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その気にさせる


seduction
催眠は、本人の意思に反することをさせることはできない。
しかし、特定の対象や問題に注意・意識化を促すことで、
他人の意思決定を誘導することが可能である。
 


 催眠は、本人の意思に反することをさせることはできない(evil hypnosis観への反論)。
 しかし実のところ、人間は意思的/意識的に決断していないことの方が多い。特定の対象や問題に注意・意識化を促すことで、他人の意思決定を誘導する、もしくは意思決定に影響を与えることが可能である。たとえば、ほとんどの人が、昼飯に何を食べるか、直前にならないと考えもしない(検討すべき議題にすら上らない)。「昼飯どうする?」と尋ねることで、「昼飯」を意識に立ち上らせ、意思決定の議題(アジェンダ)として設定させることができる。
 他にも、自動的反応や錯覚を利用することで、意思決定の方向を操作することも可能である。


イエスセット

 イエスセットは、相手の中に、同意(イエス/はい)の習慣性、あるいは同意のセット(心の構え)を作り出す技法である。

 具体的には、「イエス/はい」と言わせればいい。催眠商法のように「はい」を言う練習をさせてもいいし、相手が「イエス(はい/そうですね)」と答えるような質問をしてもいい。「イエス/はい」と繰り返し言わせれば言わせるほどいい。

 イエスセットは、同調性や親近感を高める効果があり、その後の本命の要求や質問に対して肯定的な反応を引き出しやすくする。
 イエスセットは、なんども同意(イエス/はい)させることで、同意の雰囲気を作っていき、「NO」とは言いにくくしていく。
 イエスセットは、一貫性の原理に基づいて、 何回か同意してしているうちに、懐疑や反論をしにくくさせる。
 イエスセットは、「その気にさせる」技法の中で、学習の順序としても、また実践の上においても、第一の位置に置かれるものである。

「ハイ」をどんどん言わせる

 たとえば催眠商法では、粗品のようなもので人々を部屋の中へ集めてから、手を挙げて「ハイ」と声を出す練習をさせる。
 しかも「あなたが一番元気良くハイと言ったから」と、特別品をあげたり、半額で商品を売ったりして、「手をあげてハイ」という行動を強化していく。
 これを何回か繰り返すうち、会場全体が「ハイ」と手を上げて「得をする」というのに馴れさせ(コミットメントから一貫性の原理へ)、また他の人が司会者の指示にどんどん従って商品を買っていくのを見せることで(社会的証明)、「早い者勝ちでこの場で買わないと損」といういわゆる「集団催眠」の状態に入れる。
 ここまで仕込みが終われば、あとは、「羽毛布団、通常40万円のところ今日は半額!」とやれば、参加者はほとんど疑問を持たず反射的に「ハイ」と大きな声を出し手を挙げるだろう。

強化の原理

 
 与えられた状況下(号令)で生じたある一定の自発的行動(反応)に続いて報酬(褒美)を与える事によって、(人間をふくむ)動物がその行動を学習する過程をオペラント条件づけ(道具的学習)という。

 オペラント条件づけについては、アメリカの行動心理学者B・F・スキナーの研究が有名かつ重要である。
 スキナー箱(箱の中にテコ棒が仕掛けられていて中に入ったネズミ(やハト)が、その棒を踏むと餌が与えられる仕組みになっている箱)は有名だが、この箱のなかでネズミが行った行動を見ると、オペラント条件付けがよくわかる。
 はじめはネズミが偶然に棒を踏む事により餌を得た。餌(を得ること)はネズミにとって「報酬となる出来事」なので、その直前の行動(棒を踏む)をとる確率が高まるだろう。より正確には(前文の擬人法的な表現を取り除けば)、餌(を得ること)は直前の行動(棒を踏む)を増やす強化子(あるいは好子)である。箱の外にいる我々からすれば、ねずみの特定の行動を増やそう(=強化しよう)とすれば、その行動の直後に強化子(好子)を与えれば良い。

 この原理が強力なことは、その普遍性である。ネズミやハトやイヌから人間に至るまで、そのほとんどすべての行動を、強化子(好子)をつかって増やす(強化する)ことができる。相手がそのことを意識していようがいまいが、相手がバカだろうが賢かろうが、応用できる。

 もちろん、強化子(好子)を取り除いたり、逆の嫌子を与えたりして、特定の行動を減らすことも可能である。



自然なイエスセット

 現代催眠や営業活動で用いられるイエスセットも、これとほとんど同じである。少しばかり洗練されているとしたら「ハイと言って下さい」などとは表立っては言わないところである。

