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           読 書 猿   Reading Monkey
            第43号 (春の四面体号)
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■■河野与一著、渡辺義雄編『哲学講話』(岩波書店)==========■amazon.co.jp

 一度読んで分からなくて、二度読んで分かる本もある。が、十回読んでも分
からない本もあって、例えば河野さんのこの『哲学講話』などは十一回読んで
も分からない。と思う。というのは、そもそもこれは分かるような本ではない
からだろう。
 昭和30年代、河野哲学学校というのがずっと、5年ほど、月一のペースで開
かれていた。専門哲学者は入学できない「学校」である。生徒さんは、福田恒
存、佐藤正彰、唐木順三、加藤周一、中村真一郎、福永武彦、三島由紀夫、大
岡昇平、吉田健一、石井桃子、佐伯彰一、江藤淳、寺田透、鈴木力衛、堀田善
衛、中村光夫、遠藤周作、山本健吉、高田勇、村田全、渡辺照宏などである。
こういうのを「錚々たる」というのだろう。
 河野与一というのは、哲学者として出発したが、哲学者にしては珍しく語学
がとてもよく出来たものだから、大学の先生もやったことはやったけれども、
途中でやめて、後は翻訳ばかりやっていた。自分で書いた本もないではないけ
ど、まとまった研究書のようなものはない。田辺元(えらい哲学の先生)から
「河野と林のようにだけはなるな」と言われてもしょうがない。林というのは
林達夫のことである。「二人ともよくできるんだが、なにせ遊びながら哲学し
ているんだからしょうがない」というのである。でも、河野さんに比べたら林
さんでもまだたくさん仕事をしている方である。
 翻訳は岩波文庫にたくさん入っている。ライプニッツの『単子論』や『形而
上学序説』、プルタルコス(プルターク)の『英雄伝』、『アミエルの日記
』、『クォ ヴァディス』、それに、前に「読書猿」(第5号 (へびは嫌い号
))でも紹介のあったベルクソン(『思想と動くもの』)などである。田辺さ
んが名前を挙げた二人が、それぞれベルクソンを訳しているのが面白い(林達
夫が訳しているのは『笑い』)。各国語にわたっているし、いわゆる分野も哲
学、文学いろいろである。特にライプニッツの『単子論』や『形而上学序説』
は、ネタ本があるとはいえよく出来た編集本で、編集ものにずさんでひどいの
が多い岩波文庫のなかで異彩を放っている。
 この河野さんが、中村光夫の胆入りで岩波書店(の会議室)で講義をした河
野哲学学校の講義録がこの本の内容である。元の原稿はなくて、テープから起
こした原稿しかなく、それもひどいテープを起こしをしたらしく、「みこ(巫
女)」が「猫」になっていたり、「グノモン」(ギリシャ語)が「愚問」にな
っていたりしたらしい(編集後記で渡辺さんがそう書いている)。そんなわけ
で、岩波の社長がこれを本にしたいというので社員の人に原稿を見せたもの
の、その社員の人が「これはどうにもなりません」と返してきたというのであ
るが、全くその通りでどうしようもない本である。
 「天使の認識」から始まって、「ロゴスについて」とか、「常識について」
とか、どれも基本的な話題が取り上げられているのだが、ほとんどは一般的な
参考書、研究書(ジルソンとか、リボーとか、イエーガーとか、ブートルーと
かといった人々の)を紹介して、ちょっと自分の考えもつけて、消化不良のま
まに講義は終わる、というのがパターンである。別に「分かる」必要もないよ
うな本である。
 だから逆に、どんどん読めてしまう。一度読んで分かる本もあれば、二度読
んで分かる本もある。十度読んでやっと分かる本もあるかもしれないが、それ
はそこまで飽きずに読めばの話である。一度読むまでもなく飽きてしまう本も
あるのだから。
 ついでに、生徒さんとの質疑応答もあったらしいが、それはスペースの都合
でこの本には入っていない。残念だと思う。
 なお河野さんは、北杜夫の保証人、仲人なんかもやっている(北杜夫の父
親、歌人の斎藤茂吉とお友達だったらしい)。

■■船戸与一『非合法員』(徳間文庫)===================■amazon.co.jp

 船戸与一のデビュー作。単行本は地味な表紙のもので、『非合法員』という
タイトルとともに印象に残る。『非合法員』である。『非合法員』。しかもい
きなり冒頭から(あるいは冒頭だから?)この文体。

