いもの)を、特定の場所に結び付けて「置いていかせる」エリク ソンの技法を、アンカリング(繋留すること)と呼んだ。クライアントの、症状をエリクソンの診察室に「置いていかせた」り、抵抗をひとつの椅子に「置いて いかせ」て、別の椅子では抵抗なしに催眠導入を受け入れさせたり、といったことをエリクソンは何度も行っている。ここでいうアンカリングは、症状、抵抗を 本人からス プリッティングし、場所にリンキングする 方法だと言える。

暗示(あんじ:Suggestion)

 暗示とは、催眠の前やその最中に、催眠者から被催眠者へ与えられる提示(Proposal)のことをいう。多くは言語的なものだが、非言語的な暗示が与 えられることもある。
 催眠は一般に、催眠者が与える暗示と、それに対する被催眠者の反応とから成り立つと考えられるから、暗示は催眠を成立させる両輪のうちの一つだといえ る。
 催眠における暗示は、(1)催眠をより深めるために、(2)被催眠性を高めるために、そして(3)治療的変化を引き起こすために、用いられる。
 

イエスセット(Yes Set)

 被催眠者/クライアントに、催眠者の暗示やものの見方などがよりよく受容されやすくするように、また催眠者に協力的になってくれるように,エリクソンが はじめた/よく用いた技法。被催眠者/クライアントの中に、同意(イエス/はい)の習慣性、あるいは同意のセットを作り出すことから、こう言われる。
 例えば、面接中に、イエスという肯定的な答が返ってくるだろう、と思われるような質問をしていく。例えば、「あなたはある問題のために、私の助けを借り に来られた、そうですね?」「私は精神科医です、正しいですか?」といった具合である。このような質問をいくつかした後に、その人に同意してもらいたいよ うな大事な質問を投げかける。一種の心理的慣性が働くのか、あるいはfoot -in-the-doorテクニックなのか、こうすれば承諾がかなり得られやすい(びっくりするほど)。


医業(いぎょう:medical practice)

 医師法第17条は「医師でなければ医業をなしてはならない」と規定している。ここでいう医業とは概して言えば「人の疾病を診察、治療又は予防の目的を以 て施術をなし、若しくは治療薬を指示投与することを目的とする業務」のことをさす。
 つまるところ、医者でない者(催眠術師だろうが臨床心理士だろうが)が、クライエントに「病名」をつけたり、「治療」をしたりすれば、医師法違反を問わ れるということである。
 憲法22条に職業選択の自由を認めているにもかかわらず、医師法17条が規定されていることについては,学説・判例は国民の保健衛生上の危害を防止する という公共の福祉のために業務独占が認められる、としている。
 少々つっこんでみれば、仙台高裁判例 ( 昭和 28 年 1 月 14 日 )に、「医業とは、医行為を業とすることであり、医行為とは、当該行為を行うにあたり、医師の医学的判断および技術をもってするのでなければ人体に危害を 及ぼすおそれのある一切の行為である」とあるのだが、もう一方で、同じく仙台高裁判例 ( 昭和 29 年 6 月 29 日 )に、「医業類似行為とは、疾病の治療または、保健の目的でする行為であって、医師、歯科医師、あん摩師、はり師、きゅう師または、柔道整復師等の法令で 正式にその資格を認められた者が、その業務としてする行為でないものをいう。」とある。医師の場合は医師法があって明確なのだが、この判例で気になるの は、「按摩、鍼、灸、マッサージ、指圧、柔道整復」が「医業類似行為」ではない、としている点である。実は、「医業類似行為」でないなら「医業」ではない かと、按摩、鍼、灸、マッサージ、指圧、柔道整復の施術者達が、みずからの施術行為を医療であると主張する根拠となっている判例なのである。もちろん論理 的に考えれば、「医業類似行為」でないからといって、「医業、医行為、医療である」という結論を即座に導きだせる訳ではない。
 催眠はもっと昔に、医者に独占されて国家管理されるか、それとも野に在る(在野)かの岐路に立ち、結局医者に独占されない道を取ったので、ヨーロッパの ように医師コミュニティの承認を経て社会的認知に至る道を、日本では歩まなかった。そのあたりには、医学と心理学の綱引き合い、そして東京帝国大学で異常 心理学(精神疾患を扱う心理学)を担当していた福来友吉(彼は『催眠心理学』を著わし、催眠を扱うのはむしろ心理学者がよい、と主張した)が、「千里眼」 事件で大学を離れたなど、その後の日本の臨床心理の停滞の第一歩となる事件がいろいろあった。


意識(いしき:conscious)

 無意識よりも、意識を解明する方が難しい。
 意識にのぼるのが、脳が処理している膨大な情報量のほんの一部であることは、すぐにわかる。意識を(その機能から見て)例えるなら、安定の悪い小さな作 業台みたいなものだ。この作業スペースは、脳が処理しまた格納する情報量のうち、ほんの少し載せただけですぐいっぱいになってしまう。だから情報は長期記 憶へ格納されると、また呼び出さない限り,意識からは消えてしまう(健忘は、意識の基本スペックである)。もうひとつ困ったことは、この台はぐらぐらして いて、一方に載せ過ぎるとそちらに傾いてしまうことだ。ネガティブな側ばかりに乗せると,作業台じたいがネガティブ側に傾いてしまう。それに、作業台が傾 いていると上に載せた情報(認知)までもがネガティブ側に寄ってしまう。これは、情報(認知)の傾きと感情の傾き(=例えでは作業台の傾き)との関係を 言っている。感情と連動しているところが、我々の脳の作業スペースの大きな特徴だ。
 我々の脳神経系は、多くのモジュールで出来ていて、そのモジュール達は並列的に情報を処理している。しかし意識は一つしかない。乖離性障害ですら、ある 一時には、意識はひとつしかない。せっかくの並列的な情報処理を活かさずに、なぜひとつの、しかも小さな作業スペースしか意識という機能が用意していない のかと言えば、その情報縮減こそが意識の大事な仕事だからだ。大量の情報を処理することは、時間も容量もエネルギーもかかる、大変にコスト高なことだ。並 列の情報処理を活かせばこそ、それら諸モジュールから送られてくる情報のほとんどをカットして、今、もっとも意義のある情報だけを立ち上らせることこそ、 意識の本領である。
 そうして、この作業スペースに上った情報は、各モジュールが共に利用できる(これこそ作業スペースにのっける理由だ)。しかも、作業スペースにのった情 報には、感情というバイアズがかけられる。これは好意・ポジティブなら接近、敵意・ネガティブなら離脱といった「おおまかな方向付け」によって、すばやく 諸モジュールを働かせるという意味がある。たとえば、恐怖という感情は、ら逃げるために総動員されるすべてのモジュール、エネルギー変換を高める内分泌系 から敵を見る聞くための知覚系、逃げる方向を瞬時に割り出す空間処理系、すぐさま体の向きを変え張りしだすための各筋肉まで、多くのモジュールを一斉に働 かせるだろう。
 それに随意運動のシステムは、互いに連動していないとうまく動かない精巧なメカニズムである。だからこそ、意識の数は多すぎてはいけない。右へ曲がると 同時に左に曲がろうとすると、倒れてしまうだろう。大半の情報処理は、意識以外のところで並列的に行い、外部への随意運動は一つしかない意識の配下になる (もちろんバランスをとったりといった、モジュールが意識の外で働いていることは言うまでもない)。
 あるいは社会をつくる種として、社会運営のためには時間軸に沿って一貫した「責任帰属」が必要だけれど(でないと、裏切り者のフリーライダー(ただ乗り 野郎)が蔓延し、共同作業が崩壊してしまう)、そうした時間軸に沿って一貫した「責任帰属」に対応する、一貫した意識を持った者だけが、遠い旧石器時代の 社会生活に適応できたのかもしれない。
 いずれにせよ、意識のリバース・エンジニアリングは、ようやく始まったところで、わからないことが多すぎる。催眠と認知科学(たとえば進化心理学)は、 これまであまり関わってこなかったけれど、事によると、この意識のリバース・エンジニアリングを押し進める協同作業があり得るかもしれない。
(→潜 在意識


インチキ療法(いんちきりょうほう:quackery)

 Quackeryは、もともとquack(「アヒルがガアガア鳴く」の意味)という単語から派生した言葉である。「ガーガー, クヮックヮッ」といった音を真似ている。ここから「《騒々しい》 おしゃベり、むだ話、むだ口」に転じて、さらに「物知りぶる人、 食わせ者、山師、にせ医者」となった(これを読んで、いろんな催眠HPを見ると「なるほど」と思うだろう)。a quack または a quack doctorでニセ医者であるが、このニセ医者が行うインチキ療法がquackeryである。インチキ療法(医療)、いかさま療法(医療)、偽医療などと 訳せるだろうか。
 こうした単語があるくらいであるから、英語圏でもインチキ療法は跋扈(「のさばりはびこる」こと)している。そうして、インチキ療法に対抗する取組もま た盛んである。アメリカでは、CHIRI(Consumer Health Information Research Institute;消費者健康情報研究所)という非営利団体やQuackeryと闘う医師らの専門組織であるNCAHF(National Council Against Health Fraud;詐欺的医療対策全国協議会)が、イギリスではHealth Watchな どが有名である。
 これらの組織の活動は、全国(ときに海外も含む)から集めた医療情報や健康情報を、その内容について分析し、問題のある情報を検証、チェック していくことである。対象となる情報の膨大さ(Quackeryはその語源の通りおしゃべりがすぎる!)からも作業の困難さが想像できるが、これら団体は その上、疑わしき情報について、科学的裏付けを添付した上で、情報発信元である相手に対して説明・釈明をもとめるのである。Quackery情報の発信元 (quacks容疑者)は、こうした指摘に対して応える義務(証明義務;burden of proof)を追い、つまりは公開討論の形となる訳である。
 こうした組織の他にも、インターネット上ではおそらく最も有名なQuackwatchのように、個人でカウンターQuackery情報を発信しているところもある(多くの反 quackeryサイトは、Anti-Quackery Ringを参照)。Quackwatchの運営者 Stephen Barrett MD.は、引退した医師であるが、彼に協力する医師仲間が全国に50名ほどいて、最新の情報を発信し続けている(最近は協力者が海外にも増えて、Quackwatch en FrançaiseQuackwatch em Portuguêsといったものまである)。他にアメリカのFDA (Food and Drug Administration;食品医薬品局)も、情報提供を行っている。
 日本でこうした情報提供を一部やっているのは消費生活センターぐらいであり、専門的に情報発信している機関はまだないようであるが、Quackeryで検索すれば日本でも多くの個人HPがヒットし関心の高まりが推測できる(これら国内サイト の多くも、上記の海外の組織やHPを参照しているようである)。


腕浮揚(うでふよう:hand levitation)

 暗示によって、その腕があがっていくこと。催 眠導入や催眠深化でしばしば用いられる。被催眠者の意識とは独立して生じる解離現象のひとつであり、同じく手腕の解離現象である自動書記と関係が 深い。
 腕のカ タレプシーと異なり、催眠に利用されるようになったのは意外に新しく、文献に登場するのはエリクソン以後である。エリクソンは、催眠が実際どの程 度生じているかを、被催眠者と共に確認するサインとして、また被催眠者の反応の程度を知る手がかりとして、腕浮揚をしばしば用いた。暗示に反応したことを 被催眠者が動作で示し、腕があがっていくことを被催眠者自身が認めることで、催眠状態が承認される。というのは、催眠に入ったことを、被催眠者はしばしば 気付かないし、認めないからである。
 

右脳 (うのう:right hemisphere)

 右側の大脳皮質のこと。体の左半分を統制する。
 また一般の通説として、イメージ的な思考、視覚思考や音楽は右脳で処理され、論理的な思考、言語や数学は左脳で処 理されるといわれるが、この世間の理解には誤解がある。また右脳は「非言語的」だから「無意識」を担当し、左脳は「言語的」だから「意識」を担当すると いった、町場の催眠術師が言いそうなことはデタラメである(→意識)。
 まずイメージ系の情報を右脳へ、論理的な情報を左脳へ、振り分けるシステムは脳には存在しない。つまり、すべての情報は右脳と左脳の両方に伝えられる。
 じつは、右脳と左脳は、同じ情報を同じように処理しようとするのであるが、両者の情報処理のスタイルが異なるため、これが反応する情報に応じて得意、不 得意の差としてあらわれた結果、優位脳という現象が現れると考えた方が正確である。この意味では、右脳と左脳は分業し ていると言うより、競合しており、それぞれ得意な分野で右脳が勝ったり、左脳が勝ったりするというイメージの方がまだ正しい。(→左脳も 参照のこと)
 したがって右脳を鍛えてどうこうという本は原理的にが間違い。右脳を使うつもりでも、何をどうしてみても両方の脳を使うことにしかならない。逆に、ふつ うにしていても右脳も使っている。優位脳というのは、右脳左脳の分業ではない、ということ。
(→左脳



オペラント条件付け(おぺらんとじょうけんづけ: Operant Conditioning)

 条件反応をした時だけ無条件刺激が与えられ、条件反応が無条件刺激を得るための手段や道具となる条件づけを、オペラント条件付け(道具的条件づけ)とい う。たとえば、スキナー箱にねずみを入れて、ねずみがバー(条件刺激)を押した場合(条件反応)、えさ(無条件刺激)を与えられるようにすると(食べる行 動が無条件反応)、はじめ偶然に行われたバー押し行動(条件反応)がやがて自発的に行われるようになる(回数が増える)。
(→古 典的条件付け



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解催眠(かいさいみん:dehypnotization)

 催眠状態から覚醒させること。
 催眠深度や催眠状態でいた時間に比例して、解催眠にも時間をかけた方がいいとされる。
 たとえば記憶支配の段階まで入った人には一度ゆっくり時間をかけて解催眠し、再度強い口調で解催暗示を与える(1回目の暗示では完全には覚めないことも 多いので、もう一度解催すること)。
 また、何らかの「禁止暗示」を与えた場合は、必ずその場で解催眠暗示を与えるのがエチケット。

カウンセリング(Counselling)

  臨床心理学(Clinical Psychology)と心理療法(Psychotherapy)とカウンセリング(Counselling)、あるいは臨床心理士(Clinical Psychologist)と心理療法家(Psychotherapist)とカウンセラー(Counselor)は、どこがどう違うのか?
 この3つが一番きちんとわかれているのはイギリスである。
  1.  まず、この3つのなかで、心理学(Psychology)と関係があるのは、臨床心理学(Clinical Psychology)だけである。認知行動療法を軸にさまざまな心理援助法を統合し、主としてコミュニティにおける心理援助を専門的に行う。またイギリ スでは臨床心理士のサービスには、最初から健康保険が効く。当然、臨床心理サイドも治療効果をきちんと示さなければならないので(なにしろコクラン・ライ ブラリーが生まれた国である)、しぜんとエビデンスの最も多い認知行動療法がメインとなる。
  2.  心理療法(Psychotherapy)は、心理力動学派(ようするにフロイトの流れをくむひとたち)などの、特定の学派を前提にした活動 をいう。これには、もともとフロイトが医者だったせいで、医者でなければ精神分析家になれなかったことも関係している。
  3.  カウンセリング(Counselling)は、教育学部に属し、心理学とは別の、人間援助の総合学として成立している。これも特定の学派に とらわれず、さまざまな由来をもつ技法を統合している。
 日本では概念上も実際上も、話にならないほど、ぐちゃぐちゃになっている。いまのイギリスの分類をつかって強引に整理すると、
  1.  日本の心理学(Psychology)は実証科学であることに固執していることもあり(しかも自然科学風の古い科学観を根底にしているの で)、伝統的に臨床心理学(Clinical Psychology)に冷たい。しかし、一般の人々には「臨床心理学」的なものが人気であり(普通の人が考える「心の学問」は臨床心理学とむしろ重なる ので)、そんなのを目指して大学で心理学を専攻すると、ねずみを迷路に走らせたりしてガッカリすることが多かった。
  2.  しかし日本でいちばん力を持っているのは、イギリスなら心理療法(Psychotherapy)にあたる人たちである。この国では、いまだ 精神分析家が信じられないほど勢力を持っている(ポピュラリティ(人気)も、政治権力も)。「臨床心理学」と呼ばれる分野を事実上このひとたちが占拠して いる。なので、臨床心理学は、いろんな学派の寄せ集めであり、同じ臨床心理士でも「私は○○派ですから」とバックグランドがちがっている、というのが通用 してしまう。
  3.  ところが「臨床心理士」を制度として成立させた人たちが、取ってきた仕事は「スクール・カウンセラー」だったりする。正直、心理療法という のは「家元」制度なので、学派ごとに特殊で長いトレーニングや通過儀礼を経なければ「体得」できぬことになっているので、日本で「心理療法家」にまでなっ ている人は、ほとんどいない(たとえば日本でちゃんとした精神分析家のトレーニングを経てきた人なんて、ほんのひとにぎりである)。多くの人は、いろんな 学派の技法をあれこれかじる一方、面接技法を中心とした援助技術を一通り学んで「こころの専門家」となってしまう。要するにどの資格にしろ(心理学を学ぶ 時間の大小が異なるだけで)、実質はカウンセラーなのである(日本では、多くの臨床心理コースが「教育学部」に居をかまえてきたのも、こう考えれば納得が いく)。
 蛇足だが、今の臨床心理士の「指定大学院」制度が導入された時、懸念されたのは「心理学を勉強し過ぎて(させ過ぎて)、結局カウンセラーとしては半人前 の連中を増産するだけじゃないのか」ということだった。少なくない臨床心理士が、現場で「心理テスト」しかやらせてもらえない一方で、社会が求める臨床心 理士は、アメリカ風の研究者−臨床家でもなく、「話をじっくり聞いてくれる人」=カウンセラーだったのである(精神科医が「ロクに話を聞いてくれない、薬 出すだけだ」と言われる訳である)。

過去生療法(かこせいりょうほう;past-life therapy)

 催眠を使って幼少の頃を思い出させることを「逆行催眠」(退行催眠)というが、幼少の頃よりもさらに「時間を遡ら」せて、「生まれる前の記憶」を引き出 すことで行われる「療法」のこと。
 このことをもって「前世」が存在すると主張する者もいるが、この主張はいくつかの点で問題があると思われる。
 まず第一に、(生まれる前までいかなくとも、幼少時代の「記憶」であっても)逆行催眠時に話された内容は、しばしば歴史的事実に反する。これは、催眠術 下の人間が外からの暗示に対して極めて弱く、暗示に応じた答えや「偽の記憶」を作り出すことから生じる。さらに過去の別の記憶も組み込まれ、一部の真実を 含む虚構の記憶が作られることが多いことが記憶研究から分かっている。
 つまり逆行催眠で「生後の記憶」を呼び覚ますことすら、正確には行い得ないのに、「生前の記憶」が呼び覚まされたとして、それが「前世」の存在と直接結 びつくといえるかどうかは、かなり疑問である。これについては、「生前の記憶」と歴史的事実の綿密な照らし合わせを行うことで著名な、前世研究の第一人者 であるスティーヴンソンですら、past-life therapyがいう「前世」には否定的である※1
※1 Stevenson, I. (1994). A case of the psychotherapist's fallacy: Hypnotic regression to "previous lives." American Journal of Clinical Hypnosis, 36, 188-93.
 第二に、過去生past-lifeと前世が、じつはまったくの別物である点である。
 前世を英訳には、普通former incarnationが使われるが、これが誤解の元である。これは転生(てんせい:reincarnation)と(輪廻)転生(てんしょう)が異な る、ということでもある。incarnation は「肉体を与える[られる]こと, 人間の姿[形]をとること」をいう。したがって転生(てんせい:reincarnation)もまた、通常は人間(か、それ以上の存在)に生まれ変わるこ とだけを指す言葉である。しかし転生(てんしょう)の方は、かつて湯川秀樹が「君は輪廻を信じへんのか?そりゃ楽観論やで。ぼくは、死んだら豚に生まれ変 わる思たら、死んでも死に切れん」※2と思い悩んだように、人間以外に生まれ変わり得ることを当然に含んでいる。しかも輪廻転生 は、そのサイクルは無限に続き、生きとし生けるものはすべて、無限に転生(てんしょう)に投げ込まれることを言うのである。それは人生に意味を与えるどこ ろか、むしろ徹底的に意味・意義を奪い、まともに取り組むならあらゆる人を虚無主義(ニヒリスム)の渦に叩き込むものである。
※2 数学者の森毅の証言による。なお湯川はこの言葉の後、「そやけどな、最近はようやく、豚なるんやったらなるでそれもええ、 と思えるようになってきた。こういうのをサトリいうんやろか」とも付け加えている。さすがはヒデキである。
 さて、簡単な思い違いか、何らかの戦略によるものか、判然としないが、past-life therapyで一世を風靡したBrian L.Weiss MD の"Many Lives, Many Masters"は、どういう訳か『前世療法—米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘』というタイトル(とサブタイトル)で訳されている。これは確かに、 俗に言う(都合の良い)「前世」理解や「輪廻転生」理解(誤解)に寄り添う形となっている。ちょっと『仏教語辞典』でも引いてこい。
 どうして語られた前世の記憶は、そろいもそろって、現にその記憶を語るものよりも、高貴でドラマティックなのだろうか? なぜミジンコやブタだった前世 の記憶を誰も語らないのか? これでは湯川でなくとも、納得できないだろう。
 
