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           読 書 猿   Reading Monkey
            第115号 (おつむてんてん号)
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
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 ■読書猿は、本についての投稿をお待ちしていました。

■■中西新太郎『情報消費型社会と知の構造』(旬報社)============■amazon.co.jp

 以前は「近頃の若い奴は礼儀を知らない」と呪われたが、昨今では「近頃の若
い奴はモノを知らない/アタマが悪い」と絶望されることの方が優勢だ。
 総理大臣の名前を言えないとか、分数が計算できないとか、昔の中学生並の読
書量すらないとか、予備校模擬試験の平均点が1年に1点づつ下がっている(だ
から偏差値は同じでも20年前とくらべると点数で20点ほど低い)とか、そう
いうことが言われてる。原因の方も、大学生進学率が高くなりすぎたとか、体内
の水銀汚染がひどくてこらえ性がなくなったとか、いろいろある。どれもまあ、
当たらずとも遠からずなのだろうが、こういう話もある。
 「デカンショ(節)」というコトバがあって、一説には「デカルト・カント・
ショーペンハウアー」の略になっているというのだけれど(ビミョーなセレク
ションだ)、そういうのを読むのが「知的」だったみたいなのである。ついでに
いうと「デカンショ」は「もてた」らしいのである。「知的」だというのは、要
するに「圧力」であったので、誰もが「デカルト・カント・ショーペンハウ
アー」を読みこなしていた訳ではない。そういうものを読んでると「尊敬」され
たり、読んでないと「バカ」にされたりしたというだけの話である。
 「知的であること」の中身はもちろん変わる。仲間内になったり、仲間はずれ
にされたり、いばれたり、さげすまれたりする際に使われる「知」は、場所に
よっても時代によっても、もちろん違う。いまどきポケモンをすべて覚えてたっ
ていいことはあんまりなさそうだ(場所によるかもしれないが)。余計な話だが
「もてる」条件ももちろん変わる(デカンショだってもてるときはもてる)。お
じさんロッカーがかつては「もてる」ためにギターを覚えたのと同じように、
「知的」であろうとしたり、カントやショーペンハウアーを読む人がいたのかも
しれない。逆に(極端な話だが)ニューヨークでは、「麻薬の売人」とつき合う
女の子が激減したので、(……風が吹けば桶屋が儲かる……)ドラッグがらみの
事件が減ったらしい。
 こういうイイカゲンなことを書くと批判が来る。ひとつは「知をバカにする
な」というお叱りだ。「知」や「頭いいこと」がこの人たちにとっては、デュル
ケムのいう「聖なるもの」なのかもしれない。よく「○○ばバカだ」とか「○○
も知らない」とか言い合ってるのは、あれは一種の宗教儀礼なのだ。みんなでそ
いつを「拝む」ことで、何となくみんな「仲間」になってる。外から見ると、す
ごくバカみたいに見える(笑)。しかし「聖なるもの」だけに、バカにされる
と、逆鱗に触れる。怒りを共有することで、何となくみんな「仲間」になって
る。
 しかし、もう少し生臭い話もしておこう。
 「誰もが身につけるべき教養」は、「決して身につけることができない大勢」
がいることを前提にしている。たとえば「哲学」といった知のあり方は、「誰も
が発する問い」と「少数者しか獲得できない言語資源」をつき合わせることで成
り立ってる。「哲学的な問い」の内容は、誰もが発することができるし、また
時々に発している問いでしかない。しかしそうした「問い」を「ちゃんと」取り
扱うためのリソースは獲得することは大変で、よほどの「暇」とそれまでの「先
行投資」がないと獲得できない(そのリソースの中身のほとんどは、高々「哲学
的な言い回し」でしかないのだけれど)。「少数の教える人」と「多数の教えら
れる人」。「教養の普遍性」は、じつはこうした「教養の専制」ともいうべきズ
ルによって成立していたように思う。しかもズルを「ばらす」ことも知の役割だ
から(インテリジェンスだね)、自分のズルには黙っていられる。ずるいぞ知識
人!せこいぞ教養人!
 けれども上記の話は、お勉強の内容としてはあり得ても、当面は言う相手のい
ない空言にすぎない。「職場のしきたり」や「つきあいがありそなあたりでの流
行モノ」や「礼儀作法」なんかをその都度仕入れて使い回すのに四苦八苦。「世
間知」みたいなものがあって、しかもそっちの方が優勢だと。これも、場違いな
「あるべき論」をまき散らす(プチ)知識人・教養人の言いぐさなんだけどね。
ほんとは世間知くらいちゃんとに「分析」しろよ、知識人なんだからさ、って話
もある。いや知識人は語ったり説いたりはするけども、決して「分析」はしない
のだ、という話もある。本とは全然関係ない話になっちゃったね、また。
 もうひとつのお叱りは、「現代思想なコトバで世の中を論じたり、@@に載っ
てた映画を見たりしてるのに、全然「もてない」ではないか」というものだ。し
かしもうこの話も飽きてきた。このタイムカプセル的なお叱りには、別の機会
に。

