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           読 書 猿   Reading Monkey
            第52号 (蚤の夫婦号)
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■■白川静『詩経:中国の古代歌謡』(中公新書)=============■amazon.co.jp
■■吉川幸次郎『詩經國風』(岩波書店)=================■amazon.co.jp

 久しぶりに漢詩が読みたくなって、相もかわらず李白を取り出す。しかし、
何となく古詩が読みたい。僕らが学校で教わるのは近体詩が多い。つまり五言
や七言、絶句に律詩である。私は五や七というのに比べて、古体詩の四言とい
うのがシンプルで好きである。
 白川さんの『詩経』と、吉川さんの『詩経国風』を出してきて比べてみる。
 例えば、「衡門」という詩。
 書き下しでは、およそこうなる。「かぶき門の下 以て棲遅すべし 泌の
洋々たる 以て飢えを楽す(いやす)べし」。
 吉川さんは、優柔不断な周の王さまを励ます歌だという古い注釈を避けて、
朱子にならって、これを隠遁者の歌としている。だから訳は、「かぶき門の下
は、のんきなくらしによいところ。泉の水のしたたりは、飢えをいやすにもっ
てこい。」となっている。
 はっきり言って、何のことだか分からない。ここからどうして「隠遁者
云々」が出てくるのかも不可解だ。
 白川さんは、これを、何と歌垣の歌だとしている。白川さんは注釈だけで訳
は付けていないが、特に「以て飢えを楽す(いやす)べし」の部分をポイント
だと見て、「飢え」=情欲であって、「楽」は、「療」に同じく元はヤマイダ
レに従うとし、「いやす、みたす」の意味で、結局これは逢い引きをしている
のだ、という解釈である。この詩は更に「あに其れ魚を食うとて 必ず河のホ
ウならん」と続くのだが、吉川さんはこの「魚」をそのままサカナと理解して
いるが、白川さんによれば、「魚」は女の比喩であることが多い。つまり、
「女とつき合うのに、美人にかぎらない」と言っているわけで、簡単に言え
ば、何でも来いの無節操な男の歌だということになる。こうなると「泌」=泉
の水というのも解釈が違ってこざるをえないね。はっきり書いてないけど。
 吉川さんは、この「ホウ」というところに注釈を付けて、「うまい魚に違い
ない」と、思わずほろほろするようなことを書いている。

■■名和小太郎『サイバースペースの著作権』(中公新書)=========■amazon.co.jp

 著作権というのはどうも、ただ「法的な規制」とだけ思われいるらしくて、
「こんなことしたら違反になるのだから気を付けよう」みたいな話ばかりされ
ていて、うんざりする。
 ほんとうのところ、なんで著作権なんかあるんだ、とか、著作権が守ってい
るとしたらそれは何なのか、とか、守らなければならないものがあるんだとし
たら、本当は何か、とか、そういう話に最低でもなるべきだと思う。とくに著
作権の「これから」を考えてみるならそうせざるを得ない。
 著作権をうっとうしく思ったことのないものは、結局のところ何もつくった
ことがないか、本当は何も作っていないことに今もって気付いていないか、そ
のどちらかだと思う。
 この本は、豊富な判例から、コンピュータ技術やネットワークなんかに、ボ
コボコにされつつある著作権の「今」と「これから」を考えていこうというも
の。
 この本によれば、おおざっぱに言ってアメリカには著作権がない(笑)。特
に「おれの作品を勝手にいじるな」という著作人格権というのが乏しい。裁判
の判例も、著作権の乱用につらくあたるものが多い(それが「表現の自由」だ
とか、著作物へのアクセスを制限してしまうという理由で)。
 それにしても、中公新書は「売りたい」と思ってタイトルを考えてるらしい
が、「サイバースペース」とは、今見るとさびしい限りである。

■■『カント全集』(某I波書店)====================■

 これから出る本。

 カント研究者なんて世間にごろごろしているわけだが、全集編集者の偉い
人、特にK大学のA先生とかが、大カントの翻訳を若手なんかに任せられる
か!っていうんで、全部中堅以上のネームバリューがある人が担当になってる
(だが、中堅以上のネームバリューがある人なんていうのは忙しいのに決まっ
てるのである。必然的に仕事だけが下請けに回される)。
 特に三大批判書などの重要著作はA大先生(「道元とカント」とかそういう
本を書いておられるらしい)とか『ヨーロッパ精神史入門』の著者で日本哲学
会の会長様とかが担当なされるわけである。
 これは私が言うのではなくて世間が言うのであるが(笑)、若手に任せたら
心配だと言うが、一番心配なのはA先生担当の『純粋理性批判』だと。しか
し、いや大丈夫だ(笑)という意見もある。なんとなれば、あそこは院生が優
秀だからと。
 もっとも、『純粋理性批判』クラスの大古典なら馬鹿でないかぎりはミスす
ることはないのである(ところがこの馬鹿というのが少なくない)。日本語訳
半ダースを含む外国語訳が山ほどあり、加えて世界中によくできた注釈書が腐
るほどあるからである。

