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           読 書 猿   Reading Monkey
            第108号 (銀庫番号)
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■■エピスン=アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』(ミネルヴァ書房)=■amazon.co.jp

 福祉が人気だ。志す人が増えたのか、世の中のニーズが増しているのか、福祉
と名が付く学校や学科も増えた。福祉関係のカタナカ言葉の流通も増えた。福祉
はすばらしい。すばらしい福祉。
 一方で、福祉はスティグマだ。「福祉もらってる/かかってる」というのは、
いまも蔑みや哀れみをもって言われる言葉だ。こうして忌避されつづける福祉
と、たとえば目を輝かせてスウェーデンの事例を紹介する人がいう福祉と、同じ
福祉なのに、どうにも重ならない。why?

 大ざっぱに言って、福祉のやり方(というか、福祉国家のやり方)には3つあ
る。
 一つ目は、できるだけ何もしないこと。それなしには確実に死んでしまう人
を、所得や財産というふるいにかけて慎重に選び抜き、その人たちだけに、最低
必要なものを(しばしば足りないこともあるが)提供するというやり方。
 二つ目は、可能な限りすべての人のすべてのニーズをカバーすること。「あん
たは○○だから、この制度の適用はうけられない」ということはやらない。みん
なから同じだけの資金を集めて(同じプールにあつめて)、同じ条件なら同じだ
け提供する。貧困も、病気も、介護も、育児も、ときには教育といったことにつ
いても、とにかくできるだけ広いニーズに対応する、そんなやり方。
 三つ目は、システムを分けて対処するやり方。対象者ごとにお金のプールも配
分ルールも分ける。サラリーマンの福祉システム、自営業者の福祉システム、農
家の福祉システム、公務員の福祉システム、エトセトラ。ニーズごとにお金の
プールも配分ルールも分ける。病気のためのプールとシステム、貧困のための
プールとシステム、失業のためのプールとシステム、エトセトラ。とにかく分け
るそういうやり方。

 詳しいことは省くが、第1の典型が英米で(イギリスはちょっと違うけど)、
第2はスウェーデンなどの北欧諸国で、第3はドイツが典型といえば、少しはイ
メージしやすいかもしれない。

 それぞれの福祉システムの帰結をまとめると、こんな感じになる(以下の順番
は、歴史的な登場の順番だと思いねえ)。
 第1のやり方だと、福祉の対象になるのは「特別なひと」に限られる。だから
福祉がスティグマとなる。福祉にかかることが忌まれ、嫌われる。何かよくない
ことのように思われる。
 第3のやり方だと、それぞれのシステムが対象としている集団がいる。もとも
とは、ビスマルクあたりが資本主義もいやだが社会主義もいやだ、だったらこっ
ちのグループを抱き込んじゃえ、あっちのグループをひいきしちゃえ、と始めた
やり方だが(これが最初の「福祉国家」である)だから、それぞれの集団の間の
断絶、いがみあいが起こるのは必須である。なんであいつらだけが、という話に
すぐになる。制度が変更されるたびに、別のところで「ひがみ」が生じる。互い
に足を引っ張り合って、福祉の水準は上がらない。ちがうシステムで対処する
と、対象者グループの分裂が再生産され、対立も再生産される。
 第2のシステムは、こりゃいかんと、みんなが同一システムに入ることを要と
する。さっきとは反対に、同じ福祉システムで対処するなら、同じひとつのグ
ループが再生産される。つまり福祉もその対処者も特別でない。たくさんのお金
が福祉システムを通じて分配されるので、金持ちと貧乏人が減っていく。中間階
級が再生産されて、自らを生み出した福祉システムはますます「あたりまえのこ
と」と見なされる。福祉を向上させることは、みんなの得になる(誰かだけ、の
とくではない)ので、高福祉でもだれも「ひがむ」ことをしない。

 (めちゃくちゃ乱暴なまとめだから信用してもらっては困るが)、エピスン=
アンデルセンのキモは、福祉のやり方のちがいで、国家と資本主義のあり方(再
生産のパターン)がかなりの程度わかってしまうんではないか、ということだ。
あちこちの資本主義が、どうにも一つと思えないのなら、このシンプルな整理は
なかなか胸に落ちるところがある。グローバリゼーションなんていう連中は、
「おまえらがガタガタ言おうが、遅かれ早かれこうなるんだよ」と言ってくる。
いまだに唯物史観や産業化論が生き続けているみたいだ。どうかもう少しだけ、
彼らに複雑さを与えたまえ。そして警察あがりの危機管理おじさんには、単なる
リスクを与えたまえ。
 そうして、少なくとも冒頭あげた福祉に関する食い違うイメージの源泉がどん
なところにあるのかも、なんとなくわかる。
 ちなみに、日本は第1のやり方と第3のやり方の混合だという。これにはもち
ろん反論があるが、いたずらに日本を独自パターンに当てはめるよりは、ちくわ
の穴の向こうがみえるようで、ずっとすっきりする。