 

カタルシス (catharsis)

 強烈な経験による感情の浄化(あるいは浄化作用)のこと。「通利」と訳したこともある。
 抑制されたていたか閉じ込められた情緒的なエネルギーを解放するプロセスを指す。
 ブロイアーやフロイトやその追随者は次のように考えた----「神経症」においては、過去において体験した悲痛な出来事、恐怖に満ちた体験、屈辱的な思 いでなど、本人が考えただけでも不快な感じが起こり、人格の平衡がくずれるような堪え難い外傷(トラウマ)体験を「意識から閉め出している(抑圧)」こと が多いとされ、これら不快な情緒を伴った体験は、意識から閉め出されても消え去った訳ではなく、心の奥底に情緒的緊張として残り、そのエネルギーによって 症状がつくられる。そしてこの情緒的緊張が表現される機会(=これがカタルシスである)があれば、心の底にたまっていた緊張がほぐされ、症状は消えていく とされる-----。「記憶の圧力釜理論」とでもいうべきファンタジー? 認知心理学やそれに基づく記憶研究は、概ねこうした「記憶理論」については否定 的な実験結果および理論化を積み重ねてきている(ということも申しそえないとフェアではないだろう)。
 カタルシスは通常、「原因」となった出来事について、想起したりや追体験したり、行動化(アクティング・アウト)したり、または言葉にあらわすことに よって行われる。


カタレプシー(catalepsy)

 身体硬直状態のこと。一般に軽い催眠状態でも起こり得るとされる。
 受動的に最初にとられた姿勢を、それがたとえ不自然でも維持し続け、自分の意志でもとに戻そうとしない(戻せない)。
 睡眠のトランス状態でも生じるのは、精神運動性の低下と被暗示性の亢進のためであると考えられている。
 筋緊張の亢進を示すことからも強硬症(Starrsucht)ともいうこともある。 催眠の他にも、筋緊張病以外に器質性脳障害、ヒステリーでも見られる。


間接暗示(かんせつあんじ: Indirect Suggestion)

 受け取った側でも自分の行動が暗示の影響を受けていることに気づかない暗示
 言葉を伴わない動作や音などで示されることもあるが、エリクソン以降は主に言葉を用いるものが増えた。
 例えば、自分の初恋の淡い思い出をさりげなく語りながら、被験者は、誰に命令されたでもなく、自然に自分自身の過去の初恋体験の頃の年齢まで年齢退行し てしまっているというタイプのもの。したがって、あからさまに、「さあ、子どもの頃に戻ってください」などと、指示する必要はない。

 かつては催眠導入ができさえできれば、そしてクライアントに催眠トランスに入ってもらって「治る」「よくなる」「症状がなくなる」と告げさえすれば、催 眠療法になった(?)。いまでは、そんなナイーブなことでは、「催眠療法」すら名乗れなくなった(平気で名乗っている素人療法家もいるが)。
 少なくとも間接暗示が使えない催眠家は、両手を縛られたも同然である。なお悪いことに、そうした自覚がない催眠家は、自分の能力の低さ、レパートリーの 狭さの責任を、クライアントや催眠そのものに押し付ける。「あなたは被催眠性が低い」「私を信じてない」「一部の人しか催眠は効かない」等など。
 実際、間接暗示抜きでは、催眠の適用はおそろしく制限される。はっきり催眠を嫌がるクライアントはもとより、抵抗を隠し持つ人、逆に催眠に入ろう入ろう と頑張ってしまう人も難しくなる。また現状では、催眠療法は「最後の砦」であることが多いので、催眠家のドアをたたくまでにさまざま努力や療法を繰り返し てきたクライアントには、「あなたはよくなる」「信じれば症状がなくなる」といった直裁(べたな)暗示は、意識的にか無意識的に反発を食らうかもしれな い。

 古典催眠家が催眠導入に重きを置くのに対して、現代催眠家の特徴は間接暗示を駆使するところだろう。実際、メタファーや物語やバインドといった現代的手 法は、間接暗示を基礎にしている。クライアントに合わせて、間接暗示をどう行うかが、現代催眠家の腕の見せどころである。
 が、最初のうちは(オハンロンがそうだったように)、たとえば「なぜおねしょする少年に、野球の話をしただけで、おねしょが治る」のか、理解しがたいだ ろう。「おねしょ」と、少年が得意だった「野球のプレイ」には、不随意的な筋肉のコントロールという共通点がある。どちらもうまくやるには、いちいち意識 していては駄目だ。そして少年は、そのうちの一方(野球)はうまくやれているし、自信も持っている。
 この例を行ったエリクソンは、わざわざ「おねしょと野球はおんなじだね」などと無粋なことは言わない(それは「全然ちがうよ」という反発を呼ぶだろう。 だって、本当に全然違うことだから)。この辺りに間接暗示のキモがある。

観念運動反応(かんねんうんどうはんのう:ideomotor response)

 文字どおり、観念=考え(idea)に対する身体の(不随意の)反応のこと。催眠の実験や催眠中の合図として用いられる。典型的なものとしては、シェブ ルールの振り子の揺れ(たとえば、「イエス(はい)」なら横揺れ、「ノー(いいえ)」なら縦揺れ、「わからない」なら右回り、「答えたくない」なら左回 り、などあらかじめ決めておく)や、人差し指に「イエス(はい)」中指に「ノー(いいえ)」などと割り振ってそれぞれの指を上げることで被術者が、術者の 質問に答えるときに用いられる。「不随意」な反応であるため、しばしば、これらの反応は「潜在意識」の答えであると見なされる(正確には意識を介しない反 応と見なされるべきか)。
 心理学者・生理学者ウィリアムB.カーペンターによって「観念運動 ideomotor action」の名称が与えられた(1874)。カーペンターの意図は、ダウジングや催眠術(の現象の一部)、読心術,舞踏病(Saint Vitus's Dance)、降霊術のターニング・テーブルといった「超常現象」に、もっと科学的でましな説明を与えることだった。こうした「超常現象」の人気と相まっ て、「観念運動 ideomotor action」の語は、19世紀後半には様々な文献に登場することになった。
 カーペンターは、観念 (idea)と動き(movements)の間の直接性(immediacy)を「観念運動 ideomotor action」の定義としたのだが、この定義はいささか広すぎるとも考えていたらしい。彼はまた、この広い定義の他に、観念 (idea)と「一致した方向」で(それゆえ類似性を持って)なされる行為を「狭義の観念運動」として定義した。つまり(1)観念の直接的な統制下にある こと、(2)観念は行為と何らかの類似性を持っていること、の2つの基準を満たすものが狭義の観念運動であるとした。
 観念運動が有名になったのは、有名な生理学者・心理学者ウィリアム・ジェイムスの「心理学原理」(1890)の「意志(will)」に関する議論の中で 取り上げられたからである。その後、観念運動の概念は、超常現象にのみ適用され、まじめな学者には長く問題にされなくなった。おかげで提唱から100年を 越えても、行動と知覚の関係の問題として直接的に検証されてこなかった。
 観念運動の考えに理論的な前進を与えたのがグリーンワルドである.彼は"観念適合性 Ideomotor Compatibility"というアイデアを示し、観念運動のメカニズムに立ち入った説明を試みた。ある行為の知覚が観察者に同種の行為を引き起こす理 由は,知覚した行為と,それによって引き起こされた行為の「結果」というものが,非常に類似しているからであるとした。
 観念運動を説明する2つの仮説が考えられる。知覚的帰納(perceptual induction):人は自分が見た動きというものを実行するという考え方と、意図的帰納(intentional induction):人は見たものを繰り返しているのではなく,見ているできごとの未来を望んでいるほうに変えられるかのように行為するという考え方で ある。Lothar Kunf, Gisa Aschersleben, and Wolfgang Prinz(2001)は、ディスプレイとジョイスティックをつかった実験を行ない、instrumental effectorとも呼べる「手」においては意図的帰納(intentional induction)が働き、noninstrumental effectorである足と頭には知覚的帰納(perceptual induction)とともに、意図的帰納(intentional induction)が働く弱い証拠も見い出した。結論としては、観念運動は、意図的帰納と知覚的帰納の加算的な効果からなると考えられる。


虚偽記憶症候群(きょいきおくしょうこうぐん:False Memory Syndrome)

 回復記憶セラピー、日本では「前世療法」「過去退行療法」や「過去生退行療法」と呼ばれるものがある。
 治療者はどこかに「トラウマ」があると判断し、それが幼児期の性的虐待にあると告げる。最初、患者は否定する。しかし、患者のその否定こそ、トラウマ抑 圧を示しているとセラピストは解釈する。
 リラクゼーション技法、薬物、催眠などの技法によって、患者が虐待経験を「思い出す」。これで治療の第一歩は成功したと判断される。アメリカでは、患者 の側が虐待記憶を受け入れると、親との関係を絶つ、あるいは手紙で憎しみをぶつける、さらには民事訴訟に訴え慰謝料を獲得しようとする……、と続いてい き、社会問題にまでなった。
 患者と治療者の側はこれを回復記憶(recovered memory)といい、一方、身に覚えの無い親たちはこの記憶を虚偽記憶症候群(False Memory Syndrome)と呼ぶ。FMS財団(False Memory Syndrome Foundation)なる被害者の会も結成された。
 回復記憶による性的虐待訴訟事件が多くはえん罪であったという方向で終息に向ったのは、このFMS財団やエリザベス・ロフタスなど記憶研究の専門家が、 マスコミ、法廷などで回復記憶の批判を積極的に行い始めてからである。なお、これらを受けて、1990年代に各医療関係、心理関係学会や団体が「記憶回復 セラピー」に関して出した声明はこちらで みられる(機 械翻訳による日本語対訳付きはこちら)。
 このロフタス、回復記憶運動の側からは蛇蝎の如く忌み嫌われており、幼児性愛者の味方とさえ罵られているが、実は彼女自身も性的虐待の被害者なのだそう だ。
 「何にでも原因があって、その原因を追及し矯正すれば、事態の改善につながる」とする原因強迫症(「抑圧」や「幼児期のトラウマ」や「PTSD」「機能 不全家族」のせいにする、という現在の日本でもよく見られる風潮、例えば古くは「母原病」や「アダルト・チルドレン」など)の無意味さと危険性もつとに指 摘される。
 

系統的脱感作法(けいとうてきだつかんさほう:Systematic Desensitization Therapy)

 生理的に不安が抑制される状態、すなわち筋弛緩状態を患者にとらせ、不安を引き起こす刺激を弱いものから強いものへ段階的に繰り返し提示することで、恐 怖や不安反応を克服することを目指す治療法である。系統的脱感作法は、人間は恐怖や不安状態の時、それに拮抗する筋弛緩という反応を同時に行うことができ ないという原理に基づいている。1950年代初期にウォルピによって開発された。

原因(げんいん:cause, origin)

 「物事のつながり」を(トポロジカルに)分類すると、ループを含まない「つながり」はたった一種類しかない。ループを含む「つながり」は無数にある。そ して発端(=根本原因)を探ることが意味があるのは、ループを含まない「つながり」に対してのみである。ループにおいては、原因が結果になり、結果が原因 となっている。このことは、(日常的に使い慣れた)因果分析の適用範囲が、我々が想像するよりもずっと狭いことを示している。まして、正(ポジティブ)のフィードバッ ク・ループが存在する場合には、これは増幅ー逸脱をもたらすループであり、見分けがつかないほど小さな発端(蝶の羽ばたき)が強大な結果(台風) を生み出すことがある(いわゆるバタフライ効果)。この場合、台風を防ぐのに蝶をせん滅することはナンセンスだろう。とくに社会的な事象が持続する場合に は、いわゆる悪循環や再生産といったループがその持続を支えている。この場合、適切な認識は、原因究明ではなく、システムとして要素のつながりを(とくに ループを)見失わないようにすることである。

健忘(けんぼう:amnesia)

 記憶は、(1)新しい情報を知覚し、脳裏に刻み込む「記銘」、(2)記銘したものを心の中に持ち続ける「保持」、(3)保持されたものを再び意識の上に 浮かび上がらせる「想起」、の3つのプロセスからなる。健忘はそのうち「想起」の段階で起こるもので、覚えているものを思い起こすことができなくなること である。
 催眠は、健忘を引き起こすときにも、あるいは心因性の健忘(症)を治すときにも、用いられる。
 
 心因性健忘症の治療には、麻酔法=「静脈に麻酔薬をゆっくりゆっくり注射、眠らせない程度に意識レベルを下げ、質問を繰り返して記憶を呼び戻す方法があ るが、それよりも催眠を使った方が治療成績は良いようである。

後倒法(こうとうほう:falling backwards induction)

 後倒法は、日本の催眠本には必ずと言っていいほど載っている「代表的」な催 眠導入の技法である。
 被術者に、つま先とかかとを揃えて立たせ、目を閉じて頭を上に向けてもらう。次に「後ろから誰かに引っ張られていますよ。ほーら、後ろに倒れる」などと 暗示を与える。
 一人を相手にするときは、被術者の後ろに立ち、肩に手をそえて倒れても支えますと安心させておく。2、3回かけて倒してもいい。最後は、ぐっと床の近く まで手で支えて倒してやると催眠に入る。
 集団に対して行うときは、誰が後ろに倒れそうになったかチェックしていて、その人を実験相手に選ぶ(倒れることに対して抑制がかかるので、支えなくても 倒れることはあまりない)。
 実は、欧米ではステージ(ショウ)催眠 でもないと、最近はとんとお目にかかれないらしい(時計をつかった振り子法なども同様)。これは多分、文化的な話であって、後倒法が「古い」「効き目がな い」という訳ではない(新しい訳では毛頭ないが)。
 現在の催眠療法が行われるクリニックでは、医者やセラピストがクライアントに触れることは近年ではまずない。密室で心理療法家が患者に触れることは、い らぬリスク(セクハラならぬドクハラ訴訟)を高めることになるからだ。患者の方も、必要もないのに、医者に触れられるのをよしとしなくなった。ようやくメ スメリズムの「パス法」以来の伝統から脱皮したのかもしれない(日本ではまだまだ使われているのはご愛嬌)。

行動主義(こうどうしゅぎ:behavirism)

 J.B.ワトソンが 1912 年に提唱した主張のもとに形成された心理学の学派または理論。
 ワトソンはそれまでの心理学の伝統、すなわち意識現象を意識でとらえて報告する内観法に反対して、科学としての心理学は意識とか内観を排除して、対象を 客観的な行動に限定すべきであり、それを観察可能な刺激‐反応の側面からだけ扱い、そこに行動の法則を組織的に求めていくべきだと主張したのである。こう して「意識なき心理学」の研究対象は、行動さえできればなんでもあり、つまり生物全般 人間ならば胎児から精神障害者にまで広がった。
 実は、こうした考えはすでに 19 世紀末ドイツの生理学者や生物学者も提唱している。しかし、なかでも、ワトソンに決定的影響を及ぼしたのはロシアのセーチェノフ I.M.Sechenov から始まりパブロフの条件反射学に実った蓄積である。同じアメリカの E.L.ソーンダイクに始まる動物を使った学習心理学も、ワトソンに大きな影響を与えた。
 ワトソンの行動主義の主張は伝統的心理学に不満であった学者たちに広く影響を及ぼし、大衆にも強く訴えた(心理学が、誰にもわかる証拠=行動を基礎に置 いたことで、心理学の脱秘教化、公衆化が進んだともいえる。そんなわけで、行動主義心理学と精神分析は中が悪い)。 1920年代から20世紀半ばまで、特にアメリカでは行動主義心理学が席巻した。その後はゲシュタルト心理学, 精神分析学,哲学のウィーン学団,物理学の操作主義などからの影響・批判のもとに多くの新行動主義理論が分岐していく。 トールマン E.C.Tolman,ハル C.L.Hull, B.F.スキナーなどの理論がそれである。
 このようにワトソンの業績は現代心理学の形式と本質とに決定的影響を及ぼし, 彼の著書は現在の基礎から臨床にわたる心理学研究の出発点となった。学校で習う心理学が、日本人が普通イメージする心理学(こころをなんとかしてくれる学 問=臨床心理学?)と、大きく齟齬があるのは、このあたりにも原因がある。

行動療法 (こうどうりょうほう:behavior therapy)

 行動(主義)理論にもとづく治療法の発想は19世紀までさかのぼるが,行動療法という言葉は1950年代前半に生まれたとされる。1958年には今も行 動療法の代表的技法とされる逆制止・系統的脱感作法というアイディア・治療法がウォルピによって発見された。
 しかし,系統的脱感作法あるいは逆制止は注目されて10年しないうちに批判を浴びた。系統的脱感作法を要素に分解して考えるという発想が出たり,リラク セーションなしでも不安は消えるという研究結果が次々と提示されるようになったのである。このように行動療法はある技法の有効性が示されると,つねにその 本質は何か,何が効いているのかという議論が行われ,技法の分解やその組み合わせを経て進化してきた。
 行動療法は,行動理論(学習理論)にもとづき、新しい反応や、その集合体としての行動の形成は、基本的に刺激と反応の時間的・物理的接近による「連合」 によるものと考える。これに対してウォルピのはじめた、逆制止療法とは、不安や恐怖,緊張と相容れない反応を,不安が生起している場面で引き出すことがで きればその不安は低減し,消失される。相容れない反応として,主にリラクセーション反応が用いられた。系統的脱感作法は、不安を引き起こすものをランク付 けし、その弱いものから順に逆制止を行い、しだいにより強く不安・恐怖を生じさせる場面にも、平気になるようにする両方である。
 行動療法には他に、嫌悪条件づけ(罰との連合を通して望ましくない反応を消去すること)や強化やシェーピングなどを用いた、行動を修正のための手法が数 多く開発されている。

後催眠暗示(ごさいみんあんじ:posthypnotic suggestion)

 催眠を受けている人に対する暗示
 催眠後に、命令された方法で遂行する(普通は決められた信号に対して)。催眠後の反応は普通、被催眠者がその原因に気づくことなく実行される。


古典的条件付け(こてんてきじょうけんづけ: Classical Conditioning)

 ロシアのパブロフが始めた条件づけ。犬に肉粉を与えると、犬は唾液を分泌する(肉粉を無条件刺激、唾液分泌反応を無条件反応という)。肉粉をあたえる際 に、常にメトロノームの音(中性的刺激)を提示すると、やがて犬はメトロノームの音だけで唾液を分泌するようになる。このように無条件刺激とともに中性的 刺激を提示することを繰り返しすることによって成立する条件付け。レスポンデント条件付けとも言う。
(→オ ペラント条件付け

混乱技法(こんらんぎほう:Confusion Technique)

 クライアントを混乱させることで催 眠導入・催眠深化させる手法。ミルトン・エリクソンによって開発された。
 相反する指示や暗示をクライアントにあたえて、(顕在)意識の思考を疲労させることを基本原理にしている。
 意識は言われた内容を理解しようとして疲労し、意識の抵抗モジュールが非活性化することで、催眠導入につながる。
 術者が被術者に出す言葉や指示は、それぞれでは意味はあるが、互いに相反するものである。そして被術者が受け取った内容の「つじつま」を合わせる時間が 足りなくなるように指示を出していく。すると思考が空白状態になって、催眠へと誘導が容易になる。



ア行
カ行サ行タ行ナ行ハ行マ行ヤ行ラ行ワ行アルファベット



サ行

催眠(さいみん:hypnosis)

 「催眠とは何か?」についての答えは千差万別である。
 したがって、催眠の現象や手続きをただ単に描写したものが、「共通見解」の代わりに便宜的に使われている。アメリカ心理学会第30部会(またの名をアメ リカ心理学会催眠部会)の定義「催眠とは、クライアント/患者/被術者に対して、感覚/知覚/思考/行動の変化を経験するよう、医療の専門家および研究者 が行う暗示の手続きである」は、その類である。
 しかし催眠の本質についての論争が終わったわけではない。主な対立点は、催眠の主たる要因が「かける側」にあるか、それとも「かけられる側」にあるか、 という点であった。
 退魔術からメスメリズムへの移行の意義は、催眠現象を術者がコントロールできるようになったところにあった。したがって当初、催眠の主たる要因は「かけ る側」にあるとする説が主流になることは必然だった。この立場に立ちながら、現在でも人気があるものに「暗示説」がある。これはファリア師から現代の多く の催眠術師にいたるまで根強く信奉されている。もっとも、「かける側」主因のスタンスは弱まりつづけている。これは、かつて圧倒的上位にあった施術者側の 立場が、ほとんど被術者側に並ぶほど平等化・低下しているからである(伝統的な権威催眠の実効性が低下してきたのは、催眠における社会関係の変化に原因す ると考えられる)。そのため多くの催眠家は、「催眠は自己催眠に他ならない」との方便を採用するに至っている。しかしこの方便は実証されたものではない (むしろ実験的には催眠と自己催眠は区別されると結論されている。もっとも重要なのは催眠のかかりやすさ(被催眠性)と自己催眠のかかりやすさの間には相 関がないことである)。
 「かけられる側」に主因があるとするものには、まずシャルコーの催眠=ヒステリー説がある(現在では否定されている)。シャルコーの弟子で、すぐれた催 眠研究者であったジャネは、分離説を唱えた。これは現在もヒルガードら新・分離説派に引き継がれている。
 催眠理論の近年の進化としては、催眠が「かける側」と「かけられる側」の間の、密接な協同作業である点に焦点を当てた、催眠のコミュニケーション説があ る。エリクソンに学んだ催眠家が、それぞれにバリエーションを持つ諸説を展開している。 
 なお、我々が採用した「催眠のモジュール・モデル」は、これらどの定義とも矛盾することなく、催眠の諸現象を説明できること、またこれまで強引だった説 明(たとえばむりやり一次元スケールとされた催眠深度と催眠現象と個人差(被催眠性)の関係)を、よりスマートに説明できると思われる。これは実証的に支 えられているという意味ではないが(実証性がない訳ではもちろんない)、それよりも「オッカムの刃」の意味で、より簡単明瞭で見通しの効く説明である強み がある。

