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           読 書 猿   Reading Monkey
            第105号 (福利厚生のしおり号)
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■■鶴見俊輔『新装版 アメリカ哲学』(講談社学術文庫)==========■amazon.co.jp

 「アメリカ嫌い」が、右にしろ左にしろ知識人の「たしなみ」となっていた
のか、純アメリカ産の哲学といっていいプラグマティズムは、この日本でほと
んど流行らなかった。それどころか、アメリカに哲学がある(アメリカ人に哲
学ができる)というのを認めない向きすら少なくなかった。
 それと関係あるのかないのか、インテリの経済学嫌いというのもなかなかに
根深いものがあった。
 かつてこのあたりのことを書いた佐和隆光は(「神話の時代は終わった---経
済学は有効性と取り戻しうるか」,『世界』79年5月号)、世人の経済学不
信の根っこにある「経済学のわかりにくさ」(日常言語の特殊な用法、自然科
学者にすらなじみにくい特殊な機械論的な論理)に触れたあとで、当時経済学
が十分に制度化されたアメリカでは、コモン・センス(生活感覚)と(近代)
経済学との同型性があると述べている。逆に言えば、日本では生活感覚と経済
学の間に大きな齟齬があるというのである。もっともそれ故に、近代経済学の
第一次普及期(昭和40年代)には、「常識(コモン・センス)のウソ」を告
発するという派手な役回りがあったのだが(未だにそんな本はあるけどね)、
現実への適用については「当たらない天気予報」と同様の扱いを経済学は長ら
く受けてきた。
 もっともバブル崩壊後、猫の目のように変わるコメントにも関わらず、エコ
ノミストへの期待や評判は不思議にも鰻登りで、本人達もほとんど「知識人」
先生のような活躍ぶりである(近頃では「あるべき人間像・社会像」を語って
見せたりもする)。不況だし、回復したってせいぜい低成長だし年金だってど
うなるかわからないし、もはや知識人みたいに「理想」を語ってられなくなっ
たこと、それに合わせて知識人の方も「理想」を猫の目のように変えてきたこ
と(そうしなかった頑固者はマスコミへの登場回数がめっきり減るか、自身が
寿命で死んでしまったこと)、それだったらまだリアルに感じられるマネーや
経済の話をしてくれるエコノミストの話の方が聞くに耐えるだろう、等々理由
はある。つまりはエコノミストだって節操がないが、世人の方がもっと節操が
なくなったという訳だ。溺れるものはワラをもつかむ、ストローエコノミス
ト。
 さて、そのアメリカのコモン・センスに育まれたのがプラグマティズムであ
る。この哲学でないみたいな哲学は(鶴見俊輔はもっと哲学でなくなれ!とい
うのだが)、鶴見俊輔によれば次のような「アメリカ人」のコモン・センスに
よっている。
 功利主義的傾向:アメリカでは、思想の体系がどれだけ立派かなどは問われ
ない。抽象的な理論にはWhat good is it?(それが何の得になるんだ?)、So
What?(それがどうした?)と、その思想がもたらす結果が愉快か不快か、正か
邪かが問われる(アメリカに哲学がないといわれる由縁である)。「大礼服と
勲章をまとった思想でなくてもよい。普段着の思想でも、我々の個人生活及び
社会生活から困難を除去するのに役立つならばそれでよい」。
 実証主義的傾向:アメリカ人は、「自分の手にとって見られるものでないと
信用しない」。意見や思想も、日常生活で遭遇する事物や出来事によって説明
されないと納得しない。
 自然主義的傾向:アメリカ人は考えることにあまり尊敬を払わない(ほ
ら!)。学者をあまり尊敬せず、思想をありがたがって神棚にかざったりしな
い。つまり思考を、人間の他の行動から切り離しては考えない。これは行為主
義の自然主義的傾向につながる。
 この「コモン・センス」に登場する「アメリカ人」が、WASPとは言わな
いが、すべてのアメリカ人でないことは今では明らかだ。鶴見も後年そういう
ことを言っていて「たとえば、黒人の見たアメリカ哲学、キューバ人の見たア
メリカ哲学といった点から書き換えたい」と言っている。
 ところで、その鶴見俊輔に、プラグマティズムを紹介したのが、「経済白書」
の伝説的執筆者、都留重人である。
 

