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           読 書 猿   Reading Monkey
            第101号 (ほろほろほろ号)
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■■森住明弘『実学 民際学のすすめ』(コモンズ)============■amazon.co.jp

 普通の人が、いやおうなく/訳あって、「活動」なり「取組」なりをするこ
とになる。やがて専門的知識が必要な場面というのがきて、でもどこの誰にき
いたらいいかわからなくて、とにかくその専門をやってるセンセイがいるとい
う大学に出向く。そのセンセイは「市民派」を標榜していて、住民運動に好意
的なコメントをあちこちにしていて、実際に地域活動を支援したこともあると
いう。ところが実際に個別の「市民」が来ると、「専門が違う」とか「一人一
人の市民にはいちいち対応できない」とか、そうはっきり口に出して言わない
までも何だか思ったのとイメージが違う。もっともそれは学者の方も同じ事
で、何度もそういった「市民」とつきあってると(たとえば崇高な理念やら目
標をかかげてスタートした市民運動が、結局エゴのせいでバラバラになるのに
何度も遭遇していると)、もっと距離をあけてつきあおうと思って、いかよう
にも受け取れる「いや、主役はあくまで住民自身ですよ」なんてことを口にし
たりする。
 それは、その学者がケチンボで了見が狭いだけなのだろうか。あるいは市民
の方がエゴの固まりで視野が狭く目先のことしか考えないバカヤロウだからだ
ろうか。
 けれども、学者の資質や市民のレベルのせいだというより(そう考えればお
互い自分は反省しなくてすむ)、他のところに原因があるのかもしれない。ど
ちらも「相手がわるい」と考えてしまう、この関係の悪さはなんとかならない
ものだろうか。長年、市民運動を支援してきた学者である森住氏は、長年そん
なことを考えてきて、市民が交際(関係)することを考える「民際学」に行き
当たった。
 この「学問」は、かなりヘンテコだ。まず求めるモノは「真理」と言うより
「関係」なのだ。加えて言えば「正しい真理」ではなく「よい関係」を求める
のだ。「人間関係論」みたいに、よその人間関係を客観的にながめて、人間関
係一般はこういう特徴がある、というちょっとした「真理」を述べるのではな
い。「関係を述べる」のとちがって、実際に「関係する」というのは「具体
的」なことだ。特定の誰と誰がどんな関係をするのか、とりあえず私と誰かの
関わりはどうでこうだけれど、もっといい関係にしたいのだ、というのが関係
を求めることだからだ。
 これは三人称で客観的に記述できるものではない。まして普遍化が可能かど
うかわからない。ふつう、学問に求められる、普遍性と記述性をもうっちゃる
覚悟をもって「民際学」は始まる。おもえばフィールドワーカーたちが残した
エスノグラフィはそうした性質をもっていた。客観的観察者では本質的にいら
れないフィールドワークを行うものたちは、自分と研究「対象」にするはず
だったものとの関係を問われ続ける。それは、フィールドから無事に帰還し、
机に向かう時までも続く。人文系学問でこのジャンルが一歩進んでいたのは、
常に「記述」の問題(つまり「誰」として書くか)に取り組んできたからだ。
ふつうの学問はおそらく「私」を消したところに成立する(これは「(私と
の)関係」あるいは「関係すること」を消すことでもある)。エスノグラフィ
は「関係した私」と「書く私」の間に張られた危険な綱渡りを行う(学問に帰
還するためには書かねばならない)。そして関係を改善することを目指す民際
学は、必然的に「関係する」ことに繰り返しなんどもダイブする。これははた
して学問なのだろうか。それにすぐさま答えを出すことはできないとしても、
これは古くて新しい「知のあり方」であることは間違いない。しかも生きるこ
とにとっても近く、なるほどこれは「実学」である。
 学問の普遍性を担うべき学者にとって、市民生活全体の向上に寄与すること
は目標となっても、個別の市民の役に立つ(それは別の市民の敵に回ることか
もしれない)ことは、リスクとコストが高い余技だと見なされてきた。それは
学者本来の仕事でないばかりでなく、学者であることにとってかなり危険であ
り時間やさまざまな費用がかかることだからだ。
 けれども、学問がさまざまな真理・真実を公表しても、それではいろんなこ
とが解決しないことがますます明らかになってきた。たとえば市民との関係に
ついていえば、学問と市民の悪関係を学問自身が問題としないことに代表され
る(その関係が改善すれば、解決に向かう問題はずいぶんと多いはずなの
に)。それは学問と市民の関係ばかりでなく、学問と学生の関係(これも学生
がバカヤロウってことで手を打つ学問もどきが跋扈している)、学問と大学の
関係(前に同じ)、・・・・。あんなに「尊敬」を集めていた学問・学者が、
結局のところ「ぼくら悪くない。悪いのは、この崇高な我々(学問・学者)を
理解しない他の連中なのだ」と、だだっ子のようなことしか言えないのだとし
たら・・・。もっとも「我々は正しい。向こうが悪い」と言い張り、我々がそ
の中で生きなければならない様々な「関係」を改善できないでいるのは、学者
・学問ばかりではない。
 それでは民際学は果たして学問なのだろうか。すぐさま答えを出すことはで
きないとしても、これは古くて新しい「知のあり方」であることは間違いな
い。しかも生きることにとっても近く、なるほどこれは「実学」である。