催眠家(さいみんか:hypnotist)

「催眠にかかる・かけられる人」と同様、「催眠をかける人」の呼び名も各種ある。
 たとえばOperator(施術者)、Practitioner(療法家、施療者)と呼ばれることも多い。


催眠商法(さいみんしょうほう:hypnotism sales)

 またの名をSF商法。この場合のSFとは、サイエンス・フィクションではなく、『新製品普及会』の頭文字をとったもの。
 催眠商法のいわれは、商品の特価販売または説明会をするとの名目で人を集め、閉めきった場内で熱狂的な雰囲気を盛り上げて、参加者が興奮状態のうちに商 品を買わせることから。販売業者の巧みな話術にのせられ、気が付いたら高額商品の購入をしていた、という被害が多い。
 多くは、粗品のようなものを無料で配るところから手口は始まる。たとえば、集まった人に化粧品のサンプルを配りながら「皆さん、今日はラッキーですね」 とか「ここに来た人はみんないい人」と言いながら、(ここからが重要)手を挙げて「ハイ」と声を出す練習をさせたりする(いわゆるイエス・セット!)。しかも「あなたが一 番元気良くハイと言ったから」と、特別品をあげたり、半額で商品を売ったりして、手をあげてハイというのを強化する。これを何回か繰り返すうち、会場全体 が「ハイ」と手を上げて「得をする」というのに馴れさせ、また他の人が司会者の指示にどんどん従って商品を買っていくのを見せることで、「早い者勝ちでこ の場で買わないと損」という一種の(というか立派な)集団催眠の状態に入れる。
 ここまで仕込みが終われば、あとは、「羽毛布団、通常40万円のところ今日は半額!」とやれば、参加者はほとんど疑問を持たず反射的に「ハイ」と大きな 声を出し手を挙げるだろう。商品の価格はどんどん上がり、しかも閉め切られた会場で、何か買わないと出られない雰囲気、後回しになってもっと高い商品を買 うよりも、今買った方がまだまし……、といった焦りにも後押しされる。
 催眠のやり方が分かれば、この方法が実に理にかなっていることがわかる。つまるところ「わたしはしっかりしているから大丈夫」というのは大間違い、人間 心理の仕組みを利用しているのだから。


催眠分析(さいみんぶんせき:hypnoanalysis)

 さまざまな抵抗が生じることもあって、精 神分析は時間がかかる。スタンダードなやり方だと一回のセッションが50分で週5〜6回(!)、これが数年にわたって続くこともある(「精神分 析」は別名「1000時間セラピー」と呼ばれた!)。
 このため、フロイトが捨てた催眠が、再び自由連想法に持ち込まれることになった。催眠中の自由連想は(抑圧がゆるんでいるためか)、覚醒時のそれよりも 無意識の材料がより引き出しやすく、結果として時間が短くて済む利点があるからである。たとえばウォルベルグは、催眠を用いた1回の面接が、覚醒時の自由 連想の数週間に匹敵するとさえ言っている。
 ハドフィールドは、第一次大戦中、未曾有の戦争のおかげで爆発的に増えてしまった戦争神経症の治療に、患者を催眠に導入し、外傷(トラウマ)体験の時期 まで退行させ、それにまつわる記憶や情動を発散させるブロイアーばりのカタルシス療法を使い出し、これを「催眠分析」と呼んだ。
 このあとリンドナーは、旧来のブロイアー的な催眠カタルシス法ではなく、正規の精神分析と催眠との間を往復する治療法についてのみ「催眠分析」という名 称を使うべきだと提言した。つまりリンドナーがいう「催眠分析」は、基本的に通常の自由連想で進め、抵抗の処理だけに催眠を使うものである。


催眠誘導(さいみんゆうどう:Hypnotic induction)


 世の人にとって「催眠誘導」こそが、催眠であるらしい。
 一般的に催眠(術)のイメージとして想起されるのは、「催眠誘導」のしぐさや指示(一点を凝視すること)や小道具(振り子)であり、「催眠誘導」ができ ることが「催眠ができること」と同一視される。催眠を学ぶことは「催眠導入」を学ぶこと、催眠を教えるのは「催眠導入」を教えることらしい。実際のとこ ろ、「催眠導入」は、比較的容易な手法なので、「催眠導入」についてだけ書かれた「催眠本」が跋扈するのである。
 問題は「催眠に入れた後に」何をするか、なのに。素人だけでなく、長年にわたって研究者の方も、催眠誘導の手続き(ステップ)に対応させて、催眠感受性 や催眠深度(深さ)を定義したり、あるいは催眠そのもの(本質)を考えてきた。この伝統はいまでも消えたわけではない。
 エリクソン以降の会話中心の催眠を現代催眠とするならば、現代催眠はすでに「かける/かけられる」ものではなくなっている。
 儀式めいた「催眠導入」の手続きは、被術者にも、また臨床家にも、次第に敬遠されるようになった。「催眠導入」の地位が後退したことは、本当なら催眠の 見方を大きく変えることになるはずである。催眠現象の科学的研究の多くが、実験手続きとして事前条件を一定にする必要から、「確定された催眠導入手続き」 とさまざまな催眠現象を結びつける方法をとっていたからである。だからこそ、ある種の催眠現象(たとえば自動書記)は、これこれとこれこれの催眠導入を経 ないと現れない=深い催眠でないと出てこない、といった風な実験結果が蓄積されたのである。
 しかし、この「一次元量としての」催眠深度や催眠感受性こそ、実験手続きが作り出したのかもしれない。理論負荷性や実験手続き負荷である。NLPのグリ ンダーは、パールズらゲシュタルト療法家たちは、ただ「その椅子に座っている自分に話しかけてください」というだけで、治療の必要十分な効果を、催眠家な ら「催眠トランス」とよぶ状況を実質的に作り出している、と指摘している。
 催眠を、変化をもたらす手続きと考えるならば、エリクソンのように、ただ小話を話したりジョークを言うことも、十分それに匹敵する。クライアントを助け るのは、クライアントに変化をもたらすのは、かならずしも、誰もが「あれこそ催眠」と考える「催眠導入」ではないのである。

催眠療法(さいみんりょうほう:hypnotherapy)

 現在では存在しない。
 リエボーの時代なら、確実に存在したかもしれない。何しろリエボーは「通常の療法」は有料で、「催眠療法」は無料で、とはっきり区別したからだ。
 少なくとも「行動療法」や「認知療法」と同じようには、たとえば心理療法の一学派ないし一潮流としては、「催眠療法」は存在しない。もちろん催眠は、様 々な心理療法をはじめ、さまざまな医療技法とともに使うことができるし、現に使われている。これらはしかし、臨 床催眠(Clinical Hypnosis)と呼ぶべきだろう。
 これは別に奇を衒った訳でも、穿ったものの見方をしている訳でもない。たとえば、アメリカ心理学会の第30部会(=催眠部会)は、次のような声明を出し ている。

"Hypnosis is not a type of therapy, like psychoanalysis or behavior therapy. Instead, it is a procedure that can be used to facilitate therapy. Because it is not a treatment in and of itself, training in hypnosis is not sufficient for the conduct of therapy. Clinical hypnosis should be used only by properly trained and credentialed health care professionals . . . who have also been trained in the clinical use of hypnosis and are working within the areas of their professional expertise."
 (Executive Committee of the American Psychological Association Division of Psychological Hypnosis [1993, Fall]. Psychological Hypnosis: A Bulletin of Division 30, 2, p. 7.)

「催眠は、たとえば精神分析や行動療法といったもののような、「療法(セラピー)」のひとつではない。むしろ、セラピーを促進させるのに使える手続きのひ とつである。催眠はそれ自体では治療ではないので、催眠のトレーニングを積んだとしても、それでセラピーを行うのに十分とはいえない。臨床催眠は、適切な 訓練を受け資格を得たヘルスケアの専門家だけが用いるようにすべきである。そうした専門家はまた、催眠の臨床的活用についても訓練を受け、自分の専門分野 の範囲内で催眠を行うべきである。」

 ここでは、もうひとつ重要な「催眠倫理」について触れられている。ほとんどの(あらゆる、と言ってもいいだろう)催眠関連の団体・学会では、自分が訓練 を受けた専門領域以外で(つまり医者なら医者の、歯科医なら歯科医の、ソーシャルワーカーならソーシャルワーカーの、臨床心理士なら臨床心理士の専門領域 以外で)、催眠を使うことを禁じている。

 巷で言う(そして、未だに「人気」がある)「催眠療法(ヒプノセラピー)」は、ただの暗示に催眠(という儀式)を加えたもの(=暗示+催眠)でしかな い。「民間療法」のひとつに数えられるのは分かるが、少なくとも他の「心理療法」として肩を並べられるものではない。
 だから「催眠療法士hypnotherapist」と名乗るのは自由だけれど、それだったらむしろ由緒正しきメスメリスト(磁気術師)を名乗るべきでは ないだろうか。英語にはメスメリズム(mesmerism)から派生した「mesmeric」という素敵な形容詞があることだし。その意味は「抗しがたい (魅力をもった)」。
(→臨 床催眠


 

左脳 (さのう:left hemisphere)

 左の大脳皮質。体の右半分を統制する。
 また一般の通説として、イメージ的な思考、視覚思考や音楽は右脳で処理され、論理的な思考、言語や数学は左脳で処 理されるといわれるが、この世間の理解には誤解がある。
 まずイメージ系の情報を右脳へ、論理的な情報を左脳へ、振り分けるシステムは脳には存在しない。つまり、すべての情報は右脳と左脳の両方に伝えられる。
 右脳は「非言語的」だから「無意識」を担当し、左脳は「言語的」だから「意識」を担当するといった、町場の催眠術師が言いそうなことはデタラメである。
 じつは、右脳と左脳は、同じ情報を同じように処理しようとするのであるが、両者の情報処理のスタイルが異なるため、これが反応する情報に応じて得意、不 得意の差としてあらわれた結果、優位脳という現象が現れると考えた方が正確である。この意味では、右脳と左脳は分業し ていると言うより、競合しており、それぞれ得意な分野で右脳が勝ったり、左脳が勝ったりするというイメージの方がまだ正しい。サージェントの研究(たとえ ばSergent,1982Sergent&Signoret,1992 ) や、デリスらの研究(Delis et al.,1986)を参照のこと。もっと新しい論文ももちろん参考になる(たとえば上のリンクからも、サージェントやデリスのもっと新しい 論文や他の研究者による関連研究へとリンクをたどることができる)。
 左脳には言語脳があるといわれるのは、それは意味記憶を作る能力が左脳に高いことが原因している。概念は共通項の抽出により作られるので、それは知覚の 内の一部を切り出して処理することになる。つまり左脳は知覚の一部だけを処理する割り合いが高く、自己意識のループに余裕があり、ワーキング・メモリーに より、複数のループを保持することができる。このため、組み合わせ等によって、演繹、類推、帰納などの推論を行う余裕があるのである。
 それにたいして、右脳は、知覚全体を処理するのでワーキング・メモリーに余裕が少なく、新しい情報が入ると古い情報は消えてしまうので、情報の組み合わ せを要する高度な推論は不得意である、と考えられている。
(→右脳


3分間診療(さんぷんかんしんりょう:three-minutes medicine)

 精神科、心療内科へ行っても、「3分間診療で薬出すだけ」というのは、催眠業者がよく言うデマである。
 まず精神科や心療内科では、服薬の副作用を毎回の診察で管理しなければならないので、1回の診察に10分程度はかかる。初診だと、もちろんもっと(30 分くらいは)かかる。
 しかし、だからこそ、問題が発生する。ちょっとシミュレーションしてみよう。個人開業の場合で午前9時に受付開始として12時の受付終了までに30人の 外来患者があるとする(これは少々控えめな数字である。もっと人数が多いところが多いだろう)。すると、1人に平均で15分かかるとすると、単純計算で診 察が終了するのは(昼休み抜きで)8時間後の午後5時となる(!)。つまり最大待ち時間は5時間である。1人あたり10分にすると、ようやく終わるのは5 時間半後の2時半、待ち時間は最大2時間半となる(開業精神科を知る人にとっては、これはかなり現実的な結果である)。もちろん、すべての患者が、そう都 合良く10分間で済む訳ではない。中には状態が安定している患者も入れば、逆に不安定な患者もいる。後者にはどうしても10分以上かかるので、まったく不 本意ながら状態の安定している患者の診察時間が圧縮されることになる。……何時間も待って診察時間が5分、なんて事態が出現する。
 予約制をとっても、事態はあまりかわらない。というのは、一人当たりにかける時間は、他の診療科よりも平均して長いことと、外来した患者のその日の状態 は来てもらって初めてわかる(つまり一人当たりにかかる時間が変動する可能性が高い)ことをかけ合わせると、予約した時間が1時間程度ずれこむことが日常 的になってしまうからだ(これでは予約制の意味がないと、元に戻したクリニックもある)。
 しかし、もう一方の要因も大きく働いているように思える。つまり患者サイドで「もっと話をしたいのに、早めに切り上げられる」と感じるという点である。 精神科治療にいまもカウチで自由連想という誤ったイメージが流布していること、そして精神疾患を抱える患者当人が日常的に人間関係が疎になっており話を聞 いてくれる相手を必要としている場合が少なくないこと、「クスリだけで、話を聞いてくれない」という不満が生じやすい要因は多々ある。精神科の方でも、医 師とは別のカウンセラーを置く(しかし保険外)、またデイケアなどを行い人間関係を結べる場をつくるなど、こうしたニーズに対して対応しているところが増 えてきた。
 そして、最後になったが、大きな問題として診療報酬の問題がある。簡単に言えば、「三分間診療をしてもあるいはきちんと体系的な認知療法や対人関係療法 を行っても診療報酬が同じであるというのが実態」がある。認知療法や対人関係療法といった精神療法については、うつ病や摂食障害といった病気を薬物と同等 あるいはそれ以上に改善するというようなデータが大規模な臨床試験からも得られているにもかかわらず、誰が悪いのか日本独自のローカル・ルールで「まだ確 立されてない」として保険診療に反映されないメカニズムがある。こうして、より必要な精神療法よりも、3分間診療が可能な薬物療法が選択されるという制度 的歪みがある。
 一般的には、患者サイドでも、精神療法(心理療法)とカウンセリングと「医師(先生)に話を聞いてもらうこと」との区別がついていないケースがままあ る。たくさん話を聞いてもらったからといって、治るものでもない(長く深く話を聞くことで、場合によっては、症状が悪化するケースもある)。しかし薬物療 法のみでは効果の薄い(あるいは時間がかかる)精神疾患もあるのに、制度面から精神療法(心理療法)が抑制されるようでは、これは3分間診療自体よりも深 刻な問題である。


時間歪曲(じかんわいきょく:time distortion)

 催眠暗示によって、実際よりも時間を長く感じさせたり、短く感じさせたりすること。またはその主観的時間の変化を指していう。
 そもそも人間が感じる主観的時間(心理的時間)と実際の時間(客観的時間)とはズレがあるのが普通であるが、時間歪曲はそのズレを人工的につくり出し、 また拡大することである。
 時間歪曲は、催眠現象のうち最後に確認されたものである。というのは、催眠から覚めた人間が「こんなに時間が経っていたのか」「もっと時間が経っていた と思った」などと、時間感覚が変わっていたことを報告する例はよく知られていたが、一方で後催眠暗示によって「3分後に咳払いする」と暗示すると、驚くほ ど正確にちょうど3分後咳払いすることが、催眠家の間では周知であったからである。
 果たして催眠は、時間認識を正確にするのか、歪ませるのか。精緻な心理実験が催眠に適用されるに従い、催眠における時間認識についての知見が蓄積されて いった。まずアイゼンクが、時間認識が正確になるのはⅠ分以内の短い時間についてであることを確認した。つぎにエリクソンが感覚経験を変えることで催眠中 の時間感覚を引き延ばしたり縮めたりできることを、クーパーが主観的時間を引き延ばし催眠中に幻視された牛664頭を数えさせるなど作業効率の変化を研究 した(作業効率は、主観的時間に応じて大きく変化した。つまり主観的時間を引き延ばすと、作業効率は上がった)。
 

磁気術(じきじゅつ:Mesmerism)

自己催眠(じこさいみん:autohypnosis,self-hypnosis)

 人工催眠のうち、術者と被術者が同一のものを自己催眠と呼ぶ。


システム(System)

 辞書によれば「個々の要素が有機的に組み合わせられた、まとまりをもつ全体」(大辞林第二版)。語源は、ギリシャ語のシン(一緒に)とヒステミー(置 く、立てる)の合成語であり、「一緒に置かれたもの」の意となる。
 今日、この概念は、やたらめったら使われているが、心理療法の分野では、いわゆる家庭療法の分野で最初に取り入れられた。これには、システム概念とも関 わり合いの深いサイバネティクスに関する会議(メイシー会議)のメンバーであったベイトソンの関与がある。
 まともにシステムを論じるには、ベルタランフィーの著作および定義を参照することが習慣になっている。彼はシステムを「相互作用の関係のうちにある諸要 素の複合体」と定義している。そしてその代表作のタイトルでもある「一般システム理論」を、「総合科学への新しい道を開くものであり、総合の原理として還 元よりも組織性に着目し、したがって、諸システムの構造的同型性(アイソモーフィズム)を探究するもの」とした。抽象的な話はわかりにくいが、要するに、 「@@のシステムと××のシステムは、それぞれを構成する要素は違うにしても、抽象的に見れば(諸要素間の関係だけを取り上げれば)似ているじゃない か」、という話をしようというのである。したがって、「生命有機体/家族/組織/諸制度/社会/宇宙……は、システムである」というよりも、「生命有機体 /家族/組織/諸制度/社会/宇宙……は、システムとして見ることができる」という方が、システム概念に適っている。
 さて、何かをシステムとして見るとき、共通して観察される特徴には、いくつかある。たとえば、階層構造、創発的性質、通信(異なるシステムとの情報のや り取り)、制御などなど。
 階層性(hierarchy)とは、何か(実在)を全体として取り扱う際に、「その実在はより小さな実在(部分)から構成されている。小 さい実在(部分)もまた、もっと小さな実在(部分)から構成されている全体である…‥」という原則である。
 さて階層性は、創発性(emergency)を各レベルに付与する。これは、実在には、全体に対してのみ意味があり、それの部分に対して は意味を持たないような性質が存在する、という原則である。この性質は、システムの要素(部分)やその構造から生ずるのであるが、それら要素の個々の活動 や構造には還元できないものである。
 階層性(hierarchy)と創発性(emergency)とを、例をあげてもう少しわかりやすく説明して見よう。すべてのもの(実在)はもっと小さ なもの(実在)に分けられる。社会や組織は個々の人間に分けられるし、個々の人間はその器官や組織に、器官や組織は細胞に、細胞はタンパク質や水やその他 分子に、分子は原子に、原子は電子や陽子や中性子に……と、もっと小さなもの(実在)に分けることができる。これが階層性(hierarchy)である。 さて、たとえばアンモニアの「臭い」という性質は、アンモニア分子の性質である。アンモニア分子は、窒素原子や水素原子からできている。が、窒素原子や水 素原子には、アンモニアの「臭い」という性質はない。つまりアンモニア分子がもつ「臭い」という性質は、その構成要素からは出てこない。これが創発性 (emergency)である。あまりにも当然のことであるが、たとえば「日本人」ばかりから成る「日本組織」や「日本社会」が、あたかも「日本人」から 「日本社会」に至るまで共通の「日本人性」を持っていると見なす輩は、この階層性(hierarchy)と創発性(emergency)を見落としてい る。「善人」ばかりから成る組織は善とは限らないし、「日本人社会」のもつ諸特性は、その構成要素(日本人や日本人組織)には還元できないのである。
 さて制御(control)とは、環境の変化の下でシステムの自律性および性能を維持する過程であるが、これには2つの側面がある。ひと つはサーモスタットやホメオスタシスのように、環境の変化に抗して逸脱をできるかぎり小さくしようとする負(ネガティブ)のフィードバッ ク機能である。もうひとつは、環境の変化に合わせて自己を変化させる働きであり、これは正(ポジティブ)のフィードバック機能であ る。このふたつが合わさって、システム全体は、変化する環境に対して自律性/性能を維持できる。
 最後に、心理療法において最初にシステム概念を導入した家族療法では、たとえ個人に現れる異常・不都合であっても、それは家族というシステムの結果であ ると見る。この場合、「家族が機能不全している」と見なす犯人探し的思考を、MRIアプローチは取らない。それどころか、むしろ家族システムの制御機能が 正常に作動しており、たとえば逸脱をできるかぎり小さくしようとする負(ネガティブ)のフィードバック機能が、すでに問題解決に働いているからこそ、ある 個人に現れる異常・不都合が維持されるのだと考える。したがって、MRIのシステム・アプローチでは、むしろシステムにゆさぶりをかけ(しばしば不随意で あるはずの症状をわざと(つまり随意的に)行わせるといった、ヘンテコな課題を与えてたりする)、現在の安定状態から システムをずらして、もっとましな安定状態へシステムが移行していくことを狙うのである。

