ベルクソン × カント

時間と自由


 ベルクソンの、独自の哲学構築の実質的な出発点となった『意識に直接与えられたものに関する試論』のタイトル、「時間と自由」とは、実はベルクソン自身が付けたものではない。これの英訳が刊行される際、その訳者によって採用されて初めて登場したものである。しかし、その改題はベルクソンの許可を得ており、実際ベルクソンの意図をかなり正確に表現している。このことは、カントとの対比−−ベクルソン自身がしているように−−を前提とすれば、一層分りやすい。この作品が書かれた当時、フランスの哲学界では、カントの影響が支配的だったのである。
 とは言え、ベルクソンにおける時間と自由との強調は、何も、カントにおける時間と自由の欠如を突いたものではない。カントにあっても、時間は『純粋理性批判』で、自由は『実践理性批判』で取り上げられはするのである。だから、ベルクソンにとって重要なのは、時間と自由との単なる強調ではなく、それらの概念の意味そのものの変革なのである。
 カントの批判の試みは、一言で言えば、「可能性の条件」に関わるものである。『純粋理性批判』では「認識の可能性の条件」が、『実践理性批判』では「道徳の可能性の条件」が問われている。「可能性の条件」とは、簡単に言えば、「これこれのものが成立するためには、その前提条件としてかくかくになっていなければならない(そうなっているはずだ」というものである。カントの仕事が事実問題ではなく、権利問題だと称されるのは、この意味においてである。つまり、「事実こうなっているからこうなのだ」というのではなく、「こうなっていなければ(例えば認識は)成立しないのだから、こうなっているに違いない」とするのがカントの議論の進め方なのである。実は、カントが「コペルニクス的転換」と呼んだものの正体はこういうものなのだ。
 こうした議論は、したがって、既に認識なり何なりが成立していることを前提とし、つまり出来上がった認識から出発して、可能性の条件を、事後的に追いかけていって再構成することになる。だから、カントの『純粋理性批判』の叙述は実は逆転している。感性的直観によって仕入れられた材料が、想像力による図式、悟性の範疇といったフィルターを通すことによって整理されて、きちんとした「認識」になるという順序は、つまりは、フィクションなのである(当たり前だが)。だが、カントは、それが「事実だ」と言うのではなく、必要条件なのだから、こうなっているはずだ、と言っているに過ぎないのだから、彼は決して間違うことはないのだ。
 こうした「正論」を反駁するには、二種類の方法がある。一つはそうした条件の形式的な矛盾を突くことであり、第二は、そうした議論の枠組みそのものを暴力的に否定することである。ベクルソンの試みは後者である。
 カントが出来上がった認識から遡行的に考えたのに対して、ベルクソンはまさに、「意識に直接与えられたもの」から出発しようとする。それは、当然ながら、カントの言う「認識」の整理された平板な状態、つまりは「形式」とは違って、多様であり、さまざまな強度を持つ、質的なものである。ベルクソンはこれを「純粋持続」、と呼ぶ。即ち、時間である。しかし、敢えて言えば、こうした純粋な、未整理な、多様なものは未決定なものであり、したがって、これが見出されるのは、未来においてのことなのである。カントが遡及的な議論によって再構成しようとしたのが、認識の必要条件という、出来上がった認識にとっては既に終わっているもの、いわば「過去」であるに対して、ベルクソンの逆転が見出すのは、これからの時間なのである。したがって、これは、カント的な認識の決定された様式とは違って、自由なものである。
 こうして、ベルクソンの試みは、時間の発見によって、自由を基礎付けるという試みであり、その作品が「時間と自由」と呼ばれる根拠もここにある。


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