ヘーゲル × ベルクソン

「時間」について


 ヘーゲルが哲学史に加えた決定的な衝撃の一つは、発展、もしくは展開の思想であると言えるだろう。例えば、カントが感性から構想力、悟性、理性へと、我々の認識の構造のアプリオリな(したがって時間的な順序ではない)秩序を打ち立てたのに対して、ヘーゲル『精神現象学』は「感覚的確信」に始まる「意識」から「自己意識」へ、そして「理性」、やがては「精神」へというように、発展していく「過程」を詳細に描いて見せた。こうした発展の思想は、単に我々の認識の発展としてばかりではなく、我々の歴史にも当てはめられ、それによって壮大な体系が打ち立てられたのである。そこではあらゆるものが発展過程の各々の「段階」として位置付けられ、残る隈無く包括されている(→ダランベール対ヘーゲル)。
 こうした体系化の発展的な観点による構成を可能にしたのが、ヘーゲルの弁証法である。つまり、ある段階についてヘーゲルはそれを常に二つの矛盾する観点から考察する。例えば自己意識のステージでは、名高い「主と奴の弁証法」が挙げられる。自己意識はここで「自立性」」と「非自立性」として二重に捉えられる。主人は自立的であり、奴隷は非自立的である。しかし、実は主人が主人であるのは、奴隷という他者の存在(の承認)によるのであって、自己の生命を他者(主人)へと預けている奴隷こそ、己を空しくすることによって、むしろ主人よりも力を持つのである。
 こうした定立と反定立、その矛盾の考察による総合の提示、これによって精神は一歩一歩発展していく。精神がすべての過程を経たとき、それはありとあらゆる段階を自分の中に統合した「絶対精神」となる。つまり、ヘーゲルにおける「時間」とは、その都度産み出した対立・矛盾を、ことごとく「統合」するというステップ・バイ・ステップのプロセスなのである。
 これに対してベルクソンは、むしろステップ・バイ・ステップではなく飛躍を、統合ではなく差異化を、その時間論の中心に据えたと言うことが出来る。ベルクソンは、一般的な時間の観念がむしろ空間性に侵食されているとして、純粋な時間性をとりだそうとした(純粋持続→カント対ベルクソン)。空間の特徴が並列、併存ないしは相互外在性であるとするなら、時間の特性は継起ないしは差異化である。純粋な時間としての意識、精神は、空間として固定的に、決定されて捉えられるものではなく、流動的で、未決定なもの、したがって自由なものである。それは「もの」(物質)ではなく、むしろ「こと」(作用)なのである。
 こうした時間論に基づいて視野を宇宙へと拡張したのが『創造的進化』である。我々は、この「進化」と、ヘーゲルの「発展」とを区別しなければならない。なぜなら、ベルクソンからすれば、ヘーゲルの言う発展とは、むしろ時間や歴史の空間化であるからだ。つまり、ヘーゲルが発展と考えたものは、ベルクソンにとっては、既に到達した観点から過去を振り返って、事後的に構成されたものにすぎないからである。そこに飛躍はなく、精神が一歩一歩着実により高い段階へと移っていけるのは、実は精神がどこへ向かうべきかを予め知っているからである。簡単に言えば、ヘーゲルの言う発展とは、目的論的な過程なのである。勿論精神は自由であるとヘーゲルは考える。しかし、「自由」の意味を根本的に変更していたベクルソンにとって、そうした「自由」は自由とは呼べない。ヘーゲルの自由が目的論的に「構成」されているとすれば、ベルクソンはそうした予めの「構成」ができないような進化を描こうとするのである。それは予定された、予め分り切った発展ではなく、「創造的な」プロセスなのである(→ライプニッツ対ベルクソン)。
 木村敏の図式(→ハイデガー対木村敏)を利用して言えば、ベルクソンは未来志向の「アンテ・フェストゥム」タイプであり、ヘーゲルは「ポスト・フェストゥム」タイプである。後者が自分の経てきた段階の役割に責任を負うとすれば、そうしたヘーゲルから見て、ベクルソンの「時間」とは何とも「無責任」きわまるものであると言えるかも知れない。



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