 

集団催眠(しゅうだんさいみん:mass hypnosis)

 他者催眠のうち、被術者が複数であるものを集団催眠と呼ぶ。


新興宗教(しんこうしゅうきょう:new religion,cult religion)

 「親を大事にしろ」とお道徳みたいなことしか説かないのが新宗教、「親を捨てろ」と道徳以下のことをいうのが新々宗教。

  近代化が進むと脱魔術化がすすんで、宗教やおまじないみたいなものは廃れていくだろうと、かつては言われていた。ところが近代化は一方向に脱魔術化を すすめたとは言えず、それどころか近代化ということでいえば、より近代化の影響が進んでいるより若い世代にこそ、呪術的な新々宗教やおまじないは人気があ る。
 ひとつの説明は、近代化に伴って生じる個人主義化がもたらす難問に、そういった宗教が(答えではないにせよ)不足を補ってくれるからだ、というものであ る。
 個人主義はふたつのものをもたらす。ひとつは個人の生き方の幅(自由)を、もうひとつは(というか最初のものの裏返しですが)他人の生き方への不可侵性 を、である。
 伝統社会から近代社会へ進むと、格段に個人の生き方は自由になる。かつての「こういきるべきだ」という規範やモデルは廃れ、最低限の規範(法律)を守っ ていれば、あとはどうでも好きに生きてかまわないことになる。けれど、このことは人にとって負担ともなり得る。「どう生きてもいいのは分かったけど、いっ たい自分はどんな風に生きたらいいのだろう?」
 近代化が進み個人主義が浸透すると、他人の行動や生き方に対して文句をいう理由と動機付けが低くなる。「どう生きてもそれは他人の自由」だからだ。相手 が法を犯したり、他人にひどく迷惑をかけているなら別ですが、基本的には他人の生き方に口出しすることは、相手の自由を侵すことだし、それ自体が「いけな いこと」になるからである。しかしこれは裏返すと、自分の生き方について周囲の人たちは「何も言ってくれない」という事態を生むことになる。人は他人に承 認される欲求を持っているし、他人からの承認で持って自分の生き方に自信を積み重ねてもいく。他人の生き方に口出ししない社会は、他人からの承認も得られ にくい社会である。
 こんな自由で哀れな近代人に対して、宗教(やそれに機能的に類似のもの)はつぎのものを----宿命因 縁実感を提供する。
 宿命は、一般的・普遍的な枠組みである。世界についての(ある程 度)一貫した説明を与え、人々がいったい何をすべきなのかを示す規範を与える。何でもできる、どう生きてもよかった近代人に対して、「このようにしか生き られない」「こう生きなければならない」という選択の不可能性を提供する。
 因縁は、個別的・個人的な枠組みです。あなたは(たとえば前世がこ うだから、うまれた星がこうだから)、そんな人間なのだ、だからこっちの方向へ進みなさい、と近代人に具体的な生き方と役割を提供する。業が深いから、こ のつぼを買いなさい、など。人は理由の無いことを、より堪え難く思う。そして因縁は、理由を提供します。「業が深い」人が買わされる壷(あるいはその他の 対人サービス)は、不幸の除去手段ではなく、不幸の理由づけなのである。
 実感は、多くは信者ネットワークでの活動(要するに宗教活動)に よってもたらされる。なんとなれば、そこには個人が担い果たすべき役割があり、そして何よりもそうした行動に対する教祖(や他の信者)の承認(そして不承 認)があるからである。その他にも、情報統制や心身統御のテクニックを用いた「自分は変わった!」という実感を与えることもある。
 こうして「宗教」は、近代人が背負う個人主義のアポリア(難問)に対して、解決とはいかなくても、難問を回避する手段を提供する。こうした近代人のニー ズに応えるのは、いわゆる宗教ばかりではない。マルチ商法や自己啓発セミナー、心理療法カルトなどは、同じ機能を果たしている。


心理士(しんりし:psychologist)

 心理学者または心理学の資格のこと。
 日本には,実にたくさんの「心理士」がある。
 現在、国家資格となっているものはない(心理士とは違うが精神保 健福祉士(PSW)は国家資格である)。
 法人または民間団体の資格としては、
臨床心理士産業カウンセラー心理相談員教育カウンセラー応用心理士音楽療法士家族心理士家族相談士学校カウンセラー学校心理士キャリアカウンセラー臨床心理カウンセラー交流分析士自律訓練法指導資格、心理リハビリテーション資格、スポーツメンタルトレーニング指導士、セルフ・カウンセリン グ、心療回想士、EMカウンセラー認定カウンセラー認定オンラインカウンセラー論理療法士精神対話士認定健康心理士認定行動療法士認定催眠技能士自律訓練法指導資格認定バイオフィードバック技能士メンタルケア・スペシャリストエニアグラムアドバイザー臨床発達心理士交通心 理士健康心 理士、そして認定心理士
などがある(一緒に並べるのはどうか、というものも入っている)。まだまだあると思う。


心理療法カルト(しんりりょうほうかると:Psychotherapy Cults)

 セラピストは、クライエントとの間に診療以外の関係を結んではならない。これはもっとも重要な倫理的な禁止事項のひとつである。
 この一線を踏み越えたところに、心理療法カルトあるいはカルト・セラピーは出現する。専門家が、クライエントと報酬とサービスとの交換、守秘義務などを 守る倫理的な関係から逸脱したときに生じ、治療技術を悪用してセラピストにとって利益となる関係を持つ。
カルト・セラピーは、長期間にわたる治療の歪みや腐敗から生じたり、集団心理療法やベーシック(非構成的)・エンカウンター・グループ、いわゆる自己啓発セミナー(Large Group Awareness Training (LGAT))、その他専門家ではない者(専門家を名乗っても、適切かつ十分なトレーニングを積んでいない者)が主催する様々な似非セラピー等から生じる。
そこではクライエント同士が互いに抑圧的で心理学的に依存し合う集団を形成する。Temerlin(1982)は5つのメンタルヘルスの専門家が主宰する問題ある集団を調査しているが、そこでは心理療法の指導者が倫理的禁止条項を無視して、患者達と複数の関係を結んでいた。すなわち、患者達は彼等の友人、愛人、親戚、従業員、同僚、生徒などであった。同時に、彼等は共通のセラピストを敬い支援するために集まった「兄弟」になっていた。
 もともとはセラピスト(あるいは素人セラピスト)であった指導者達は、やがてクライエント達から崇拝されるようになる。クライエント達はセラピストに服 従し、依存する関係に導かれる。すなわち、クライエント達はセラピスト達の理論を無批判に受容するよう強要され、外部世界に対して妄想を抱き、カルトを作ったセラピスト達のエリート的世界に自分たちをおき、無私の献身をセラピストに捧げることになる。

(文献)……その他の参考文献は、参考URLからどうぞ。
 Temerlin, M. K., & Temerlin, J. W. (1982). "Psychotherapy cults: An iatrogenic perversion". Psychotherapy: Theory, Research, and Practice, 19(2), 131~141.
(参考URL)http://forum.rickross.com/viewtopic.php?t=1039


心霊療法(しんれいりょうほう:psychic healing)

 最も伝統的で息の長い、そして現在でも地球上で最大の支持を得ているかもしれない療法。薬物その他を武器とする西洋医学が勝利をおさめた地域は、最近ま でごく少なかった。WHOなどの世界的機関ができた後も、発展途上国はもとより先進国ですら、経済的政治的信仰的といった様々な理由から「正規の治療」を 受けない/受けられない少なくない人々によって支持され続けている。
 さてドイツの医学者ライルJ.C.Reilがその著書『精神的治療法の促進に対する寄与』(1808) ではじめてPsychiatrie(その後「精神医学」にあたる)という語を使った当時、この言葉の意味は「精神を癒やす」のではなく「精神で癒やす」と いう意味だった。つまり,精神の病気だけでなくすべての身体疾患にも適用しなければならない精神治療術ともいうべきものが Psychiatrie だったのである。ほとんど心霊療法に近いと思う。



スプリッティング(splitting)

 M.エリクソンがよく用いた介入パターン(W.H.オハンロンによる)。要するに「区別」すること。区別をつくり出すこと。
 人間はつねに、物事を区別し(split)、また結び付けている(link)。エリクソンは、人間にとって自然なこの傾向を利用している。患者がもって いる既存の連合を解体し、新しい区分や連合をつくり出すという介入をエリクソンはよく用いた。
 エリクソンは催眠を用いることもあったし、用いないこともあったが、クライアントがもつ連合を二つ(以上)に分解したり、それまで体験や行動の中でつな がっていた要素を分解したり、切り離された文脈を提示したりした。それらの区分/分離はまったく人工的なものだったが、区分するという人間の傾向に寄り添 う形でなされた。そして治療に役立った。
 スプリッティングの例はエリクソンの症例の中に無数にある。
 たとえば、指しゃぶりをやめられない少年には「6歳の小さな坊やには、指しゃぶりは当然だ。でも7歳の大きな少年ともなると、指しゃぶりをやるには大き すぎるね」と6歳(の坊や)と7歳(の少年)との間に大きな区切りを入れて、指しゃぶりをやめさせた。催眠を恐れて固くなり、泣き出してしまい、催眠に入 れない婦人に、「固くなるだけで十分だよ、すぐに泣く必要はないよ」と、「固くなる」と「泣く」をスプリットして、「固くなる」ことについても「固くなる のはまぶただけで、いまはいいですよ」と、まぶた/まぶた以外の全身という具合にスプリットした。また、催眠中のことをすべて覚えているから私には催眠は 効かなかったといった男性には、「もちろん、この部屋で起こったことは、すべて思い出すことができます。この部屋にいるかぎり、またこの部屋にもどってく れば」と、部屋の中と外をスプリットして、部屋から一歩出た後、催眠中の出来事を健忘させた、などなど。
 


精神医学(せいしんいがく:psychiatry)

 精神医学(Psychiatrie:ドイツ語)という言葉は、1808 年にドイツの医学者ライルJ.C.Reilによってつくられた。ほとんど磁気術と相前後して登場したことは興味深い。
 その発端は啓蒙思想の残響を受けながら、18 世紀後半から 19 世紀前半に取り組まれた精神病者の解放運動によって徐々に構築されていったものである。それまで精神病者は「狂人」として、収容施設や療養院に拘束され非 人間的な処遇を受けていた。これに対して、ヨーロッパ各地に精神病者へのこうした非人間的処遇に反対して立ち上がる人が登場した。
 イギリスのヨーク市に理想的な施設「ヨーク・リトリートYork Retreat」をつくったクエーカー教徒の商人チューク、 「狂者を直接に治すことができるのは精神治療しかない」として収容所の改革を説いた前述のライル、 バイロイト近郊の施設を模範的な精神病院に建てかえ、 病者と生活を共にした同じくドイツの医師ランガーマンJ.G.Langermannらがその例である。 その中でも特にフランスのP.ピネルが、フランス革命の進行しつつあった 1793 年に、 パリ近郊のビセートル病院で患者を鉄鎖から解放した事績は有名である。ピネルは精神病院の改革者として行動すると同時に、 1801 年には『精神疾患に関する医学‐哲学的論考』を著して「近代精神医学の父」とみなされている。
 精神医学が今日的な意味の学問体系を指すようになるのは、 1850 年ごろからヨーロッパ各地の大学医学部が必要な講座としてこれを設置しはじめてからである。 当時の精神医学は,「精神病は脳病である」(W.グリージンガー)という言葉が象徴するように, 疾患の本態を脳内に求める身体論的方向をめざすものだった(精神疾患は、神経学者たちの領分となった)。またその一方で,遺伝・素因・体質などの要因を重 視する内因論の方向が、19 世紀の末にE.クレペリンが精神病の記述と分類をなしとげて一応の完成にいたった。当時の学問水準・社会情勢からして当然の推移であるが、こうした脳病説 や内因論が、未だに精神疾患への偏見の基底に存在することも忘れてはならないだろう。
  20 世紀に入るとともに,力動的な症状論を展開するE.ブロイラー、精神分析のS.フロイト、 現象学の導入により方法論を整備したK.ヤスパースら、 新たな勢力が台頭した。1920年代にはマイアー・グロース(『錯乱の自己描写集—夢幻様体験型—』[1924年])、Eクレッチマー(『体格と性格』 [1921年]『医学的心理学』[1922年])などが活躍した。

 1950年代に入って、向精神薬の開発後、精神医学はようやく実用的レベルの段階に達した(1949年にリチウムに抗躁作用があることが見つかり, 1952年にクロルプロマジンとレセルピンが作られ,これらに劇的な抗精神病作用があることが分かった。この年が精神薬理学誕生の年と言える)。精神薬理 学の発達はその後、治療だけでなく,精神疾患のメカニズムの一部、特に中枢神経内での薬物作用の機序についての知識(神経生化学)を急速に発展させること になる。一方、治療面では、向精神薬の登場で、精神分裂病の幻覚妄想を高い有効率で治せるようになり、それまで精神病院で一生過ごすしかなかった患者が退 院できるようになったことが大きい。これが1960年代からの社会防衛的入院から外来治療への転換を生んだ。一方で、日本のこの分野での発展はずば抜けて 遅れており、1欧米で脱入院化が行われ,精神病院が閉鎖されたのと対照的に日本ではまだ入院が多く,また病棟の出入り口に鍵をかけている閉鎖病棟も多い。 平均入院日数も325.5日(1990年現在)と世界一であり、しかも世界で2番めのスペインの107.4日を大きく引き離している有り様である(ちなみ に先進国では1か月未満が常識で、例えばアメリカ12.7日,デンマーク17.2日が平均入院日数である)。
 
 1980年に米国精神医学会によって、特定の理論に基づいた「原因」によってではなく、治療者・研究者が奉じる病理理論に関わらず、共通して客観的に適 用できる操作的診断基準であるDSM−IIIが発表された。これによって信頼性のある診断をつけることが可能となったともに、客観的な臨床データの蓄積が 可能となった(人によって病名付けが異なっていては、どの疾患にどの治療法が効くといった基本的なデータまでバラバラになってしまうからである)。この DSM−IIIの登場によって非精神病性の精神疾患を集めた雑多な概念であった神経症がより具体的な症候群に解体され、気分変調性障害やパニック障害など の新しい病名が採用された。これらの非精神病性の精神疾患は病態研究と治療が過去20年に最も進歩した領域である(患者の数も増えたが)。
 現代も、精神医学は2,3年単位で変化・進歩しており、常に知識の更新をすることが必要となっている。一方、世間で流通する「知識=偏見」は、ますます 追い付けなくなっており、さまざまな民間伝承(フォークロア)が蔓延する一因ともなっている。


精神分析(せいしんぶんせき:psychoanalysis)

 精神分析とは,S.フロイトの創始した、神経症の病因と治療法に関する理論、ならびにそれに基づく精神構造一般についての理論体系をいう。創始者である フロイト自身の定義に従うと, (1) これまでの他の方法ではほとんど接近不可能な心的過程を探究するための一つの方法, (2) この方法に基づいた神経症の治療方法, (3) このような方法によって得られ,しだいに積み重ねられて一つの新しい学問的方向にまで成長してゆく一連の心理学的知見,ということになる。今では、その治 療は神経症には限らないし、フロイト以後、さまざまな分派、学派が登場したが、上の定義はおおまかには現在でも通用する。
 さて、フロイトがいう「これまでの他の方法ではほとんど接近不可能な心的過程を探究するための一つの方法」とは、要するに自由連想法のことである。患者 を寝椅子に横臥させて, そのさい脳裡に浮かぶいっさいを自由に語らせる一方, 治療者はこれに対していっさいの先入見を排して, 患者の物語る連想にまんべんなく聴き入ることを基本とする治療法である。 フロイトは、幼児期に源泉をもつ、抑圧されて無意識となった葛藤を神経症の病因と仮定したから, この自由連想法が患者の無意識的葛藤の存在を探り出すのに最良の方法と考えたのである。 また、ブロイアーとのヒステリー研究(とそのカタルシス療法)からスタート したフロイトは、無意識的葛藤を明るみに出すことは、単に診断・病因発見に役立つのみならず、それ自体が治療になると考えた。つまり、患者自身が、自由連 想法(それにまつわる 抵抗や感 情転移)に対して治療者が行う分析を通じて、自らの無意識的葛藤と対面し、自己洞察を深めることで、患者の神経症は治癒するとするのである。その ため、精神分析は、洞察療法とも呼ばれた。
 ここで述べておかなければならないことは、精神分析がとても時間がかかる(そのために費用もかかる)治療法であったことである。スタンダードな精神分析 療法は、週に 4 〜 6 回, 50 〜 60 分の治療(セッション)を行い、これが時には数年に渡って続く。つまり何百回もの治療が行われることになり、よほどの有閑階級でもないと、時間的にも費用 的にも受けられない療法だった。このため現代では、元々のスタンダードなタイプの精神分析は行われず、週 1 〜 2 回,50 〜 60 分の寝椅子を使わぬ対面による治療が普及している(日本でみられるのは、こちらのタイプである)。これでも治療期間は長く、第一次大戦後、大量に生まれた 戦争神経症患者にはそこまで時間をかけられなかったことから、催眠を精神分析に導入して治療時間を短縮しようという試みが生まれた。これを催眠分析とい う。ここに、フロイトにおいて別れた催眠が、再び出会うことになったのである。


 

潜在意識(せんざいいしき: subconscious mind)

 素人向けのわかりやすい方便。「方便」というのは、ある目的を達するため便宜的に用いられる手段、つまり「うそ」である。
 「潜在意識」なんか存在しない、というのではない。「それって、あまりにも「意識」を重く見た言い方ではないですか?」というのである。
 意識が果たす役割は、おどろくほど狭い。最近の脳科学の知見は、「意識なんてのは、脳の中で起こっていることの、残響にすぎない」というもの。「意識が 何かに働きかける」というより、もう起こってしまったことが、わずかに遅れて意識として現れるにすぎない。
 標語的に言うと、「意識は、原因ではなく、結果である」。「意識」以外のすべてを詰め込むための「潜在意識」という言葉は、脳プロセスの派生的副作用に 過ぎない意識を持ち上げすぎる言い方である。
 言語の取り扱い、たとえば発話や言語認識ですら、かなりの部分、意識の外で行われる。言語がなければ、内話としての意識はないが、意識なしでも言語運用 はなされる(たとえば独り言など)。
 
 しかし臨床的には、「潜在意識」は方便、それもかなり有用な方便である。クライアントが受け入れがたい暗示を受け入れてもらったりや、持っているのに気 付いていないリソースを活用する場合に、「意識は受け取らなくても(知らなくても)、潜在意識は受け取ります(知っています)」ということができる。問題 を分割したり、ある部分にだけに焦点を合わせたりするス プリッティングは重要な治療的介入だが、「潜在意識」は、クライアント自身を分割したりある部分にだけ焦点を合わせるために、多用される方便であ るといえる。
(→意識


洗脳(せんのう:brainwash,mind control)

 他者を、本人の意思を無視して、ある方向へ導く一連の行為につけられた俗称。
 「洗脳brainwash」の語は,朝鮮戦争で捕虜となったアメリカ兵に対して行われた中国共産党による「思想改造」に由来すると言われる。具体的に は,エドワード・ハンター(英国のジャーナリスト)が書いた「RED CHINA赤い中国」(1951)の中で,このプロセスを特徴付けるために,実際に中国で使われていた「洗脳」をそのまま英訳した言葉brainwash を用いたのが始まりとされる。
 もっともハンターの「洗脳」についての描写あるいはその背景にある信念は,いささか度を過ぎたもののように今では思える。ハンターは洗脳を「不可逆的な もの」,つまり一度洗脳された者は二度と元には戻らないものとして描いた。そしてひとたび洗脳の標的にされたものは,どのようにあがいても洗脳を避けるこ とができないのだと主張した。これは今もフィクションの中で繰り返し語られる,ポピュラーな「洗脳の原イメージ」である。
 ハンターの誇張は,ひとつには、ロラン・バルトが指摘した「フランス人は空飛ぶ円盤はソ連から来ているのではと疑っていた」にも似た共産主義恐怖(ア カ・フォビア),あるいはカート・ヴォネガットが繰り返し使うネタ「銅鑼を鳴らすだけでガンを治してしまう中国人」にも似た中国恐怖(シノワフォビア)が 働いているのかもしれない。しかし、確かに「洗脳brainwash」のイメージは、人の心を引き付けるものを持っている。もっと吟味された科学的用語で は、こうまで普及しなかっただろう。