■■木村紺『神戸在住』(講談社アフタヌーンKC)===========■amazon.co.jp

「月曜日はかなんな ほんまー 頭 まだ 遊びモード入っとーし 朝ゴハン 
抜いてもーたわ」
「あ 今日な 研究室 開く言うてた 行がへん? 教授(センセ)にえー豆買
わしてんて なんとブルマン!」
「なー ヅラ カブせやへん? マッチ棒1本 10円 1箱100円からで」
「かつらっちー? 何 食べとお? お子さまランチ?/まーまーこれも愛じゃ
け」

 関西ネイティブには、これくらいで、話し手がどこの出身か聞き分けられる
(らしい)。つまり弁別できるくらいに、セリフがかきわけられている。
 知られたマンガらしいが、先日はじめて読んだ。はまってしまって、先週は
ずっと(10回くらい)繰り返し読んでいた。


■■マクラレン『マルクス伝』(ミネルヴァ書房)============■

 正直、伝記は、この国では、浮かばれないジャンルだ。
 まず子供の読み物という偏見がある(子供の読み物でどうして悪いのか)。ど
うせ貧乏、努力、立身出世バンザイなんだろうと高くくられている。そのくせ、
だれか偉い人の生涯を扱ったテレビプログラムや映画には人がたかる(何だ、結
局好きなんじゃないか)。
 ツヴァイクやストレーチー(と広辞苑にはあるが、ここはやはりストレイチイ
だろう)のような大型伝記作家がいないとか、実証史学が英雄・天才の類を追放
したのが問題だとか、悪いのはみんな戦後民主主義だとか、そういう話ではな
い。
 聞いてみると「いや、子供かオヤジが読むもんなんじゃないですか」。なるほ
ど、かしこい本を読むような若い人には確かに評判が悪い(しかし山岡荘八『徳
川家康』と『キューリー夫人』『野口英世』を同様に扱う連中の、どこがかしこ
いのか)。
 「思想家の思惟は、決してその生涯に還元されてはならない」とは、かつては
頭よさげなセリフだった。だから、もちろん、
「概していえば、自己の宣伝活動の首尾にかんして、明らかにエンゲルスは超楽
観主義者であった。10月下旬、いかに小規模なものであっても、活動という活
動を虱潰しに停止させるために警察が干渉を加えてきた。そこでエンゲルスはこ
う思った。パリを去るまえに、できるだけ多くの違った国籍の娘たちを国の数だ
け口説き落とすことに目を向ける方が、いっそう賢明なのではなかろうかと。」
 としても、『家族・私有財産および国家の起源』を「女たらしのかんがえそう
なことだ」と決めつけるのは正しくない。
 また1849年には「エンゲルスはベルンから手紙を書いて、帰国しても大丈
夫かどうかマルクスに尋ねてきた。というのも、裁判にかけられることは何でも
なかったが、その彼も、未決拘留中の禁煙の規則はどうにも辛抱できそうにな
かったからである」。
 マルクスは自分がずっと貧乏だと信じていたが、それは金遣いが荒くて、お金
の管理というものがちっともできないからだった。有名な話、マルクスのお母さ
んは「資本について書くだけでなしに、資本をつくることもしていたら」と嘆い
たが、それは躾の問題ではないですか。
 マルクスは、パリ・コミューンを、プロイセン軍がパリの城門に迫ったという
「偶然事」の結果だと考えた。そして、「もし偶然事が何の役割も果たさないと
したら、世界史はひどく神秘的な性質のものとなるでしょう」と書いた。彼自
身、ほとんどいつも政治状況を読み違え、右往左往したあげく、見解を修正する
ことが多かった。同時代について鋭い目をもちながら、いつも歴史に裏切られた
にもかかわらず、その中で書かれた「資本論」はおろか、書かれた当初は大した
役割を果たせなかった「共産党宣言」すら、「不朽の名著」となってしまった。
ほんと、偶然ってやつは。



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