=== Reading Monkey =====================================================
           読 書 猿   Reading Monkey
            第45号 (アナーキー原理号)
========================================================================
■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
  姉妹品に、『読書鼠』『読書牛』『読書虎』『読書兎』『読書馬』『読書羊』
  『読書龍』『読書蛇』『読書鳥』『読書犬』『読書猪』などがあります。
 ■読書猿は、本についての投稿をお待ちしています。

■■久野収・鶴見俊輔・藤田省三『戦後日本の思想』(岩波同時代ライブラリ)=■

 久野収と鶴見俊輔のコンビには、『現代日本の思想』(岩波新書)という、
タイトルも内容もダブった本があるが、それよりは数段おもしろい。単純な
「足し算」で考えれば、藤田省三が加わったことでそうなったのである。この
ことは考えてみなければなるまい。
 この書がシンポジウム(報告と討論)という形式を採っていることもあげな
ければフェアではないだろう。多くの論点が、この形式に置いては「放言」の
形で現れる。いくつか例をあげよう。

 「私がいいたいと思ったのは、日本の歴史は完全に循環する。循環するのは
困ったというのではなくて、循環があるからこそ、15年間同じところに立っ
ていれば、向こうが回ってくる。メリーゴーラウンドに乗りさえしなければ、
外側から何度も同じ仕方でつくることによって、うまい具合にその一部分をつ
きくずすこともできる。そのために何十年間じっとして同じ地点で根を深めて
いくことによって、相当深い哲学を日本の思想史のわくの中で作り上げる可能
性があるのではないか。徳富蘇峰は94歳まで生きたが、この間七転八倒で
しょう。大体8年間に1回ごとの循環があるから、蘇峰は10回ぐらい彫りを
深めることが、一点に立っていればできたんじゃないか」

 「立っていてみろといったら、じっと立っている人は日本にはずいぶんいる
し、また過去にもざらにいた。その場合にはメリーゴーラウンドに乗るんじゃ
なくて、状況が自然に動いているんだから、自然に行雲流水になる。始末にお
えない。それが隠退なんです。じっとしている仕方は、状況との緊張感なしに
ただじっと隠退している。金があって食っていけて、ちょっと見透しがきく人
たちにはこれが一番楽なんだ。晴耕雨読だから。隠退主義になってしまうと、
他の流派と挌闘しながら相互に鍛え上げてゆくことができなくなる。日本思想
史の伝統を作るどころか、日本思想史の最も悪い特色である無挌闘性を拡大再
生産するだけになる。初めからジッとしている主義主張一貫主義は、日本思想
を実らせなかった最大害悪の一つだと思う」

 「安倍能成が夏目漱石と対談したときの話ですが、安倍能成はエゴイズムと
いうものは、良くないもののように思う、少なくともそれを貫き通してはなら
ないんで、どこかで制限しなければならないと思うというんです。それに答え
た夏目漱石は、おれは自分の娘が一つ目小僧になっても驚かないような人間に
なりたい、と言うんですね。ところがそういう態度には、安倍能成は我慢がな
らないわけです。」

 「辰野隆が、太宰治が死んだ時に、人柄としてもいいし、才能も最近異色な
人間だったが、意思薄弱で、しょうがない。織田作之助、坂口安吾は生っちょ
ろい。学問は中世の修道院を思わせるような、きびしい戒律で鍛えられるの
だ。彼らはそういう訓練のできない人間だと言っている。冗談じゃない。織田
作なんか、大学の温い空気の中で先人の体系にスッポリ入り込んで、それでオ
レらはキビシイ修行をしてるんだ、なんていってる学風に我慢が出来なかった
お陰で、泥まみれになって死んでいった訳でしょう。私は断乎として、意思薄
弱派になりたいですよ。」

 「今西錦司はもともと昆虫学者で、そこから動物生態学へ行った。だから昆
虫より鹿とか馬のほうがいい、さらに猿の方が進化している、さらに人間の方
が進化している。人間でも南洋群島の住民なんかのことを考えてる。樺太・南
洋・蒙古、そういうところの文化と比べたら日本の文化は進化していると思っ
てる。昆虫よりいいし、鹿、馬、猿よりもいい。だから、日本人についても明
るい感じを持っている。愉快な感じを戦争中でも持っているんだ。大体、日本
が勝つと思っていたんだからね。だから日本人観がまったく違う。南博が『思
い出』に書いてるけれども、清水幾太郎と初めて京都で会った時、『日本は暗
き中世だ、まったく暗き中世だね』」と言ったという。今西錦司に言わせれ
ば、『何が暗い、昆虫に比べれば』ということになる。」

