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           読 書 猿   Reading Monkey
            第63号 (にんげんのことば号)
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■■デカルト『方法序説』(岩波文庫)===================■amazon.co.jp

 ウィトゲンシュタインは、哲学のむずかしさを「何かを断念する困難さ」だ
と言っている。彼のことばでいえば、「哲学は、涙をこらえたり、怒りをこら
えたりするのと同じくらい」むずかしい。
 そしてこれは哲学書の「難解さ」とはてんで別の話だ。何故哲学書が「解り
難い」かといえば、(実に多い日本語未満の翻訳を別にすれば)他の哲学書を
やっつけようとするからだ。そのために自分以前の哲学の要約や曲解、批判や
中傷を、哲学書の中に組み込むことになり、うじゃうじゃと入り組んだものに
なってしまうのだ。
 西洋の中世あたりには、「自分以前の哲学」は、「問題」の形になってい
た。あらかじめ「問題」が用意されていて、これらの「問題」を考えることだ
けが、本当に考えること(哲学すること)とされていた。
 デカルトはそんなことはやらなかった。そうすることが「哲学すること」だ
としたら、そんな哲学を「つづける」ことなどデカルトはしなかった。デカル
トがやったのは、「つづける」こととは反対に、「はじめからはじめる」こと
だった。
 彼は問題についての思考なんかでなく、自分がどうやって「本当に考えるこ
と」をはじめたか、どうやって「はじめる」に至ったかを書いた。「どうやっ
たか」が彼の哲学であり、それ故にこの書には「方法」の名が与えられるだろ
う。そして、この本には、ダーウィンの『ビーグル号航海記』やレヴィ・スト
ロースの『悲しき熱帯』と同じく、主人公がいる。「はじめる」ために、振り
ほどかなくてはならなかったものと、振りほどくために必要だった旅や懐疑
(それらはデカルトにとって一対のものだった)の記録がここにはある。
 デカルトは「難解」ではない。そして同時にそれは涙をこらえるとの同じく
らいに「むずかしい」。なんとなれば、デカルトの懐疑は、「はじまり」にま
で一旦立ち戻るために、うざったい伝統的哲学はおろか日頃親しみ慣れたもの
ごとについてまで、不断の断念を(それは同時に決断でもある)を要求するか
らだ。


■■山下邦彦「チックコリアの音楽」(音楽之友社)============■amazon.co.jp

 こういう本もあってもよかろう。でこの人、坂本龍一全仕事とか、キース
ジャレット対話とかをしかけるひとで、フリーランスのランスが槍になってて
けつにぶっささるという見事な書。
 ビートルズのチューブ、ドパウエル「苦い」コード、あげくメタブルース。
もうNGワードばしばし。いったいこの人どんな青春時代送ったのかそっちの
ほうが気になる内容だ。こういう本は腐るほどあったほうがいい。俺は好き
だ。引用やインタビューなどもたくさん読めるのでお得。直腸に来る内容。
 他には「ビートルズのつくりかた」という本で「パンツをぬいだコード」と
かくりしん「鉄の処女」も真っ青な企画内容。音楽芸能界の柄谷行人あるいは
遊人。


■■坂本龍一/山下邦彦『坂本龍一全仕事』(太田出版)==========■amazon.co.jp
■■坂本龍一/山下邦彦『坂本龍一音楽史』(太田出版)==========■amazon.co.jp

 単なる中上好きかとも思わせるような陰惨なボキャブラリー(コルトレーン
「土のコード」とか)、高橋ユウジ譲りの陰惨なディマンド(坂本君ちいさく
なあれ、もっともっとちいなくなあれ・・)を乗り越えた、世界のサカモト
(市場が巨大[世界企業が何億枚]なんじゃなくて、市場が広い[全世界何千
万店の店舗に2まいづつ])の全仕事をカヴァーした奇特な内容の書。7670円
という大枚はたいて果たしてこれを誰が買うか。でもCD三枚分くらいなので
これはまあ買うだろうが二冊で一万二千円だ。
 おまけに内容は盛りだくさんの引用でインタビューで、柄谷ゆずりの引用ば
しばしコードちゃん合体、解体解体、おまけになにいってんだかわからないシ
ンピテキ作用も働いて脳味噌非常にグーもうかっこつきで「グー」。
 おおまかな筋としては高橋ユウジの作曲教室に通っていて、芸大を出て日本
の著名作曲家(谷川俊太郎の友達のなんとか満とか)になるはずだったサカモ
トがいきなりセクト参加したりアングラ芝居の作曲を経てりりぃに加入して、
バックミュージシャンのくせにピアノに釘さしたりの前衛あるいは西海岸をし
ようとして、折しもフランス印象派音楽をハリウッドやティンパンアレィに
よってばしばし吸収してブクブクになっていた細野ヒゲ晴臣とジャズで意気投
合、ジャパニーズモードオーケー?(ピコピコピコ)コンバイン!。シムー
ン。オッケーちゃん合体という寸法。なんというか、いろいろな意味でこれも
もったいない本だ。


