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           読 書 猿   Reading Monkey
            第117号 (みどりのまきば号)
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
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 ■読書猿は、本についての投稿をお待ちしていました。

■■山岸俊男『社会的ジレンマ』(PHP新書)============■amazon.co.jp

 協力しあえばトータルではより大きな利益が得られる(ことは分かっている)
のに、非協力的な行動をしてしまう。いわゆる社会的ジレンマである。
 さて、この社会的ジレンマを越えて、協力し合うためには、参加者がみんな
「かしこい利己主義者」であればいい、とされてきた。「かしこい利己主義者」
は何しろ「かしこい」ので、トータルな利益には相互協力が必要であることを理
解する。加えて、他の参加者も「かしこい利己主義者」であることもわかるの
で、つまり他の参加者も「かしこい」以上トータルな利益には相互協力が必要で
あることを理解するだろうと、予測する。
 しかし、世の中「かしこい利己主義者」ばかりではない、というか「かしこい
利己主義者」はかなり少ない。もっと悪いことに、「かしこい利己主義者」の中
に「バカ」が混じってることで、「バカ」が一人勝ちする場合だってあるのであ
る。ああ、だったら、そんな「バカ」になりてえ(笑)! だって「かしこい」
人の計算って、すごい入れ子になっていて大変そうだし。それに世の中の協力行
動が、そんなしちめんどくさい計算の結果だとは思えない。
 それでも人間はなんとかやってきてる。集団でない人間なんて弱いもんだ。
だったら、人間は進化の過程で、社会的ジレンマを回避する能力を身につけてい
るのではないか? と考えた人たちは、協力行動のためのモジュールが人間には
あるのではないかと考えた。なぜモジュールかと言えば、人間の知的能力をたく
さん投入してもできるかもしれないが、もっと自動処理になってるはずだという
予想からである。
 協力行動のためのモジュールは、協力を壊す「バカ」を(しちめんどくさい計
算抜きで)協力を壊す「バカ」を見抜く、そんなモジュールを含むものだろう。
進化心理学者のコスミデスは、これを「裏切り者探索モジュール」と呼ぶ。これ
によって、協力できそうな人が見分けられるなら、基本的には協力する/協力で
きない人には非協力的対応する、というパターンでいけそうだ。つまり、非協力
的な人はつまはじきにすることで、めんどくさい合理計算抜きで、協力行動から
の高い利得が得られる。

 しかし、これを「つまはじき」にされる側から見るとどうだろう?
 たとえば、いわゆる「権威主義的パーソナリティ」な人は、他人を信頼しない
(できない)ばかりか、人間関係を支配・服従という「力の論理」で見る傾向が
あるらしい。進んで協力することを「おひとよし」として排除し、自分が非協力
行動を取るばかりでなく、他人が協力的な態度を取っているのをみるとますます
つけあがって、協力的な人間を搾取するような一層の非協力的行動に走るらし
い。
 「かしこい利己主義者」の間の協力は、この手の「権威主義的利己主義者」が
混じると、途端に非協力行動がはびこるという弱さがある。するとどうなるか?
 「裏切り者探索モジュール」は、「権威主義的利己主義者」をつまはじきにす
るかもしれない。
 するとどうなるだろう。「権威主義的利己主義者」は、非協力行動で応じられ
る可能性が高いことになるから、「人間は本質的に非協力的なんだ」という信念
を持つかも知れないし、「裏切り者探索モジュール」を備えた人間世界のなかに
生きる「権威主義的利己主義者」にとっては、その信念=人生観は、当人にとっ
て間違ってはいない。うう、世間の風が身にしみるぜ。「権威主義的利己主義
者」の非協力的な「生き方」は、一種のナッシュ均衡である(笑)。だから抜け
出すのが難しいだけでなく、抜け出す理由が見あたらない。機会費用(うしなっ
たもの)は小さくないかもしれないけど。

 山岸さんがいうのは、囚人のジレンマに陥っちゃうのも、囚人のジレンマの実
験をやるとそれでも協力しちゃう人がいるのも、仲間内をひいきして異集団を差
別しちゃうのも、人間が本質的に攻撃性を持っていたり不信だったり差別的だっ
たりするのではなく、上で見たモジュールたちの作動や作動のバランスのせいだ
という。いまだに「攻撃本能」や「日本人のDNA」なんて言い出す人がいるの
で、この辺りの「誤解」を実験でうっちゃろういうのは、吉。

