=== Reading Monkey =====================================================
           読 書 猿   Reading Monkey
            第102号 (アイデアの作り方号)
========================================================================
■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
  姉妹品に、『読書鼠』『読書牛』『読書虎』『読書兎』『読書馬』『読書羊』
  『読書龍』『読書蛇』『読書鳥』『読書犬』『読書猪』などがあります。
 ■読書猿は、本についての投稿をお待ちしていました。


■■山田雄一『稟議と根回し』(講談社現代新書)==========■amazon.co.jp

 たとえば12ページ。
「他人に初耳のことを言うのは、それ自身が生命体へのオビヤカシであること
に注目しなければならない。赤ん坊はドアの開け閉ての音にもびくっとする。
なれない刺激、めずらしい表現に出会ったとき、人は、まず身構えるものであ
り、他人を不用意にオビヤカスのは当然ながら非礼に当たる。」

 根回しの生理学的必要性!
 これはもう「日本文化」なんてものではない。イキモノに等しく普遍妥当す
るこの性質故に、組織にいきる我々は「根回し」をしなければならないのであ
る。
 組織の中で、いきなり「自分の意見」をぶつけても、引かれるだけである。
いくら正しい意見、斬新なアイデアでもダメなのである。ましてそれはその組
織の中で脈々と培われた蓄積の上にはじめて成り立つ「意見」にすぎない。
脈々と培った先人や先輩や仲間たちへの感謝と配慮なしに、「オリジナリ
ティ」を主張するなんて、不遜にもほどがある。
 そういえば、地方紙のコラムだかに、作家を名乗る者が「図書館は存在自体
が著作権違反だ。私の本を図書館に置くな、図書館で読まれたらその分売れな
くなる。商売あがったり、だ」なる趣旨の文章を書いていた。父親に聞いた話
だから、少々怪しいが大まかにはそういう趣旨だったらしい。

 なんともセコイ話である。

 おそらくは本音トークなのだろうが、意味するところのなさけなさに気づか
ないバカ本音である。
 著作権の最近の議論に、優れた作品にpublicが接しやすいことがむしろ重要
なのであって、著作権はそういう作品を生み出そうとする作者に対してインセ
ンティブを与えるためのものだというのがある。著作権と本を読める権利の双
方があるとしたら、著作権の方はむしろ「手段」であって、「本を読める権
利」の方が「目的」で優先する。たとえば作家の遺族が、「相続した著作権」
を盾にとって、みんなが読みたいその著作の出版を一切認めない、というのは
本末転倒という訳である。してみれば、己の著作権を盾に、人々が図書館を通
じてその著作に触れる権利を侵害するのは、本末転倒かもしれない。
 しかし、著作権に関する怪しげな説を持ち出さなくても、このせこさは次の
ように指摘できる。父曰く、「作家なんかしていて、これまで一度も図書館を
利用したことがないのか、こいつ」。
誰も、何も読まずして自ら書き始めることはできない。書き手はまず読み手で
あったはずで、自分で本を購買せず図書館で自分の読書生活のいくらかを過ご
したことのない作家は考えにくい。なのに自分の本だけは買えというのはやら
ずぶったくりである(いうまでもなく、図書館だって金を出して書籍を購入し
ているのである)。もっとも「図書館は存在自体が著作権違反だ」なる品性の
卑しい考えをする人間は、最低限の教養を身につけるその程度の読書をもせず
に作家になってしまった可能性だってあるが。
 いかなる先行の著作を参照せずに、ゼロからオリジナルな作品を生みだした
というのはあり得ない話である。もっといえば、この作家が使っている文字や
単語や日本語文法だって、この作家の発明品でもなければ、この作家が自分の
読者にいちいち教えに回ったものでもない。この作家は日本語や言語文化に使
用料を払っていない。様々な人が教え伝えあった成果に、読み書きをくりかえ
し人が読みたくなる作品を作り会った成果に、たとえば図書館でお気に入りの
作品に出会い読書することの楽しさを知るといった積み重ねの上に、つまりこ
れら積み重なった言語文化に、この作家はただ乗りしているのである(もっと
もすぐ見向きもされなくなるベストセラーを何冊も揃え、無料貸し本業化して
いる図書館だって問題なんだろうが)。

 話がそれた。
 本書は「日本組織の本質を構成している稟議と根回しの風土を掘り起こし、
日本の多くの若い働き手がその風土の中でどう伸びていったらよいかを明ら
か」にするために書かれている。あなたが立派な会社人間になるための知恵や
哲学、ノウハウや教えが満載である。
 むしろ組織を離れろ、プロとなれ、業績主義バンザイ、なんて信じちゃいけ
ない。効率ばかりを追い求めるアメリカ経営の工学的方法(マクレガーのX理
論)は農学的方法(マクレガーのY理論)へ、やがて(日本のように)人間学
的理論へと変わらざるを得ないだろうと、著者は断じている。
 この本を読んで早くカイシャになじもう!立派な組織人になろう!人間は組
織なしには生きられない!能力や業績だけでなく、存在までまるごと認めてく
れる日本的組織バンザイ! 日本的経営がもてはやされた昭和60年に出版さ
れたこの本は、どういう訳か(訳があってか)残念ながら現在品切れである。
復刊が待たれる。いや本気で(笑)。


