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           読 書 猿   Reading Monkey
            第89号 (やっとこひゃっとこ号)
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■■宮崎義一『世界経済をどう見るか』(岩波新書)===========■amazon.co.jp

 あんなにたくさんあった岩波新書の宮崎義一が、一冊残らず消えてしまった。

 ベストセラー『複合不況』(中公新書←こっちはまだ本屋に並んでる)は実の
ところ、この本や『円とドル』(岩波新書)の単なる続編に過ぎない。
 いまでは信じがたいことだが、経済学はその出自からして「国民経済」を取り
扱うものであり、世界経済などはその背景として取り扱われるにすぎなかった。
それが今なぜ「世界経済」なのか、なぜ今では当然に「世界経済」が毎日語られ
論じられなければならないのか、今まで「国民経済」と呼ばれるものがどれほど
「世界経済」を前提にしつつ見ないでいれたか、何が変わってしまい、何が我々
にいやおうなしに「世界経済」を論じさせるのか、というところからこの小さな
本は始まっている。
 我々に「世界経済論」を強いるものとしての世界経済の登場。この本は、いわ
ばそうした「現在」のとば口に立っている。


■■ロジェ・シャルチエ『書物の秩序』(ちくま学芸文庫)=========■amazon.co.jp

 「作者」は、今日では、名声を得るため、カネを得るため、自分の考えの影響
を増すため、就職するため、敵対する考えの影響を減らすためなどの他に、さま
ざまな「読者の利害とは一致しない」理由から書物を著す。結局のところ、「作
者」は作者自身のために執筆し出版するのであって、それは本来的には読者のた
めではない。
 本当のところ、独創性のために「作者」が費やす苦労によって、どれほど読者
が悩まされ、余計な時間を費やすはめになっているか。とりわけ「作者」が伝え
なければならない新情報や重要情報の欠如は、この「独創性への労苦」をかけあ
わせることで、しばしば多大な損害を読者にもたらす。ただ新奇にみせかけられ
た考えや表現を受け取るために費やされる時間を少しでも減らせるのであれば、
人はその分、自ら思考することにあてることができるばかりか、泳ぎにだって出
掛けられるというのに、である(もちろん、同じような作者の同じようなおびた
だしい作品を読むことがこのうえない喜び/ひまつぶしである読者----彼らに幸
あれ!----のことを、ここでは考えない)。

 「作者」が、あるいは文学著作権が登場したのは、直接には、「出版特認」を
剥奪されそうになった出版業者が、その対抗手段としてそれらを持ち出してきた
時だった。「出版特認」は従来国王から書物の販売特許として与えられ、これま
でロンドンやパリの出版業者に利益をもたらしてきたものだったが、イギリスで
は1709年に「アン女王の法令」と呼ばれる法律によって、この独占販売体制
に対する攻撃がはじまる。そしてフランスでも1760年代に入って「出版特
認」の延長廃止をめぐる動きが激しくなった。この危機に対し、これまで独占的
な利益をあげていたパリの出版業者は、この時代最も戦闘的な「古典主義の攻撃
者」であったディドロに依頼し、論陣を張る。彼らの戦略は、これまでは国王か
ら授けられた「特権」に過ぎなかったものを、コモンローや自然権として位置づ
けようとすることだった。
 出版業者たちは、「作者の、作品に対する所有権」に「出版する権利」を基礎
づけることで、従来からの「特権」を守ろうとした。逆に言えば、「アン女王の
法令」が、そしてフランスにおける1777年の国王顧問会議裁決が、出版業者
の独占を排し「守ろう」した「作者の、自分の作品に対する権利」とは、作者自
らが有する「出版特認」だった。したがって、ディドロの主張もこの点をめぐ
り、次のようなものになる。「作者は自らの作品の主人であり、さもなければ社
会の誰ひとりとして自己の財産の主人ではないことになる」。そして出版業者の
代弁者として、ディドロはつけ加える。「書籍商はこの作品を、作者が所有して
いたのと同じように所有するのだ」。
 ところがこれには反論が起こった。それではあらゆる知的成果は、たとえば思
想や様々な真理までもが、私有占有されることになるではないか。時は啓蒙時
代、「思想は万人のものである」と権力者(王侯貴族や聖職者)による知識の独
占に対しての戦いがすでに始まっていた。世界の共有財産であるべき、思想や真
理を、私有独占するとは何事であろうか。
 「世界の共有財産であるべき思想や真理」(似たようなのが岩波文庫のうしろ
に書いてある)という考えが、今度は出版の独占状況を産み出す「版権の恒久
性」に異議を唱える者たち、例えば地方の出版業者の理論的支柱となった。彼ら
はロンドンやパリの業者による独占状況が解消されるようになって初めて、出版
で儲けを得ることができるようになる連中だった。彼らによれば、文学作品は機
械の発明と同列に置かれなくてはならない。誰もが使用できその恩恵を受けるこ
とのできる発明品(それをただ発明者の研究室に閉じ込めておくのは、人類に
とって大きな損失である)。これらはいずれもコモン・ローによって規制される
所有権と見なすことはできない。したがって版権もまた、特許のように時効を設
けるべきだ。文学著作権という所有権は公益によって制限されなければならな
い、と。
 「文学著作権の公益による制限」を主張する意見に対して、版権の恒久化を図
ろうとする連中は、再反論する必要があった。なるほど思想は普遍的なもの、人
類共有されるものである(べきだ)。しかし作品で用いられるその「表し方」
は、作者独自なものではないか、と。「表し方」を独創的な創造物と見なす、こ
の新しい考えは、「表現」を「作品」と同一視する見方のひとつの端緒だった。
そして「表現=作品」の「独自性」でもって「表現=作品」の私的所有を取り戻
すことで、独占出版業者は(今度は「表現=作品」の)私的所有権から版権の財
産化、版権の相続化・恒久化を図る戦略をもう一度復活させようとしたのだっ
た。
 ここにおいて(ようやく)「作品」は、これまでのように神意の現れでも伝統
でもジャンルでもなく、作者の「独自性」に直接結びついたものとして登場す
る。つまり「作品」は、「商品」となるために(そして「商品」となると同時
に)「(作者のみに帰属する)独創的な創造物」となったのである。


