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           読 書 猿   Reading Monkey
            第57号 (白い雲が飛んでいく号)
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■■桑田乃梨子『おそろしくて言えない』(白泉社)============■amazon.co.jp

 「桑田乃梨子の作品作りは、厭味な人間、純真な人間、運命に抗う人間とい
う、この三者から出来ている」という指摘がありました。では、この三項関係
が「完璧な均衡をなしている」という『おそろしくて言えない』について、検
討してみましょう。

 まず第一項、「厭味な人間」。
 これは、性格の極めて悪い霊能力者、御堂くんを差していると思われます。
ここで私は、この規定を「無垢なる悪意」と変更したいと思います。なぜな
ら、彼の悪意、つまり主人公(後述するが「運命に抗う人間」)に向かった悪
意は、自己目的的である。彼の悪意の発現は、「悪意の充足」以外の何の利益
も彼にもたらさないからであります。
 御堂くんが主人公を陥れようとするのは、ただ「陥れたい」がためであり、
そのことによって何らかの利益を得ようと言うのでも、また他の欲望を満たす
手段としてそうするのでもない。「悪意の充足」以外の欲望については、なん
らそんな手段を介さずとも、実現する能力を彼は有しているのです。
 そしてその「悪意」とは、「敵意」と取り違えられ得るものではありません
(しかし一般には、このふたつは都合よく取り違えられることが多いのも事実
です)。

 次に第二項、「純真な人間」は、「無垢なる善意」と書き換えられます。な
ぜなら「厭味な人間」もまた「純真」な(悪意を持った)人間であったからで
す。そしてまた「無垢なる善意」は無力です。まるで役に立ちません。それど
ころか「役立たずであること」、そして「役立たずの善意」であることについ
て、「無垢なる善意」はちっとも悩まないし、理解すらしないのです。「行使
する力」は、すべて「悪意」に属しています。そして彼はまた「行使される
力・影響を受ける能力」についても欠いています。完全な「悪意」の霊能力者
に対して、「無垢なる善意」たる桐島くんは、霊に影響されないばかりか、負
の霊感を帯びているのです(霊が避けて通る)。

 そして第三項、「運命に抗う人間」。主人公。霊障をすさまじく受けやすい
という「運命」。「行使する力」は、すべて「悪意」に属していました。そし
て「行使される力・影響を受ける能力」は、もちろん運命に翻弄される主人公
にこそ、属します。しかし大事な点があります。それだけでは、彼が「運命」
に対するには足りないのです。彼の「悲劇」は、性格の極めて悪い霊能力者と
出会うことで始まりました。霊障をすさまじく受けやすいという彼の性質は、
もちろんそれ以前から彼が持っていたものです。が、彼はそれを霊障によるも
のとは知らず、「ただちょっと(かなり)人より運が悪いだけ」だと思ってい
たのです。
 彼の悲劇は「知ること」です。それらの「不運」が、実のところ「霊障」と
知らされることこそが、かれの悲劇なのです。なぜ彼が「運命に抗い」得る人
間なのかといえば、自分の「運命」を発見する・知るからです。「運命」を知
らない・自覚しない人間には、「運命」は存在しません。ただ困ったりするこ
とはできても、「運命」(の自覚)なしには、「抗う」ことはできないので
す。
 そしてここで「運命」とは、たとえ知ったとしても、そして抗ったとして
も、「どうにもならないこと」のことです。桑田乃梨子の主人公たちは、「わ
かってはいるけど、どうにもならない事態」を常に生きる者たちなのです。だ
から彼らは、同じに悲劇であっても、オイディプスよりむしろヨブに似ていま
す。オイディプスはそれと知らず自らの欲望を・そして罪を行うものであり、
そしてヨブはすべてを知りながら(彼こそ神の死を予感していた最初の人物で
す)抗いようのない事態にたたき込まれるのです。
 