「禁猟区のガジュマルの木陰に滴り落ちた血の収支決算書はすでにステンレス
製のファイル・ケースの奥に眠りこけた。」

 ハードボイルドはレトリックの宝庫である。

■■中川八洋『正統の哲学異端の思想』(徳間書店)============■amazon.co.jp

 いくら日本の保守反動主義者でも、ここまで低能ではあるまい。
 反共主義者を騙ったソビエトの陰謀だと思う。

■■ポール・ヴァレリー『純粋および応用アナーキー原理』(筑摩叢書)===■amazon.co.jp

 著者名とタイトルだけで、読書猿としては十分だと思う。

■■チャペック『山椒魚戦争』(岩波文庫、他)==============■amazon.co.jp

 このとんでもない小説を紹介できるのは大いなる喜びである。
 どうでもいい「あらすじ」や「結末」は紹介するには及ばない。山椒魚が地
に(いや、海洋に)満ちていく過程が、その発端に手を貸したが故に、山椒魚
マニアとならざるを得なかったポヴォンドラ氏のあつめた新聞・雑誌の切り抜
きでもって描かれる第2部は、ほとんど「現代史」そのものといっていいくら
いである。つまり反則ワザといってよいほどである。ここではその一部しか紹
介できない。
 引用中の「七行削除」や「原注」などは、すべて原文通りである。
 ではノーカットでお届けしよう。

> これまで述べたことから明らかなように、山椒魚問題ははじめ、そしてそれ
>から長いあいだ、理性をそなえ、かなりの文明度をもつ生物として、ある種の
>人間的権利を享受する(たとえ人間社会や人間体制ぎりぎりの範囲内であるに
>せよ)能力が、山椒魚にはどの程度あるか、という意味で提起されたにすぎな
>かった。言い換えると、それは個々の国の内部問題であり、民族の枠内で解決
>されていたのである。長年のあいだ、山椒魚問題がいつか重大な国際的意義を
>持ち、山椒魚を知性のある生物としてだけでなく、山椒魚集団、あるいは山椒
>魚民族として対処せねばならなくなるだろう、などと考えた者は、誰一人いな
>かった。実をいうと、山椒魚問題をこのように考える点で、最初の一歩を踏み
>出したのは、「全世界におもむいて、すべての民に教えよ」という聖書の言葉
>にのっとって、山荘魚に洗礼をほどこそうとした、例の一風変わったキリスト
>教の一派だった。このことによって、山椒魚が一種の民族であることが、はじ
>めてはっきりと打ち出されたのである。*[原注20]
>
>*原注20 すでに紹介した山椒魚用にカトリック教会が作った祈祷書も、山椒
>魚を「デイ・クレアトゥラ・デ・ゲンデ・モルケ」(神の創りたまいし山椒魚
>族)と規定している。
>
> しかし、山椒魚を民族として、国際的、かつ原則的にじっさいはじめて認め
>たのは、共産主義インターナショナルの有名なアピールだった。このアピール
>は、同士モロコフの署名したもので、「全世界のすべての革命的被抑圧山椒魚
>に」あてられた。*[原注21]
>
>*原注21 ポヴォンドラ氏の資料の中に保存されていたアピールの文句は、次
>のごとくである。
>
>   山椒魚の同志諸君!
>
> 資本主義制度は、最後の犠牲者を発見した。階級意識に目覚めたプロレタリ
>アートの革命的昂揚によって、資本主義の暴政は、すでに決定的に崩壊し始め
>たが、海の労働者諸君、腐敗した資本主義は、奉仕させるために諸君をかり出
>し、ブルジョア文化によって諸君を奴隷化し、諸君をおのれの階級的法律に服
>従させ、諸君のすべての自由を奪い、罰せられないのをいいことにして、諸君
>をむごたらしく搾取するために、あらゆる努力をおこなっている。(十四行削
>除)
> 働く山椒魚諸君! 諸君のおかれている奴隷状態の重圧を自覚すべき時は、
>来たのだ!(七行削除)
> 階級的・民族的勝利をたたかいとれ!
> 山椒魚の同志諸君! 全世界の革命的プロレタリアートは、諸君に手をさし
>のべているのだ。(十一行削除)
> すべての手段をつくして、工場委員会をつくれ。代表をえらべ。ストライキ
>基金を積み立てよ! 自覚した労働者階級は、正義の戦いにある諸君を見捨て
>ず、諸君と手を取り合って、最後の攻撃をおこなうものであることを、銘記せ
>よ。(九行削除)
> 全世界の革命的被抑圧山椒魚よ! 団結せよ! 最後のたたかいは、すでに
>始まったのである!
>                      モロコフ(署名)
>
>
> このアピールは、山椒魚には、直接の影響を与えなかったようだが、世界中
>のジャーナリズムに、かなり大きな反響を呼び起こした。少なくとも、山椒魚
>を一大山椒魚集団として、人間社会のあれこれの思想的・政治的あるいは社会
>的綱領に獲得しよう、という方向では、模範者が続出、その結果、山椒魚のと
>ころには、あらゆる方面から、炎のような呼びかけが殺到しはじめたのであ
>る。*[原注22]
>
> *原注22 ポヴォンドラ氏のコレクションには、この種のアピールは本の一
>部しか発見できなかった。……保存されているうちから、見出しだけでも、い
>くつか紹介することにしよう。
>
> 山椒魚よ、武器を投げ捨てよ!(絶対平和主義者の宣言)
> 山椒魚よ、ユダヤ人を追放せよ!(ドイツ語のビラ)
> 山椒魚の仲間たち!(アナーキスト=バクーニン主義者グループのアピール)
> 山椒魚の仲間たち!(海洋少年団の公けの呼びかけ)
> 山椒魚の友人たち!(水生動物愛好家連盟の公式声明)
> 山椒魚の市民のみなさん!(ディエップ市民改革グループの呼びかけ)
> 山椒魚の同僚たち、われわれの隊列に加われ!(退職海員援護会)
> 山椒魚の同僚たち!(エギールの水泳クラブ)