 最近でも一部の論者(バカ)は,「洗脳」をより暴力的な手段を用いるもの,一方では「マインドコントロール」をより洗練された方法を用いるもの(だから こそ,非難をすり抜ける可能性が高く,より厄介で危険だ,とそれを評価する),と二つを明確に使い分けようと提唱している。また別の論者は(バカ)は,両 者の違いは程度・強度の違いであり,一定以上の威力をもつ行為を「洗脳」と呼ぶのでなく,「マインドコントロール」と混同して扱うことは,過小評価(みく びり)にも等しいと警告している(彼によれば「洗脳」はより危険であり,しかも社会にその危険性を感じさせる言葉ということになるらしい)。
 もっともこれらの心配に付き合うなら,まず中国で行われた「洗脳」は,昨今のカルト宗教や改造セミナーなどより,ずっと「非暴力化」された,より洗練さ れた方法であることがわかっている。彼らは肉体的苦痛を用いなかった(朝鮮戦争のさらに前線では,より直接的な拷問が持ちいられたが)。「洗脳」者たち は,捕虜たちに「自分の意志に反すること」をしない自由すら与えた。社会心理学はのちになって,認知的不協和理論などで,暴力や自由意志を奪うことより も,何故このやり方が有効であるかを説明するようになった。

 さて、ハンターの後,中国の洗脳は,実験科学者たちによって,もっと実証的に研究されるようになった。
 アメリカでは,朝鮮戦争後に,少なくとも4つの「洗脳」(朝鮮戦争時に中国共産軍の捕虜となったアメリカ兵が受けたそれ)についての研究が互いに独立し た形で行われた。うち2つは公表されなかった。CIAの研究の方は,その存在すら秘密にされていた。しかしあとの2つは公表された。ロバート・リフトンの Thought Reform and the Psychology of Totalism (1961)と,エドガー・シャインの Coercive Persuasion: A Social-Psychological Analsis of the "Brainwashing" of American Civilian Prisoners of the Chinese Communists (1961)である。
 リフトンは,中国共産党が行った一連のプロセスを指す言葉として,ほとんど全能の域に達している「洗脳」のイメージがもたらす混乱を避けるために,「思 想改造Thought Reform 」という概念を用いた。
 リフトンは人々が持つ信念を変えることは可能だと考えた。しかし彼が提起する「思想改造」はもう少し控えめで限定されたものだった。タイトルにもあるよ うに,全体主義の環境においてのみ,「思想改造」は可能である。なんとなれば,「思想改造」は,その人が置かれる環境のコントロール(統制)を必要とする からだ。
 シャインもまた,「洗脳」概念を放棄した。シャインは,「洗脳」が意味している「系統的に心を破壊する奥義」というイメージと,捕虜となったアメリカ兵 から聞き取り調査した経験とが,あまりにかけ離れていることを指摘した。シャインは,アメリカ兵たちの受けた経験を,「逃れることができない状況で,延々 と強い説得を受けた」という風に定式化し直した。リフトンのいう「環境のコントロール」も、この要素を含んでいる。
 説得は我々にも親しい概念である。我々も日常的に誰かを説得し,また誰かから説得されている。捕虜となったアメリカ兵に違ったのは,説得自体を避けるこ とができないという異常な状況だったのである。

 いずれにせよ、「洗脳」はもともと、催眠その他の変性意識の利用を必要としていない(多くの洗脳の解説は、人々の甘い「洗脳」イメージに応えようとし過 ぎて、本当に恐ろしいことを伝えていない)。中国共産党が、アメリカ兵を「共産主義」に改宗させ、さらに仲間の脱獄をもらさず密告するまでの「協力者」に 仕立て上げたのは、我々の想像を越えて「穏やかな方法」、たとえば、ただペンをとらせエッセイを書かせる、といったものだった。「中国びいき」のエッセイ を書いたものには賞品(しかし煙草程度のもの)が出されたが、ただアメリカへの望郷を記した者にも賞品が出された。実は、この「穏やかさ」こそが、ポイン トだった。大きな利益が得られたり、厳しい罰がさけられたりするためならば、自分の心に対して偽りあることを書いても、アメリカ兵は動じなかったであろ う。そうした利益や罰がないからこそ、エッセイを書くことが強力なコミットメントとして働き、認知的不協和の解消を通じてアメリカ兵の思考を大きく変えて いったのである。
 



ア行
カ行サ行タ行ナ行ハ行マ行ヤ行ラ行ワ行アルファベット




タ行

退行催眠(たいこうさいみん:regression hypnosis)

 かつては、催眠暗示による「症状除去」がまず試みられ、それが失敗に終わると(たとえば、症状がぶり返したり、別の症状に転移したり、また催眠トランス 中に症状を消す暗示を与えると不安になったり苦痛を覚えたりすると)、力動的アプローチ(いわゆる催 眠分析)が行われることが多かった。今は、同じことを、町の催眠家は「退行催眠をつかって原因(あるいは「トラウマ」)を探ります」などという文 句で表現している。いわば素人精神分析が平気で行われるのが、この「退行催眠」である。とっても危ない。アメリカなら裁判沙汰だ。ハーマンの『心的外傷と 回復』なんていうトンデモ本が「心理療法にたずさわるもののバイブル」だなんて持ち上げられている後進国ならでは、である。日本は未だに精神分析に対して 「暖かい」国だが、その原因の多くがあんまり精神分析なるものが知られてないからであろう。
 しかし、その副作用が、素人のみならず心理療法家さえ「原因さがし」「犯人探し」を回復の必須条件としているところである。原因はさがせば見つかる(じ つは多くの場合は、ねつ造される)。しかし、実際のところ「原因さがし」が問題解決に役立つのは、その原因が少数であり(そんなことは珍しい)、かつ取り 除くことが可能である(もっと珍しい)場合のみである。そういう外科手術的問題解決は、不毛であるばかりか、クライエントやその周辺の人々を「悪役」に仕 立て上げることばかりに貢献するのは、こまったものである。
 催眠中に時間をさかのぼらせる、あるいは記憶を蘇らせることは、いまでもよく行われている。そうして蘇ったトラウマの記憶が事実と異なったものであり得 ること(そして事実と異なってもなおカタルシス的な治療効果が得られるには十分であること)は、フロイトだって指摘していた(そこんところを、ハーマン は、フロイトは「ひよった」と批判するのであるが)。


「小さな人間」(ちいさなにんげん:Hommunculus)

 元々は、伝説の人造人間のこと。
 転じて、人間の行動が、その人の奥にいる(中にいる)別の人間のようなものに依存するという、非生産的で矛盾した考えのことをいう悪口となった。いうな れば、人間(あるいは脳)の中にコクピットがあって、そこで誰かが操縦桿を握っているイメージ。
 この考えが混乱を来し、非生産的なものとなる理由は、その操縦桿を握っている人間にも、その中にコクピットがあって誰かが操縦桿を握っていなければなら なくなる(……と、以下無限につづく)からである。
 意識、魂(たましい)その他を、人間活動や精神の中心として考える(常識的な?)考え方はどれも、この「小さな人間」説に陥ってしまう。逆に言えば、思 考や意志や感情や行動は、複雑に影響し合う複数の、それ自体は意識をもたない何か(モジュールの?)が織り成すプロセスから現れてくる、と考えた方がまだ ましである。
 マーヴィン・ミンスキー『心の社会』の「リモコン自己」の章を参照。

超常現象(ちょうじょうげんしょう:paranormal phenomenon)

 Paranormal (event/phenomenon)とは、cannot be explained by scientific laws and is thought to involve strange, unknown forces.(科学法則で説明できない、知られてない力によるものと考えられる)出来事/現象のことである。
   「科学では説明できないこと」と多くの人が言う。その中には、科学知識を豊富に持っていたり、科学的方法についておおよそ理解している人もいるが、その 大 半はそれほど科学について詳しくないと自他共に認める人たちだ。そんな人たちにあっても、「科学の限界」について何らかの(どの程度正確かはともかく)推 測を立てることができるほどに、科学は現代社会に普及している。
 まず毎日の生活が、そのすみずみまで科学(を応用した成果)の影響を受けている。一挙手一投足が科学(を応用した成果)に関わらずには行えないほどだ。 いわば我々の誰もが科学に「包囲」されている。我々の日常は、科学(を応用した成果)でほとんど埋め尽くされている。
 日常はおそらく容易なことでは変わらない。多くの人たちが、日常が、今日も明日もほとんど同じだと踏んで行動する結果、同じような毎日が繰り返 し維持される。そして我々の「終わらない日常」を、背景装置として支えているのは、予測と反復可能性をもたらした科学とそれを応用した成果たちであるかの ように思える(もちろんそれは謂れの無い投影(いいがかり)である。科学はこれまでに世界に大きな変化を与えててきたし、今後もそうする可能性は大き い)。
 しかし多くの人は、科学の「作り手」側にではなく、「受け手」側に立つ。多くの人にとっては、科学は応用可能な知識でなく、すでにパッケージ ングされたコモディティでしかない。多くの人が用いるのは、出来合いの「科学の成果」でしかない。その域を越えて、科学を一個人が自分だけに都合の良い変 化をもたらすために用いるには、科学はあまりにも取扱いが難しい(そのことを繰り返し我々に教えた物語に『ドラえもん』がある)。実際、高度な科学技術を 応用するにはますます巨額の開発投資、設備投資が必要だ。一個人としても、科学のある分野をマスターすることすら、多くの時間の投資が必要である(そして 得られるのは科学全体からすれば、極めて限られた領域にすぎない)。科学は、経済的にも、時間的にも、知力的にも、「持てる者」のものであって、「持たざ る者」のものではない。
 それ故「持たざる者」にとって、「科学では説明できないこと」は、日常を包囲する科学の「ほころび」であり、変わらない日常からの(「一発逆転」を狙え る通常ならざる)脱出の可能 性であるかのように見えるのである。だからこそ、少なくない人々が、科学に投資する代わりに(たとえば医者にかかる代わりに)、「科学では説明できないこ と」に対して(たとえば見るからに怪しい催眠療法に)自分の努力と財産を費やすこと になる。
 催 眠についても多くの科学的研究が蓄積されているにも関わらず、それらはほとんど知られていない。また催眠術師もそうした情報を提供しないし、多くのクライ エント に求められてもいない。こうした状況の下で、催眠もまた「科学では説明できないこと」への投資先にしばしば選ばれる。
 

ちりばめ暗示(ちりばめあんじ:interspersal of suggestion)

 ミルトン・エリクソンが開発した間 接暗示の技法。なんてことのない話の中に、キーワードやフレーズを埋め込んで(ちりばめて)、相手に気付かれず/抵抗されずに、暗示を与えること ができる。

 たとえば元花屋のジョーに対して(ジョーは癌におかされ激しい痛みに苦しんでいたが、「催眠による麻酔」なんてまっぴらゴメンと拒否していた)、エリク ソンが安らぎと平和をもたらすために、次のような芸術的な催眠誘導法を行った。太字・下線で書いてある部分を、エリクソンは 口調を変えて、暗示のキーワードを他から区別して伝えようとしている。

 「ジョー、いまわたしは話し…そして…心地よくそうすることができるので…私がトマトの木について話すとき… あなたは心地よくわたしに耳をかたむけるでしょう…人が大地にトマトの種を蒔くと…それが実を むすぶことで満足感をもたらしてくれるでしょう…トマトは日々成長すると希望をもつこ とができます…種子が水を吸収すると平和と安らぎ…そして…花とトマトに成長す る楽しみをもたらす、 雨が降るので…それはさほど難しいことではありません…その小さな種子はね、ジョー…ゆっくりとふく らんで繊毛をつけ…やがて小さな根っこを出します…さて…繊毛が何であるかあなたには分からないかもしれな いけれど…繊毛はトマトの種子の成長を助け…芽を出している植物のように地面の上に押しあげるよ うに働くものです…トマトの木はとてもゆっくり成長します…あなたはその成長を見ることができ ないし…その成長を聞くこともできないけれど… しかし…それは成長します…最初の小さな葉の ようなものが茎に…みごとな小さな毛が幹に…それらの毛は、根っこの繊毛のように葉にもあり…それらはトマトの木をとてもいい気持ちに し、とても快適にするにちがいありません…植物の成長を見守ることはとても快 適で…その成長をみず、それを感じないが…でも、また別の葉を、さらに別の葉を…そして枝を伸びつづけさせているそ の小さなトマトの木にとって…すべてがよくなっていることがわかり… そして、それはあらゆる方向に快適に成長 しています…」
 

治療効果(ちりょうこうか:effects of psychotherapy)

 1952年、イギリスの心理学者 ハンス・J・アイゼンクは、心理療法などほとんど受けないまま入院を続けていた神経症患者が、どの治療施設であっても70%前後の治癒率で退院しているの に対して、それまで報告された心理療法の治癒率に関する論文を検討しその結果、精神分析的な治療を受けた場合の44%、折衷的な治療を受けた場合の64% と、単に保護的状況に置かれていた(要するに心理療法などといったものを何もしなかった)方が、はるかに高い治癒率を上げていると主張した。心理療法、百 害あって一利なし。
 この衝撃的な論文には、当然たくさんの批判が集まったが(たとえばバーキンはアイゼンクが上げた論文のデータを再検討して全く逆の結果、心理療法の改善 率の中央値は60%、一方自然治癒の改善率の中央値は30%を上回るとの結果を得た)、同時に、治療効果についての科学的分析研究のきっかけとなった。
 さて、これまでの研究成果について文献からデータを引き出す方法は、統計的に有意な結果と、統計的に有意ではない結果とが同列に扱われてきた。そのた め、それぞれの研究で用いられている統計法が不適切であれば、全体として統計的妥当性に関する問題が大きくなってしまう、という難点があった。そこで、ス ミスとグラスは、メタ分析という手法を採用するに至った。 これは、治療群の平均値と未治療対照群の平均値の差を、未治療対照群の標準偏差で除し、正規化した数値を「効果のサイズ」として算出する方法である。
 しかしメタ分析にも、多様なセラピーをひとまとめにしている、クライアントの差を無視している、といった批判が起こった。シャピオらは、これら批判を考 慮してメタ分析をさらに洗練化していった。たとえば症状ごとや、治療技法ごとの効果サイズを算出し、どの症状にはどの治療技法がより有効かを比較できるよ うにしたのである。
 治療効果の研究は、いくつかの教訓を示してくれている。ひとつは、「誰かが治った」からといってその治療法が有効とは言えないこと(放っといても治るこ とがあるし、もっと早く治ることさえある)。また、治療効果研究は当然ながら「効果があった」という研究が発表されやすく、そうした意味でバイアスがか かっていること。また、かつてはどの心理療法も差がないと言われたこともあったが、こまかく見れば、例えば同じ行動療法の中でもカバート療法やモデリング 法の効果サイズは高いということがわかってきたこと、などである。
 いずれにしろ治療効果についての知見(もっと広くエビデンス・ベースド・メディシン)は、医師個人の医療行動をかえることができる、かもしれない。今考 えている治療法がどれだけ有効である(証拠があるか)かを、誰もが(治療者も被治療者も)手短に調べられるようになれば、「○○教授推奨の治療法」「△△ 大学方式の治療法」「××学会作成のガイドライン」といったものが いまだにまかり通っている日本の医療界に、一石を投じれるのは間違いない。心理療法でいえば、「私は○○派だから」と、薪を割るのもヒゲを剃るのもジャッ クナイフしか俺は使わない、なんて輩がゴロゴロしているのである。こういう輩が「臨床心理ウンタラ事典」とか言う本で、世界的にスタンダードな療法を「ま だまだ発展途上であるといえる」などと、デマを書いているのだ。
 治療効果の研究は今後とも進められる必要があるし、治療者はもちろん被治療者もそうした情報に敏感である必要がある。 

転移(てんい:transference)

 精神分析の鍵概念で、過去の体験が現在の人間関係のなかに反復脅迫的に持ち越される(ようにみえる現象の)ことをいう。 たとえば、女性患者が、過去に父親や男兄弟に抱いていた感情を、男性治療者に向けるなど。なお、持ち越されるのは 感情だけではないが、学習心理学等における転移と区別するために、感情転移とも呼ばれる。精神分析の、心理療法における最大の貢献がこの転移の発見である (それは催眠によるラポールの発見にも匹敵する)。
 転移は、対象へ近づこうとする肯定的・親近的・友好的な感情をともなう陽性転移(positive transference)と、 対象を回避しようとする否定的・拒否的・敵対的な感情を伴う陰性転移(negative transference)に分けられているが、実際には両方を含む両価的転移が少なくない。治療者が患者におこす転移を逆転移という。

 一般に、転移が起こってくると、病気の症状は改善する。そういう状況下で、「問題がすべて解決した」と思いこむこともあり得るが(初心者は患者に打ち込 んで尽くすので、転移を、そして転移性の治癒を誘発しやすく、また巻き込まれやすい)、この状態を「転移性治癒」と言う。つまり本当には治っていない。転 移として、昔の感情を反復しているに過ぎないため、この状態はじつに変化しやすく、改善はすぐに失われたり、あるいはその状態を支えていた愛情関係が突然 憎しみに変わったりする。
 しかし、転移は,重要な治療の一ステップである。現在の問題の「原因」になっている(と精神分析では考える)過去の体験・人間関係が、治療場面で再現さ れるのである。この再現を、患者が捉え直すことによって、精神分析的な治療のベースとなる「洞察」が得られる(精神分析が洞察療法とも言われる由縁であ る)。

 転移は治療関係のなかでも、しばしば場合「性愛関係」として現実化する(だからこそ役に立つし、危険でもある)。今では俗に患者が治療者にほれると 「私,先生に転移しちゃいました」と言ったりするが、精神分析はその歴史の最初から治療者—患者の関係が「色恋沙汰」に巻き込まれぐちゃぐちゃになること が少なくなかった。ブロイアーとアンナ・Oしかり(アンナはブロイアーに感情転移し、想像妊娠など様々な「症状」を呈したが,元はといえばブロイアーの逆 転移(アンナに引かれちゃった)のが原因だったらしい)、患者と寝まくったユングしかり、そしてユダヤ人の少女ドナの治療失敗から「転移」概念を抽出して いったフロイトしかり(ドナは、父親の友人であったK夫妻のうち、夫のK氏から誘惑されたと言い出す。実は逆にドナの父親がK夫人と不倫してたのである が、K夫妻とつき合わないでとドナに迫られた父親は、ドナをフロイトの治療を受けさせる! ドナは夢分析などを通じて、ドナの父親とK夫人との関係を告発 するのだが、フロイトは「あんたパパが好きなだけとちゃうの」とトンデモ解釈をやってのけ、「こいつ、不潔なパパとおんなじだわ」とドナに見捨てられて (陰性転移されて)一方的に治療を終了されてしまう)。
 実のところ,治療関係から恋愛感情を調達することは、実に容易である(と転移の概念は教える)。ユングの得意技は、圧倒的な上下関係である治療者—患者 関係に、治療者サイドからのちょっとした「自己開示」(「ぼくって○○なんだよね」)を加えることだった(反吐が出る? まったくだ。しかしこれが治療者 —患者関係でやられると有効だったりするのである)。これは実は、「親密な雰囲気を作るため」に今でもしばしば行われる行為であるが、客観的に眺めれば、 転移誘発のための「口説きのテクニック」に他ならない。しかも権力関係を背景にした関係の場合にはいつでも使えるのである(アーティストとファンの関係、 教師と教え子の関係などなど)。この転移性恋愛から、本当の恋愛が生じないとは言い切れない。しかし、その「恋の花」が、転移関係の上に咲いた徒花である ことを忘れるとひどい目に会うだろう(ユングだって、現在の臨床医なら、医師の資格も社会的名声も何もかもはく奪されているだろう)。これは忠告だが、当 事者となるにせよ、はからずも関係者になってしまうにせよ、そうしたところからは一目散に逃げ出すのが賢明である。

 転移は治療関係を構築するものであり、またしばしば破壊するものである。また治療過程を構成する重要な要素でもある。転移の概念は、肯定的な治療関係の 不可欠性とともに、それがはらみ持つ危険と限界を、治療者に教える。

動物催眠(どうぶつさいみん:animal hypnotism)

