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           読 書 猿   Reading Monkey
            第100号 (ちはやぶる百号)
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■■視覚デザイン研究所編『巨匠に教わる絵画の見かた』(視覚デザイン研究所)=■amazon.co.jp

 西洋テツガクというのは、ようするに誰か他の哲学者についてブツクサ言え
ば、それがまたテツガクになってしまうという、参照(リファレンス)で出来
ているようなものだ。「テツガクとは、テツガクについてのおしゃべりであ
る」という、再帰的な定義まであるくらいである(私がつくったのだが)。
 絵画についてのおしゃべりは、もちろん絵画にならない。しかし画家だっ
て、他人の絵を見て良いはずだし、それを見てブツクサ言ったって良い訳だ。
この本は、画家が他人の(時々自分の)絵についてブツクサ言ったそんなコト
バが、当の絵とブツクサ言ってる画家のイラストその他のイラストとまざり
あって出来ている。絵解きコトバ解きの絵画史だ。これ見たら、いままでの美
術史なんか、抹香臭くて読めないよ。

 「ベラスケスに比べれば、ティッティアーノの肖像なんて、材木に見える」
といったマネは、そのベラスケスから構図や背景の処理(無背景にしてしま
う)だけでなく、その黒の使い方も学んだ(比べると歴然である)。
 「フェルメールにはベラスケスでさえ遠く及ばない。フェルメールには、す
でに完璧なものを、なお完璧にしようとする熱狂と苦悩があった。極限を極め
るために彼は何度でも書き直し、コトバがまったく無力になる奇跡に達したの
だ」といったダリは(彼がここまで手放しに誉めるなんて珍しい!)、このコ
トバとおりにフェルメールにぞっこんで、自分の絵になんどもフェルメール
(「絵画芸術の寓意」という作品の中で絵を描いているフェルメール自身の
姿)を登場させている。時には、フェルメールをテーブルにして登場させてい
る(ダリ「テーブルとして使われるフェルメールの亡霊」←しょうがないヤ
ツ)。
 耳を切ったんで狂人扱いされたゴッホだが、図抜けた才能の絵描きであった
ばかりでなく、すごぶる的確な絵読みであったことも知られている。「ゴッホ
はすべてが乱雑と混沌の中にあるくせに、キャンバスの上ではすべてが輝いて
いる。また、彼の芸術についてのコトバも同様だ」(ゴーギャン)。うう、泣
かせるぜ。シャガールもこう言ってる。「スーティンは大した絵描きだが、
ゴッホには到底およばない。デッサンをやらないからだ。ゴッホの絵はどれも
卓越した画法に支えられている。二人の違いはそれだけだが、何という違い
か」。
 このゴッホとダリはともに、土に生き働く農民の姿を描いたミレーの絵を自
作に引用している。当然、絵についてもブツクサ言っている。「「彼の百姓は
種まきしているそこの土で描かれているようだ」という言葉はミレーの絵を的
確に言い当ててる。彼はすべての基礎のなるような色彩をパレット上でどうつ
くるかを知っている」(ゴッホ)。なるほど的確だ。「「晩鐘」の男は自分の
勃起を帽子で不自然に隠している。その結果、よけいにそれをはっきりさせて
しまっている。まったく、ミレーはユニークな主題を書いたものだ」(ダ
リ)。出たな偏執狂的批判的方法(ほとんど言いがかり)。ほんと、しょうが
ないヤツだ。

 あの視覚デザイン研究所の一冊。はっきりいって美術出版社の「美術史」ウ
ンタラのシリーズなんかより、値段も安くて、よほどためになる。ちきしょ
う、「対戦型哲学史」よりずっとおもしろいでやんの。


