=== Reading Monkey =====================================================
           読 書 猿   Reading Monkey
            第116号 (にちようびはいちばへ号)
========================================================================
■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
  姉妹品に、『読書鼠』『読書牛』『読書虎』『読書兎』『読書馬』『読書
羊』
  『読書龍』『読書蛇』『読書鳥』『読書犬』『読書猪』などがあります。
 ■読書猿は、本についての投稿をお待ちしていました。

■■内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新書)============■amazon.co.jp

 「責任ある地位」の人が「自己責任」を唱えたその舌で「債権放棄」を訴えた
り、自由競争を称え勧める人が未公開株貰ってたり(笑)、そういうことがまま
あるので、次にような「カンチガイ」が生まれるのもむべなるかな、である。
 (カンチガイはじまり→)人間の本性は利己的だ。生物界の自然淘汰のごとき
市場メカニズムは、だから人間の本性に最も適合した仕組みだ。(←カンチガイ
おわり)
 
 こういう人は、ホッブスとかアダム・スミスを読み直した方がいい。しかし
「読み直す」なんて非現実的なことを期待しても始まらない。利権ナショナリス
トに限らず我々は、自分の都合にちょうどよい分だけ知識を欠いているものなの
だ。本当の意味で「何か知る」ってことは、いつだって自分にとって「都合の悪
いこと」なのである。

 さて、この本は、マキャベリを露払いに、ホッブス、ルソー、アダム・スミス
という3人のホップ・ステップ・ジャンプでこのあたりのことをさらりとすくい
上げる。
 まず、「本性が利己的」な人間たちがガチンコでどつきあったら、市場なんて
できるはずがなく、壊滅的差し違いに終わるか、いや自己保存本能がそれを避け
るために絶対権力が登場する、ってのがホッブス『リバイアサン』のロジック。
 つぎに、ルソーがホッブスをこき下ろす。ホッブスは、今の競争社会の説明や
自分の絶対権力の存在証明のために、「利己心」を人間の本性としてねつ造して
いる。こんなことが許されるなら、おれだって「利他心に満ちた人間」をねつ造
してやるぜ、とばかりに「自然にかえれ」とルソーはやる。昔の人間が今の人間
とくらべて、ほんとうに「善良」だったとどこまでルソーが信じていたかはさし
あたってどうでもいい。ルソーのイヤミは、本来なら説明すべき「人間の利己
心」を、ホッブスが「説明の前提」の方に押し込んだことに向けられている。つ
まりルソーは、人間の本性を「利他心に満ちた」ものと前提しても、現在の社会
に見られる「利己的な人間」が社会の仕組みの結果として出現することを示して
みせたのである。だとすれば、「人間の利己心」を人間の本性であると決めつけ
るのは、せいぜいが「思いこみ」、悪く言えば「何か魂胆があるんじゃないか」
ということもできる。
 ホッブスは、人間の利己心からは市場なんかできず絶対権力が生じることを
言った。ルソーは、「人間の利己心」自体が社会制度から説明できるし、だから
人間の利己心を人間の本性であるとするのは、決めつけ以上のものではないとした。
 さてアダム・スミス。アダム・スミスは利己性(自己関心セルフ・インタレス
ト)に加えて共感シンパシーがあることをもって、ホッブスを補正し、かつ市場
メカニズムの作動条件とする。あるいは利己心に共感を付け加えたことによっ
て、ホッブス流の国家とはべつの、市場社会の成立可能性を示してみせる。オレ
はオレが得することを一番に考える。これがセルフ・インタレスト。これだけ
だったら、ジャイアンのようにスネオのラジコンをただ暴力的に取り上げればい
い。でも、これでは市場はできない。向こうだって、自分が得することを一番に
考えるのだろうと、分かる。これが共感シンパシー。この二つがあって、何を
持っていけば売れるのかに思い至ることができて、市場での取引が可能となる。
あるいは双方が納得する取引が可能となる(市場という仕組みや、互酬や再分配
とちがって、「買う立場」=「受け取る側」がイニシアティブを握るところに特
徴がある)。これが(ほんとは)マーケットの基礎だ。

■■ベラー他『心の習慣―アメリカ個人主義のゆくえ』(みすず書房)====■amazon.co.jp

  アメリカが(ブッシュが?)ますます「バカ」に見える今日この頃、あるい
は「単純シンプル」がウリモノの人たちが事態をますます「ややこしく」してし
まう昨今、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
 そのあたりをもうちょっと考え直すために、アメリカ人がアメリカについて書
いた本。200人の普通のアメリカ人にインタビュー、そうして掴みだした「個
人主義」という心の習慣を起点に、アメリカの社会や制度をぐるりと見回す。丁
寧なインタビューを積み重ね、ハデな思想ぶったところのない分析、古き良き社
会学者の仕事といった感じ。