 「動物催眠」の歴史は、いわゆる催眠(hypnotism)よりも古い。1636年、スイスのアルトドルフ大学教授であったダニエル・シュヴェンター (D.Schwenter)がこの現象について触れているが、最初の発見としてよく知られるのは1646年に行われたキルヒャー(Kircher)の実験 である。彼はオスの雛の頭を押さえ窮屈な姿勢にし、くちばしから外側に向かってチョークで線を引くと、一種の不動状態が生じることを発見した。キルヒャー は、これを人間のトランス現象と同種のものと考えたが、催眠が広まるまではほとんど注目されることはなかった。
 動物磁気を「原理」とするメスメリズムが普及するにつれて、動物におけるこの不動状態も、同じ原理で出現するものと考えられはじめ、19世紀も半ばにな るとメスメルのパス法を使って多くの動物に術をかける試みが行われるようになった。ウィルソンは、パス法を用いて、魚、猫、犬、鶏、豚、ガチョウ、馬、ラ イオン(!)などに磁気睡眠が見られたと報告し、ニューマンは蛇をつかって鳥やハツカネズミに磁気をかけることができ、またパス法を使えば1時間半で馬を 飼いならすことができたと述べた。
 20世紀に入っても、この種の研究は続き、統一された用語もないまま、この現象は、メスメリズム、失神、カタレプシー、催眠性無運動、緊張過度、禁止状 態などいろいろな言葉で呼ばれた。これらの研究の蓄積によれば、上記の動物の他にも、トカゲ、カニ、カエル、タコ、サソリ、アブラムシ、人間(!)など、 多くの動物で、動物催眠は可能だったという。
 フォレイは、動物催眠の研究をまとめ、次の4つの原則的方法をあげている。
  1. 繰り返し刺激……動物の身体のいろんな部位を叩いたり掻いたり擦ったり、あるいは光を浴びせたりするもの。部位には特に規則性はない。
  2. 圧迫……動物の腹部、脇腹、背中などを圧迫するもの。人間にはけい動脈圧迫法という誘導手法があるが、これを動物に試みた例はないらしい。
  3. 転倒……動物を突然ひっくり返す。かなりよく効くらしい。
  4. 運動拘束……フォレイはただこの項目だけをあげているが、ギルマン&マーキュスはこの条件がどの動物催眠の手続きにも不可欠であるとしてい る。
しかし成瀬悟策は、人間の催眠と違い、動物催眠が(1)被暗示性の亢進(高まり)を伴わないこと(これについては、パブロフは異なる結果を主張してい る)、(2)人間の場合は催眠を繰り返すと、被催眠性が高まるのに対し、動物催眠の場合は「なれ」が生じて次第にかからなくなること(シルダー&カオダー やハルの研究)、などを上げて、動物催眠は人間の催眠とは異なるとしている。
 逆に動物催眠を催眠から分離しないとなると、社会的心理的な催眠の説明が苦しくなる(たとえば役割努力説では、動物催眠は説明しにくいだろう)。動物催 眠の「認知」は、催眠の本質についての諸説にも影響を与えるものである。
 

トラウマ(trauma)

 もともとは単に「傷」を意味するギリシャ語であったこの語は、フロイトが(物理的な外傷が後遺症となると同様に)過去の強い心理的な傷がその後も精神的障害をもたらすことを主張し、これが広く受け入れられたことから、「精神的外傷」を意味する用語として定着した。
 無意識の中に蓄えられているトラウマをもたらす過去の記憶が、普段は意識にのぼることなく、しかも身体症状、欲求、行動などに影響を及ぼす、という通説には、しかしほとんど裏づけがない。まず多くの場合、トラウマ的出来事は忘れられたりしない(だからこそ、人々を苦しめる)。記憶の抑制はあったにしても、むしろ意識的に行われる(どの程度成功するかは、また別の問題)。つまりほとんどの場合、トラウマは無意識に抑圧されたりしない。記憶についての科学的研究も、トラウマ体験を無意識に抑圧する防衛機構の存在に否定的である。
 これらが近年、問題となったのは、いわゆる「記憶回復療法」をめぐっての訴訟や、これに関する心理学・精神医学界での論争においてである。そして催眠もまた、この「記憶回復療法」の片棒を担いだことで批判を浴びた。
 アメリカでは、1990年前後の数年間、この「植え付けられた」記憶に関して、多くの訴訟が行われた。まず子供の頃に親から性的虐待を受け無意識下に抑圧してきた「トラウマ的体験」を、セラピストの「記憶回復療法」が呼び覚ましてくれたと信じ込んだ人々が、次々と自分の親を訴えた。訴訟や告発による家庭崩壊、家族離散の悲劇が続発し、身に覚えのない「性的虐待」を告発された老親の中には自殺する者まで出てきた。つづいて、記憶研究に携わっていた心理学者たち(エリザベス・ロスタフら)が法廷で証言台に立つようになり、トラウマ理論と記憶の科学が対決することとなった。この中で、ありもしない事実を記憶に植え付けることが実に容易であることが実証され、「記憶回復療法」に基づいた原告が(一審の勝訴から逆転したものも含めて)ぞくぞくと敗訴していった。
 「記憶回復療法」ブームの起点となったジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』(みすず書房に邦訳)などが未だにそれなりの評価を受けているこの国では(精神分析が未だに社会的なポピュラリティと政治的な権力を持っている未開地だけのことはある)、類似の訴訟もなく、いまだに幼児期どころか「前世」の記憶まで蘇らせようとする「前世療法」が、催眠術師たちの飯のタネになっている。これらが害毒を垂れ流してるのは、「無意識に抑圧されたトラウマ的記憶」を回復することで、トラウマ性の身体および心理的問題を解消しようとする「記憶回復療法」や「抑圧記憶療法」が、そもそも事実でない記憶を患者に逆に植え付けることになり、この種の療法がむしろ事態や症状を悪化させることが少なくないからである。もっとも、いつまでもトラウマに原因・責任を求める、通俗サイコセラピーにも責がある。

トランス(trance)

 催眠に入っていることを「(催眠)トランス状態にある」なんていう。
「トランス」という言葉はもともと、「大きな不安」「怖れ」を意味する中世のフランス語「トランス(transe)」に語源があり、フランス語「トラン サー(transir)」は「滅びる」、ラテン語「トランシーレ(transire)」は「死」を意味で、死そのものだけでなく死に至るような「ぞっとす る不安感」「凍りつく恐怖」をも意味していた。
 現在、「トランス」は次のような定義で使用されている。
1.「眠り」に近い状態。意識的な動きはないが潜 在意識は残っている。
2.気絶、またはボーツとした状態。 
3.特に宗教上の熱意や神秘主義によって導かれる恍惚状能。近年では「サイケデリック」という幻覚をもたらすような状態が薬物の使用によっても導かれる。
4.霊媒師が本人の顕在意識を失って何らかの外界からの力に身をゆだねた状態。
 総じて言えば、「変 性意識」と同じく、用いる者がそれぞれいろんな意味を詰め込んだり片寄らせたりするので、めんどくさい。
 そのため現在では、多くの催眠研究者や実践家が「トランス」という言葉を使うのを好まなくなっていることは申し添えておきたい(「無意識」「潜 在意識」や「心の奥底」「あなたが普段気が付いていない部分」などの表現が代わりに用いられているようだ)。逆に「トランス」に入りたい(でなけ れば催眠とは言えない)というクライアントもいる。

(→変 性意識状態




ア行
カ行サ行タ行ナ行ハ行マ行ヤ行ラ行ワ行アルファベット



ナ行

認知科学 (にんちかがく:cognitive science)

 脳や心のはたらきを情報科学の方法論に基づいて明らかにし, それを通して生物,特に人間の理解を深めようとする学問。
  1930 年代から 40 年代にチューリング, シャノン,ウィーナー,その他多くの俊秀によって確立された情報の概念や情報科学の方法論が,50 年代以降,心理学,言語学,神経科学などの分野に導入され, それらの分野における実験・観察の方法論の新たな潮流 (たとえば脳機能計測,反応時間測定や思考内容推定の新しい方法など) と合流して, 認知科学と呼ばれる学問分野に育った。 認知科学という名称は,1975年に出版された『表現と理解』 (ボブローD.BobrowとコリンズA.Collinsの共著) という本の副題として初めて公に使われ, その後79 年にアメリカでCognitive Science Society(認知科学学会)が創立された。
 認知科学の対象は,脳や心のはたらきを学問の対象とする心理学,言語学,情報科学,計算機科学,神経科学,さらには教育学,文化人類学などと重なっているが、これら伝統的分野を超えた認知科学固有の成果としては,特に次の項目を挙げることができよう。
  (1) 人間の記憶,思考,言語などの機能が記号の情報処理モデルあるいは記号構造で表現できることを示してきた。記号処理システムとしての人間の理解は, 現在も主要な研究テーマとなっているばかりでなく,人間の思考・言語活動に関わる多くの応用を促進している。
  (2)知覚,記憶,運動,言語,思考,行動, 情動,注意,意識などの機能が脳神経系の情報処理機能として理解できることを示してきた。脳の高次情報処理機構は,認知科学において世界的にきわめて活発な研究テーマとなっているばかりでなく, 脳と心のはたらきを総合的に理解し,応用するための大きな役割を担っている。
  (3) 複数の人間を含む社会的インタラクションやインタラクションの場にかかわる研究を進めてきた。 この方向の研究成果は,国境を越えたグローバル社会が実現しつつある今日, 人間のコミュニケーション活動を情報の面から理解し,支援するための基盤として役立ちつつある。
 現在の認知科学は,(a) 脳と心における情報処理の表現と情報の利用のしかたの解明, (b) 脳の諸機能と心の諸機能の対応づけ, (c)人工物・環境の設計や利用,医療, 教育,さまざまなシステムや組織のデザイン, その他の応用における貢献など,さまざまな方向に発展している。


認知行動療法 (cognitive behavior therapy:にんちこうどうりょうほう)

 クライエントは行動や情動の問題だけでなく考え方や価値観イメージなど,様々な認知的問題を抱えている。行動や情動の問題に加え,認知的な問題をも治療 の標的とし,治療的アプローチとしてこれまでに実証的な効果が確認されている行動的技法と認知的技法を効果的に組み合わせて用いることによって問題の改善 を図ろうとする治療アプローチを「認知行動療法」と総称している。
 まず1970年前後から行動療法の中に認知革命と呼ばれる動きが出てきた。目に見えない認知的活動をその他の見える活動と同じように考え,行動理論とし て統合していこうとする動きである。こうした行動療法から認知行動療法へのシフトについては、バンデューラの与えた影響が大きい。彼は、人は単に刺激に反 応しているのではない。刺激を解釈しているのである。刺激が特定の行動の生じやすさに影響するのは,その予期機能によってである。刺激と反応が同時に生じ たことによって自動的に結合したことではない、として社会的学習理論を提唱する中で,モデリングに関する実験的検討を重ね1970 年代に入って多様な行動異常の治療技法として実を結ぶに至った。その結果モデリングは,認知療法やソーシャル・スキル・トレーニング他の治療体系の中に, 介入技法として導入されるようになった。
 またそれとは独立に、精神分析の訓練・実践からキャリアを開始したエリスとベックは、それぞれ独力で、精神分析の理論と技法を否定し,積極的に患者の認 知に焦点をすえる理論と技法をあみ出しながら独自の治療理論を構築した。行動に影響を与える認知変数として,エリスは論理療法を唱え、その中で「イラショ ナル・ビリーフ(不合理な信念)」を,Beck は認知療法を唱え、その中で「スキーマ(個人内の一貫した知覚・認知の構え)」を提唱し、その修正を通じて、患者の症状が改善するとした。
 ベックは、特にうつ状態のスケールを質問紙で計るBDI(Beck Depression Inventory)をつくり、また自らの認知療法によるうつ治療をマニュアル化した。これは、治療効果を測定する強力な基盤となった。というのは「治っ た/治らなかった」では治療効果を量るのにあまりにおおざっぱすぎたからであり、また同じ「@@療法」と称されるものでも人によってやることが違っていれ ば、また比較することはできないからである。こうして認知療法は、心理療法の中ではじめて治 療効果が確かめられたものになったのである。
 さて「認知の歪み」は当人にとっては自然で慣れ親しんだものであり、それが抑うつなど症状を引き起こしていても、それを変えることは抵抗がある。この抵 抗処理などに催眠を用いた、認知行動催眠療法(cognitive behavioral hypnotherapy)は、認知行動療法よりもよい効果を上げている(効果研究のメ タ分析としては、Kirsch I, Montgomery G, Sapirstein G.(1995),"Hypnosis as an adjunct to cognitive-behavioral psychotherapy: a meta-analysis.", Journal of Consulting and Clinical Psychology, 63(2):214-20.)。







ア行
カ行サ行タ行ナ行ハ行マ行ヤ行ラ行ワ行アルファベット



ハ行

バイオ・サイコ・ソーシャル モデル(bio-psycho-social model)


 第一義的には、心身症(や精神疾患)をバイオ・サイコ・ソーシャル(生物的・心理的・社会的)な疾患であると考える見方(もしくはアプローチ)。
 病因についてもこの3つを合わせて考えることになる。たとえば、とある出来事が引き金となる(これはソーシャルな部分)、その出来事に対してその人が もっている対処が圧倒される(これはサイコな部分)、そしてこのインパクトが中枢神経系(脳)、特に自律神経系およびHPA(視床下部・下垂体・副腎)軸 に伝わり、心身機能に支障が出る(これがバイオな部分)など。別の例でいくと、脳内分泌物質のバランスの崩れ(バイオな部分)が、その人の感情傾向を下向 きにし、ネガティブな事項ばかりに選択的に注意がいってしまい(サイコな部分)、その結果、人間関係や社会関係を避けがちになり(ソーシャルな部分)、こ のことがますます(サイコ→バイオな経路で)症状を維持=悪化させる悪循環を形成する、など。
 治療についても、脳内物質の働きに作用する薬物療法(バイオな部分)、さまざまな心理療法(サイコな部分)、そして環境を変えるための介入や方略(ソー シャルな部分)の3つが考えられる。
 診断(アセスメント)についても、治療(トリートメント)についても、これら3つを組み合わせて考え、組み合わせて用いる方がよいことになる。そして精 神医学や臨床心理学も、診察室の中にとどまらず、人間の精神と行動を扱うより広い領域を担当するものと考えられる。そのためバイオな領域では生物学的精神 医学や遺伝生物学や脳生理学や神経生化学や神経病理学や精神薬理学など、サイコな領域では精神病理学や行動諸科学など、ソーシャルな部分では社会精神医学 や文化精神医学や社会学や社会福祉などの援用が必要とされるようになる。
 考えてみると、病気だけじゃなく、人間のやることなすことは、そもそも全部、バイオ・サイコ・ソーシャルである。なので、元々がわりと当たり前な話なの であるが、治療技術や診断技法の進歩や流行や社会的認知は、いつもバイオ・サイコ・ソーシャルの3者が手と手をとって進んだり変わったりする訳ではないの で、ほっとくとどれか一つが突出したり(たとえば薬物療法)、取り残されたり(例えば偏見に対する教育・啓発やその他の社会的サポートなど)することが珍 しくない。なので、あらためて反省したり、かけ声として用いたりする必要があるのである。
 バイオ・サイコ・ソーシャルモデルは、Cedars-Sinai医療センターのフランツ・アレグサンダーが先べんをつけ、ロチェスター大学のジョージ・ エンゲル(バイオ・サイコ・ソーシャル モデルの命名者)およびジョン・ロマーノによってさらに詳しく論じられた。


バイオ・フィードバック(bio-feedback)

 生理的反応に関する情報を本人に知らせることで,生理反応を変化させること。
 機械等を使い、筋肉活動や脳波、皮膚温度、鼓動、血圧、その他身体機能に関する情報が即座にしかも正確に、当人に伝えることにより、(もともとは不随意 的な)身体機能が亢進しているか、減退しているかが、聴覚的もしくは視覚的サインで示されることで、その身体機能を随意的にコントロールできるとされる。
 バイオ・フィードバックは、不随意的な症状の改善に用いられる。たとえば片頭痛や半身不随、レイノー病(末梢血管の収縮により身体先端の血液量が減少す る)などの改善に役立つとされる。

パス法(hypnotic pass(es))

 メスメリストは、被術者に動物磁気を送る際に、磁気の入った樽(バケット)の他に、自分の手を使った。すなわち、術者の体に貯まった磁気を、手のひらで 被術者の体に向けた状態で体に沿って上から下へ降ろしたり、また患者の体に触れて撫で下ろしたりした。動物磁気の存在はその後、否定されたものの、現在で もこの方法は、催眠導入に使われることがある。
 現在でもパス法が有効であるのは、次の二つの理由からである。ひとつは手をかざした(もしくは触れた)部分に被術者の注意が集中するため、もうひとつは 手をかざした(触れた)部分に心地よい温かさを与えるためである。

被催眠者(ひさいみんしゃ:Client, Subject)

「催眠をかける人」と同様、「催眠にかかる・かけられる人」の呼び名も各種ある。
 たとえば催眠療法ではPatient(患者)やClient(クライアント)、ステージ催眠や実験催眠ではSubject(被験者)と呼ばれることも多 い。
 

ヒポクラテスの誓詞(ひぽくらてすのせいし:Hippocratis coi aphorismi)

 2000年以上の間、唱えられて来た最古の医療倫理規定。「医聖」「医学の父」ヒポクラテス作とされる。現在も多くの医学校で、また医療施設で宣誓され る。クライアントに対する催眠家も胸に刻んでおくと良い。けれど、現代では、これだけでは足りない。最低でもインフォームド・コンセント(納得診療あるい は説明と同意)と、必要ならば他の専門家への協力を求める義務を入れる必要があるだろう。

一、医の実践を許された私は、全生涯を人道に捧げる。

一、恩師に尊敬と感謝をささげる。

一、良心と威厳をもって医を実践する。

一、患者の健康と生命を第一とする。

一、患者の秘密を厳守する。

一、医業の名誉と尊い伝統を保持する。

一、同僚は兄弟とみなし、人種、宗教、国籍、社会的地位の如何によって、患者を差別しない。

一、人間の生命を受胎のはじめより至上のものとして尊ぶ。

一、いかなる強圧にあうとも人道に反した目的のために、我が知識を悪用しない。


 以上は自由意志により、また名誉にかけて厳粛に誓うものである。

ヒュプノス(hypnos)


 ギリシア神話における眠りの神。夜の女神ニクスの子、死の神タナトスの兄弟にして、夢の神モルペウスの父。いうまでもなく「催眠hypnotism」の 語源である。
 ギリシア神話中、特に父親の記述はないが、暗黒の神エレボスを父とする説もある。ローマ神話ではソムヌスに当たる。
 ホメロスが描くところ、ヒュプノスは人間の姿となってゼウスの妻ヘラと共にイデ山へ赴き、夜の鳥に変身してゼウスを眠らせた。
 ヘシオドスの作品では、地下の世界に住み、日の光を見ることのない、翼 のある青年として描かれる。
 ヒュプノスの「睡眠誘導」は、人間の額を木の枝で触れるか、角から液を注ぐことだという。


フィードバック(feedback)

 入力によって出力が決まるシステム(例えば入力を 増幅して出力する増幅器など)で、 出力 (の一部,あるいは出力に関連して決まる作用) を入力に加え, 出力に影響を与えることをいう。 またこのようにすることをフィードバックをかける、このようになっていることをフィードバックがかかっているなどという。
 本来は制御工学や通信工学の用語だが、N.ウィーナーがサイバネティックスの中心概念の一つとして取り上げてから、さまざまなシステム(たとえば生体シ ステムや社会システム)などにも使用されるようになった。
 現象をさらに助長する場合を、正(ポジティブ)のフィードバック、現象の発展を抑制する場合を、負(ネガティブ)のフィードバックという。
 自然現象、生命現象、社会現象などに見い出されたフィードバック現象としては、 例えば燃え出すと温度が上がりさらに燃えやすくなるとか, 逆に燃えると酸素を消費してしまうので燃えにくくなるなどである。 前者が正のフィードバック、 後者が負のフィードバックの例である。
 一般に自動制御系では、実際の制御量 (出力) を目標値 (制御系の入力、 制御量の望ましい値) と等しくするため, 制御量を目標値側にもどし,両者の差が 0 になるように、制御装置が制御対象に働きかける負のフィードバック制御が使われている(サーモスタットが身近な例である)。また、増幅回路(アンプ)につ ないだマイクを、増幅回路の出力につながれたスピーカーに向けると、スピーカーから出た音が、マイク→増幅回路→スピーカーという経路でさらに増幅される (これは正のフィードバックである)。よく知られたハウリングという現象が生じて、大きな音が発振される。これと同様に、いわゆる発振回路には正のフィー ドバックが用いられる。
 生体においても、さまざまなレベル(細胞レベルから生体全体レベルまで)のホメオスタシスを 保つために非常に多くの正および負のフィードバックが組み込まれている。たとえば免疫系は、外部からの有害物侵入に対して、全体としては「生体を元にもど す」負のフィードバックとして働くが、その一部の抗体生産機能は正のフィードバックとして働く。しかし同じ機能がショック症状のように好ましくない症状を 助長する正のフィードバックとして働く場合もある。また生体の外部にフィードバック経路を付加して, 生体を望ましい状態に維持するのを助けてやることもできる。同様のことは家族、組織、全体社会などの、人間を要素とするより大きなシステムについても見い出せる。


変性意識状態(へんせいいしきじょ うたい:altered states of consciousness)