■■ディキシット他『戦略的思考とは何か』(TBSブリタニカ)========■amazon.co.jp

 以下は結構いろんな本に出てくる話なだけれど、これが読みやすそうなので。

 ちょっとヘンテコなオークション。参加者は、なんでもない1ドル札を競り落
とす。
 スタートは1セントから。(1ドル=100セント。念のため)。普通のオー
クションと同じに、1番高い値をつけた人が競り落とすことになる。普通とちが
うのは、2番目に高い値を付けた人も、何にも手に入らないのに、オークショ
ナーにその金額を支払わなければならない。
 どうしようかなとみんなが様子見してる。それを見てAさんが手をあげる。
「じゃ、1セント」。このままだと、Aさんがたった1セントの出費で、まんま
と1ドルを手に入れることになる(99セントの利益)。
 「わたしは2セント」Bさんが声をあげる。このままだと、Bさんはたった2
セントの出費で、まんまと1ドルを手に入れることになる(98セントの利
益)。付け加えるなら、現在では2番目に高い値を付けているAさんは、さっき
つけた値である1セントを取られてしまう。
 「じゃ、3セント」とAさんは新しい値を付ける。このままだと、Aさんは
たった3セントの出費で……(以下、略)
 ずっとやってなさい、って感じがしてきた。そこで時計を進めてみよう。
「わたしは101セント!」
「じゃ、102セント!」
「わたしは103セント!」
「じゃ、104セント!」
……
 この二人は何をしているのだろう。1ドル=100セントしか手に入らないと
いうのに、それ以上の値をつけたりして。
 しかし、この2人(AさんとBさん)の身になって考えてみてほしい。オーク
ションから降りることは、さっきにつけた値の損することになる。それを避ける
には、資金の及ぶところまでこのチキン・レースを続けるしかない。そうやって
「負けない」ことが優先されて、手に入るモノの価値とは無関係にセリ値が上
がっていく。つっこんだセリ値が上がれば上がるほど、損害が大きくなってます
ます負けたくなくなる……。
 このとてもヘンテコなオークション(ゲーム理論家のシュービック発案)は、
ドル・オークションと呼ばれている。
 
 このオークションで、ベストの解決は、誰かが最初に1セントの値を付けた時
点で、他の人は下りることだ。あとは、みんなで1ドルを山分けすればいい。し
かし好事魔多し。誰かが裏切る可能性が排除できなくて、誰かが競い出すと、と
たんにトラップにはまる。
 裏切りの可能性が否定できないならば、セカンド・ベストなのは、最初からい
きなり1ドル=100セントで競り落とすことである。これだと、次にライバル
が参入するインセンティブが生まれない。しかし、そうやって競り落としても利
益がない。あるとすれば、それはこの「呪われたゲーム」を成仏させる、悪魔払
いとしてのプライドを満たす、と(笑)。「参加しない」のと経済的利得は同じ
なので、あるとすれば義侠心か(笑)。
 ここまでわかれば、誰も参加しないのがサードベスト。しかし、ほんとうに誰
も参加しないなら、みんなが部屋を出たところで、さっさと1セントの値を付け
て競り落とせばいい。その誘惑あるので、誰も参加せずに部屋も出ていけない
(笑)。
 実際には、この手のゲームに似た状況は現実にけっこうある。要するに、ささ
いな利益に引き寄せられ、投じた利益が惜しくて(抜けると損をこくので)だら
だら抜けられず、ますます傷を深くしてしまうような事態である。このドル・
オークションと軍拡と共有地のジレンマと囚人のジレンマを、ソーシャルトラッ
プの、同じカテゴリー(Purely collective traps)に入れる人もいる。あと見返
り(快楽)がどんどん減っていくのに、やめられないアディクト(中毒)と似て
いるとも。
 また、この実験をすると、かならず誰かがはまってくれる(らしい)。この本
は、「エール大学式「ゲーム理論」の発想法」とあるが、エール大学の学生さん
もはまってくれた。これはエール大学の学生がとりわけバカという訳ではない
と、著者は申し添えている。なお著者は、「合理的にはこうすべきだったのだが」
とゲームを説明して、そんな風に動けず失敗してしまった自身の体験談をいくつも
紹介している。

■■『新編日本古典文学全集60 狂言集』(小学館)============■

 「宗論」という狂言が入ってる。
 宗論は、宗教論争。ここでは宗派間の論争。教義上の優劣・真偽について侃々
諤々喧々囂々やる。これだけでまあ、ストーリーは予想される。

 旅のふたりの坊さんが出会って道連れに。話を交わすうち、片方が身延詣から
帰りの僧侶(要するに法華僧)、もう片方が善光寺詣から帰りの僧侶(要するに
浄土僧)であることが知れる。当然両者は犬猿の仲(宗派)。互いに相手に改宗
せよと、宿屋に入るなり宗論の幕が切って落とされる。
 まずは法華僧が「五十展転随喜(ずいき)の功徳(くどく)」を説くが、それがや
がて「ずいき芋汁」の話になる。つづいて浄土僧が「一念弥陀(みだ)仏即滅無量
罪(ざい)」を説法するが、やがて献立の菜(さい)の話に変っている。夜通しやっ
てるバカ宗論。互いの法話にアホらしさに、両者あきれはてて寝てしまう。
 さて次の朝、はやく目覚めて二人は朝のお勤めを始め出す。ここでも競い合う
二人。ナンミョウレンゲキョーにナムアムダブツ、互いに競い合い大声出して経
を読むうちに、二人は興にのり、とうとう浄土僧は踊り念仏、法華僧は踊り題目
と浮きに浮く(笑)。踊り合いながら高まるボルテージ、ふたりはまもなく忘我
の境地に至り、浄土僧がナンミョウレンゲキョー、法華僧がナムアムダブツと互
いの宗派を取り違えてしまう(お約束)。
 二人はハッっと翻然として悟り、シャカの教えに分け隔てがあろうはずがな
い、宗派の争いなどささいなこと、と仲直りして、踊ってハッピーエンド(お約
束)。両派が新興宗教だった時代の、期待と予想を裏切らない出家狂言。


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