■■甲田光雄『少食が健康の原点』(たま出版)==============■amazon.co.jp

 今日は、私のブランクの間に読んだ本のことを書く。この間で、面白いとか
いうのを超えて、インパクトの点ではダントツだったのは、『少食が健康の原
点』という本である。出版社がたま出版であるというのが既に妖しいのだが。
著者は、もとは西洋医学を学んだ医者であったが、自分自身が病弱であったと
いうこともあって、いろいろな療法を試してみたらしい。その中でいっちゃん
善かったのが、食餌療法で、しかも少食に限るというのである。自分もやって
いるし、自分の病院でもそれを実践している。こういう「先駆者」は大体今ま
での考え方の批判をするものだが、この人も現代医学、現代栄養学をやっつけ
る。例えば、栄養学は口から入れることばかり考えていて、出すことを考えて
いないとか、なかなか当たっているところもある。よく一日30種類の食材を
使わなければならないとか言うが、これは私の経験から言っても不合理であ
る。30種類食べると、大体がカロリーオーバーになってしまう。
 ここまではよかった。
 ところが、この本の最後の方には、著者の指導による少食の実践者の手記と
いうのが載っていて、それによると、ある小母さんなどは、何と一日に50キ
ロカロリーしか食べていないのである。これがどれくらい少ないか、例えば、
白米のご飯でいうと、たった一口である。だいたいこの小母さんは「食べ」る
ことをしていないのである。彼女が口にしているのは、青汁一杯分だけ。(こ
れくらいの小食になると、火を通さない植物質のモノしか食べてはいけないの
だそうである。ただし理論的な根拠は不明である。)
 そもそも人間の大人の場合、基礎代謝量だけでも1200キロカロリー程度
は必要だし、食餌療法、カロリー制限をしていない「健康人」なら、3000
キロカロリーくらいは食べているのである。だからこの小母さんの場合は、そ
れから考えると1/60。現代栄養学で言えば、この小母さんはとっくのむか
しに死んでいる。
 これもよくあるパターンで、この著者のおじさんは最後には「思想」を語り
始める。人間が食べているものはもとは生き物だったわけで、食べないという
ことは殺生の抑制になる、というわけである。しかし、この小母さんについて
は著者も不思議がっている位である。著者が普通自分の病院で実践させている
のは、もう少し穏健なものだ。この小母さんは著者に勧められて少食をしてい
るうちに、もっと減らせる、もっと減らせると、自分で減らしていってここま
で行ってしまったのである。しかし、ここまで行かない人でも、他の、例えば
若い女性の手記によると(この人も普通では考えられない少食なのであるが
)、彼女は少食の実践によって人のオーラが見えるようになったとのことであ
る。
 こうした少食については「科学的な」裏付けがないわけではない。前に書い
たことがあるが、ニューギニア高地人のように、澱粉や植物だけを食べて、体
内で蛋白質を合成できる人もいる訳である。また、普通人が排泄してしまうよ
うな、植物繊維なんかまで消化してエネルギーを取り出すことも可能であるら
しい。
  確かに、思想的宗教的な意義を別にしても、これくらいの少食で生きられ
るなら、経済的にもメリットはある。しかし、僕がちょっと不安に思うのは、
こうした極端な少食で生きるのには修業が必要だろうということである。例の
小母さんにしても、そこまで行くのには時間がかかっているのである。そし
て、もっと不安なのは、もうもとへは戻れないのではないかということであ
る。こうした少食は一種の境地であって、身体的には根本的な体質の改善まで
到っていることだろう。だとすれば、普通の人並みの食事すら、この小母さん
にとっては致命的な「毒」に変わるのではないか。現に、この小母さんは年に
一回くらい寿司を食べ、それもたった一個なのであるが、それだけで体重が一
キロ増えるという。体内に取り入れた食べ物を全てエネルギーとして活用する
体質になっているからだろう。その過剰(寿司一個分)を取り除くために、彼
女はしばらく絶食するのである。