■■田中克彦『「スターリン言語学」精読』(岩波現代文庫)========■amazon.co.jp

 1937年に制定された、いわゆるスターリン憲法には、その17条に「同
盟(ソユーズ)構成各共和国は、ソビエト同盟(ソユーズ)から自由に離脱す
る権利を有する」とある。
 これはかなりとんでもない規定である。ヘーゲルあたりに言わせると、「国
家である」ってことはすでに「戦争やってる」のと同じだそうだが(だから戦
争・軍備の否定を国の基本法に盛り込むのは、ほとんど国家の脱構築(笑)
で、誰もがやりたがったがまだ国家ベースのアタマが抜けなくて誰もできな
かった)、この日本国憲法第9条に比べても、スターリン憲法第17条はすご
い。ソビエト社会主義共和国連邦なのに、いくらでも共和国が出ていってもか
まわない、というのだから。この規定は1977年のブレジネフ憲法にも取り
入れられた(それどころか「諸民族の自由な自決」なんてフレーズまで入れら
れた)。ちなみに今のロシアの憲法にはこんな条項はない。これはソビエト時
代の憲法からの大きな後退だとして、現ロシア憲法を承認していない共和国が
いくつもあるくらいだ。
 まともなマルクス主義者なら、「民族の自決」なんてことは間違っても口に
しない(そういうことも分からない日本の左翼は鼻っからバカ左翼だ)。古典
的正統的マルクス主義者は、基本的には「民族解消主義者」だ(レーニンだっ
てそうだ)。エンゲルスだって、マイナーな民族(歴史なき民族)は消え去る
運命だと断言していた。ところは本当のところ、ロシアではそんな訳にはいか
なかった。なんとなれば、ロシアはおびただしい民族たちからなる「帝国」で
あったからだ。ロシア革命は帝国で起こった。だから、お上品なヨーロッパの
左翼みたいに、民族問題をうっちゃっておくことはできなかった。実際、ソ連
はさらにおびただしい、誰も知らなかった(エンゲルスなら消え去るのみと断
言した)マイナーな民族を爆発的に増加させた。スターリンはそれをとても誇
らしく語っているのだ。
 民族とは何か?民族問題とは要するに言語の問題だ、とカウツキーをカンニ
ングしたスターリンは言う。だからスターリンは、言語についてうっちゃって
おく訳にはいかなかった(ついでにいえば、グルジア人であり、ロシア語を第
二言語として学ばねばならなかった男だ)。
 全然関係ないが、うちのコンピュータのデスクトップピクチャー(壁紙とか
言うの?)は、ピーテル・ブリューゲルの描いた「バベルの塔」(1563)であ
る。事あるごとに、それを戒めだとか景気つけに用いている。ちなみにバン
ヴェニストの『一般言語学の諸問題』(みすず書房)の表紙と同じ絵だ。


■■スティグリッツ『経済学(第2版)』(東洋経済新報社)========■amazon.co.jp

 堂々3分冊(入門経済学/ミクロ経済学/マクロ経済学の3分冊)。邦訳で
合計2000ページなのである。
 ところで、日本の教科書はおしなべて薄くてコンパクト、シンプルでそっけ
ない。でないと教師の出る幕がないのか、与えられたコマ数でこなせないから
か、学生・生徒のやる気が殺がれるのかどうなのか。
 とにかく、あっちの教科書はでかくて分厚い。このスティグリッツの教科書
の翻訳は、わざわざ薄い紙を使ってできるだけ薄くしたことをセールスポイン
トにしてる。マンキューの経済学原理は、他の教科書よりも100ページも少
ないぜ、と威張っているが、翻訳だとミクロ編だけでやっぱり600ページも
ある。
 経済学というのは社会科学では最も早い時期から教科書が成立した分野だ
が、成立したのはもちろんアメリカで、だから翻訳物教科書がすごぶる多い。
日本モノの(チヂミ志向?)のシンプルなそっけなさかすれば、かなり冗長で
余計なおしゃべりが多すぎるようにも思える。
 逆に言えば、日本の教科書は、おしゃべりしないし語りがない(もっとも脚
注につまらない小話があってもしらけるだけだが)。そういうものだとあきら
めているきらいもある。内容の方はむしろ、よくもここまでというくらいにつ
めこまれている。教科書で学ぶとは、そのギューギューつまった中身をほどい
ていくこと、お湯をかけてもどすがごとく、と思えてくる。確かに自分で手を
動かして計算したり問題解いたりすることは有益だろう。しかし、これとそれ
とは話が別だ。
 教科書は実は「語り」が楽しい(ファインマン『物理学』を見たまえ)。そ
れどころか、たかだか「経済学」のテキストなのに、その「語り」にこそ、経
済の有象無象が見え隠れする(宣伝文句ほどじゃないけどね)。それともう一
つ。ちびっ子に経済に関する質問をされたら、この本の語りはどれも役に立つ
(ちょうど夏休みだ)。エコノミック・アニマルと言われて久しいのに、この
国にはエコノミクスを学ぶ機会が遅すぎるし少なすぎる。だから本当は小学生
が読めばよろしい。って、詰め込み・細切れのゆとり教育にもビクともしない
連中たちはもう始めているだろう(だったらバカ教師達に、インセンティブっ
てコトバだけでも教えてやれ)。
 薄い教科書が好ましく思えるのは、単に読むのが遅すぎるしヘタクソすぎる
だけのことだ。喝。


