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           読 書 猿   Reading Monkey
            第44号 (春の四面体号)
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■■田川健三『書物としての新訳聖書』(勁草書房)============■

 本なんてものは、あれば読めばいいのだがなければ書くしかない。つまり読
みたいような本が、である。田川本人が言っているように、この本は自分に必
要な本を書いてみた、というものである。
 生い立ち、成り立ちなど、新訳聖書の「外面的な」、いわば履歴書が主な内
容になっている。しかし、聖書っちゅうような、こんなメジャーな本について
必要な情報が盛られた本が今までなぜなかったか、ということになれば、それ
には理由がある。一つは、これも田川が言っているように、学者っていうのは
自分で分かっていること、自明だと思われることは書かないものだからであ
る。そういうことを得々と書いていると、あいつはものを知らないと思われて
恥ずかしいらしい。が、素人にとっては、そういう基本的な情報が必要なので
ある(そういう基本的な情報を知らない人のことを素人と云う)。
 それに、もちろん聖書にも入門書みたいなものは山ほどあるのだけれど、そ
れを書いている人はほとんど熱心な信者だったりするので、聖書の内容につい
ては情熱を込めて語ってくれたりするが、ま、逆に言えばそれだけのことしか
書いてないわけで、そこから情熱を抜いてしまえば何も書いてないわけでもあ
る。
 この本では、英独仏日の翻訳聖書についても詳しく触れていて、どれがいい
あれがわるい、これは最悪と非常に明快に判別してくれている(いくぶん、メ
ーター振り切れてるぞ、ってところはあるが)。『文学としての聖書』みたい
なものだと、日本人が書いたものとか、翻訳書とかは他にもいくつかあるが、
翻訳の善し悪しについて明快に教えてくれているのは実際便利だ。その意味で
この本は、(でかくて高くて無駄口と悪口も多いが)ほとんど実用書である。
私はこの箇所だけざっと読んだ。もっとも、聖書程度の本が、それほどどうし
ても読まねばならないものかどうかは別だが(田川は疑ってないのだろうか)。
 こういう聖書の翻訳の善し悪しについて触れた本があまりなかったのは、言
うまでもなく、聖書について書こうと思う人くらいになると、たいていどこか
の党派に属しているからである。だから、キリスト教のようなひどく党派の争
いの激しいなかから田川健三のような人が出てきたのは、実際奇妙に見えるけ
ど、それだけプレッシャーが強かったからこういう人も出てきたのだと、逆説
めくが、言えるかもしれない。
 しかし、考えてみれば、聖書に限らず、文学だって科学だって哲学だって、
宗教の場合ほどには制度化されていなくてお金も権力もあまりつきまとわない
かもしれないけど、多かれ少なかれ党派はある。そして、作品・テキストの翻
訳について、あれがいいこれがいいというようなことを教えてくれる本はあま
りない。露骨な党派臭が希薄(実はないではない)だからこそ、これも逆に、
田川健三のような人が出にくいのかもしれない。
 もっとも、田川健三には、あまり追い詰められて破れかぶれ、という陰惨な
感じはしない(本人にとってどうだかわからないが)で、年をとるにしたがっ
て逆にからっとしてきたように思える。いずれにせよ、破れかぶれであること
は確かだが。

■■アクセルロッド『つきあい方の科学』(ミネルヴァ書房)==========■amazon.co.jp

 ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」というのがある。

 これが「ジレンマ」である所以は、ふたりの囚人がそれぞれに行う「合理的
判断」、とどのつまり「一番ましな手」は、より劣る結果を生じさせてしまう
ところにある。つまり囚人たちは、協力さえできれば結果はずっとましなもの
になるというのに、一番よい戦略を選ぼうとすることで、協力に至ることがで
きなくなる。

 これは「自分だけ助かろうという利己心」だとか「相手が裏切ることへの猜
疑心」だとか「二人が協力するために必要だったコミュニケーションの欠如」
だけからは説明できない。「利己心」や「猜疑心」はむしろ、その「まずい結
果」故に(後知恵で)つけられた名前にすぎないのだ。
 二人の囚人の間にコミュニケーションが可能で、協力の約束をすることがで
きたとしても、その「協力するという約束」を守ることが「合理的判断」に適
わないことにはかわりなく、したがって「約束」を守る強制力は、ゲームの中
からは生まれない。