 変性意識状態(ASC)の定義は難しい。というのは、さまざまな「普通でない意識の状態」が、使う者の都合によって、この言葉に詰め込まれるからであ る。広く定義しようとすると「普通でない意識の状態」としか言いようがない。そこで多くの研究者は、催眠について記述したり研究したりするのに、変性意識 状態(ASC)なんて概念は、あまり役に立たないと考えている(それは多分、素人さんへの「こけおどし」には役に立つのだろう)。
 変性意識状態(ASC)は、夢見、リ ラクゼーション法催 眠導入、瞑想、バ イオフィードバック、感覚遮断、幻覚剤によって、しばしば引き起こされる意識状態であるとされる(これではトランス状態とほとんど同義である)。しかし、 シャーマン文化が浸透した社会などでは、これらの意識状態はまったく日常的で普通の状態かもしれない。ミードが観察し、エリクソンが分析したバリ島の買い 物客は、トランス状態に入ったまま買い物をする。何が「普通」で、何が「普通でない」のか?
 そこでタートは、より強い変性意識状態(ASC)の概念を問題にし、それを「分離性変性意識状態」と名づけて、次のように定義している。精神機能が全体 的パターンわたって質的に変性し、通常の精神機能とは劇的に異なって経験される意識状態である。これと重なりあうが、臨場感に焦点をあてた定義もある。す なわち(強い)変性意識状態とは、臨場感が、物理的現実世界以外にある場合をいう。これに対して日常的に体験する弱い(非分離性の)変性意識状態 (ASC)では、例えば映画を見て登場人物になりきっているが、しかし椅子から飛び上がったり走り出したりしない状態として、いわば物理的現実世界と映画 の仮想世界に両足かけた意識状態として、まったく仮想世界に没頭した「分離性変性意識状態」とは区別しようとする。
 さて、変性意識状態(ASC)は、何かに役に立つのだろうか? 確かに、いわゆるシャーマンや危機的環境に置かれた人が、この変性意識状態(ASC)に なり、通常でない行動を行い特別な役割を果たしたり、「普通では考えられない」力を発揮して危機を脱する、といった例が報告されている。しかし、これらは 別々に考えた方がいいだろう(最初に述べたように、あまりに様々なことが「変性意識状態(ASC)」という言葉に詰め込まれ過ぎている)。シャーマンにつ いては役割理論で 説明できそうだし、危機的状況下の変性意識状態(ASC)については、単なるドーパミン分泌による「火事場のクソ力」かもしれない。いずれにせよ、どんな 状況でも「変性意識が全てを解決してくれる」というのは期待し過ぎだろう(社会的役割でも、「火事場のクソ力」でも、解決できないから大抵は悩むのだ)。
 ところで「変性意識状態」がそれほどたいしたものではない、と約2500年前に看破したのは釈迦である(彼の先輩達の苦行は、自分を追い詰め、危機的状 況下で変性意識状態を得るためのものだった)。釈迦のこの見解は正しい。が、しかし通俗受けはしないだろう。仏教が、ほとんどマンガと思うぐらいに通俗化 しなければ、普及しなかった由縁である。

(→トランス
 

ホメオスタシス(homeostasis)

 生物の生理系 (たとえば血液) が正常な状態を維持する現象を意味する言葉で, 〈等しい〉とか〈同一〉という意味の homeo と, 〈平衡状態〉〈定常状態〉の意味の stasis を結びつけて, アメリカの生理学者キャノンW.B.Cannonが 1932 年に提唱したもの。 恒常性とも訳される。
 フランスの生理学者 C.ベルナールは、(多細胞生物の)体液を内部環境と呼んで,その固定性を生物の独立生活の条件とみなした。何となれば、多細胞生物は、単細胞生物と違 い、「内」と「外」を分ける外被 (皮膚,樹皮など) を体表に持っている。単細胞生物が体外の環境(の変化)に直接さらされるに対して、多細胞生物の細胞は生体内の液体を直接の環境としている。そして多細胞 生物の細胞にとっての環境=体液は、酸素、二酸化炭素、塩類、ブドウ糖、 各種タンパク質などの濃度やpH、粘度、 浸透圧、血圧などを,一定の範囲に保もたれている。こうしたベルナールの注目した体内環境としての体液とその調節能力とについての論説を、キャノンがホメ オスタシスという語で生体の一般的原理として発展させたのである
 ホメオスタシスは元来上記のような個体の生理系の維持を表す語であったが、 その適用の範囲は生理学の分野以外にも広げられ、 生物系の種々の階層における安定した動的平衡状態を表すのにも(さらには生物以外のシステムの恒常性についても)、使われるようになった。 生物系においては、たとえば,生物群集における種の構成の安定性を生態的ホメオスタシスとよび、 また、同種の個体群における遺伝子分布の安定した平衡状態を遺伝子ホメオスタシス、 発生過程で一定した表現型を発現する現象を発生的ホメオスタシスという。またタンパク質、脂肪、ビタミン、塩分など特定の栄養分や体内成分が欠乏した際 に、それを含む食物への欲求が選択的に生じることを特殊飢餓と呼ぶが、これも食行動におけるホメオスタシス機能と考えられている。
 人間の場合、この機能は自律神経系と内分泌系の2つのシステムにより維持されている。生体にとって最も基本的な循環,消化,代謝,分泌,体温保持,生殖 などの諸機能の調節がなされている。この2つの調節系を統合するのは視床下部であり,さらに,それを上位から調節しているのが大脳辺縁系である。






ア行
カ行サ行タ行ナ行ハ行マ行ヤ行ラ行ワ行アルファベット



マ行

 

民間催眠術師(みんかんさいみんじゅつし:lay hypnotist)

 医師や心理カウンセラー等の資格を持っておらず、学会にも属していない催眠療法家のこと。「lay」 には 「素人」 という意味があり、学会系の人たちが時として侮蔑的に用いる言葉(たとえば「医者であらずば精神分析家にあらず」と言われた時代には、医師でない精神分析 家は「lay analyst」と呼ばれた)。しかし、当然のことながら、学会や資格制度の方が催眠の歴史よりも新しい訳で、すべての催眠家は、 民間催眠術師の弟子か、そのまた弟子であるにすぎない。また学会は、学位その他の参入障壁を設けているが、催眠の実技(腕)を参加要件にはしていないの で、著名な学会のメンバーであることが、催眠家としてのレベルを示すものではない。
 催眠は危険な技術ではないといいながら、催眠関係の多くの学会が倫理規定で、学会員もしくは学会員になる資格のない非専門家に対しての教育訓練を禁じて おり、事実上催眠についての知識・情報の囲い込みを行っている。このことは、むしろ催眠についての神秘的な雰囲気や悪評、素人療法の跋扈を助長してしまっ ているような気がしてならない。

ミラーリング(mirroring)

 人々はお互いに似ていると好きになるものである。ラポールが成立した両者の、呼吸は,声の調子は、またモディ・ランゲージは、一致していることが多い。 ミラーリングは逆に、ボディ・ランゲージを映し、声の調子を合わせることで、急速にラポールを成り立たせる技法である。
 しかし、ボディ・ランゲージのあからさまな「まね」は、多くの文化でタブーである(その強力さ故に?)。ミラーリングは、物真似ではない。 それでは目立ちすぎ、演技的すぎ、大げさすぎて、不作法(無礼)だと受け取られる。ラポールを成立させるためには(尊敬と配慮を保ちながら)相手のボ ディ・ランゲージに合わせて「ダンスに加わる」こと。このことが相手と貴方の世界のモデルの間に橋をかけることになる。
 しかし、相手の動きを,自分の別の動きでマッチさせることもできる。たとえば腕の動きを小さな手の動きで、身体の動きを頭の動きで「ミラーリング」させ ること、これを「交差ミラーリング」という。
 逆に、ボディ・ランゲージや呼吸のマッチングを崩し、(ラポールの)ダンスから抜け出ることもできる。おそらく、会話は止まり、ふたりのコミュニケー ションには「句読点」が打たれるだろう。これも臨床的には重要な技術である。
 

迷信行動(めいしんこうどう;Superstitious behavior)

 なぜ、少なくない催眠家が、もはや効果がないことが知られる一種の儀式めいた手法や滑稽ですらあるやり方を続けてしまうのか。彼らが重視する経験・体験の中で失敗し、事実によって反証されないのはどうしてなのか。
 これは、スキナーらが研究した迷信行動によって説明できるかもしれない。
 ハトを箱に入れて、箱の中のレバーを押すと水が出て、ハトは水を飲める。いわゆるスキナー箱である。ハトがレバーを押すと水が出る。するとハトがレバーを押す頻度は高まる。「レバーを押す」という行動を水というごほうび(強化子とか好子という)が強化した、という。 ハトがレバーを押すと必ず水が出る。この場合、ハトがレバーを押す頻度はどんどんと高まる。これを連続強化スケジュールという。

 これに対して、ハトがレバーを押すと時々水が出る。つまり部分的にしかごほうびをあげない。これを部分強化と言う。これでもハトがレバーを押す頻度は高まるけれど、連続強化のときほどじゃない。

 話はここからである。
 ある時点から、ハトがレバーを押すと必ず水が出る、というのをやめてしまう。 それでもしばらくはハトはレバーを押し続ける。やめた直後はやたらとレバーを押す(これを消去バーストといったりする)。けれども時間が経つと、レバーを押す頻度は減っていき、やがてはハトはもうレバーを押さなくなる。水というごほうび(強化子、好子)をとりあげたから。
 もう一匹のハト、レバーを押しても毎回水が飲める訳じゃない、時々しか水が出なかった方はどうだろうか。
 「時々」といっても、いろいろある。一定回数レバーを押したら水が出るやり方もあれば、10回に1回の割合で、しかしランダムに、水が出る、なんてこともある。 さて、問題は、レバーを押すと水が出るのをやめてしまった場合である。
 その際にも、レバーを押す頻度は減る。けれども、連続強化のときほど急激に押す頻度が減る訳じゃない。水が出なくても、ずーと、押し続けるハトもいる。あの、一定割合でランダムに水にありつけたハトだ。
 連続強化に対して部分強化、なかでも一定割合でランダムに強化されたハトが、ごほうびがなくなっても、ずーっとレバーを押す行動を止めない。
 こうしたことは、いろんなところで見られる。
 一番有名なのはギャンブルの例である。ギャンブルに当たることは、かなり低いが一定の割合のようでもある。ときどき当たるので、当たらない場合の方がずっと多いのに、なかなかやめられない。

 さて本題である。
 たとえば、古典催眠が通説の通り、1/4の人にとてもよくかかり、1/2の人にそこそこかかり、1/4の人にはかからない、とする。 古典催眠家の前にあらわれる被催眠者はランダムで、催眠感受性についてスクリーニングしてない(つまり、選べない)とする。 すると、この古典催眠家は、3/4の確率で成功する。けっこうな成功率である。ランダムに1/4の確率で失敗しても、その行動は消去されないだろう。つまりこれまで通りのやり方を変えないだろう。レバーを突き続けるハトのように。
経験だけに頼る危険がここにある。人は経験で得た「時々うまくいくこと」を、よほどのことがない限り変えたりしないだろう。「時々うまくいくこと」を疑い検証し、よりよいものに改変する(または置き換える)ことは、まず起こらないだろう。

 最後にもう一度、レバーを押し続けるハトに戻そう。今度は全くランダムに(確率さえも一定せず)レバーを押すと水が出たり出なかったりするようにした。つまり、レバーを押すことと、水が出ることは、まるで関連がない。ところで、実験されるたくさんのハト(何しろ何匹でも箱さえあれば記録がとれるのだ)の中には、たまたまレバーを押すと3回連続で水にありつけたものがいた。ハトはレバーを押すことを学習する。ハトはレバーを押す。すると水が出る時もあれば出ない時もある。なにしろレバーを押すことと、水が出ることは、まるで関連がないのだ。けれど、ハトにとっては、水が出たりでなかったりすることは、部分強化になる。かなりの回数、レバーを押しても水が出なくても、それでもハトはレバーを押すことをやめないだろう。研究者は、これをハトの「迷信行動」と名付けた。人間のジンクスの行動的起源がここにある。
 催眠家の中には、とてもけったいな扮装をしたりする人がいる。高石昇氏の論文には、テングの面をつけて奇声を発する催眠家(?)の事例が登場する。おそらく、いろいろ工夫するうちに、たまたまテングの面を着けた際に、その時の被催眠者はたまたま催眠感受性の高い人で、速やかに催眠に入ったのだろう。そしてその催眠家はテングの面を着け続ける。レバーを押すことと、水が出ることは、まるで関連がなくとも、レバーを押し続けるハトのように。

メタ分析(めたぶんせき;meta-analysis)

 → 治療効果

モジュール(module)

 元々は、コンピュータのソフトウエアやハードウエアを構成する部分のうち,独立性が高く,追加や交換が容易にできるように設計された部分のこと。
 認 知科学や脳科学においては、大脳の認知活動にも基本的な処理単位(つまりモジュール)があるはずであり,こうしたモジュールの相互関係を解析して いけば,認知機能のメカニズムを解明できるはずだ,という方法的認識(仮説)をモジュール仮説という。
 歴史的に、脳機能のモジュール性の解明に先鞭をつけたのは神経心理学の分野である。脳の特定部位の損傷から生じる、純粋失読、純粋失書、純粋語聾、純粋 語唖などの「純粋」症侯群は、読むこと、書くこと、言語音を言語音として聞き取ること、言語音を構音器官を動員して生成することなどさまざまな認知機能が 選択的に失われる場合があることを教えており、これらの機能が類似の機能から切り離しうる相対的に独立した機能であること、つまりモジュール性を持つこと を示している。運動機能や皮膚感覚の部分的損傷についても同様である。この考えをさらに深く押し進めれば、言語、記憶、知覚性認知(視覚、聴覚、触覚など を介する対象認知)、行為、判断など、認知活動すべての領域でモジュール性を持つ機能を明らかにしていけるのではないか、という予測(ないし期待)が生ま れた。
 一方、ニューロンのコラム構造は、現在のところモジュール仮説について唯一の実験的な裏付けとされるものである。大脳のニューロンは一説には140億も あり、それらのニューロンがその樹状突起で作るシナプスの数は少なく見積もっても数十兆の桁に達する。しかし、これらニューロンはランダムに(あるいはす べてがすべてに)結合されているわけではなく、百数十のニューロンがコラムという機能的な単位構造を作り、このコラムがまた多数集まってマクロコラムとい う機能単位を作っていることが明らかになってきた。高次神経情報処理における機能単位(モジュール)と、このマクロコラムが対応するのではないかとの可能 性も指摘されている。
 このサイトで依拠する「催眠のモジュール・モデル」では、脳神経系に想定される機能/処理の単位を「モジュール」と呼んでいる。





ア行
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ヤ行

薬物療法(やくぶつりょうほう:drug therapy, medical treatment, pharmacotherapy等)

 薬物療法はほとんど常に「最新の療法」である。まず研究開発に投入される資金、人材の量が段違いである(もちろん開発投資を回収するために、宣 伝費も段違いであるが)。おまけに使用される薬物は、ほとんどの国で認可をめぐってしちめんどくさい検討(度重なる実験検証を含む)をくぐってきている。 おまけに日本では、健康保険制度があって、実際の数割の費用で済む。また医者にとっては「3分間診療」を可能にしてくれる。同じくらい効果がある心理療法 は、その数十倍もの時間がかかるのに、保険点数が同じだったり、保険が認められなかったりで、コスト的に見合わない。世間の風は、薬物療法に吹いている。
 ところが「心の病」の場合、薬物療法は必ずしも歩が良い訳ではない。たとえば鬱病の場合、治癒率よりもまず治療率(治療にかかる率)が、アメリカでも3 割を切っている(日本だともっと低い。1割ぐらいだろうと言う人もいる)。つまり薬物療法ではなく、自然治癒その他を7割の人がはからずも選択していると いうことで ある。原因はいくつかあるが、精神科受診への偏見もさることながら、いくつかの薬の中からもっともその患者に合ったものを選ぶ方法が、「試行錯誤」以上の ものが現在のと ころなく、最初の選択でうまくいかないことも少なくないこと、効き目が現われるよりも先に副作用がでる場合が薬物が多いこと、治療が半年から数年に及ぶた め患者が自主的に飲むのをやめるなどリアイアする率も少なくないこと、さらに一旦症状がおさまっても再発する確率が少なくないこと、そしてこれらのマイナ ス要因が、患者側に過重に受け取ら れがちなこと(たとえば抑うつ状態の人は、効果や副作用について深刻かつ悲観的に考えやすい)、等が考えられる。再び鬱病で、比較的副作用が少ないとされ るSSRIを投与した場合、治癒率は7割、再発率4割ほどといわれている(この数字は資料によってまちまちであるが)。他の急性疾患への投薬に比べて、精 神科における薬物療法は取り立てて成績が良い訳ではない。むしろここまで薬物療法が発達・普及した中では、かえって「じれったい」ほど低い訳で、「薬は もっと効 くものだ」という過剰な期待が、むしろ薬物療法への信頼を実際よりも低くしてしまっているのかもしれない。
 しばしば忘れがちなのであるが、薬の作用は誰に対しても同じというものではなく、人それぞれによって異なる。必要とする服用量も異なり、ある特定の薬物 に対する効き方も違う。すべての人につねに同じように副作用が起こるわけではない。人間は、同じだけのお金を入れ同じボタンを押せば、同じジュースを出し てくれる類いの機械ではない(機械であるとしても、もっと別の機械である)。
 悪質な(しかし少なくない)民間療法家や自称催眠療法家がいう「精神科・心療内科にかかっても、3分間診療で薬を出すだけ、結局《薬づけ》に されてしまう」は、真実ではない。むしろ患者が自主的に薬の量を減らしたり増やしたりして効かない、その結果長引く(そしてリタイアする)方 が、より深刻でかつめずらしくない問題である(薬についてのコンプライアンスが不足している、という)。その次の多いのは、医師がもっと投与量を増やすべ きところで十分な投与をせず、投与期間も不十分なままに改善がみられないという理由で増量をやめてしまうことであり(例えば日本の精神科を対象としたある 調査では、難治性うつ病の7割が、抗うつ薬を最大投与量の2/3程度までしか使っていない「みせかけの難治性うつ」だった)、そしてその代わりに他の薬剤 の併用をすることである。
 とくにSSRI、SNRIが導入以前にはほとんど三環系抗うつ薬に頼っていたうつ治療では、患者が精神科ではなく内科等を最初に受診することが多く、副 作用の少なくない(そのほとんどは「口の乾き」や「便秘」「眠気」といったものなのだが)三環系抗うつ薬はそこでは使用を嫌われ、ベンゾジアゼピン系抗不 安薬やスルピリド(ドグマチール)などの飲めばすぐに症状が軽減するが、うつを治すことには効果のない薬物投与を受ける患者が少なくなかった(医者といっ ても客商売なのである)。また先に述べたように抗うつ薬を十分な量使わない治療では、「眠れない」「不安が強い」「うごけない」などの訴えに個別に対応し ていくことになり、抗不安薬や睡眠導入薬など、またしてもうつ治療には効果のない薬物が併用されることになる(一連のリタリン問題も、こうした「患者ー医 師」関係の中で考えるべきであろう)。こうして効果のない薬剤併用は、ますますの併用へと悪循環的に進んでいく。すなわち多剤併用への道である。結局、十 分な量の投薬をしないことが(その原因としてエビデンスに基づいた治療を行わないことが)、結果として《薬づけ》につながってしまうのである。

役割(やくわり:role)、役割理論(やくわりりろん:role theory)

 個人が、集団の中で占めている地位ないし位置にふさわしいものとして、期待されている行動様式をさす。
 社会で生活していくには、いくつかの役割を担わなければならない。たとえば、既婚の中間管理職の男性を 例にすると、部下としての役割、上司としての役割、親としての役割、夫としての役割・・・、 というように個人がいくつかの役割を担う。 役割葛藤とは、複数の役割が相互に矛盾する状況下において、これらの役割が対立しあった結果として、 行為者に対して生じた一定の緊張のことをいう。
 役割取得は、ミード(Mead,G.H.)が提唱したとされる概念であり、周囲の他者の態度や期待を自己の内部に取り込むことによって、社会から自分に 要求される役割を取得し、その役割を実行していくことをいう。
 役割理論はとても説明力があり、大抵の「精神疾患」を説明することもできる(そこでは精神疾患は、社会的に構築された「役割」のひとつである)。後催眠 暗示などの催眠現象を、こうした役割理論で説明する理論がある。




ア行
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ラ行

ラポール(rapport)

 催眠者と被催眠者の間に生まれる(べき)、施術(働きかけ)とその受諾を巡る信頼関係のこと。
 元々は、由緒正しき磁気術の言葉。現在では、心理療法のみならず、社会福祉の分野などでも、支援者と被支援者の間に築き上げるべき関係を指す言葉として 使われる。
 一旦、この関係が築き上げられれば、被催眠者の暗示への反応は大幅によくなる。この事実とラポールが催眠に果たす役割の重要さについては、催眠家の誰も が認めるところだが、さて「ラポールっていったい何?」「なんでラポールは、被暗示性を高めるの?」という疑問の答えについては、(何しろ催眠の本質につ いての理論がいろんな説に別れるように)諸説ある。

リフレーミング(reframing)

 どんな出来事の意味も、どんな枠組みに収めるかで決まる。枠組みを変えれば、意味も変わる。意味が変われば、貴方の反応と行動も変わるのである。出来事 をリフレームミングする(枠組みを変化させる)能力はより多くの自由と選択肢を与える。幸福や不幸、あるいは事物や事態の意味というのは「ものの見方」に 左右されるのである。
 隠喩はリフレームミングの道具である。それは事実上、「…という意味にもなり得る」と言っている。お伽話はリフレームミングの好例である。一見不運に見 えたものが恩恵であったとわかる。醜いアヒルは若い白鳥である。呪いは覆面を被った祝福である。ジョークはリフレーミングである。ほとんどすべてのジョー クはある枠組みで始め、それを突然全く違うものに取り替える。あるものや状態を全く別の状況に置くか、または、違う意味を与えるのである。

