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           読 書 猿   Reading Monkey
            第56号 (悲しい物音号)
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■■佐々木高政『和文英訳の修業』(文建書房)==============■amazon.co.jp

 受験参考書を作るはずが、やり過ぎてそれを通り過ぎてしまった本。ロング
セラーなので、知ってる人も多いはずである。
 「予備編」「基礎編」「応用編」に分かれるが、「予備編」だけで大学受験
には「まずまずだいじょうぶ」なのであるが(笑)、「予備編」のあと、今度
はゆっくり「基礎編」で足固めをするのである(笑)。そうしてこれまで身に
つけた力を実地に試してみるのが「応用編」なのである。
 「名付けて「和文英訳の修業」、実際には苦行であるかもしれない。著者と
読者は常に一対一の関係にある、私はこれから読者のひとりひとりと「同行二
人」の笠をかぶって修業の途に上るのである。道は長くしかも険しい。疲れた
ら冗談の一つも飛ばそう、が調子に乗ってウカウカ走り出せば足をすくうかも
しれない。なにせこの先達、足弱のくせに気ばかりはめっぽう強い、だから目
的地まではいやおうなしに引っ立てられるものと覚悟していただきたい」
 その目的地がどこか見当がつかないのである。 
 英語学習書は数多く、しかも無意味に値が高い。受験参考書のせいか、この
本は実に安かった。

■■浅田彰『構造と力』(勁草書房)===================■amazon.co.jp

 北沢方邦という人は、デリダなんて、ディコンストラクションなんて、ただ
の記号のニヒリズムじゃないか、記号論をばかにするな、と言っている。佐々
木力は、ドゥルーズ=ガタリなんてなんだ、あんなチャラチャラしたの、学問
はもっとキビシイんだ、オレは丸山真男が好きだ、とどこかで書いている(な
んて書くと、出典を教えてくれるメールが来たりするのである)。蛇足だが、
川田順造は、レヴィストロースなんて、構造主義なんて、レトリックに過ぎな
い、と断言してる。
 ハイデガーなんて知りもしないデリダよみや、ベルクソンなんて知りもしな
いドゥルーズ好きなんてのがごまんといたのだから、お互い様というものであ
る。そんなのも、フッサールも読んだことのない仏文屋さん(元サルトル翻訳
者)たちが、今度はデリダ翻訳者として登場したりしたのだから、さらにお互
い様というものである。
 いくつかの教訓が引き出せるとしたらひとつは、少なくともこの国では、
「思想」というのは文学屋さんの商売だということである。明治以来、アカデ
ミズムに物量で適わない、リテラリズムが拠り所にするのが「思想」という訳
だ。ついでにいえば、アカデミズムが拠り所にするのが「実証」で、これには
時間もそれを支える資金も、要するに権力も必要である。「科学は実証だ」な
どと抜かす人に限って、ただデータを揃えることと、仮説の検証可能性を平気
で取り違えてたりする。要は人を黙らせるためだけの「実証」なのだ。
 浅田彰が画期的だとしたら、「理系的」と思われるくらいに文学的才能(同
じ事だが文学的野心)を欠いていたところであろう。文章がへたくそでも、糸
井風文体をへたくそに真似たことがあっても、これは強みだった。文学屋さん
の、理系コンプレックスというのは相当なものだからだ。これは科学=学問
(アカデミズム)コンプレックスということでもある。「ニューアカ」
(ニューアカデミズム!)なる言葉が登場してきた原因も、このあたりにある
のだろう。
 それにしても、佐々木力『学問論』のポストモダン批判、ドゥルーズ=ガタ
リ批判って、『逃走論』をけなす書評丸写しみたい。

■■浅田彰『構造と力』(勁草書房)===================■amazon.co.jp

 「ラカンが解る本」なんていうリクエストがあったので(しかもジジェク以
外(笑)という注文もついていたので)、悪ノリしてもう一回。

 「鏡像段階の矛盾からシンボリックな秩序へ(幻想界から象徴界へ)みたい
なことをいってるラカン」については、浅田彰の、『構造と力』第3章が、
もっとも、手っとり早く、要点を概括できるものです。しかし、なぜ、くだん
の論文末尾に、

 「本書は1960年頃までのラカンに重点をおいて書かれている。それ以降
  のラカン、メビウスの輪をはじめとするグラフやアルゴリズムを駆使して
  秘教的な教説を述べ続けたラカンについては、資料が出そろうのを待って
  新たな論考を用意する必要がある。」

