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           読 書 猿   Reading Monkey
            第107号 (金庫番号)
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
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■■伊丹敬之『創造的な論文の書き方』(有斐閣)============■amazon.co.jp

 かなりの「おしえ」系。何しろ前半は対話編。最後にはコンパクトなまとめ
もある。
 たとえば、こんな「おしえ」。
「自分だけを信じろ。ただし、聞いてる振りだけはしろ」
 どこかで聞いたような話であるが。
 ちなみに、鹿児島大学の桜井せんせいのホームページもかなりの「おしえ」
系。
「大人をみたらヤクザと思って対応しろ」(大人ってプライドだけで生きてい
るから)
「就職面接は『美しいきもの』レベルの濃いメイクで」
など、実践的なものに満ちている。


■■『MBA100人が選んだベスト経営書』(東洋経済)========■amazon.co.jp

 大前研一とか堺屋太一とかってこの世界では偉い人なんだ、ということがわ
かった。色んな人が薦める本というのが、へんに教養なくておもしろい。大前
研一は、この本の中のインタビューに答えて、向こうのビジネスマンは思想書
をあげる、とか言うんだけどね。
 ところが、あにはからんや、
ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(「プロ倫」
と略す、プロレタリアートの倫理みたいね)がみごとランクインしていた。
 なるほどビジネス書は「ああしろ」「こうするな」の固まりでできている。
つまり「教え」に満ちている。惰性に流れたり、今まで通りのやり方に安住し
たり(そっちの方がぜったい楽だし、ほとんど人間の本質ではないかと思える
のだけれど)、そういうことやってるとおまえのビジネスはつぶれるから、
「ああしろ」とか「こうするな」とか、ということがビジネス書には書いてあ
る。
 こういう、将来のトータルな(長い目で見た)利益のために目先の快感を律
する(禁じる)というのが、ウェーバーがフランクリンを引き合いに出して述
べた資本主義の精神=ビジネスマン魂という奴なのだろう。
 そしてそれを分析したのだから、史上最初のビジネス書だというのも、あな
がち間違っていない。
 ところで、右肩上がりの成長が終わった今後の社会では、そういう「将来の
ために目先の快感を律する(禁じる)」よりも、「現在を楽しく過ごす」方が
適応戦略だ(そんな将来なんてもう当てにならないんだから)、という論説が
しばらく流行っているらしい。しかしその一方で、「現在」と「未来」の交換
レートはおまえらが考えているより(考えてさえいないのかも知れないけど)
ずっと分が悪いのだぞ、という「大人」からの警告も後をたたない。もっと
も、「現在を楽しく過ごす」派だって、近い将来にバカを見ないためにも、い
まから「現在を楽しく過ごす」スキルやノウハウを何とかしておかないといか
んよ、というのだから話はややこしい。また少し考えてみる。とにかくこの項
を終わらないと。
 話を戻してこの本では、ウェーバーの「職業としての学問」「職業としての
政治」と並んで、 「プロ倫」は「職業としての経営」だという指摘もあっ
た。いまいちなネーミングだけども。


■■松岡温彦『粋でおしゃれなお金の集めかた・使いかた ABC事典』
                      (シチズン・ワークス)==■amazon.co.jp

 大阪・ミナミ、通天閣は、税金なんかこれっぽっちも使わずに、町の人たち
がお金を出し合って「再建」された。正確には、7人の中心メンバーのひとり
が質屋さんで、債権をまちのひとたちに買ってもらって、それで資金を作った
のだそうだ。テレビで見た(プロジェクトXなんだけど)。「まちづくり」と
いえば、補助金をもらってくることだと思ってる人たちに聞かせたい話だ。
 みんなの大事なことを行うには、お金が必要だ。「みんなの大事なこと」に
は金がかかる。誰かがポンとお金を出せたらいいが、普通はいろいろ工夫して
集めないといけない。工夫がない集め方は不快感を生む。ちょっとした工夫は
しかしたくさんある。
 アンケート回収率をあげるためには、ちょっとしたお礼を用意する。最近
は、図書券とかテレホンカードなんかが多い。とある新聞社はこんな「お礼」
を用意した。「このアンケートにお答えいただけば、あなたの希望する慈善団
体に、あなたに代わって1ドルを寄付します」。
 とあるレストラン。「ジャンケンに勝ったら、料金は半額。そのかわり得し
た分のいくらかでも寄付してください。じゃんけんに負けても料金は通常のま
まです」。ユーモラス。よし、いっちょやってやろうか、という人が多いほ
ど、寄付は増える。自分の得をねらうことが、誰かの役にも立つ。
 隅田川にかかる開閉橋(船が通るときパカッと開く橋)、勝鬨(かちどき)
橋は橋げたを上下するウィンチがさび付いてしまって、再び動かすには数億の
金が必要だという。最初は募金を募ろうとしていたが、最終的には「勝鬨債
権」を発行し、これをみんなに買ってもらうことにした。この債権には利子は
つかない。ただし、開閉が成功したとき、購入者の中から抽選で「橋くぐり初
め」の船に乗ってもらうことにしている。