■■丹生谷貴志『ドゥルーズ・映画・フーコー』(青土社)=========■amazon.co.jp

 ルクレティウスは、生き物がモノを食べるのは当然だ、と言う。
 古代の原子論者である彼は、あらゆるものは原子からできていると主張す
る。だから宇宙に起こるどんな出来事も現象も、みんな原子が集まったりバラ
バラになったりといったことに他ならないと言う。
 生き物だって例外ではない。生き物もみな原子からできていて、そして「生
きている」ということ(生命現象)もみな、原子が集まったりバラバラになっ
たりといったことに他ならない。
 さて、どんなものも、時とともに、変化していく(たとえば崩れていく)。
それはどんなものも、時とともに、原子を放出し、次第スカスカになっていく
からである。生き物だって例外ではない、それどころか、生き物はとりわけ原
子を放出する。汗をかけば原子を放出する、ため息をつけば原子を放出する、
涙を流せば原子を放出する、脱糞すれば原子を放出する、だからそのまま放置
すれば、生き物もどんどん原子を失いスカスカになって、崩れていくだろう
(もはや「生き物」であることをやめるだろう)。だから原子を補充するため
に、生き物はモノを食べなくてはならない。しかし、食べ過ぎてもいけない。
生き物の危機は、スカスカになることだけではないからだ。原子が充満しすぎ
てガチガチになっても、そのしなやかさを失い、死んでしまうからだ(もはや
「生き物」であることをやめるだろう)。
 ルクレティウスは、自身の原子論に基づきながら、彼より古い、本来の意味
でのダイエット(養生術)について語っているのだ。ダイエットの目的は、
「より望ましい体重」や「より美しい体型」などではなく、「身体そのもの」
である。ダイエットとは、身体に規範(理想の姿)を持ち込むことでなく、身
体をただ身体たらしめることである。身体は、つねに分解や飛散や希薄化の危
機に、あるいは過度の濃密化、硬直化、屍鑞化の危機に曝されているから、ダ
イエットなしでは、身体のままであり続けることができない。それは、体型や
身体の特徴や状態に特定の意味付けや価値付けを持ち込むことに、遥かに先行
することだ。ダイエットはぜいたくではない。それは、身体が身体であるため
の術、身体を離れて存在し得ない私にとっては、私が私であるための最低条件
を満たすための、最低限の術(ミニマム・アーツ)だ。
 最近の意味でのダイエットも、その限界において、つまり「死んだら元も子
もない」という臨界点において、本来のダイエットを我々の身体が忘れていな
いということを、あるいは、本来のダイエットが我々の身体を忘れていないと
いうことを、露にしてしまうだろう。なんとなれば、身体(生命)の限界を越
える手前ではいつも、つまり死んで分解(腐敗)の始まる手前ではいつも(ど
んな瞬間にも)、身体は不断のダイエット(本来のダイエット)の成果である
からだ。
(つづきは別の機会に)

■■夏目漱石『吾輩は猫である』(岩波文庫、他)=============■amazon.co.jp

 大和魂について。

> と苦沙弥先生いよいよ手製の名文を読み始める。
>「大和魂! と叫んで日本人が肺病病みのような咳をした」
>「起こし得て突兀ですね」と寒月君がほめる。
>「大和魂! と新聞屋が言う。大和魂! と掏摸(すり)が言う。大和魂が一
>躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。ドイツで大和魂の芝居をす
>る」
>「なるほどこりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返ってみせ
>る。
>「東郷大将が大和魂を持っている。さかな屋の銀さんも大和魂を持っている。
>詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている」
>「先生そこへ寒月も持っているとつけくわえてください」
>「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五、六間
>行ってからエヘンという声が聞こえた」
>「その一句は上出来だ、君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
>「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく
>魂である。魂であるから常にふらふらしている」
>「先生だいぶおもしろうございますが、ちと大和魂が多すぎはしませんか」と
>東風君が注意する。「賛成」と言ったのはむろん迷亭である。
>「だれも口にせぬ者はないが、だれも見た者はない。だれも聞いたことはある
>が、だれも会った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」


↑目次   ←前の号   次の号→  

ホームへもどる







inserted by FC2 system