■■フィヒテ『教育論・大学論・学者論』フィヒテ全集22巻(晢書房)====■amazon.co.jp
 
 フィヒテのこの論考には、1800年前後に発表されたものが集められてい
る。
 あの、ぱっとしないドイツ観念論が哲学の分野で一時世界を席巻したのは、
ドイツの大学システムが世界的に採用されたからである。それくらい当時のド
イツではじまった大学システムは「優れて」おり、哲学はこの大学システム改
革に関わることで、まんまと「万学の女王」たる地位をかすめとった。
 哲学はそれまで、1000年以上も長い間、ガキ(初学者)が学ぶものだっ
た。医学や法学といった、まっとうな学問をこの先学ぼうとする者が、基礎を
身につけるために習うもの(といえば聞こえはまだいいが)、読み方や綴り方
みたいなものだった。当然、哲学教師の地位は、てんで低かった。
 ヨーロッパで啓蒙主義の知識人たちが華やかなサロンで活躍していた時代、
プロイセンやその周辺で小さな「異変」が起こった。それは西洋の知識世界を
大転換する端緒だった。はじめて無料の義務教育の小学校が設立されたのであ
る。義務教育制度は、当然ながら、大量の教師の供給を必要とした。これが大
学の教養課程(哲学課程)の重要性をよみがえらす圧力となった。これまで大
学の専門課程に学生を供給するだけだったセクションが、公立学校へ教師を供
給するという知的市場で一番の成長分野を担うことになったのである(ドイツ
では中等教育と大学は分離しておらず、教職ポストはどちらも連続していた。
多くの大学教授がギムナジウムの教師からそのキャリアを開始した)。しかも
人材を作る人材をつくるという、このプロセスは拡大再生産となった。知的分
野のテイク・オフが始まったのである。
 こうして、教養課程がこれまでの従属した地位を逃れ、活動自体の独自性を
主張する機会が生まれた。しかも、専門分化した神学部(神学者)や法学部
(法律家)とことなり、教師が持つべき知識には内在的な制限はない。専門的
な教員養成機関としての独立性と、知的分野・研究分野の非制限性とが、この
古くて新しい教養課程に独自の地位を占めさせることになった。ここでカント
が、フィヒテが、シェリングが、全く新しい形態の哲学を提案した。もはや基
礎課程でも、ひとつの科学でもなく、「万学の女王」であるような哲学を。
1810年、ようやく哲学部は大学院を持つようになり、教養学の学位(すな
わちPh.D)が公立学校の教職のために授けられるようになった。
 先にふれた知的人材の拡大再生産によって、大学生が増え大学教師の数もま
た増えると同時に、激しい競争が生まれた。教師たちは学識ばかりか独自性を
も競い合い(競争の結果、生き残れる場所=ニッチを探し求めて専門分化が進
んだ)、その結果、哲学と人文科学、同様にして数学などの、純粋科学が誕生
した。つまるところ、知識人共同体の歴史上、かつてないほどの内部分裂が生
じた。
 アカデミーを抱えるヨーロッパ諸国では、知識人は著作を著し歓談し文通し
たが、ドイツの大学の教師たちが経験したような激しい専門分化の波にも知的
競争にもさらされることはなかった。ヨーロッパの知識人はこのころ、よい意
味でも悪い意味でもアマチュアだった。ドイツでは自由なサロンが官僚制的な
大学に置き換えられ、組織に見合った専門化を進めていった。この中で失った
ものも少なくなかったが、専門分化と競争圧力によって生まれた高い学問生産
性に、やがてヨーロッパの他国は後塵を拝するようになる。19世紀には、
ヨーロッパ中から学生・学者がドイツに留学し、そのシステムの一端でも持ち
帰ろうとした。世界で、万能の知識人は消滅し、大学が知的世界の独占者にな
ろうとしていた。


■■OECD科学技術政策委員会『日本の社会科学政策』(日本学術振興会)==■

 1975年6月、OECD科学技術政策委員会の「社会科学の開発と利用」
に関する調査団が日本に派遣され、2年後『日本の社会科学政策』と呼ばれる
報告書が作成された。
 この報告書は、日本の政策形成システムや大学やシンクタンクなどの研究機
関、中学高校を含む教育システムなど広範な分野について、極めて厳しい評価
と多くの提言を行った。報告書が多くの反響を引き起こしたこと、特に日本の
社会科学者から反発を招いたこと、それにもかかわずその後の日本の状況は、
いくつかの改善がなされたにせよ、四半世紀経った現在も根本的には相変わら
ずであることなど、取り上げるべきトピックは多いが、報告書の詳細な分析に
ふれる前にまず気づくのは、調査団及び報告書を最終的にまとめたOECD科
学技術政策委員会事務局の前提と、調査の対象になった日本の社会科学の現状
に対して責任を持つ人々との間に横たわる大きなギャップである。
 すなわち、報告書の強い主張は次の信念に基づいている、「社会科学は有用
である(もちろん日本でも)」。これはおそらく日本の政策・研究・教育シス
テムを担う人々が、共有していない信念である。したがって調査団はまず、
「日本人はなぜ社会科学は役に立たないと信じているのか」を、日本の社会シ
ステムやその歴史にまで踏み込んで分析する必要があった。そしてこの分析
は、「社会科学は役に立たない」ことを当然とする人たちからは生まれないも
のであった。