■■白川静『文字逍遥』(平凡社ライブラリ)==============■amazon.co.jp

 「心」の古訓に「ウラ」があり、「面」の訓に「オモ(テ)」がある。
 古人は、「心」を「ウラ」と読むことができた。そして「面」に「オモ
(テ)」という読みを与えた。

 「うらなふ」「うらむ」「うらやむ」は、ウラ(心)の動詞化で、みな「隠
れたるウラ(心)」と関わりがある。

 「おもふ」「おもねる」「おもむく」は、オモ(面)の動詞化で、みな「現
れたるオモ(面)」と関わりがある。「おもふ」はもともと、むしろ思考より
も感情についてのコトバで、表情に(感情などが)現れることをいった。『万
葉集』で、「おもふ」の5割が「念ふ」、4割が「思ふ」である。「念」は、
「今(この原義は元の形象からして、器の蓋である)」が心(ウラ)を閉じこ
めている文字。現れんとする何か(感情)を現れまいとするままに「おもふ」
が「念」である。人はもう、「思う」ままに「おもふ」訳にはいかなかったの
である。

 『名義抄』には、67の漢字に「おもふ」という訓がある。逆に言えば、
67種類の「おもふ」が登載されている。そのすべてが厳密に「棲み分け」し
ている訳ではないが、常用漢字には「おもう」はただ「思う」一種類しかな
い。なんということだろう、常用漢字に従うなら、我々は「念願」し、「想
像」し、「懐古」し、「追憶」することはできても、「念ふ」ことも「想ふ」
ことも「懐ふ」ことも「憶ふ」こともできないのである。

 「想ふ」は、「相」(姿、イメージ)を「心」に持つこと。IMAGINEが心象を
創出する意味であるが、それに近い。その創出は自由であり(少なくともかな
り融通がきく)、あり得ないもの(形象)を「おもう」=目の前におもいうか
べるのも「想ふ」である。未だないもの(形象)を「おもう」=目の前におも
いうかべるのも「想ふ」である。

 「懐ふ」は、逆に、死者、今はもうないものを「おもう」こと。かつて懐
(ちか)しかった人を、懐(なつか)しく、懐(おも)ふこと。

 「憶ふ」は、過去を通じて未来を「憶測」すること。「懐ふ」はひたすら過
去に向かうが、「憶ふ」には現在を挟んでの未来への折り返しがある。たとえ
ばノスタルジーは、「かつてあったもの・ことに、再び相まみえることがない
だろうこと」を巡って構成される。「失われたもの」への「おもい」ではな
く、「失われたものが、今後永久に失われている」についての「おもい」なの
だ。我々はもはやそこに帰ることはできない《だろう》、我々はもはやその人
の会うことはない《だろう》と、人は「憶ふ」のである。


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