■■ショウペンハウアー『読書について』(岩波文庫)===========■

 「デカンショ」の、悲しげなトホホ感というか馬鹿馬鹿しいさみしさ、みたい
なものは、きっとショウペンハウアーが入っていることに負うところが大きいだ
ろう。日本人ってデカルトとかカントとか、今でも好きそうだし。一番エライ哲
学者はカントだとか、本気で信じてる人もまだまだいそうだし。
 そこへいくとショウペンハウアーはいい。だれも見向きもしない。唯一知る例
外は、とっても女性差別的な一編を読みたくて、どれに入ってるかわからなくて
(タイトルで分かるだろうがよ)、とりあえずショウペンハウアー全集を買った
Fさんぐらいのものだ。ショウペンハウアー全集って本国ドイツよりも先に日本
で出版されたらしい。そういうことってあるけどね。
 しかしそこはさすがのショウペンハウアー、読めば必ず失望する(笑)。とい
うか、読むに先んじてげんなりさせ、しかもその予想を裏切らない。つまらな
い、はっきり言って。この本だって、渡辺昇一でも言えそうなことしか書いてな
い。
 「読書なんてしないほうがいいとショウペンハウアーが言ってますが、これが
読書猿さんのポリシーのルーツですか?」なんて問い合わせがあったが、ショウ
ペンハウアーは「くだらない本が多いから、そういうの読んだら読書がキライに
なる」みたいな趣旨とちがうのかな。これって、「授業で余計なこと教えないで
下さい」とかいうバカ親みたいな主張じゃないか。あと「古典を読め」とか
(笑)。ショウペンハウアーはこれでも悪口ばっかりいって、晩年には犬しか友
達がいなかったらしい。いい話じゃないか、どっちかっていうと(笑)。ほんと
ショウペンハウアー、期待を裏切らない。これはひょっとすると、今年あたり来
ますよ、ショウペンハウアー。

■■Britannica Editors 『Great Books of the Western World』
                 (Encyclopaedia Britannica Inc)===■

 町の小さな図書館にも、ブリタニア百科事典とともに、この書が並んでいるを
見かけた。
 1943年、ブリタニカ社のオーナー兼発行者となったウィリアム・ベントンは、
同級生だったハッチンスと、彼と共にグレート・ブックス・セミナーを行ってい
たアドラーに、「グレート・ブックス」の企画を持ちかけた。
 グレート・ブックス・セミナーの原型は、アドラーがコロンビア大学で体験し
たジョン・アースキンの古典購読の授業にある。アースキンは、当時としては極
めて異例な「セミナー」形式でこの授業を行った。1週間に1冊が課題に出さ
れ、参加者はそれについてディスカッションする。選ばれた書物は、ホメロス、
ヘロドトス、ツキディデスといったギリシア古典に始まり、ダーウィン、マルク
ス、フロイトと多岐にわたっていた。これはいったい哲学の授業なのか?それと
も文学?神学?歴史?「専門家」を自負する学者たちは、このアマチュア精神に
富んだ授業を白い目で見ていた。しかし「素人の質問」こそがこのセミナーの議
論をすばらしい体験にした。最初はアースキンがひとりで進行を行っていたセミ
ナーだったが、大学を卒業したアドラーやがてもうひとりのコンダクターとして
加わった。2人のコンダクターによる進行というグレート・ブックス・セミナー
の形態がこうして完成していった。
 ベントンはすでにグレート・ブックス・セミナーを経験していた。しかし課題
となる「古典」のいくつかは入手が難しかった。グレート・ブックスとして必要
な本を全て集めたような刊行物があれば便利だ。そこで我がブリタニア社がそれ
を出版しようというのである。
 しかしハッチンスは懐疑的だった。「古典」が家庭の本棚に並ぶだけでは意味
がないのではないか。セミナーのディスカッション・グループのようなしかけが
なければ、それらは取り出して使われることはないであろう。使ってみようとい
う気持ちにさせるようなしかけがなければ意味がないではないか。
 「《古典》を機能させる書物」をつくることが編纂に当たったアドラーの仕事
になった。アドラーはある種のインデクス(索引)をつくることを思いつく。た
とえば「正義」について、プラトンは、アリストテレスは、ベーコンは、ベンサ
ムは、マルクスは、なんといっているのか?古典を横断して結び合わせるイン
デックスが作れれば、ユーザー(!)は自分の考えと「古典」たちを結び合わせ
ることができ、日常それを取り出してみようという気持ちにもなるのではない
か。
 しかしこのアイデアの実現は当初考えたほど容易ではなかった。ジャンルも時
代も書かれた言語さえ多岐に富んでいる「グレート・ブックス」たちは、同じ概
念が同じコトバ・表現で表されているとは限らないからだ。機械的に「コトバ」
を拾い上げてつくったインデクスでは要求を満たさないだろう。「トピックスに
よるインデックス(indexing by topics)」とその構造化という独特の方法がこ
うして編み出された。アドラーは、古典を選び、また2000のトピックからは
じめ、それを102のグレート・アイデアズに集約していった。そして織り込ま
れるトッピクスは上位概念に束ねられ、相互のトピックが互いに関係し合いネッ
トワークを構成する。それらのアイデアを、グレートブックスに入れられた全て
の古典について、どの箇所がそうなのかを参照づけしていくのである。こうして
生み出されたグレート・アイディアスのインデックスは、特別な造語で「シント
ピコン(Syntopicon)」と呼ばれ、それ自体が1巻にまとめられることになっ
た。7年の年月を要し、想像以上の莫大なコストをかけてアドラーはこの超人的
な仕事を成し遂げた。
 英語圏では、町の小さな図書館にも、ブリタニア百科事典とともに、この書が
並んでいる。


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