 さて「個人主義」から何が見えるか。ベラーらは、この「個人主義」が、功利
主義的な個人主義と、表現主義的な個人主義の2つ(の相互作用)からなるとい
う。
 功利主義的個人主義とは、この世はゲーム、勝てばいいんだ、という外向きの
個人主義。その「ゲーム」がどうやって成り立ってるか、どんな巡り合わせで生
まれたかは、気にしない気にならない。この発想にどっぷりつかると、「ゲーム
の敗者」が道徳的にも欠陥してるように見えてくる。
 表現主義的個人主義とは、要は「自分さがし」、内向きの個人主義。アメリカ
ではセラピストのサポートがあって、ここでリフレッシュ、ますますゲームに勝
つ人生を邁進できるが、どっぷりつかると、功利主義を離脱(脱落?)してしま
うかも。
 人々は人生を、このふたつの個人主義のコトバで語る。たとえば、いっさいが
自分にとっての損得計算であるように、あるいは自己の内側から「涌き出た」も
ののように語る。

 この二つの個人主義の結託は、原則的自由主義と競争社会を支えてる。独立し
た個々人の私的利益追求の行動が、集まって社会を構成しているかのようなイ
メージは、社会の現実の姿を反映している訳ではない。この社会イメージの普
及・流通こそ、個人主義という「心の習慣」と同様に、文化的なもの歴史的なも
のである(そして「心の習慣」にどっぷりつかることで、このことは見えなくな
る)。ベラーさんたちは、この個人主義が「ウィナー・テイク・オール」的な、
あるいは「オール・オア・ナッシング」的な傾向の元にもなっていて、そういう
物事のとらえ方を「命題的な理解」と言っている(善悪二元論的なアメリカ外交
も、これ?)。キリスト教原理主義なんつうのも、この「命題的な理解」なんだ
ろうね。
 自己救済や独立独歩のレトリックはもっともらしく聞こえるが、実際には歴史
的に形成された様々な構造の上に社会は成り立っているのであり、一律な市場原
理が万人に平等に作用するはずもない。 というか、ぼくらが知ってる、市場経済
のメジャーなプレイヤーは大抵は自由競争をめちゃくちゃ回避してる(回避でき
た分だけ儲けてる)。回避しきれない有象無象の、無数の、つまりは無名のプレ
イヤーたちが、たとえば最低賃金でファストフード店で働く訳である。
 みんなが挑戦し努力すれば世の中よくなるというの考えの裏で、結局のところ
弱者が切り落とされ、救われた者たちも生活に激しい負担を抱える。非適応組は
いうにおよばず、適応組の中産階級においても、突然の解雇や地域の環境の悪化
など、様々なストレスにさらされている。時間的なゆとりを失った家庭において
は、子供や女性に皺寄せが行く。経済中心主義はCare(世話=注意)の危機
を招く。こうした注意力散漫は社会全般に蔓延しており、これが民主的な社会を
掘り崩す深刻な要因となるとベラーは見ている。
 ちなみに続編の『善い社会』の最後の章のタイトルは「民主主義とは注意を払
うことである」である。

■■いしい ひさいち『現代思想の遭難者たち』(講談社)=========■amazon.co.jp

  内田樹氏の日記によれば(もちろん愛読している)、氏のところに来る30歳
代の編集者は、ほぼ例外なく「現代思想の遭難者」なのだそうだ。いわゆる
「ニューアカ世代」というやつで、「最新の知的トレンドにスマートにキャッチ
アップできない人間は「知的じゃない」という思い込みを刷り込まれた」この世
代の人たちは、大抵の場合「キャッチアップ」できなかったので、「自分はほん
とは知的な人間じゃないんだ」というトラウマを抱えることになったのだそう
だ。
 で、「いいじゃん、もう知的でなんか、なくたって」ということで、現代の知
的廃退やら出版不況につながったというのである。ふーん。
 という「時代背景」やら「社会情勢」をふまえれば、あまり評判が良くないこ
の本も少しは楽しめるのかもしれない(でも、そのトラウマ話は、地理的・偏差
値的な異国情緒を感じる。オラの村には『現代思想』はおろか『人民日報』だっ
て来てなかったしね(笑))。

 もとは『現代思想の冒険者たち』という、1冊1思想家をご紹介という、遅れ
てきた現代思想入門(あるいは遭難者たちのセントバーナード本)を目指した講
談社刊行のシリーズ、のそれぞれについていた月報(なんてのがあったんだ)に
掲載された、いしい ひさいちのマンガを1冊にまとめたのが敗因だった。アマゾ
ンあたりの読者書評を見ると、このマンガにも「遭難」している人がいっぱいい
る(思想家の顔と名前が一致しないと笑えない、だの、専門用語がたくさん出て
くるので知らないと笑えない、だの)。
 しかしギャグというのは、分からないヤツは笑えないのが「当たり前」なので
ある。 加えて言うと、「分かる/分からない」が決め手になるなんて、とっても
牧歌的な話なのである。もっとクリティカルな場面は、たとえば「わかっちゃい
るけど、やめられねえ」といった風に、あるいは知りたくもないのに「思い知ら
される」といった形で、立ち現れてくるのではあるまいか。


↑目次    ←前の号   次の号→







inserted by FC2 system