■■今野浩『金融工学の挑戦−テクノコマース化するビジネス』(中公新書)=■amazon.co.jp

 もう経済学はお金(金融)のことはわからないと白状した方がいいらしい。
(とこれ書いた人は思ってるらしい;工学出身)


■■テッド・ネルソン『リテラリーマシン』(アスキー出版)========■amazon.co.jp

 コンピュータと世の中、ってなことを書いた本のどれもが、どうしてこうも
つまらないのだろう。いや「つまらない」というよりむしろ「滑稽な悲しさ」
を帯びているのはどうしたわけなのだろう。
 これはなにも「我が社もe−コマースに賭けてみたいんだ→バカいってん
じゃないよ〜」のCMに先行されてしまった、森内閣の「ITしたいな政策」
のことをあげつらっているのではない(加えて、国民が森喜朗を恥ずかしく思
うのは、清水義範がいうように、人間性の問題であって彼が英語ができないか
らではない)。
 この明らかに翻訳時期を逸してしまったテッド・ネルソンの邦訳の帯には、
「これは夢物語だったのか・・。/その名はXanadu。壮大かつ大胆不敵な、幻
のプロジェクト。/”ハイパーテキスト”の生みの親にして、コンピュータ社
会の大予言者テッド・ネルソン畢生の全シナリオついに完訳なる!/情報ハイ
ウェイ構想も、インターネットのコンセプトも、まさにここから始まってい
た!」。これは普通の言葉でいえば「負け惜しみ」以外の何者でもない。
 すぐ時代遅れになる話がいやなら、コンピュータを話題にするのは避けるべ
きだ(かわりに古代ローマ史や万葉集の話をすればいい)。すぐさま過去に追
いやられる予言、過ぎ去ってしまった未来、パスト・フューチャな滑稽さと悲
しさが着いて回るのは仕方がない。
 かつて小説で「団塊の世代」を書いた堺屋太一は、今世紀最後の経済白書で
「オタクにかけるしかない」と書いてしまった。さて・・


