ライプニッツ × ベルクソン

可能性と現実性


 ライプニッツが、我々のこの世界を最善の世界であるとした(楽天主義、最善観=オプティミスム)のは、神がそうなるように選択したからという根拠に基づくものだった。この点だけを取り上げると、それはまさしく楽天的な考えである。しかし、神の「選択」という点を取り上げてみるなら、ライプニッツの思想の組み立てには興味深いものがある。なぜなら、「現実」に神が創造したのは我々のこの現在の世界ではあったが、「可能性」においてなら、神は別な世界、今のこの世界とは違った世界を作ることもできたはずだということが前提されているからである。実際、ライプニッツと言えば可能的世界というのは、哲学史にあって一つのセットになっている。こうした神による選択という考えは、直接的には、スピノザの考えに反論するものであった(→スピノザ対ライプニッツ)。なぜなら、スピノザはそうした可能性を認めず、この世界は神の必然的な決定によって出てきたのであり、これ以外の仕方は考えられないとするからである(『エチカ』第一部定理28)。
 ところでベルクソンは、論文「可能性と現実性」(『思想と動くもの』所収)の中で、可能性の問題に不意打ち的な切込みを見せている。この論文は彼の四大主著の一つ『創造的進化』を補うもの、あるいは圧縮したもので、「宇宙において次々に起こるように見える、予見できない新しさを持った連続的創造について」述べている。ベルクソンは、物質や、それの慣性的な運動、言い換えれば単なる反復に過ぎないような出来事をモデルにして世界を説明しようとする立場、つまり機械論的な自然科学的思考を批判する。そうした世界は抽象的なものである。これに対して、我々は常にある新たな創造を「体験している」のだ、と。周知のようにベルクソンは「時間」概念をキイ・ワードに思索を進めたが、こうした出来事の創造的な側面は、時間の不決定性と言い表される。「時間はこの不決定そのものではあるまいか」。
 そして、そうした不決定なはずの世界を、反復、決定、惰性として捉えるのは、我々の悟性の仕業であり、それは、我々の思考(悟性)が「制作」という観点に囚われているからだとする。つまり、我々はある未知の出来事を、あたかも既知のもの、見通していたものであるかのように思い込んでいるのである。我々は悟性を働かせて、予定し、計画し、見通して、その見通し通りに物を制作することはある。しかし、すべてこの世界の出来事がそんな風に生じるのではない。ベルクソンによれば「哲学の大問題は一般に提出の仕方が間違っている」のだが、その間違い、偽の問題の一つは、こうした「制作」と「創造」の混同によるものである。ベルクソンのこうした考えを広げれば、例えば、自然科学で言う「実験」とは、出来事を人間の制作できるものであるかのように思い込むための欺瞞的な装置なのだと言えるかも知れない。
 こうした錯覚は「空虚から充実へと進む習慣」とも言い替えられる。こうした習慣こそ「実在しない問題の源である」のだ。ベルクソンがここで「空虚」と呼ぶものが「可能性」であり、「充実」と呼ぶものが「現実性」であると解すれば、もう一つ別の、「偽の問題」が出来上がる。つまり、「可能性は実在に先立つ」という思想である。この思想を否定するからといって、ベルクソンは、現実性が可能性に先立つと言いたいわけではない。むしろ、可能性とは、ある出来事が起こってから、「後から」、こうも出来た、ああも出来たと我々が考え出す(つまり、制作する)ものに過ぎないのだ。「そのイメージの可能性は、その実在性に先立つものではなく、一度実在性が現れてしまうと、それに先だったものであろうということになる」だけなのである。つまり、問題は、可能性が先か、現実性が先かではない。そうした問題は「偽の問題」なのだ。「可能的なものは一度現れた実在性とその実在性を後に追いやる装置との結合した結果」なのである。つまり、そうして後から作られた「結果」が、あたかも先立つ「原因」のように看做されるところに「偽の問題」の源があるのである。
 ベルクソンは、時間とともに「自由」を標榜する哲学者である。しかし、彼の言う「自由」が、従来の哲学者が考えてきたような「自由」でないことはここからはっきりと読み取ることができる。つまり、他の哲学者たちの言う「自由」とは、多くの可能性の中から、一つのものを「選択する自由」なのである。しかし、可能性が現実に先立つこと、あるいは可能性の想定そのものを否定するベルクソンにとっては、そうした「選択の自由」は自由ではないのだ。ベルクソンにとって真に「自由」なのは、見通すことができないような、予め思い浮かべることができないような出来事の新しさにこそあるのであって、我々の選択する意志にあるのではない。
 こうしたベルクソンの観点からすれば、ライプニッツの可能世界は、「制作」的な悟性の観点によって、後から空想されたものであるにすぎないだろう。ライプニッツは、この世界が神の意志の自由な創造の産物だと主張するだろうが、ベルクソンにとっては、そうした概念装置は、我々の産み出してしまった「偽の問題」を神の世界創造のプロセスに当てはめたものであることになるだろう。
 可能/現実という対概念を提出したアリストテレスの思惑がそうであったように、可能性が現実性(完成)へと至るという思想は目的論的な立場である。ベルクソンは、目的論も、そして機械論も認めない。彼の第二の主著『物質と記憶』が、唯心論と唯物論の調停を目指したように、『創造的進化』も目的論と機械論の調停を目論むものである。そして、ベルクソンが到達したのは、世界の進化・発展・展開は、何らかの目的を目指したものではなく、しかし、機械論的に反復的なものでもなく、自らの中に発展の力を内蔵した、内発的なものだという思想だった。この立場からすれば、可能/現実という対概念による目的論は、内発的なはずの力を外部に目的として設定するものであることになる。もし、この可能/現実の概念を使うなら、ベルクソンの立場は、可能性と現実性とは、ある出来事が生じた時に、同時に生じるのであって、可能性が先立つのではないのだということを確認しなければならない。




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