デモクリトス × ライプニッツ

原子と単子(モナド)1


 デモクリトスを初めとする古代原子論とライプニッツのモナドロジー。このどちらを選ぶかは、原子かモナド(単子というはよく分からないから、モナドという余計分からない言葉を使っておく)か、という選択の問題ではなく、むしろ世界の秩序の問題である。
 デモクリトス(やレウキッポス)が原子を選ぶのは、それがすっきりしているからである。まず基準になるものを求めよう。それには、それ以上分割できない(これがアトムの原義である)最小もの、つまり原子を設定する。あとは、物の違いや変化を、原子の形や組み合せ、位置関係によってすべて説明できる。これ以上のものは要らない。デモクリトスの考えでは、そのためには、原子は形と大きさが違っていればよい(エピクロスはこれに「重さ」を加える→デモクリトス対エピクロス)。逆に言えば、質的な違いはなくてよいのである。例えば味覚を考えてみよう、甘いものは丸い、辛いものは尖っている。ほんとは違うかも知れないが、どうだこれで説明できるだろう。
 ところが、ライプニッツの考えでは、これでは世界の秩序が説明できない。せいぜい、この世界の秩序は偶然に出来たものだ、というしかないではないか。実際デモクリトスは、宇宙の生成に関して、偶然性を導入していた(→デモクリトス対アリストテレス)。
 しかし、宇宙のこの秩序が神的なものである以上、それは固有の必然性をもったものでなければならない。自然は機械的に説明できるとしても、その際のメカニズムそのものは物質だけでは説明できない、というのである。そこでライプニッツは、原子概念を大きく変革する。それは物質的な点ではなく、精神的な力を持ったものである。そもそも、原子はそれ以上分割できないものとされているが、いくらでも分割可能と考えられるではないか。確かに、原子は物理的実在と考えられているのだから、幾何学的な点(延長・大きさのない点)とは違って現実的である。しかし、不可分ということを物質のレベルで求めることはできない。その点ではむしろ幾何学的な点の方が正当である。
しかし、これは実在的なものではない。だから、世界の根源的な要素としては、原子という物質的な原理ではなく、精神的な原理が必要なのである。こうして、非物質的で、かつ現実的に不可分な点としてのモナドは、原子とは違って質的な点、力をもった点である(→ニュートン × ボスコヴィッチ)。
 こうしてライプニッツは、自然学の説明に形而上学的な点であるモナドを導入する。
モナドという命名は、ギリシャ語のモナス、つまり「一」という意味の言葉に由来する。これは、既にモナドが不可分というだけではない、統一性を持ったものであることを示唆している。実際ライプニッツは、「一」であることこそ存在そのものの本質的な構造であるとしている。その「一」としてのモナドは、その内に力(内的差異)を内在させており、どれ一つとして同じものはない。原子論が物の性質や質的変化までをも原子の量的な差異(大きさ)や配列に還元したのに対して、ライプニッツは、原子に、いわば個別性(個性)を持たせるのである(→ライプニッツ × ボスコヴィッチ)。
 そうした精神的な力とは、要するに完全性へと向かうもの、つまり方向性ないしは目的性を具えたものである。ライプニッツはだから、モナド(あるいはその力)を、アリストテレスに由来するこ言葉を用いて、エンテレケイアと呼ぶ。世界の秩序は、実に、こうした完全性への方向性によってこそ必然的なものとして認められるのである。


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