 加えてこの物語は、コメディ(喜劇)であることを(とりわけコメディ(喜
劇)であることを)、急いでつけ加えなければならないでしょう。笑いを欲す
るものが手にすべき物語です。アリストテレスは「悲劇は尊い人間を、喜劇は
劣った人間を模倣する」といいましたが(最も彼の『詩学』で喜劇について書
かれた部分は消失してしまっているのですが)、すべて悲劇と「知った」上
で、笑わざるを得ない私たちもまた、「わかってはいるけど、どうにもならな
い事態」を生きているのかもしれません。

■■諏訪部一之輔『赤禍とは何ぞ』(一力社)===============■

 扉を開けたところに、宮内省(そのころは庁でなく省だった)からの、天皇
皇后への献上として受け取ったという受領書のようなものが印刷してある。
 で、本文の趣意だが、だいたいは「共産主義は無産、有産共同の公敵なり」
というところにあるらしいが、共産主義の起源についても究明してあって、
「猶太民族の大陰謀」というようなことになって、「シオンの議定書」とか、
フリーメーソンとか、ま、そんなところ(笑)。ま、こういうののネタって永
遠不変なんだなあと思う。
 最後は「大和民族の大覚悟」といったことになる。覚悟しかなかったという
ことにもなろうし、ま、覚悟していても負けは負けだということだってある。

 で、それはともかく(笑)、巻末に「昭和三年中各地巡講」というリストが
ある。この人は、この内容を、あっちこっち各地(全国に及ぶ)に行って講演
しているらしいのである。公民館とか小学校とか家畜市場(笑)とか、お寺と
か工場とか「野村ビルヂング」とか「大阪鐡倶楽部」とか保険協会とか神田学
士会館とか中ノ島中央公会堂とかに行って講演したらしい。で、それが合計百
五十四回(という数字も書いてある)になるらしい。

■■シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』(東洋経済新報社)==■amazon.co.jp

 革命なんかなくても、資本主義はだらだら社会主義になる、とシュンペー
ターは考えていた。
 資本主義は常に革新を要求する。競争して一歩でも前へ出ることを要求す
る。新製品やら新方式を要求する。人物像も個性的で独創的であるのが求めら
れる。
 ところが、時代はやがて低成長期に入る。十分すぎる生産性と生産力を備え
た私企業部門では、いままでのような大躍進は望めない。企業が大規模化しそ
の中で官僚化が進む。企業数も減り寡占が進み、競争も減っていく。独創性の
ない人たちが会議と談合で会社運営するようになる。ところが今までの流れで
育ってきたエリートたちは、発明とチャレンジでもって大躍進を望む連中であ
る。そして創意工夫を必要とし、またそれによって大躍進を望めるのは、今ま
でなおざりにされてきた公共部門である。今まで経済発展に投入されてきた彼
等の力はこの分野にそそがれる。
 公共部門の発展は、特に教育機会の拡大を通じて、今まで一部の階層に独占
されてきた知識人への門戸を、あらゆる階層へと開放する。その結果として、
公共部門の発展によって生まれてきた知識人たちは、政策評価・体制批判を公
共部門優先するものに、左翼同情的なものにするだろう。国家運営に携わる官
僚たちも、知識人と同様の教育を受けているので、多かれ少なかれ知識人たち
のように考え、立案する。公共部門の発展に正(プラス)のフィードバックが
働き、この方向にますます拍車がかかる。
 ところでシュンペーターはこの先を考えなかった。彼はケインズをちっとも
理解しなかったけれども、このような低成長期は、セーの法則(供給が需要を
作り出す)がもはや妥当しなくなった時期である。作れば作るだけ物が売れる
時代が終わり、貯蓄がすべて投資に回される時代が終わる。高い生産性と生産
力が吐きだす供給に、需要が追いつかない。需要を嵩上げするものはもはや公
共部門しかないのだが、あまり「よいこと」をしてしまうと、生産力向上につ
ながってしまって(「これからの国」にはそれでいいのだが)、ますます需要
が追いつけなくなって元も子もない。経済的には公共部門は本来的にムダであ
るべきなのだ。ケインズが失業を減らすには、お札を瓶に詰めて土に埋めそれ
をまた掘り返すとよい、といってるのがそれである。
 公共部門は本来的にムダなのだから、あまりに増大すると、社会全体の効率
を低下させ、国際競争に不利になり、国際収支が悪化する。物の値段はあがる
が、景気がよくなるわけではない、ぐずぐずしたスタグフレーションも起こ
る。当然批判・反動化が生じ、左翼化が進んだのとは逆のプロセスで右翼化が
進む、と。サッチャーリズム、規制緩和(笑)?