■■Frankie Rubinstein,"A Dictionary of Shakespeare's SexualPuns and
Their Significance",2nd ed.,St.Martin's Press,1995:0-312-12677-8 ■=■amazon.co.jp

評者(無価値坊弁軽と申す)は駄洒落が好きやきんのたまたまインターネット
で駄洒落についての本の検索してたら出てきた珍々本がこれで会社を辞めたく
なった甲斐性なしかいなとヤケ酒くらってわいんわいんと空き瓶山なし大騒ぎ。

タイトルは勝手に訳すと『シェイクスピアのシモネタ洒落とその意義について
の辞典だやっほー』で早漏いも揃って早い話が『セックスピア辞典』でいざ候。

ナニは友あれ入れたらホモだち、浪速の早速、辞典の項目一つ例示をばそんな
こたぁどうでも引用。


【Apples】Testicles.
TN,v.i.230. Antonio looks at Sebastian and Cesario:'How have you
made division of yourself? / An apple, cleft in two, is not more
twin / Than these two creatures. 'An apple, cleft in two(testes)
is not more twin(testes) or didimos(Gk, testicle;twin).


“りんご”を男性の“タマタマ”を意味するような用例ってわけざんすな。作品
は『十二夜』五幕一場から、というと、ラストですな。 坪内逍遙訳参照。


(セバスチャンとその双子の妹ヴィオーラが男装したシザーリオにアン
トニオが言う)

「どうして二人になったのです? 一つのリンゴを二つに割ったって、
この二人ほどに似てはいまい」


どこが男の“タマタマ”やねん。この坪内訳ではシモネタ的意識が露わではな
いですな。いや、露わでないどころか、消滅してますな。時代のせいか、日本の
お国柄か、坪内のヨミの浅さか…。
何にせよ、作者セックスピア先生、ここは男が股間にぶら下げている袋入り2
個のタマ、それぞれのように互いに区別が付かんほど似ているという意味を含ま
せて、Apple という用語を使っているっちゅうこっちゃね。このような粋なシモ
ネタ洒落言葉を集めた本書は、セックスピア大先生が以後、現代に至るまで英語
という言語とその表現体系に与えた影響の大きさを“モノが立って”いるのであ
る。