 事態をごく単純化して述べるならこうだ。
 「社会科学は役に立たない」という信念が、実際に社会科学の活用・活躍を
妨げる。そしてそのことが「社会科学は役に立たない」という信念をますます
強化する。つまり、「社会科学は役に立たない」という信念は、自己成就的予
言となっている。
 「社会科学は役に立たない」という信念は、人々の「常識」の中のみなら
ず、多くの政治社会システムにゆきわたっている。あるいは、その信念は(常
識という信念システムも含めて)さまざまな社会システムの形をとっている、
ともいえる。報告書の主張は、これら社会システムが社会科学の活用・活躍に
おいて障害として機能し、結果、「役立たずの信念」とそれに基づく社会シス
テムが強化・再生産されるということである。
 たとえば、日本の高等教育は大きく「文科系」と「理科系」とに分けられ、
文科系の中心は伝統的に法学部が担ってきた。このことは、後発国として急速
な産業化と近代国民国家形成を求められた日本の近代化に由来する。西洋諸国
からの技術移転を担う人材と、同じく近代国家制度の構築を担う人材とを速や
かに育成することが、高等教育の第一目標に据えられたからである。国家制度
の樹立後は、その運営に当たるゼネラリストたちを供給する訓練・スクーリン
グ機関として法学部は機能を果たしてきた。
 こうして日本における近代国家建設時において「社会科学」とは実利的価値
が高いと考えられた法律学と(ややおくれて)経済学を意味するものとされて
きた。それ以外はすべて----心理学も人類学も言語学も哲学も社会学も----リ
ベラル・アーツを思わせる「人文科学」として文学部におさめられたのであ
る。リベラル・アーツとしての「人文科学」は、後発国に求められた急速な近
代化にあっては、「実利の学」の残余として、直接は国家利益につながらない
「教養」に近いものとされた。それは、よく言えば「人格の完成」に関わる
が、悪くいえば全体としての国益につながらない(個人化されやすい)もので
あった。
 社会科学の分類は、その国の文化に左右されるものであるから、『日本の社
会科学政策』が前提とする「社会科学」を我が国に当てはめるのは無理があ
る、との反論が日本側から出されたが、「ではなぜそうした日本独自の分類が
できあがったか」について分析されることはなかった。『日本の社会科学政
策』は、こうした議論を無効化するためだけの「文化相対主義」にとどまるこ
となく、そうした分類自身が「社会科学は役に立たない」という信念のひとつ
の表現であり、同時にその信念の成り立ちを突き止める鍵となると指摘する。
すなわち、この分類は、日本の近代国家樹立時における「実利性」において行
われた分類であること、この分類において日本の高等教育の学部編成が行われ
基本的には現在も継承されていること、そうして学部編成が行われた後に輸
入・導入された多くの社会科学social sciences(人類学、地理学、歴史学、心
理学等の行動科学、社会学など)は、残余の学として「人文科学」に放り込ま
れた。すなわち「役には立たない教養の学」として。

 「日本学術会議の有権者数は、18万名であるが、そのうち政治学者、経済
学者、社会学者、人類学者、社会心理学などの社会科学関係の有権者はわずか
3500人程度で、全体の恐らく2%に満たない。
 さらにこの数少ない社会科学者の中で、専門分野間の分布はまことに不均等
である。経済学者が2000名を越す一方で、例えば人類学者は100名に満
たない。現在の大学院学生の分布からみて、将来この不均衡が是正される見込
みはない。1972年(昭和47)に収支以上の学位を授与された16914
名のうち、649名、すなわち4%に満たないものが厳密な意味での社会科学
専攻者であり、法学、商学、経営学を専攻したものと合わせても1628名、
すなわち10%に過ぎない。このように自然科学と工学に対する社会科学の著
しい弱さが、日本の大学とほかのOECD加盟国の大学との重大な相違であ
る。」
(『日本の社会科学政策』「調査団報告」)

 この傾向は、調査が行われた1975年と、さほど変わっていない。
1995年の文部省・科学技術研究調査によれば、法学部・経済学部をのぞく
社会科学研究者は、全体の3.06%である。法学部・経済学部まで含めれば10%
近くとなるが、これは私学大学が多くの社会科学研究者を抱えているためで
(約4倍)、国公立における理系研究者の優位は相変わらずゆるがない。
 日本で社会科学の本格的な研究が始められたのは主な学部や講座が確立され
てしまってからであり、また社会科学の様々な分野の間の相互依存関係が認識
される以前のことだった。この結果、ただでさえ少ない社会科学系の研究者及
び学生は、「人文科学」のうちで細かく分けられたいろんな学科にバラバラに
配属されることになる。社会科学系の各学科は、法学・経済学のほかは実に小
さなものとなり、研究者の育成及び研究成果の再生産は余計に弱体化する。
 研究者が少なければ、研究成果も少なくなり、社会科学の成果に人々が触れ
ることも少なくなる。現実に行われている研究(特に大学院院生による研究)
は基礎的なものであり、かつ、難解で理解しがたいものが多いことも、これに
拍車をかける。結果、社会科学の活用・活躍もまた減り、たとえあってもそれ
を理解する人は少なくなり、「社会科学は役に立たない」という信念は強化さ
れる。このことから、社会科学の活用・活躍はさらに減少し、社会科学研究者
や社会科学を学ぶ者の就職先は減り、したがって社会科学研究者への志願者も
また減少する。研究者が少なければ、研究成果も少なくなり、……(以下、繰
り返し)。


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