■■ジェーン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の生と死』(鹿島出版会)==■amazon.co.jp

 都市計画家の偏向は、語られて久しい。いわく、都市計画家はオープン・ス
ペースが好きだ、都市活動をとにかく区域に分けようとする、等々。日本では
「階級」というコトバを使うことは「はしたなく」思われているので、欧米で
言われたほどには、都市計画家の「中産階級的偏見」がやり玉に挙げられるこ
とは少なかった(なにしろ、ほとんど誰もが自分のことを「中産階級」だと信
じていたので)。それでもマイノリティ集団の土地利用や制度は「社会病理的
なもの」や「衰退しつつあるもの」として、いつも計画の中から一掃(あるい
は一掃することを計画)されたことも事実である。ジェーン・ジェイコブズ
の、古典的批判は「都市計画家は、都市から都市的なものを取り除くことを、
都市問題の解決だと思っている」というものだ。計画家は、都市の集中を分散
化し、人口密度を低くし、舗装を芝生に張り替え、騒音を静寂と取り替え、都
市の喧噪を閑静な環境にしようと企んできたという。そして元々、社会運動と
して生まれた都市計画運動は、結局のところ運動としては成功しなかった。都
市は都市のままであり、変わったのはかつての社会運動家の末裔で、いまでは
顧客の欲求に答える専門家になった計画家たちの方だった。

「19世紀の改革者たちと同様に、基本計画策定者は人々の生活は物的環境に
よってかたちづくられ、理想的な都市は理想的な物的環境を準備することに
よって実現できると考えた。
計画家たちは、建築家やエンジニアのように、都市とは建物と土地利用のシス
テムであり、それは計画によって整備されたり整備し直したりすることがで
き、土地利用を含む人々の行動を決定する社会的・経済的・政治的な構造と過
程を考えなくてすむと信じていた」(Gans,Hebert J."People and
Plans",Basic Books(1968))。
もう少し端的に言えばこうだ。
「空間と施設の整備が都市生活の質を決定する」
30年以上も前の本を持ち出して悪かった。いまやこんなナイーブな都市計画
家は、平和を願って原子爆弾を開発した物理学者と同様、きっとどこにもいな
いだろう。かつてマンフォードが引用したルソーの一節は、いまや「陳腐」な
ものとして、どこのオヤジの口にものぼる。
「家が町並みをつくる。しかし市民が都市をつくる」(ルソー『社会契約
論』)
 でも批判者のジェーン・ジェイコブズだって、実は、次の信念を都市計画家
たちと共有しているのではないか、すなわち
「空間と施設の整備が都市生活の質を決定する」
これこそは、計画家たちの方法がつくりだす抽象的世界(イメージ)の産物な
のだが。いまやこんなナイーブな都市計画家は、きっとどこにもいないだろ
う。しかし、この信念を振り払ってなお、都市計画なんてあり得るのだろう
か?
 もちろん「市民」というコトバに、良識ぶった胡散臭さを感じる人もいるだ
ろう。意外な人もいるだろうが、このコトバは1980年代には主として警察
用語として用いられていた。そのころ新聞紙上に現れるもっとも多い用例は
「暴力団から市民社会を守る」といったものだった。これがソビエト連邦崩壊
後には、「社会主義体制に勝利した力」を表すものとして用いられていた。い
わゆる「市民活動」が前景に現れるようになるのは、もちろん阪神淡路大震災
からあとの事である。
 その欧州では「市民社会」は、自由競争、メガ・コンペンション万歳、格差
拡大、社会的公正が犠牲になるのもやむなしとするネオ・リベラリズムのめざ
すところを示すコトバとして、「良識派」からはけっこう呪われてきたことも
申し添えたい。


■■テレンス・ゴードン『マクルーハン』(ちくま学芸文庫)=======■amazon.co.jp

 ケンブリッジでニュー・クリティシズムを学んだ彼が学士号をとった年、
チューリング・マシンが開発され、ベンヤミンは「複製芸術の時代における芸
術作品」を発表した。あるいは彼が「メディアはメッセージだ」と公言した
年、フォン・ノイマンは『電子計算機と頭脳』を発表した。彼の『グーテンベ
ルグの銀河系』が出た年は、クーンの『科学革命の構造』とカーソン『沈黙の
春』が登場した年でもあった。『メディア論 Understanding Media』が登場し
た年、グレン・グールドは演奏を取りやめ二度とコンサートを行わなくなっ
た。あるいはまた、彼は孫にテレビを見せたがらなかった。
 さて、ここで問題。あなたがマクルーハンを嫌っているのは、彼を日本に紹
介したのが竹村健一だからだろうか?




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