さまざまなリフレーミング=一つの発言に対するいろいろな見方の実例集

a.最初の発言=「仕事がうまくいかないで私は落ち込んでいる」

b.一般化=「ただ気が滅入っているだけでしょう。仕事は大丈夫よ」
c.自分のせい=「そう思うから落ち込むのよ」
d.価値または基準を求める=「うまくいかないと貴方が思う仕事のどこが大切なの?」
e.積極的な目標=「うまくいかないことは貴方を発奮させるかもしれないわ」
f.目標を変える=「仕事を変える必要があるのかもしれない」
g.遠い目標を定める=今の仕事の状況から役に立つことを学べないかしら?」
h.隠喩を語る=「それは歩き方を覚えることに似ているわ=…」
i.再定義=「貴方が落ち込んでいるのは、仕事の不当な要求に対する貴方の怒りの現われかもしれない」
j.一段下がる=「仕事のどの部分がうまくいかないのかしら?」
k.一段上がる=「景気はどうなの?」
l.反対の例=「仕事がうまくいかないでも貴方が落ち込まないこともあったでしょう?」
m.良い意図=「それは貴方が仕事熱心なせいよ」
n.時間枠=「良い時期も悪い時期もあるわ」

 

リラクゼーション(relaxation)

 リラクゼーションはただ体や心の緊張をゆるめることではなく、睡眠とも異なるある特別な心身の状態をつくり出すことを意味している。例えば、酸素消費量 を見ると、睡眠中は入眠から4、5時間かけてようやく覚醒時と比べて8%程度減少するが、深いリラクゼーション状態においては、最初の3分間で平均10〜 20%も酸素消費量が低下することが知られている。心理的には、心理的ストレスが解消され、緊張感が緩和し、疲労感が減少し、爽快感が増大した状態とな る。一方、身体的には、生理的ストレスが解消され、ホメオスタシスやストレス耐性が強化され、生体機能調節系には、交感神経系の抑制、副交感神経系の賦 活、ストレスホルモンの低下、免疫能の増強といった変化が現れる。研究が進むにつれて、このような特徴的な心身の状態は、実は筋肉の弛緩以外にも、ヨー ガ、瞑想、催眠といったいくつかの方法によってもたらされることが明らかになり、そういった特定の方法によって引き起こされる心身の反応であるといった意 味合いから「リラクゼーション反応」と呼ばれることとなった。
 リラクゼーションが病気の治療や健康増進に広く利用されるようになったのは、E・ジェイコブソンが全身の筋肉を順番に緩めていく方法を導入したことに始 まる。すなわち、リラクゼーションとは、元々筋肉の緩んだ状態を意味していた。不安や緊張が高まると筋肉も緊張するので、逆に筋肉を緩めることによって不 安や緊張が解消できるのではないかという発想に基づくものであった。これは筋肉を緩めることで脳(中枢神経系)の働きを変化させることができることを意味 している。この脳の変化が、自律神経系、内分泌系、免疫系といった生体機能調節系を介して、さらに身体全体に変化をもたらすと考えられている。
 リラクゼーションは、かける時間の長短によって効果に違いがある。短時間(3分から5分)では緩んでいく効果が大きく、長い時間になってくるとむしろ元 気が出てくるという「アクティベーション」といっていいフェーズに入る。例えば、自己催眠を利用したリラクゼーション法を用いた実験では、最初の5分くら いは血圧が下がるが、10分も経つと逆に血圧は高くなることが多い(健康な人の場合)。心理的にも、最初はカッカと頭に血が上った状態が静まり、穏やかで 安らかな気持ちになってきますが、さらに実習を続けていきますと、様々な雑念が浮かんでは消え浮かんでは消えした後に、頭の中がすっきりとして色々な物事 が整理され、エネルギーがわいてくるような気持ちになる。肩こり、頭痛、高血圧、不眠症といった心身の緊張状態が直接関与している病態には短時間の実習で も効果があると考えられるが、うつ状態、慢性疲労といったエネルギーの低下した状態には、アクティベーションのフェーズまで至るように長めの実習をするこ とが望ましいと考えられている。
 また、リラクゼーションは毎日持続的に行うことで、ストレス耐性の増加など、短期的な実践で得られるリラクゼーション反応とは異なる、長期的な効果が得 られることが知られている。


リンキング(linking)

 M.エリクソンがよく用いた介入パターン(W.H.オハンロンの整理による)。要するに「区別」すること。区別をつくり出すこと。
 人間はつねに、物事を区別し(split)、また結び付けている(link)。エリクソンは、人間にとって自然なこの傾向を利用している。患者がもって いる既存の連合を解体し、新しい区分や連合をつくり出すという介入をエリクソンはよく用いた。
 エリクソンは催眠を用いることもあったし、用いないこともあったが、それまで結びついていなかった二つ(またそれ以上)の要素をよくくっつけた。それら のリンク/連合はまったく人工的なものだったが、結びつけるという人間の傾向に寄り添う形でなされるため、人がいかに容易くこうした人工的連結に反応する かということをエリクソンはよく知っていた。そしてリンキングは催眠の促進にもまた治療的介入にも役立った。のちにペーシングやマッチングと呼ばれるもの も、このリンキングの一種である。
 リンキングの例はエリクソンの症例の中に無数にある。
 


臨床催眠(りんしょうさいみん: clinical hypnosis)

 催眠療法(hypnotherapy)は存在しない、と言った。
 あるのは臨床催眠(clinical hypnosis)である。臨床催眠は、医者の、歯科医の、ソーシャルワーカーやセラピストの、つまりは臨床家にとっての、ただの「ツール(道具)」であ る。臨床家はそれぞれのクライアントに専門技術を持ってあたり、必要かつ有効ならば臨床催眠というツールを使い、他の場合には使わない。
(→催 眠療法


臨床心理士(りんしょうしんりし:clinical psychologist)


 アメリカでは、臨床心理士になるには、最低でも5年の博士課程と博士号(Ph.D.)の取得、その後の1年の実習が必要である。一方で、カウンセラーは 修士課程をおえて実習となるなど、臨床心理士とカウンセラーは教育課程においてもはっきり区別されている。
 イギリスでは、3年間の博士課程を経て心理学博士(Ps.D.)を取得した者が、3年間が必須のマンツーマンのスーパーバイズを経たあと、認定臨床心理 士として、NHS(National Health Service:国民保 健サービス)にヘルス・サービスの専門職として採用される。このためイギリスでは臨床心理 士から受ける処置には保険がきき、実質的にほとんど無料でそのサービスが受けられる。
 ほかに隣国では、韓国ではすでに「臨床心理士」は国家資格化されている。
 たしかに日本にも現在「臨床心理士」という資格がある。外から見るとわかったようなわからないような感じがするが、少しわかるといろいろ複雑な事情がわ かってくる。
 1988年(昭和63年)に「日本心理臨床学 会」が中心となり関連学会にも呼び掛けて「日本臨床心理士資格認定協会」が 設立され、ここが「臨床心理士」の資格認定を行うこととなった。後先になるが、この2年後(1990年)、この「協会」は文部科学省から公益法人格をもつ 財団法人として認可を受けている。ここでのポイントは、「日本心理臨床学会」なる学会名である。臨床心理士なのに「心理臨床」とは、これ如何に? 実は別 に「日本臨床心理学会」というのもあるのだ が、しかもすでに1964年(昭和39年)にできているのだが、いろいろあって(早い話が分裂して)、いまや「日本心理臨床学会」の方が大きくて、羽振り がいいのである。
 このあたりの事情をもう少し詳しく書いてみる。なんとなれば、この分裂の「きっかけ」は、《臨床心理士》の扱いを巡ってであるからである。
 「日本臨床心理士学会」は、1962年(昭和37年)に東京と関西でそれぞれ設立された「病院臨床心理協会」「簡裁臨床心理学者協会」が発展的に解消す る形で、1964年(昭和39年)6月に発足した。この学会は、単なる「臨床心理学」研究者の集まりではなく、当初から心理の分野における「専門職」の地 位確立を目指していた。同じ年1964年(昭和39年)に、心理学系の3学会に日本精神医学会が協力して「心理技術者資格認定機関設立準備会」が発足し、 同準備会が出した最終報告を、日本臨床心理士学会も1966年(昭和41年)に承認した。つづいて1968年(昭和43年)には、日本臨床心理士学会とし ても「わが国に置ける臨床心理学者の実態調査」を実施し、1969年(昭和44年)には「心理技術者資格認定委員会」によって、ようやくにして「臨床心理 士」認定の手続きができる準備が整えられた。
 では、なぜかくも「臨床心理士」の登場は遅れてしまったのか? 理由はさきに述べたとおりである。1969年(昭和44年)に開かれた日本臨床心理士学 会第5回大会において、臨床心理士資格認定問題が議題にのぼり、学会員から資格認定の進め方や方針について疑義が出された。議論は紛糾し、結果として認定 業務の停止を学会決議として採択するに至った(!)。翌年の1970年(昭和45年)に開かれた第6回大会では、学会のあり方をめぐって公開理事会が開か れ、総会の方は流会。1971年(昭和46年)第7回では、シンポジウムがすべて中止となり、臨時総会では理事会への不信任が決議され、新たに学会改革委 員会が発足した。そして1973年(昭和48年)の第9回以降、新たな規約の下に学会が運営されることとなった。この新体制では、臨床心理活動の「社会的 側面」が重視され、学会自体も社会運動のための組織と位置付けられることとなり、患者も含めた社会闘争組織へと変化していった(早い話がヒダリに傾いたの である)。そして現在も、「臨床心理学を専門とする人だけではなく、「患者」「クライアント」「障害者」と呼ばれる人やその家族や関係者、また臨床心理学 に関心を持つ人など、様々な立場の人々が参加」する「学会」となっている。
 一方、そうした動きについていけないと思う人々も当然いた訳で、日本臨床心理士学会の会員数は激減していった(2004年06月 07日現在で会員数400名)。そして1979年(昭和54年)から、社会運動を重視する日本臨床心理士学会とは意見を異にする人たちによって 「心理臨床家の集い」が開かれ、これが1982年(昭和57年)に日本心理臨床学会の発足へと結びついていく。発足後、日本心理臨床学会は順調に会員数を 伸ばし、現在では心理学界では最大の学会にまで成長した(2003年11月3日現在の 会員数は正会員10102名、準会員4411名)。
 「社会運動に傾いた」日本臨床心理士学会に対抗して、また日本の心理学界の大勢を占める実証科学志向とも隔たり、日本心理臨床学会は個人療法を中心に し、学会誌もケーススタディばっかりで、しかもおどろくほど精神分析が信奉される、特殊な「臨床心理学」がこうした情勢を背景に成立(繁殖?)することに なった。
こういう学会のいざこざに加えて、伝統的な医学をめぐる文部省と厚生(労働)省の対立もあって、臨床心理士をめぐる政治的な動きはまだまだ落ち着きそうに ない。心理学からは白眼視され、ながらく「教育学部」に居場所をもとめてきた臨床心理学が、文部省をバックにつけた(財団法人格とスクールカウンセラーへ の導入など)あたりで、旧厚生省=医療部門からの排斥は予定されていたのかもしれない。旧厚生省が主導ですすめる「医療臨床心理技術者(仮称)」なる国家 資格(候補)が一方にあり、さらにもう一方には旧労働省が管轄してきた、すでに1万人はいるというのにますます増産が進んでいる産業カウンセラーがある (これは、唯一「カウンセラー」を冠にする「国家資格に準ずる」資格にして、しかも心理学をキャリアとしない人たちにも「カウンセラー」という資格を与え てしまうという、とっても「進んだ」資格である)。
 



ア行
カ行サ行タ行ナ行ハ行マ行ヤ行ラ行ワ行アルファベット



ワ行





ア行
カ行サ行タ行ナ行ハ行マ行ヤ行ラ行ワ行アルファベット





アルファベット

door-in-the-face technique(ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック)

 まず誰もが拒否するような難しい(大きな)要請を出しておいて(実際に拒否させ)、その後受け入れさせたい(相対的に小さな)要請を出すという、相手の 承認を引き出すテクニック。

DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)

 アメリカ精神医学会が発行している「精神障害の診断と統計マニュアル」 (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)を、略してDSMと呼ぶ。 つまり心の病気の診断と分類の基準であるが、これが(あとICD−10とともに)「世界標準」の診断/分類基準である。
  DSMもかつては(第2版までは)、病因とか心理とかをもとにして「心の病」を分類していた。 しかしこれでは、流派によって(つまり依拠する理論によって)診断が異なることになる(精神医学は、統一的な理論をこれまで持てないでいる)。これでは究 極のところ、統計すら取れない。
   そこでDSMーIII(第3版)からその策定作業に参加したスピッツァー (コロンビア大学で精神分析を学んだあと、 IBMでコンピュータ・プログラミングの研修を受けたという異色の精神科医)らによって全く違ったコンセプトが採用された。つまり、病因や心理といった議 論が残るものによって分類するのではなく、はっきりとわかる症状だけをもとにした診断基準をつくるのである。彼等は、外的な症状について細かい分類基準を 設け、 それぞれに分類コードをつけた。これ以後、DSMは、流派や依拠理論にかからわず採用可能な診断/分類基準となったである(現在の最新バージョンは DSMーIVーTR、第4版の改訂版)。また、この過程で、伝統的な「神経症」というカテゴリーが複数の疾患単位に分類されることで解体された。
 このDSMの重要性を述べると、次のようになる。すなわち「世界標準」の診断基準を使うことは、自分よりも遥かに優秀で金も時間もかけている世界中の研 究者・臨床家の知恵をも借りて臨床に向かうということと同じである。共通の診断基準をベースとするからこそ、ある治療法が、どの程度の重篤さのどんな患者 に、どの程度効果があって、またどの程度の副作用があるか、といった複数の研究が、世界中の(どんな流派・理論の)研究者および臨床家にとって利用可能と なるのである。どれほどのベテラン臨床家であっても、彼がそのキャリアの中で目にできる症例、試すことのできる薬物や療法は限りがある。だからこそ、医療 がエビデンスに基づくことが求められ、そのベースとなる診断/分類基準が重要になるのである。
 この強力な分類基準には、もちろん批判がある。たとえばDSMに従えば、不都合や不満を訴えるどんな人間もいずれかの精神疾患に分類可能である=つまり どんな人であっても「精神疾患患者」にすることができる、といったものや、あるいはもっと陰謀史観的に、アメリカの製薬業界と結託したアメリカ精神医学会 の世界支配の一環だ、といったものまである。精神疾患の診断はそもそも、その社会的機能において問題が指摘されていた。たとえば、社会的義務を一時的に棚 上げにできる「病人役割」の関係や、強制入院等に絡んだ身体的自由の拘束にもつながりかねない危険性など、「診断」を他の社会的政治的行為を結び付けるこ とは慎重である必要があるだろう。けれども、これら批判は、代替案を提示し得ないタイプの批判となっており(究極には、かつての反・精神医学運動のよう に、精神医療すべてを否定することになるだろう)、その点での弱さがある。精神医療が必要であるならば、何らかの診断が必要であり、それらはできるかぎり 客観的で、多くの人々が利用可能であることが望ましい。そしてそれら診断の「暴走」は、診断基準が客観的であればあるほど、多くの人によってチェック可能 となり抑制可能となることも指摘しておかないとフェアではないだろう。


EBM(Evidence-based Medicine:根拠に基づく医療)

 「人生は短く、技芸は長し」(Vita brevis, Ars longa)ではじまるヒポクラテスの箴言は、「Experientia fallax, Judicium difficile(経験は欺く、判断は難(かた)し)」と結ばれる。どれほど優れた、そして経験豊かな臨床家であっても、人一人が経験できるものは限ら れている。一つの疾患について、一生のうちに経験できるのは、その多様な面の一部でしかない。経験は汲めど尽きぬ豊かな源泉であるけれど、己が経験のみに 頼るならば、人は自分でも知らぬ間に欺かれるだろう。
 EBMは、医療は最新の根拠(evidence)に則って行われるべきであり、ここでいう根拠(evidence)とは、理論や動物実験から導きだされ たものではなく(ましてや権威や経験だけに基づくものではなく)、患者を対象にした臨床試験の結果であるという主張、そしてその主張に沿った医療行為もし くは医療の改革運動までを含んだものである。
 EBMの実践は、系統的な研究や臨床疫学研究などより適切に利用できる外部の臨床的根拠(evidence)と、ひとりひとりの臨床的専門技量を統合す ることを意味する。
 臨床的な診断や治療は、ともすれば臨床家個人の経験や慣習に左右される。また、単に動物実験より類推した理論や権威者の意見そのままに考察されることも (非常に残念かつ危険なことに)ままある。
 これらはたとえ治療につながったとしても、ひとりひとりの患者に「もっともよいもの」とならないことがある。既により効果が高い(もしくは副作用が少な い)治療法があるのに、臨床家が従来通りの治療法を続けるのであれば、これは患者の個人に不利益であるばかりでなく、医療費の高騰や社会資源の無駄となる 可能性が大である。そして残念ながら、これが未だに医療(を含む対人サービス全般)の大半の現状である。
 EBMはこうした事態を回避するために、現時点で知りうるかぎりの研究成果や実証的・実用的な根拠を用いて、効果的で質の高い患者中心の医療を実践する ための事前ならびに事後評価の手技であり手段である。このために最良の根拠(evidence)を能率的に行うための、質の高い情報収集のインフラが様々 な領域で構築されてきている。しかしEBMは、情報収集だけではできない。患者やクライエントを前にした実地臨床と、効率良く集められた質の高い情報と を、結び合わせることが不可欠である。
 今後(EBM以後)、よい臨床家とは、豊富な臨床的経験と、現時点で人類が利用しうる最適な根拠(evidence)の両方をうまく用いることができる 能力を兼ね備え、患者本人のためを常に考え危険を避けるように努力している者となるだろう。
 臨床的専門技量は経験に基づくArtの部分であり、外部の根拠(evidence)を基にした批判的検証評価はScienceの部分である。このArt & Scienceの総合が、絵空事でなく実施されるためこそ、EBMの果たす重要な役割がある。
 催眠も臨床においては、EBMと無縁ではいられない。事実、多くの研究が、さまざまな疾患や問題についての臨床催眠の効果を証明し、臨床家に根拠 (evidence)を提供して来ている。こうした根拠(evidence)を無視して、「催眠の万能」を説いたり、もっとよい(効果的で治療期間が短く 副作用が少ない)治療法があるのに、あくまで催眠の使用に固執したりすることは、医療関係者であろうとなかろうと唾棄すべき振る舞いであると心得よ。

foot-in-the-door technique(フット・イン・ザ・ドア・テクニック)

 誰もが承諾するような易しい(小さな)要請を出しておいて(実際に承諾してもらい)、その後受け入れさせたい(相対的に大きな)要請を出すという、相手 の承認を引き出すテクニック。

low-ball technique(ロー・ボール・テクニック)

 非常に良い条件をつけて、まず相手に承諾してもらう。その後、条件を取り除き、もう一度相手に選択してもらうという、相手の承認を引き出すためのテク ニック。すると、すでに自分に有利な選択でないのに、最初の決定を覆さず、そのまま受けていれてしまう傾向が強まる。

NLP (Neuro-Linguistic Programming)

 「神経言語プログラミング」ともいう。ジョン・グリンダーとリチャード・バンドラーによってはじめられた。
 フリッツ・パールズ(ゲシュタルト療法で有名)、ヴァージニア・サティア、ミルトン・エリクソン等の卓越したセラピストをモデリングしたものから、そのコア部分がつくられたといわれる。
 私見では、エリクソンの、催眠手法の一部とリフレーミングを継承しているが、その行動処方や逆説療法の部分は失われているように思う。それよりも、むしろゲシュタルト療法の影響が大きい(新しい用語で言い換えてはいるが)
 また、なによりもマニュアル化を嫌ったエリクソンに、彼らの覚えが目出たくなかったのは当然だろう(口の悪いエリクソニアンは、NLPの連中は巨万の富 を著作やワークショップでかせいだが、当のエリクソンは死ぬまでアリゾナの砂漠で1時間40ドルで診察を続けた、なんてことを言う)。
 もっともNLPという「マニュアル化」はその後もさまざまな要素を取り入れて膨れ上がり、グリンダー自身も危惧するように主として『NLP の(他の分野への) 適用』へばかり進んでいった。
 なお、オランダのオカルト批判団体SIMPOSの「団体別批判リンク集」には、Aum Shinrikyo(オウム真理教)などとともに(あるいはAmway などとともに)、Neuro-linguistic programmingがリストアップされていて、さまざまな批判サイトをみることができる。
 

that's-not-all (TNA) technique(ザッツ・ノット・オール・テクニック)

 最初に悪い条件で相手に提示し、その後、価格を下げたり、おまけをつけるなど、条件を次第に有利にしていく、相手の承認を引き出すためのテクニック。実 は、本来の条件よりも、より悪い条件を先に相手に考えさせることで、最初から本来の条件を示すよりも承諾の可能性が高まる傾向がある。




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