 しかし「現実」は、1回では終わらない。「協力」がまがりなりにも「現
実」に成立するのは、「長いつきあい」を考えるからではないか。もっと端的
に言い換えれば、「裏切り」に対して「報復」があり得るような「再戦・繰り
返し」があるからではないか。
 1回きりの勝負なら「罠に掛ける・裏切る」ことが利益となっても(つまり
勝ち逃げ)、「報復」が可能ならそうとはかぎらない。これで、先の「強制
力」(拘束的合意)をゲームの中に取り込む/あるいはゲームの中から生み出
しうる可能性がでてくる。

 1980年、アクセルロッドは、「囚人のジレンマ」を繰り返しゲームする
コンピュータ・プログラムを、ゲーム理論や行動科学の専門家たちから募集
し、プログラム同士を対戦させた(のちに有名になったこの大会は、コン
ピュータを使ったゲーム理論の実験としては最初のものだった)。
 対戦に参加したそれぞれのプログラムは、制作者の性格や理論や素性や人生
経験などを(おそらく)反映し、「相手がどうあろうと、とにかく相手を陥れ
る《永久懲罰プログラム》」や、「相手の(前回行った)手を繰り返す《オウ
ム返しプログラム》」、「相手の出方を観察し、裏切りそうな気配を察すると
先んじて攻撃に転じる複雑なプログラム」「こっちの出方は運に任せる、なげ
やりなサイコロばくち打ちプログラム」など、さまざまだった。
 しかし第一回大会を制したのは、複雑な戦略をとる複雑なプログラムではな
かった。
 勝者は、平和理論家(平和戦略のゲーム理論)として有名なラパポートがつ
くった、たった4行のプログラムだった。これは「相手の(前回行った)手を
繰り返す《オウム返しプログラム》」だったのである。

 ゲーム理論の「民間伝承定理」は、次のことを教えてくれる。すなわち、1
回のゲームにおいて拘束的合意(つまり約束すること)によって実現可能とな
る利得のどの組も、プレイヤーが十分我慢強いのであれば、無限回繰り返し
ゲームによっても実現可能である。
 ここでいう「十分我慢強い」とは、こういうことである。プレイヤーはある
時点に受けた損害をずっと覚えていて、別のどの時点においても取り戻し得
る。つまり報復がずっと後になってもよい訳だ。逆にすぐにも取り戻さないと
取り戻した気がしない(そんなに待てない)、という場合には、彼は我慢強く
ない。「損害」が時間を経るごとに減っていく、あるいは「怒り」が時間と共
にやわらぐ、といったことは「十分我慢強い」場合にはないも同然である。彼
は記憶力抜群な、そしてあらゆる時間について合理的な、タフな復讐者なので
ある。

 ところが「逆−囚人のジレンマ」といったゲームがある。その名のとおり
「囚人のジレンマ」とは逆に、それぞれのプレイヤーが自分の利益さえ考えれ
ば、それだけで両者の協力が達成され、最適な状態に至る。
 ところが同じゲームを繰り返すことで、せっかくの協力が損なわれ、せっか
くの最適な状態がやぶられる可能性が生じてくる。つまるところ、繰り返すう
ちに、選択ミス、意図の誤解、疑心暗鬼などが入り込む要素が出てくるという
のである。
 ここでさっきの「拘束的合意によって実現可能となる利得のどの組」も実現
可能であるという「民間伝承定理」が効いてくる。「どの組も実現可能」であ
るとは、最適な組ばかりでなく、もっと劣った組さえも、無限繰り返しゲーム
は実現可能にしてしまうということなのだ。純粋に「最適な手」を繰り返すと
いう協力行動の根拠が揺らぐ可能性が出てくるのである。

 そうした「より劣る状態」を取り除く方法がない訳ではない。オーマンとソ
ランは、軽微な非合理性を組み込むことで、繰り返し純粋協調ゲームから「よ
り劣る状態」を取り除けること、そしていつももっともよい「協力」状態に至
るようにできることを示した。
 ここでいう「軽微な非合理性」とは、あまりに古い(遠い過去の)損害に対
しては補償を求めない、というものである。お互いがタフな復讐者であるのを
やめること、わかりやすくいえば、「忘れる」「水に流す」ということだ。つ
まり、ここで繰り返し純粋協調ゲームのもたらす教訓はこうである。

「愛し合うためには、過去を忘れる用意がなければならない」

■■川喜田次郎『続・発想法』(中公新書)================■amazon.co.jp

KJ法の人である。カワキタ・ジロウだからKJなのだ。この人は途方もなく
頭が悪い。書いたものを読めば一目瞭然である。ものごとを整理して書くこと
ができない。文章にはおのずから読まなきゃ訳が分からなくなる部分と、読み
とばしてもいい部分があるが、それらがぐちゃぐちゃにいりまじってる。した
がって読み飛ばすことさえできない。たとえば下らない例を、話の運びを台無
しにしてまで挿入することはないのだ。何から何まで(工夫なしに)詰め込も
うとするからそうなる。KJ法ってなんだったけ?