と附されねばならなかったのか?好意的にみるならば、いまだ刊行中の『セミ
ネール』の完結をまって、はじめて、稿を起こそうかという、「思想史家」的
スタンスと、「紹介屋」的良心とも取れるが、ぼくたちはだまされない(笑)。
 かれが、なぜ、60年代ラカンに固執するのか?
 それは、本来、精神分析の実践、つまり臨床の現場において、その(従来、
神経症の臨床において有効性を見せながらも、精神病・分裂病にたいしては、
その効果をあらわすことができなかったフロイト派精神分析に、その活路、つ
まり精神病治療への道を、示すものとして)有効性を見出され、また理論の体
系化作業において、「無意識は、言語のように、構造化されている」、「無意
識とは他者の言説である」、という「スローガン」にあらわされるように、そ
のための方法的よりどころとしての「言語学」(ヤコブソン)と、「他者の言
説」という思索の場の区画の提示、という、「精神分析」にみられる「構造主
義」の活況のポートレイトを描くということも、もちろんあっただろうが、じ
つは、忘れてはならないのが、浅田は「マルクス主義者」である、ということ
だ(笑)。
 ラカンの「理論」が、はじめて、哲学的、そして「政治的」インパクトを
もったのは、アルチュセールによる、ラカン理論のイデオロギー分析への「導
入」である。すでに、初期論文において、フロイトの「重層的決定」という概
念によって、「生産様式」、つまり、「上部構造」、「下部構造」の概念に、
ある決定的インパクトを与えていた、アルチュセールは、その論文『イデオロ
ギーと国家のイデオロギー装置』において、ラカン理論における、想像界−象
徴界の関係を軸に、主体の、社会野におけるイデオロギーへの参入を、理論付
けてみせた。浅田は、このアルチュセール理論に、決定的インパクトを受けて
いる。もちろん、「スターリン主義的決定論」との悪名も高いものゆえ、両義
的なものでは、あろうが。ここらへんの議論は、『構造と力』にはおさめられ
なかった、ラカン論文とほとんど同時期の小論である、『アルチュセール派イ
デオロギー論の再検討』が、詳らかにしています。
 で、なにがいいたいのか(笑)?じつは、ラカン理論が、フランス的ローカ
リティーを脱し、世界的隆盛を得るのにいちばん荷担した人達がいて、それは
誰だというと、アルチュセールにインパクトを受けた、英米の「マルクス主
義」の論客たちなのです。それが、70年代のはなし。「想像界−象徴界」ま
でのラカンを、思想史的に位置付ける、論文や、教科書のたぐいが、それこ
そ、ばんばん出たんです。アルチュセールが思想的沈黙に入り、ラカンもわけ
のわからないこといいだして、その波も、さあー、とひけたころ、「ミネル
ヴァのふくろう」よろしく、その「総括」をやって、ついでに「ドゥルーズ=
ガタリ」にまでつなげたのが、浅田なの。やな奴でしょ(笑)。

■■ヴィルチェンコ『数学名言集』(大竹出版)==============■amazon.co.jp

編纂者名はともかくとして各界の有名人が数学について熱く語ってくれる。だ
いたい俺は名言集は気に入らないが、こと数学については名言が多い、たとえ
ばエンゲルス

「数学の転換点となったのはデカルトの可変量であった、これによって数学に
うごきが起こり、したがってまた弁証法がはたらいて、時をうつさず微分積分
法が必要となった。微分積分法はたちまちのうちに起こってきて、ニュートン
とライプニッツによっておおむね仕上げられたが、発明されたのではない」

名言というのはあの「人生はボードレールの一行にしかない」(一行にしか無
い?)とか、そういう含蓄のない詩的な言葉の羅列が国文社あたりから発行さ
れている「名言500」とかそういう本に刷られてはいるがこれは警句を言っ
た本人にも気の毒なもので、これを言った文学者なんていうのは全集に当時
とっていたメモまで載っているしまつで、不安も覚えるわけだ。しかし名言と
いうのはそういうわけの分からないものが良しとされるのでこういうのも人に
はウケが悪いかもしれぬ。

「代数は私のメーンディッシュで、幾何はデザートだ−−−ヴィエト」

まるでベーブルースのようだ。一体どこの何で書いてるのか知りたくなる。あ
るいはこの人は何をした人か知らないが、気の毒な人なのは分かる

「仮説の種が尽きるとき、その人の学問も終わる−−−−グルシコフ」

また数学に興味もないので、こういう場合にはピタゴラス派の亜流かと思われ

「数学に於いては発見と証明のあいだに大きな隔たりを許せば、かならずその
罰をうける−−−ブルバキ」

ゲーテなんていうのはさすがに『色彩論』があるだけにひどく、長編小説家と
しての無能力を遺憾なく発揮している。

「お前が無限のかなたに去ろうとしても、有限の中をあっちこっちへいくだけ
だ」

或いはこんなものもある

「何ごとも1から始まる−−日本のことわざ」


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