■■クラウゼウィッツ『戦争論』(岩波文庫)===============■amazon.co.jp

 クラウゼウィッツという人が書いていた草稿を、死後編集してでっちあげら
れた「戦争論」という本があります。タイトルだけ聞くと、まるで「戦争のや
り方」が書いてあるように思えます。
 プロイセン(昔そういう名前の国がありました)の軍人さんやら、もっと後
世の軍事理論家の人達もそんな風に思って、「こりゃいける」と思って、その
本は全世界で出版され読まれました。実際、クラウゼウィッツという人は戦争
に参加してナポレオンに負けてひどい目にあったりしましたが、彼が書いたの
は実は「戦争のやり方」というよりむしろ、「戦争とはどういうものか」「今
や戦争はどんなものになってしまったか」「戦争はどんなものであり得るの
か」といったことでした。まるで「哲学書」みたいです。そして実際彼は「戦
争についての哲学書」を書きたかったのです。
 哲学書というのはご存じのとおり役に立ちません。クラウゼウィッツは死ん
でからもその本のおかげでますます有名になったので、多くの批判者が現れま
したが、その一人は「あいつの「戦争論」なんて実際には全然役に立たない」
と悪口をいいました。軍人さんが欲しがっていたのは、それさえ勉強すれば戦
争に勝てる「戦争論」、実際の戦争を行うにあたって「どんな場合にはどんな
作戦を立てたらいいか」その処方箋を導き出してくれる方法(HOWTOもの)でし
た。
 クラウゼウィッツの「戦争論」は、戦争がどういうものかを明らかにしよう
とする試みでしたが、その結論のひとつは、「戦争とは、その勝ち方の処方箋
を与えてくれる理論(HOWTOもの)が成り立たないようなものだ」というもので
した。つまり彼の「戦争論」は、軍人さんが欲しがっていた「戦争論」
(HOWTOもの)があり得ないことを示すものでした。役に立たないだけならまだ
しも、実はこれから現れるかもしれない「役に立つもの」を始めから不可能だ
とする、まったく気障りなものだったのです。もちろんクラウゼウィッツの後
も、軍人さんたちが欲しがる「戦争論」(HOWTOもの)は次々いろいろと開発さ
れました。古典は新時代に相応しく読み返され、新しい戦争理論家が次々登場
しました。もちろん戦争だって世の中から廃絶された訳ではありませんでし
た。まったく悲しむべきことに。

 ジョミニという人は(彼もクラウゼヴィッツと同じく、ナポレオン戦争の申
し子でした)、軍人をして思考することを可能ならしめた人です。時は、ナポ
レオンの登場により、ヨーロッパにおける伝統的な「戦争の仕方」がご破算に
なり、みんながこれからは何をよすがに「戦略」を立てていけばいいのだろう
と思っていた頃でした。ジョミニは、どんなに時代が変わっても(たとえばど
んなにテクノロジーなどが発達しても)、あるいはどんな場所や地理的条件に
おいても、共通する「戦争の仕方」のエッセンス、つまり戦略の一般法則が存
在し、人はそれを知ることができるし、それに基づいて、戦略を決定すること
もできる、などと主張しました。彼こそは、普通の意味での「戦争論」の父で
す。つまり「どんな風に戦争したからいいか、どう戦争すべきか」について語
ることが可能であると主張し、また自らもその信念に従い、自説を「戦争論」
として語った人です。そしてジョミニは、同時代人であり、先になくなったも
ののその遺族が編集した著作により、次第ヨーロッパ中に影響を強めていった
クラウゼウィッツを、「永遠のライバル」として強く意識していました。実際
に罵ったりもしました。
 ジョミニにひきかえ、クラウゼウィッツの主張はこうでした。国民総動員、
全面対決、誰もが投入した戦力に見合うなにものも手に入れることのできない
絶対戦争においては(もはや人は戦争する以上は、そんな具合に徹底的に戦争
するだろうし、そうなってしまう他ない、というのがクラウゼウィッツの主た
る主張です)、誰も勝利を得ることはできないし、また戦争においては原理的
に「うまくやる」方法なんかはあり得ず、つまり「戦争の理論」は、戦争を分
析し、戦争を構成する様々な部分とその結合をよりよく理解させることはでき
ても、決して「戦争の処方箋」を書くことはできないだろう、と。総じてクラ
ウゼウィッツは、戦争がどのようなものであり得るかを分析することで、ジョ
ミニが主張したような「一般戦略論」が不可能であることを示していたので
す。けれども、先に述べたように、クラウゼウィッツもまた、「戦争のやり
方」を求める軍事理論家たちによって、まるでジョミニのように読まれること
になります。たとえばMUSTを「〜であるにちがいない」としてではなく、「〜
しなければならない」という風に読んでいくこと。これが「テツガクショ」を
「ハウツウもの」に読みかえていくマジックです(もちろんクラウゼウィッツ
はドイツ語で書いてるので、これはウソですけど)。クラウゼウィッツが「こ
れからの戦争は、誰もが投入した戦力に見合うなにものも手に入れることので
きない絶対戦争となるにちがいない」と書いているのに、軍事理論家たちはそ
れを「これからの戦争は、絶対戦争(国民総動員、全面対決な戦争)を行わな
くてはならない」と読みかえていったのです。たかだか、「そのように生きた
人があった」と告げただけのことばが、例えば「人はこう生きなくてはならな
い」と読み違えられていったように。


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