■■ヴィーコ『新しい学』(中央公論社;世界の名著)===========■

> 「したがって公理(172)で指摘したように、太古時代の全人類は二つの種
>類に分類されねばならない。ひとつは正常な体格をもった人々で、これはヘブ
>ライ人のみである。他は巨人族で、異教諸民族の始祖たちはすべてこれであ
>る。」
>
>「これを証明するように、古代の英雄たちの武器はみな途方もなくでかい。」
>
>「ヘブライ人たちが体を清潔に保っておくための儀礼法をあれほどたくさんも
>っているのも、おそらくは巨人化を嫌ったためだろう」
>
>「ヘブライ人たちは、清潔な教育と神及び父に対する畏怖のおかげで、常に、
>正常な体格をもちつづけていた。つまり、神がアダムを創造し、ノアが三人の
>息子を産んだときと同じ体格であった」

(『新しい学』第二巻 詩的知恵 第三章 世界大洪水と巨人)

 でかいカラダ。

■■Wolfgang Breidert, Die Erschuetterung der VollkommenenWelt. Die
Wirkung des Erdbebens von Lissabon im Spiegel europaischer
Zeitgenossen, ダルムシュタット、1994年 ===============■

 
 これと同じテーマでアンソロジーを編集しようと思っていたところにこの本
が見つかったので、ともかく紹介する(日本で作るなら、別の形のものになる
だろうが)。
 18世紀前半、大ざっぱに言うと、ヨーロッパは楽天主義の時代だった。
 楽天主義、つまり、この世界はすべて神の善意によって動かされているので
あり、可能な限り最善の、完全な世界die vollkommenen Weltだ、たとえ部分
的に悪く見えるところがあっても、トータルでみればプラスになっている、と
いう考えである。これはライプニッツが一般向けに書いた『弁神論』と、更に
それをふやかしたポープの『人間について』という書簡体の長編詩によって広
められた。
 そうした雰囲気をぶちこわしにしたのが、1755年リスボンを中心として起こ
った大震災である。数千人単位の死者を出したこの震災は、「リスボンを見て
死ね」と賞賛されたこの湊町を地獄に変え、ヨーロッパ全土に衝撃
Erschuetterungを与えた(この本の表見返しにはリスボンの港の絶景、裏見返
しには地震の地獄絵図を描いた当時の図版が印刷されている)。実際、これ以
前には自分自身楽天的だったヴォルテールはこの大震災に素早く反応して詩を
作り、現実の苦痛を見ない楽観論に痛打を食らわした。
 これに反駁してきたのが一刻者ルソーだった。ルソーは、たとえ震災があっ
たって、私は神の摂理、神が定めた世界の秩序を信じるのだと見栄を切った。
しかし、これに対して更にヴォルテールは『カンディード』を書くことにな
る。無邪気な(カンディードな)少年の苦難(その中にはリスボンの悲劇も含
まれている)の物語である。主人公カンディードとともに旅をする楽天主義者
パングロスは、その痛みを否定して、神の定めを信じ続ける。パングロスが象
徴するのは、既に解体してしまった幻想に閉じ篭ろうとする観念論者である。

 一方その頃ドイツでは、カントが地震論文を書き、地震の原因に関する「科
学的な」考察を試みていた。ルソーと同様、神の摂理を擁護する文言も見つか
るが、それはカントの主題ではない。ただしカントは、後にはライプニッツ流
の楽天主義のを批判することにする。カントの批判主義の登場である(いわゆ
る批判書の第一弾『純粋理性批判』初版が出るのは1781年)。これがリスボン
の震災の影響なのかどうなのか分からないが、そうだとすれば、ヴォルテール
のフットワークのよさ、あるいは勇み足とはえらい違いだ。
 この本は、サブタイトルにあるように、リスボンの震災に反応した当時の知
識人たちの文章が、ヴォルテールの詩からカントの論文まで、集めてある(
『カンディード』は入ってないが、ヤコービが入っている)。各テキストには
解説のようなものがつき(悪くはない)、フランス語文には原文テキストの他
に独訳がついて対訳になっている。
 序文では、現代に起こった大地震(中国のものなど)に触れてあるが、「日
本は地震の巣の上に浮かんでいる」とフランスのニュースが報道した神戸の震
災は、この本の後に起こった。


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