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           読 書 猿   Reading Monkey
           第17号 (咽頭炎を併発号)
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■■『売国奴入門 --- ネイション・ブローカーの素敵な世界』(ザンバーグ出版)■

|はじめに〜 国家売買とは何か?
|
| 現在、国家ビジネスは、年間5兆ドルとも8兆ドルともいわれる巨大な取引
|に成長しています。
| なぜこれほどのビック・ビジネスがこれまであまり知られてなかったのかと
|不審に思われる方も多いでしょう。それは「国際貿易」の盲点をまさにつくも
|のが、「国家売買」だったからです。「国際収支」は、当然のことながら、国
|家間の収支、国と国の間の収支でしかありません。国家そのものを商う「国家
|売買」は、数字の上では、どの国の「国際収支」にも上がってこないのは当然
|です。統計数値だけを信じるエコノミストや国家間の紛争や協定には些細な文
|言にまで槍玉にあげてマスコミなどが、見落とすのも無理はありません。所詮
|彼らは国家の寄生虫なのです。
|(略)

なんだかひどいので、目次その他から抜粋してみる。

|第1章 国を売るとはどういうことか
|     国家は国民のオモチャでない
|     支配するバカ、されるバカ
|
|第2章 誰が買ってくれるのか
|
| 国家を欲しがるのは、国家だけではありません。××研究所の○○所長は、
|「国家マーケットは、近年、変遷が著しい。時に、生命保険会社や銀行にか
|わって、個人投資家の台頭がめだつ。彼らの中には、すでにいくつかの国家の
|オーナー元首となっている者もある。また中長期の投資・資産運用、たとえば
|わが子に財産を残してやりたいからと、国家を買いもとめるファミリー元首も
|増えてきている」と分析しています。
|
| 【オーナー元首へインタビュー】
|・足立 睦夫さん (自営業55歳)
|  足立さんは、親子2代にわたる大の愛国者。「3度のメシより、国家が好
| き」というのが口癖。
|  「もう、これで5国家目だけど、飽きないね。どの国家も、それぞれ特徴
| があって、退屈しないよ。これといった世話も必要ないし。本当の戦争がで
| きるのも、楽しみのひとつ」
|
|・林 勝治さん  (会社員38歳)
| 「妻に内緒で、去年の秋に購入しました。今? 最高ですよ、『一国一城の
| 主』っていうのかな。夏には、妻といっしょに泳ぎに行く計画です」
|
|
|第3章 どうやって売るのか
|   オランダのナショナル・ブラックマーケット/ハーグの先物国市場
|   国家の値踏みはこうしろ〜各国の調査機関のファクトブック
|   不良国家は抱き合わせて売れ
|
|第4章 今、売れ筋の国家はこれ!
|   ナショナルコレクターが今欲しがる国は?
|   まだまだ高値のこの大国!
|
|終章  今、何故、国を売るのか?

■■『読書猿』第12号 [4 Dec1997 23:42:57] ■■===========■■
 本誌の12号に次のような記事があった。本誌の更なる発展を願って、書評の書評を
試みてみたい。

(以下引用)
|■■『性技の原典』■■========================■■
|
| 「性技の原典」という本を買った。「世界セクシー文学全集」の別館(sic)で
|ある。カーマスートラとラテイラハスヤが収められている。後者はもう一つ面
|白 くない。前者は前に、角川文庫で読んで、その場は大いに盛り上がった。男
|ばかりであったが。
| 角川文庫はアラビアンナイトのバートン版を訳した大場正史が、同じくバー
|トン版だったかを重訳している。ちなみにバートン版のアラビアンナイトは実
|も蓋もない翻訳である。
| この叢書を紹介するために紹介する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(引用終わり)
 この書評誌の最大の欠陥は、扱われている書籍の書誌情報がきちんと与えられてい
ないことである。執筆者がシロウトさんであるからであろうが、編集の側でそれ位の
指示を与えなくてはいけない。送られてきた原稿をただ転載するってだけではぐわい
が悪い。ましてや当該の書物が新刊書店の書棚に並ばないやうなものであれば、尚更
である。そこで先ず初めに、問題となっている書から記していこう。
『性技の原典』(=世界セクシー文学全集別巻 性典シリーズ 2) 東京:新流社, 1961
書評に記されている様に、「カーマ・スートラ」(小野武雄訳)「ラティラハスヤ」
(田村竜二訳)の二つの作品が収められている。解説には翻訳の経緯などきちんと述
べられていないので、一切は不明であるが、サンスクリット原典からの翻訳ではなく
、英語訳などが介在している重訳であろう。しかもこのふたつの書が日本語にされた
のはこれが初めてではない。しかしわが国に導入された経緯を探る作業は、その性格
ゆえに発禁の憂き目にあったりで、困難を極める。従って以下の記述は不完全である
が、敢えて公表して、地下本の専門家によって補足されることを望むものである。
 古典インドでは性愛の学は古くから一ジャンルを形成していていくつかの書が編ま
れたが、その中でも『カーマスートラ』は代表的な位置を占める。大きなインド文学
史であれば必ず言及しているが、この分野だけを扱った立派な概説書がある。すなわ
ち泉芳けい『印度愛経文献考』(=変態文献叢書追加第3巻)(東京:文献資料研究会,
1928) である。高橋鉄『性典研究(性愛術篇)』(東京:性科学資料刊行会, 1947),
36 によると、1915年に大隅為三が『カーマスートラ』をフランス語訳から重訳した
という。私家版であるため未見であるが、恐らくは最初の日本語訳であろう。1923年
に泉芳けいがサンスクリットから訳したものを大谷大学内印度学会から出版したがた
ちまちに発禁。その後『婆羅門神学』という題名のもとに泉氏の名を表にだすことな
く何回か再刊されたが、いずれも発禁となる(『カーマスートラ』東京:若竹書院,
1949 は免れたか?)。筆者所蔵本は、編集兼発行者:田村吉久、発行所:東京:印
度文学研究会, 1928 となっており、「発売頒布禁止 4.8.16 警視庁」の印が押され
ている。サンスクリットからの和訳本はもう一冊ある:岩本裕『完譯カーマ・スート
ラ』(東京:杜陵書院, 1949). これも一旦は焼却しようとしたもので、本の四方が焦
げているが、本文部分は残っていて読むことは可能である。
 これ以外に原文から訳したと思われるものはないが、カーマスートラは需要が多か
ったのであろうか、意外にも相当の点数が出版されている。先人の努力を偲ぶ意味で
以下に列挙しておこう。
平野馨『婆羅門戒律』東京:平野書房, 1932.
内藤銀策『性愛の學』東京:関東出版社, 1948.
柴田俊夫『カーマスートラ』東京:古典刊行協會, 1948.
本間太郎『東洋の聖典 カーマスートラ』京都:聖典研究會, 1948.
世界風俗研究会『現代に生きるインドの愛の聖典 カーマ・スートラ』東京:東和書
房, 1967.
福田和彦『カーマ・スートラ』東京:芳賀書店, 1969.
青木信光『えろす・いんどら』東京:綜合図書, 1971.
青木信光『愛経 性典・カーマスートラ』東京:参玄社, 1973.
世界風俗研究会『最大の性典 カーマ・スートラ』東京:恵文社, 1974.
原正三『複刻・インド古代性典集』東京:人間の科学社, 1979. [再刊:『カーマ
スートラ』1991]
福田和彦『美術版カーマ・スートラ』東京:芳賀書店, 1982.
石山淳『カーマ・スートラ』東京:靖国書店, 1996.

