デモクリトス × エピクロス

「宇宙=機械」のはじまり


「同じ文字(アルファベット)から、悲劇も喜劇もできている」とデモクリトスは自分の原子論を説明した。アリストテレスなら「悲劇は尊い人間を、喜劇は劣った人間を模倣する」と述べるのだから、えらい違いである。ミソもクソもいっしょくたである。すべては、それ以上分割できない最小もの=原子(アトム)の形とその集散、配置によって説明される。事物の質的相違、多様性だけでない。事物の質的変化、生成・消滅にいたるまで説明する。ついでにいうと、原子自体は生成も消滅もしない。世界が(多様性に満ちて)存在している以上、原子は《すでに存在している》。
それだけでない。世界に様々な変化が起こっている以上、原子は《すでに運動している》のである。
 機械論的説明(あるいはシステム論といったものは)は、必然的に「外部」を持ってしまう。理論上のアルキメデスの点。すなわちその「(世界の)起源」であり、「機械=世界」が動き始めるための「最初の一撃」をである。デモクリトスは、世界に何の原因も目的(因)も必要としなかった。原子の結合・分離の原理として、エムペドクレスやアタクサゴラスのように、愛や憎しみ、あるいはヌースを必要としなかった。あるいは必要を認めなかった。機械論的説明はこのように(他になにもいらないくらいに)ほとんど完璧だが、たった一箇所「外部」に開いている。というよりは、理論が成り立つために要請されるが理論においては導き出すことのできない「アルキメデスの点」において綻び、つまり穴が空いている。事物の質的相違、多様性だけでない。事物の質的変化、生成・消滅にいたるまで説明する「機械論的必然性」に、その穴から偶然が侵入するのだ。
 エピクロスとルクレティウスはこのデモクリトスの原子論にわずかな「改造」を加えた。彼らがやったのは、理論のいたるところに「穴」を開けること、そして「穴だらけ」をもって理論とすることだった。世界の事どもはすべて、原子の運動、互いにぶつかって反発し方向を変える等といった運動でできているという点で、エピクロスはデモクリトスと同じだった。ただ、原子は他の原子にぶつかったりしなくても、クリナメン=偏奇する運動変化でもって、運動のコースを変える。そして原子はそれなしには、他の原子と出会うことがない、つまり「ぶつかって反発し方向を変える」なんてことはクリナメンなしにはあり得ない、とエピクロスは主張した。つまるところ、エピクロスは、デモクリトスにおける「最初の一撃」、原子運動としての宇宙の開始を、いたるところ/あらゆる瞬間にばらまいてしまったのだ。これはつまり、宇宙とそして宇宙の理論に、無数の「穴」を穿つことだ。宇宙は「不断の/のべつまくなしの《はじまり》」をもって宇宙である。
 「精神が自分の重力の強制にしたがうほかないのではなく、それに圧倒されてひたすら受身にならなければならない訳ではないのは、斜行運動からくる」(ルクレティウス「物の本質について」第二巻289) エピクロスとルクレティウスは、このクリナメンの導入をもって、デモクリトスの原子論の持つ機械論的決定論から、「意志の自由」を擁護したといわれる。それは機械論的決定の及ばない領域を確保するのでなく(否、機械論的決定は宇宙をあまねく覆うのである)、「不断の/のべつまくなしの《はじまり》」を、無数の「穴」を導入することでそうしたのだ。エピクロスの神のすまう《場所》である。それは宇宙のすべての場所、すべての時間に、ある。


inserted by FC2 system