■■ウェーバー『職業としての学問』(岩波文庫)==========■amazon.co.jp

「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれ
どもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつ
かないだろう」(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』)

 学問は、たぶん本当の学問というものは、人に「何をすべきか」は教えな
い。
 「教え」をそういうものだと期待している人々に、とりわけ若い人たちに、
ウェーバーはとっても水くさいことを言う。
 この「水くさい」ことは、けれどもかなり厳しいことらしい。なんとなれ
ば、 現代人にとって、とくに「ヤンガー・ジェネレーション」にとって、
もっとも耐え難いことは、このような《日常茶飯事》であるからだ。つまると
ころ神々(価値観)の間で、争いがつねに続き(なにしろ《日常茶飯事》なの
だ)、それには誰も、決着をつけることができない(こうした決着のつかなさ
に人々は耐えられない)。けれども、少なくとも学問は、そんな決着をつける
ことをしないし、またすべきでもない。やれると思ってるのは、自然科学の研
究室にときどきいる「大きな子ども」か、自分を予言者か何かと思いこんでい
る教師だけだ。

 「現代の知識階級の人々の多くは、いわばなにか保証つき本ものの古いもの
で自分をかざりたいという欲望を持っている、そしてこれにともなって宗教も
またこうしたもののひとつであることに気づく、ところが、なにしろ彼らは宗
教というものを現在持っているわけではない、そこれかれらはこれのかわりに
ほうぼうの国から集められた聖者の像でおもしろ半分にかざりたてた一種の邸
内礼拝堂を設け、あるいは、彼らが神秘的な救いの神聖さを備えていると考え
るあらゆる種類の体験のなかから代用品をつくりだし、これを手にして読書界
を行商して歩く。」
もちろんウェーバーはこう言うのを忘れない。
「(こんなふうにして)なにか新しい予言が生まれたためしはない」

 何が良いとか悪いとか、そうしたことを学問は教えない。
 けれど「こうしたらこうなる」といったことは教える。
 つまりこういうことだ。人は「こうしたらこうなる」と知ることが(可能性
としては)《できる》。だからこそ、「こうなるとは知らなかった」と言って
責任を回避することは《できない》。人は無知や未知をもはや言い訳にはでき
ない。「そんなつもりじゃなかった」は許されない。欲した事(「つもり」)
の責任をとるばかりでなく、引き起こしたすべての責任をとらねばならない。

 行為がどこに跳ね返り何を引き起こすかわからぬほど複雑な社会や全宇宙の
中で、こうした責任倫理を果たすことができるほどの知性を、耐え得るほどの
精神を、あの「水くささ」は要求する。

「行為は、それを送り出した行為者には予測できないような仕方で世界の中を
動き続ける。にもかかわらず、最初の行為者は最後の結果について-----妥当性
においてではなく事実において-----責任がある。妥当性において、この責任
は、自分の行為の結果をすべて知っていた場合をのぞき、行為者に帰せられる
べきではないだろう(その意味では、オイディプスは無実である)。彼は結果
をしらない。しかし、人間は全知でないが、行動しなければならない。ここに
人間の悲劇がある」(ボナール『ギリシャ文明史』)


 
■■ベッカー『論文の技法』(講談社学術文庫)==========■amazon.co.jp

 自分が何か書けると信じていられる人は、凡百のマニュアルを手に取ると良
い(たとえば同文庫の沢田氏の著作など)。
 もちろん
 いよいよ「書けない」「書くことがない」と思い至ったら、おめでとう、こ
の本を開く時が来たのだ。
 私は今までに3度助かった。


■■アポロドーロス『ギリシア神話』(岩波文庫)==========■amazon.co.jp

 表紙からして喧嘩腰である。
「従来紹介されてきたギリシア神話は、のちのヘレニズム時代の感傷主義の影
響を受けた甘美な物語が多い。これに対しアポロドーロスの伝える神話伝説は
純粋に古いギリシアの著述を典拠とした,いわばギリシア神話の原典ともいう
べきものである」
何しろ原題からして「ビブリオテーケー」である。

 「感傷主義」に輪をかけたブルフィンチのギリシャ神話を、野上弥生子が訳
したのが同じく岩波文庫にある。どっちかというと、こちらを読んだ。巻末に
は、「西欧の文化芸術に親しまんとするものにとって、ギリシア・ローマ神話
の知識がいかに大切であるかは、あらためて説くまでもない。神話、伝説とは
おおよそ縁遠い学問たる科学の、それももっとも尖端的な原子核の研究におい
てさえ、ウラニューム、プロトニュームの名前を耳にする時、ギリシア神話を
振り返って見なければ命名の意味を理解することは難しい」。野上さん、ナイ
ス。



↑目次    ←前の号    次の号→







inserted by FC2 system