■■フリチョフ・ハフト『法律家のレトリック』(木鐸社)========■amazon.co.jp

 もうタイトルも忘れてしまったが、確か講談社のブルーバックスあたりに、論
題をどう分析すべきか、議論をどう組み立てるべきか、相手のロジックにどう反
対すべきかなど、なんにも書いてない、ただ世の中にはディベートとかいうもの
があるらしい、ということしか分からない(それだけしか情報がない)本があっ
た。
 ディベートなんぞはしょせんはゲーム(だって勝ち負けもあれば審判もいる、
現実はそんな甘いもんじゃない)と断じ、ペレルマンなどの新しいレトリック論
の成果にも触れながら(けれど難しすぎる、とケチをつけ)、「テコの原理」を
比喩にして説得の技法を説いた(多分)ビジネス書もあった。
 もう少しマトモなのをお望みなら、例えばこの本はどうか。議論や説得のため
の実践的な「定義」(概念展開)や「論理」(概念使用)をはじめ、議論(弁
証)の類型(タイプ)やパターン、陥りがちな思考誤謬や応用例を説いていて、
法実務家のニーズから眼を離さない。
 法律を学ぶことは法解釈を学ぶことらしいどこかの国では、「法律の/を使っ
た論じ方」をも学び得るものだとするこの書は、投じられた一石になるやも。加
えて、直訳であるこのタイトルが「悪口の一種」(おそらくは詭弁を意味する遠
回しの表現あたり)に見えてしまう、レトリックが未だ「文章教室」の範疇にし
かないどこかの国においても。


■■バアネット作,若松賎子訳『小公子』(岩波文庫)==========■amazon.co.jp

 では、なんとなく気がふさぐとき、いらいらして何も手に付かないとき、がん
ばらなくっちゃと焦りが空回りするとき、ワラをもつかむ思いで『シッタカブッ
タ』なんか読みたくなったとき、どうするのか。
 どこでもいい、若松賎子訳『小公子』のページをどこでも開いて読むのだ。で
きれば声に出して。たとえば106〜107ページ。

>  「フォントルロイ、貴様、何を考へてゐるのだ?」
> と被仰(あふせられ)ると、フォントルロイは気を勵して、漸く、にッこり笑
> ひ、
>  「僕、かあさんのこと考へてたンです、僕……何だか變ですから、ちッと、
> あッちこッち、歩いて見ませう。」
> といつて立上り、小さなポッケットに兩手を突き込んで、あちらこちらと歩き始
> めました。セドリックは情を忍んで、眼を潤ませ、脣を堅く結んでおりました
> が、首を擡げて、しッかりしッかり歩いて居ました。ダガルは不安心といふ調子
> で、見て居りましたが、やがて立つて、セドリックの居る方に歩み寄り、何か落
> 着かない様子で、セドリックの行く方について行きました。セドリックは、片手
> をポッケットから出して、犬の頭に載せながら、
>  「おまへ、好い犬だね。僕の友だちだね、僕の心持を知つてるね。」
> といひますと、侯爵が、
>  「どんな心持がするんだ?」
>  此子供が始めて家を離れて、頻りに淋しがるのを見て、侯爵は快く思召しませ
> んかッたが、併し又それを辛抱しおほせようとして、きつくなつて居るのが、お
> 気に叶つて、幼いながらの勇氣を、殊勝に思はれました。侯爵は、セドリックに
> 向つて
>  「ここに来い!」
>  セドリックは、直にお側に行つて、例の茶勝な眼に、困つたといふ思はくを現
> し、瓣じて申しました。
>  「僕はね、一度もまだ餘處へ泊りに行つたことがないンです。初めて自分の家
> を出て、人のお城へ泊まるなンていへば、誰だッて變でせう。だけど、かあさん
> はそんなに遠方に居るんぢやないンですからね。かあさんが僕に、その事覺えて
> おいでッて、さういつたンです。それから、もう僕は七つになつたンだから……
> あのそれから、かあさんが下すッた寫眞を見て居られるから、好いンですよ。」
> といつて、ポッケットに手を入れて、藤色天鵞絨(びろうど)で張つた小さな箱
> を出し、
>  「これですよ、ね、此ばねを、かう推すと聞きますよ。ほら、中に居ましたら
> う!」

 ニホンゴが行く、計測しがたいこの衝撃!



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