デモクリトス × アリストテレス

必然性について


 デモクリトスは普通、哲学史的には、レウキッポスとともに一括されて原子論者とされる。ここでは主に、アリストテレスの整理を基にして考えてみよう。
 アリストテレスは、「自然学」において「原因」の問題を扱う中で、「偶然性」の問題を取り上げている。
 アリストテレスの議論は常に哲学史に関わる。彼の議論は、直接的に自分の考えだけを述べようとするのではなく、網羅的であることを旨としており、あらゆる可能性を取り上げようとするのである。その場合、網羅的とは論理的可能性とともに、哲学史上の学説に関しても言えることである。このように、アリストテレスの議論は、二重性を持っている。偶然性の問題では、デモクリトスが取り上げられるわけである。
 アリストテレスの整理によれば、デモクリトス及びアリストテレス自身の考えは次のようなものである。
    デモクリトス  アリストテレス
 宇宙の発生:偶然性←→必然性
        ↑   ↑
        | × |
        ↓   ↓
 自然世界内:必然性←→偶然性

 デモクリトスによれば、宇宙発生は渦巻運動による。しかし、この渦巻運動は偶然に生じたものなのである。逆に言えば、デモクリトスは、自然におけるあらゆる運動を機械論的必然性によって説明しようとするのだが、宇宙の発生そのものは偶然であるとしか言えなかったということである(ここから宇宙そのものの多数性が導かれるが、今はオミットしておく)。アリストテレスはこれとは逆に、宇宙の生成こそ100%必然的であり、自然内(月下の世界=地上)では僅かな、1%ほどの偶然があると言う。ニュアンスの違いを無視すれば、デモクリトスとアリストテレスの考えは、上の図式に見られるように、正確に逆対応していることになる。しかし、実は、こうした対比は間違いでないものの、あまり意味がない。なぜなら、両者では必然性の意味そのものが(したがって、その対である偶然性の意味も)異なっているからである。
 アリストテレスの基本的な観点の一つが、自体性と付帯性の区別にあることはよく知られている。原因の分類においてもそうであって、つまりは自体的原因と付帯的原因とがあることになる。実は、アリストテレス自身は、例の四つの原因(質料、形相、動力、目的)をまず枚挙し、それを「普遍的−個別的」、「自体的−付帯的」、「単純−複合」と三つの対概念で分類し(4×3=12通りの原因)、それを更に「可能的−現実的」の対概念で倍加させる(結局12×2=24通りの原因)のだが、そこで最も基本的な働きをしているのは、やはり「自体的−付帯的」の対なのである。というのは、こうした原因分類そのものが「自体的−付帯的」の区別の所産だからである。
 「自体的−付帯的」を具体的に言えば、こうである。例えば、「大工が家を立てる」という場合、大工の働きと能力は家の建築の「自体的原因」(この場合は「自体的な、動力原因」)である。しかし、「大工がバイオリンを弾く」時、その演奏者が大工であることは、演奏にとって「付帯的原因」であるに過ぎない。つまり、「自体的」とは「本来の」の意味であり、「付帯的」とは「たまたまの」ということなのである。だから、あることが「付帯的原因である」ということは、「それは本来の原因ではない」と言い替えても好いのである。
 しかし、重要なのは、そうした「自体的−付帯的」の区別に先だって、「自体性」そのものが、アリストテレスにあっては、「知性」ないしは「自然(本性)」を前提としているということである。この場合「自然(本性)」とは知性による理解可能性、知解性を意味し、要するに「自体的」であるとは、知性によって理解できる、ということなのである。「付帯性」はこうした「自体性」に付帯、付属、従属するものであり、逆に言えば、「付帯性」があれば、必ず「自体性」がある。
 ところで、「付帯的原因」が「無原因性」を意味するとすれば、偶然というものが「付帯的原因」であることは明かである。つまり、あることの原因は「これこれの偶然的な原因である」と言うなら、それは同時に「付帯的原因はこれこれである」と言うのと同じであり、つまりは、その「原因はない」と言っているのと同じなのである。したがって、デモクリトスの「宇宙の発生は偶然である」という命題は、アリストテレス的には「宇宙の発生は付帯的原因による」、「宇宙の発生の原因はない」、「宇宙の発生は分らない」と言っているのと同じなのである。
 しかし、アリストテレスにとっては、「付帯性」は「自体性」を前提にしているのだから、当然、宇宙の発生にも「自体的原因」はあらねばならない。しかし、既に見たように、その場合の「原因」は、既にデモクリトス的な原因、機械論的な原因ではない。それは原因というよりも根拠ないしは理由なのである。アリストテレスがアナクサゴラスから得た言葉によれば、「知性(ヌース)」である。言い換えれば、「目的」である。つまり、アリストテレスが「必然性」を言う時、それは目的論的な必然性なのである。
 こうして、アリストテレスとデモクリトスの対立は、必然性概念そのものの対立であり、結局のところ、目的論的な必然性と機械論的な必然性の対立なのである。


inserted by FC2 system