 なおついでながら上の書評子の「ちなみにバートン版のアラビアンナイトは実も蓋
もない翻訳である」という言に対しても、一言申し述べておきたい。この文がバート
ンの英語訳を言っているのか、大場氏の和訳を言っているのか、明確ではない憾みが
あるが、いずれの場合にも妥当しない発言である。前者については、アラビアンナイ
トの語りの技法の研究として高く評価されている M.I. Gerhardt, _The Art of Stor
y Telling_(Leiden: Brill, 1953) が依拠した訳本のひとつがバートン訳である事実
を挙げれば充分であろう。大場氏の訳業がマルドリュス訳からの重訳と補完的な意味
合いで、アラビアンナイトの全貌をわが国に知らしめた功績は細部の不備を如何にあ
げつらおうとも、没することはできない。しかも大場氏は長い訳業の後にも惓むこと
なく、補遺編の和訳をも企て(すべてを完成するには至らなかったようであるが)、
バートン本編に欠けた重要な物語をもそのシリーズに加えた結果、今なお日本語のも
のとしては最も包括的なものである。今日のアラビア学の知識から訂正すべき箇所は
指摘されるではあろうが、氏の文人としての筆力を侮ることはできず、当時の状況下
としては上々のものと言えようか。この点については、他の読者のご意見も拝聴した
い。

Hisashi MATSUMURA prince@kobe-shinwa.ac.jp

■■須藤真澄『振袖いちま』(偕成社)==============■amazon.co.jp

「振袖いちま」というマンガをみる。
 主人公のひいおばあさんの市松人形「いちま」が、ひ孫の「ゆき」といっしょ
に、「お友達」(=ひいばあ)の夢を叶えようと努力するお話。

 いちまは「お友達」を忘れない。バイオリンを弾きたかった彼女のために勝手
にバイオリンを注文して手に入れ、ギコガコひどい音で弾く。花屋に憧れた彼女
のことを思い出して花屋にバイトに行き、葉を全部むしってしまう。

 それでも「お友達」はもういない。

 いちまの夢の中に出てくるデパートの階段は、一階のぼれば十年さかのぼる。
のぼってのぼって、そうしたらお友達に会える。孫もつれてのぼって三人でお喋
りして、また今度はお友達が階段を下りてきて、三人で遊ぶのだ。

 
 関係ないが、親戚にボケてしまったおばあさんがいる。彼女の時間はゆっくりと
戻っている。年寄りではなくて、昔へと帰っていっているのだ。
 それでも、誰が誰かは分かっている。遠い昔、初婚のときの主人に戦争で死なれ、
そこに置いてきた跡継ぎ息子がたずねてくれば、その家の話をする。わたしの母が
会いに行けば、私の家の話をする。それでも、その相手の名は覚えていない。すぐ
には思い出せない。
 最近の話をするとメタクタである。昔の出来事を話すと喜々としてしゃべる。
 そして、すべてのつじつまがあっている。
 それを聞いて思う。彼女の会いたい人、親しい人たちはもういない。でも、その
いちまの夢の階段があれば、彼女は思う存分娘に返って話すことができるだろう。

 いちまの悲しみや夢は、親しい人に会えないひとの悲しみでもある。

 
 けれど「いちま」の記憶の中に「いちま」がすることのなかに、「ひいばあ」は
生きていて、「ひいばあ」の息子である「おじいさん」、嫁である「おばあさん」
が、彼女のことを思い出す。そしてその人達の記憶の中に、「ひいばあ」は確かに
生きている。「ひいばあ」に会える道理のない曾孫の「ゆき」は、見も知らぬ彼女
を知っているのだから。


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