■■ミンツバーグ『マネジャーの仕事』(白桃書房)============■amazon.co.jp

 ミンツバーグ。紹介には大抵、欧米じゃ大メジャーだが、日本では知られて
ない、なんて書いてある。
 読めば、ドラッガーやポーターなんぞよりは、100倍程度にはエライと思
える。なんというか、よそ事でなくビシビシ身にしみる感じ。で、日本ではい
まいちマイナーな理由を考えてみた。
 やっぱり出版社が渋すぎるのか。それともこのタイトルのせいか(「ナース
のお仕事」みたいだからか。それともマネジャーというのがイマイチなの
か?)。原著そのままに「マネージング・ワークの本質」とでもすれば良かっ
たのか(このmanegeもworkも確かに一語で訳しにくい言葉だ)。しかし読めば
分かるように、内容からすれば、どうしたって「マネジャーの仕事」以外の何
ものでもないのである。では、いったいなんだというのだ?
 ハタと思いついたのが、この本の魅力である「身にしみる」という点に原因
があるのではないか、ということだ。読書猿で手を変え品を変え触れてきたよ
うに、どうにも「〜である」という本にくらべて、「〜すべきだ」という本の
方に好みの振れが大きい。雑誌なんて「〜すべき」のオンパレードだ。

 ミンツバーグがこの本に取りかかったのは次のような理由からだった。
 とあるコンピュータシステムが経営者に何をもたらすかを巡ってシンポジウ
ムが行われた。大勢の著名な経営学者が詰めかけ、長い時間を掛けて議論し
た。しかし、案の定、結論は出ず、何度も一番最初の問いに戻ってしまうの
だった。「そのシステムの性能や欠点や……(あれこれ)……は、分かった。
で、そいつはいったい経営者にどう役に立つのだ?」。
 とどのつまり、どの経営学者も(彼らはどう経営すればいいかについて沢山
の研究を発表してきた)、経営者が実際に何をしているのかについて、誰も
ちゃんと知っているものはいなかったのだ(なのに「どう役立つかなんて分か
りっこない!)。
 まだ大学院生だったミンツバーグはびっくりして、あらゆる経営に関する書
物(それにもいかに経営すればいいかについて沢山の研究があった)を読みあ
さったが、結果は同じだった。これでは、経営とは実際にはいかなる営為なの
か、誰も知らずコンセサスもないままに「経営学」を繰り広げてきたに等しい
ではないか。もっともあらゆる学問は、「不意打ち」を封じ込めるために丁寧
にその領域を制限している。だからこそ学問が答えていない素朴な疑問に応じ
ようとすることは、学問に対してかなり危険な行為となる。当然、そんな研究
も(返り討ちにあったり、嫌がらせされたりして)リスキーなものになりかね
ない。ミンツバーグはもっとあたりのいい、ありきたりなテーマを選ぼうかと
迷ったが、結局このテーマに取り組むことになった。

 「××戦略論で勝ち残れ」や「△△組織をつくれ!」なんていう繰り言に
は、「それ、誰がやるの?」と応じておこう。おびただしい数の経営戦略論や
組織論(それに経営学者!)が存在するが、優秀な経営者・管理者はまったく
少ない。これだけでも、この本の重要性は明らかだ。社会には、たった一人で
はできない、まだまだやるべき仕事が沢山あるというのに、だれも組織を引っ
張っていく役目なんてやりたがらない。やりたがるヤツの多くはどうしようも
ない。とにかく優秀な経営者・管理者が足りない。
 ミンツバーグがとりだした経営者(マネジャー)の10の役割(ロール)
は、少しでもグループなり組織なりに関わった人なら、必ず「身にしみる」だ
ろう(彼が取り扱っているマネジャーは会社の社長から大統領、病院や非営利
組織のトップ、軍隊の師団長、その他諸々だ)。加えて凡百の経営学者が描い
てきたファンタジーがなで切りだ。


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