■■ぼくらはカルチャー探偵団編『知的新人類のための現代用語集2』
                          (角川文庫)====■
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すごいタイトル。ヤスケン(安原顕)がやった、角川文庫ものの一冊。何人か
が、それぞれのテーマごとに、いくつかの項目を書いている。

 サンプルは、尾辻克彦。グルメ(笑)をテーマを執筆したもの。余計なこと
だが、他はたいていつまらない。あの草野進さえダメ。武藤康史でちょっと救
われる(が、「次回に期待」程度)。ちなみに尾辻氏は、爪を食べたり、紙を
あぶって海苔のように食べたりといった経験を持つ。

>●卜一ジンポシ
> 鰯の丸干しである。鰯というのは文字どおり身が弱いので、鯵のように開き
>の干物には出来ない。そこでそのまま丸干しにする。ウルメ鰯の丸干しという
>のはふつうによく売っているが、それのもっと大きいもの。長さ一五センチく
>らい、太さは直径二センチくらいで北九州のあたりで売られている。唐人干し
>と書くのだろうか。カチンカチンに干してある。それをさつとあぶって飯で食
>べると、固くてごりごり、しかもやや苦みのある味で、白い飯がものすごくう
>まい。粗食と言うときにはいつもこれを思う。力強い粗食。東京ではなかなか
>ふつうに売っていないところがいい。一か月つづけて食べてもいい。しかし妻
>はこれを軽蔑している。この味を理解する力がまだないのだ。
>
>●本中華
> むかし、まだベトナム戦争もはじまってなかったころ、私はラーメン屋のウ
>インドウの食品模型に「本中華」というものを見た。麺の上にチャーシューや
>シナチクやナル卜だけでなく、イカやエビや椎茸や(正確には忘れたが)多数
>の品目が載せられている有様を畏敬した。そして本中華の「本」の字の輝きを
>知ったのである。私にも本物志向があったのだろう。ふだん食べているふつう
>の中華そばが情けないものに感じられた。その本中華はいつもウインドウの外
>から見るだけで、いちど食べたいと思いながら、結局食べないうちに、いつの
>間にか世の中から消えてしまつた。それでよかったのだと思う。
>
>●りゅうきゅう
> 九州の大分にいたときに食べていた。マグロか何かの切身と、コンニャクの
>切身と、葱の短冊に切ったのとを醤油に一夜くらい漬ける。これでご飯を食べ
>ると猛烈にうまい。コンニャクがマグロみたいになって、マグロよりうまい。
>刺身が残ったりしたときに発明したのだろう。
>一夜も漬け込まなくて半夜でもいいかもしれない。見かけは悪いが味は抜群。
>とくに白いご飯に猛烈にうまい。二度も書いてしまった。
>
>●湯豆腐
> 冬の逸品。湯の中で舞う白い豆腐は幸福の絶頂。ほとんど愛を感じる。箸で
>それを湯の中からすくい上げるときの優しさについては、西欧人に理解不能。
>はじめから言わない方がいい。醤油の味がほとんどソロで響く。また鰹節と葱
>の薬味もくっきりと。透明の湯の底に沈むコン卜ラバス、もちろん出し昆布。
>白菜くらいちょっと入れて、あと鱈の切身くらいちょっと入れたくなるが、そ
>うするとだんだん寄せ鍋になっていくので、やはり豆腐一品の前でぐっと正座
>して平常心を保つ精神が必要である。日本酒はもちろんやぶさかではない。
>ウィスキーの水割りだって拒みはしない。精神の自由は必要である。ビールも
>いいじゃないか。どうしても金を置ていくというなら、それもいいだろう。地
>面に大の字に寝転がると青空がある。白い雲が飛んでいく。


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