■■ニーチェ『道徳の系譜』(岩波文庫、他)===============■amazon.co.jp

 ニーチェという人がいまして、「神は死んだ」というコトバとか有名ですけ
ど、この人は神様を否定したというより、「知識」とか「知識人」のあり方な
んかを問題にしました。僧侶(牧師や神官)というのは、ながらく「神様」と
いうよりも、むしろ「知識」の方を独占してきた人たちでしたから。
 「知識人」なんていうと大げさでなんかおかしいですけど、そんなご大層な
話ではなくて、たとえば「知ってる人」の方が「知らない人」よりも「偉い」
とか、そういうことがあるけど、どういう訳なのか、とか、この「知ってる」
というのも、何でも知ってりゃいいってものでもなくて、「知るべきこと」を
知ってる人は偉くて「知識人」で、別に知らなくてもいいようなことを知って
る人はあんまり偉くない。
 なんで単に「知ってる/知らない」だけなのに、「偉い/偉くない」なんて
話がでてくるのか。さらに「知識」の中でも、なんで「知るべき/そうでもな
い」という序列があって、それによって何で「偉い/偉くない」がでてくるの
か。例えば「そんなのは知識じゃない」なんてことも場合によっては言われた
りするのです。そういうのって何かおかしいじゃないか、とニーチェは思った
し、もっというと実際の権威とか権力みたいなものとも、これは関係ある話で
はないか、とニーチェは考えました。ニーチェが相手にしたのは、天上の神様
でなくて、みんな地上の事どもでした。あるいは、「天上のもの」や「至上の
もの」を持ち出して、この地上で権威や権力をふるおうとする者たちでした。
 ここまでくると、話はもはや僧侶(牧師や神官)だけの話ではなくなりま
す。話を戻すと、何で高々「何かを知っている」だけなのに、偉いなんてこと
があるのか。あるいは「知ったかぶり」は、どうしてあんなに偉そうなのか。
たとえばある人は(もうそこらへんにいくらもいる人です)、自分が「何か
知ってる」と思って(別に語る必要のないのに)、いろんな「問題」について
語りだし、意見を述べたりしますが、その人が下劣であるのは、あまりよく知
らないのに語り出したことにあるというよりむしろ、「自分は知っている。だ
からしゃべってもよいのだ」と思って語り出すことの方なのです。そんな人に
「お前は知らないから黙ってろ」というのは愚の骨頂です。だって、そんな人
は、ほんの少しでも知ってさえすれば、今度こそもっと得意げに語り始めるに
決まっているからです。「ほら、意見は立派でしょ」とばかりに。そんな人に
とっては、意見は正しかったり、間違っていたりするものでなく、ただ立派で
あるかそうでないか、だけのものなのです。
 この話、裏返せば「私は知らないからダメだ」みたいなことになります。そ
う口にする人も、もう数え切れないくらいにいます。たとえば、今「ニーチェ
がこう言っています」というようなことをいうと、「ニーチェ?そんなん知ら
ん。もうあかんわ」という反応が起こったりします。ところがこの人は「知ら
ない」といいながら、ニーチェというのがテツガクシャであること、つまり何
だか偉い人(難しいことをいう人;私は知らない、理解できないことを知って
るらしい人)であることは、知っているのです。
 そういうのって、なんか変だ、というのがニーチェが考えたことのひとつで
す。
 ニーチェはもちろんデタラメなことばかり言っていた訳ではありませんが、
だから「ニーチェは真理を語り、また書き記したのだ」ということは、今述べ
たようなことからちょっとめんどくさいことになります。実際、彼の死後、
「ニーチェが語り、また書き記した真理」を持ち出して、この地上で権威や権
力をふるおうとした者たちがいました(これには、ニーチェの実の妹も含まれ
ていましたが)。
 ニーチェはだから、真理に対しても、「ちょっとまて」と言わなければなり
ませんでした。「真理」と呼ばれるものが、この地上でどんな振る舞いをする
のか、あるいは誰に担ぎ出され、どんな役割を担う羽目になるのか、考えたか
らです。だからニーチェが主張したのは(神様についてと同様)、「もう真理
なんてものはないんだ」ということでは全然ありませんでした。
 それどころか「真理」はますます元気で、未だにいろんなところで猛威をふ
るってる。その仕組みを明らかにすることが、ニーチェのやったことのひとつ
だったのです。この本には、そういうことが書いてあります。



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