■■吉田豊『江戸かな古文書入門』(柏書房)================■amazon.co.jp

 「古文書解読辞典」みたいな本が、この柏書房からたくさんでている。「読
めない」からこそ解読の必要が訳だが、「読めない文字」はだいたい辞典が
あったって引きようがない。いろいろ工夫してあることも申し添えないとフェ
アでないが、「古文書解読辞典」があまり役に立たないのはそういうことであ
る。
 いままでは、そういうあまり使えない「解読辞典」を助けに、影印(コ
ピー)とにらめっこするというのが古文書の勉強だったが、実際、毛筆でくず
し字を書いた経験のある人ならともかく、ワープロ世代には敷居が高すぎる。
 そこで、当時世界トップレベルの識字率を支えた江戸時代の寺小屋の教育法
にならったのがこの本である。まずは「かな」を読めるようになること、そう
すれば江戸時代の庶民たちが楽しんだ草双子くらいまで読めるようになるとい
う、「江戸っ子リテラシー」養成本。

■■ユクスキュル『生物から見た世界』(思索社)============■amazon.co.jp

 誰だったか(今道友信だった気がするが確認が取れない)、ハイデガーがい
う「世界内存在」というのは、岡倉天心の『茶の本the book of tea』に出てく
る「処世」という言葉が元ネタだと言っていた。『茶の本』はもともと英語で
書かれているから、「処世」というのは“being in the world”になっている
(そのままじゃないか)。その誰かに言わせると、ハイデガーはこんなふうに
あちこちからパクってるのにそれを黙っているのが汚い、ということになる。
 別の誰だったか(木田元だった気もするが自信がない)が、その「世界内存
在」というのが出てくる『存在と時間』なんて本は大したことなくて(ハイデ
ガーの本領はもっと別のとこにある)、だから「世界内存在」なんてのも大し
た話ではなくて、ユクスキュルあたりのパクリだろうが別にそれがどうしたの
だ、と言っている。
 しかし、そんな饅頭屋の「本家」対「宗家」みたいな話はさておいても、そ
れぞれの昆虫や動物にとっての「世界」のありようがどのようなものか(それ
はもちろん、それぞれの昆虫や動物ごとに違っている)を、描いてみせるユク
スキュルのまなざしは暖かでほっこりしてる。
 「この書には認知と行動、情報論、環境論についての重要な考察が含まれ…
…」、などいうコメントには、ドゥルーズ=ガタリに相手になってもらおう。

「われわれが身体をその器官と機能によって規定することを避けたのと同様、
ここでは身体を〈種〉や〈属〉といった特性によって規定することを避けなけ
ればならない。身体が受けとめうる情動を数えあげることが求められているか
らである。現在、そのような研究は「エソロジー(動物行動学)」と呼ばれる
が、スピノザはまさにこの意味にかなう真の〈エチカ〉を書いたのだった。競
走馬と農耕馬の違いは、農耕馬と牛の違いよりも大きい。動物の世界を規定す
るにあたって、フォン・ユクスキュルは動物がその一部分をなす個体化したア
レンジメン卜の中で、その動物にとって許容可能な能動的情動と受動的情動を
一つ残らず見出していこうとする。たとえば〈ダニ〉は、(1)光に誘われる
ままに木の枝の先端までよじ登り、(2)哺乳動物のにおいを感じとると、哺
乳動物が枝の下を通りかかったときに落下し、(3)できるだけ毛の薄いとこ
ろを選んで皮膚の下に食い込んでいく。この三つがダニのもつ情動のすべてで
あり、それ以外の期間、ダニは眠っているのだ。ときには何年間も眠り統け、
広大な森で起きることにはいっさい関心をもたない。ダニが示す力能の度合
は、たらふく血を吸ってから死ぬときの最良の上限と、飢えて待ち統けるとき
の最悪の下限という二つの限界のあいだにすっぽり収まっている。」
(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』 10 強度になること、動物になる
こと、知覚し得ぬものになること……)

 ユクスキュルは、蚤について、「何ができるか、何をしでかすか」のリストを
作ってみせた。それが蚤の情動、「蚤のしたいこと=できること」のすべてで
あり、つまるところ、蚤の「世界」であるのだ。
 蚤には3つの「したいこと=できること」が、あと「したくはないけれど、
強いられてること=他にしようがないから眠ること」を含めたら合計4つの能
動的情動と受動的情動が発見された。


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