 《自然に》「ハイと言わせる」ためには、相手が「イエス(はい/そうですね)」と答える質問をすればいい。

 しかし、「相手にハイと答えさせる質問」をすることは、それほど簡単ではない(「トレーニング」の「承認される質問づくり」の項も参照のこと)。
 たとえば、晴れた日に「良い天気ですね」と言っても、相手は何らかの理由で雨を待ち望んでいるかもしれない。「今日は寒いですね」と言っても、「まだまだこの時期にしちゃ暖かい方ですよ」と返されるかもしれない。
 相手のことがある程度分かっていれば、こうした危険は減らせる。信頼感がある程度芽生えていれば、少々はずした質問をしても大丈夫だろう。しかし、初対面の相手にはどうすればいいのか?


Truism

 Truismとは「あたりまえのこと」「自明の理」の意味である。当たり前のこと、間違えようのないことを話して、最後に「そうですね?」と付ければ、ほとんど危険を冒すことなく「イエス」を得ることができるだろう。こうすれば最もリスクが少ない、イエスセット用の質問がつくれる。

 たとえば診察室にやって来たクライアント相手なら、
「あなたは椅子に座っていますね?」
「足の裏にやわらかなカーペットの感触を感じますか?」
「エアコンの男がかすかに聞こえますね?」
「あなたは問題を解決するために、ここにやって来た。そうですね?」
などと尋ねることができるかもしれない。

Truismには、
  • 描写
  • トートロジー
  • 同語(意)反復
  • 常識Common Sense
  • 事実
などが使える。

 「描写」は、実況中継を想像するとわかりやすい(描写的マッチングと言われることもある)。相手を観察した内容や二人で確認できる部屋の状況を言葉にする。先の「あなたは椅子に座っていますね」「足の裏にやわらかなカーペットの感触を感じます」「エアコンの男がかすかに聞こえます」などがそうでさる。逆に「あなたはいまやすらぎを感じています」というのは、 描写ではない。そんなことは外から見てもわからないからだ(「なんで俺のことを決めつけるんだ」と抵抗されるかもしれない)。また「今日はよく晴れてますね」は描写であるが、「今日はよい天気ですね」は価値判断を含んでいる。これも、相手の価値判断(たとえば相手が雨を望んでいる場合等)が対立し会う可能性がある。

 「トートロジー」は、「赤いポストは赤い」といったもの。日常会話で用いると退屈極まりないが、その退屈さは、催眠では有用である(脳を退屈させるものは、催眠導入に応用できる)。また、真の値を取る論理命題であるので、述語で述べることが主語に含まれているのであるが、述語に述べられた部分(ここでは「赤い」ということ)に注意を選択的に集中させるのにも使える。これも催眠では有用である。

 「同語(意)反復」は、相手が「頭が重いんです」と言ったことに対して、「頭が重いんですね」と返すもの。馬鹿みたいだが、カウンセラー等のプロも、相手とのラポールをつくるのに用いる。こちらがきちんと聞いているという事を示すことにもなり、安心感を養生する。(自分の経験や価値観から余計な解釈やアドバイスをせずに、ただ「同語(意)反復」に徹することは、実は大変な苦労(とトレーニング)を要する)。


 「常識Common Sense」は、Truismとしては少し危うい。こちらと相手の「常識」が一致するかどうかわからないからだ。しかし大抵の場合は、次のようにいう手は使える。
「テロは怖いですね」
「そうですね」
「ニューヨークのようなことが、日本では起こらないといいのですがね」
「本当にそうですね…」
 重要なことは、常識とは判断停止の上に成立するもの、ということである。そして「判断停止」は、催眠や「その気にさせる」ことの重要な基盤となり得る。

 
 このようにTruismでは、あえて術者に都合の良い「決めつけ」を避け、自明なことだけを話すことようにする。こうすることで被術者の抵抗を減じることができ、有効にイエスセットのための質問をつくることができる。

 相手に「情報開示」させることができ、相手の価値観や経験などを知ることができるようになれば(初対面でも、少し話をするうちに、いくらかは知ることができるだろう)、Truismから離れ、より相手に則した形で(つまり、「相手の常識」に則した形で)イエスセットのための質問ができるようになるだろう。

 もちろん価値観や経験に左右されない「事実」を使うことで、Truismの使用範囲はぐんと広がる。特に初対面の人に対するアプローチとしては、一見控えめに見えるが、効果としてはかなり高いものとなる。

 たとえば、美術館の最寄り駅の前で、見知らぬ誰かを捕まえて道を尋ねてみよう。
「あのー、美術館へはどう行けばいいんでしょう?」
あなたはもちろん美術館へどういけばいいかを知っている。知った上で、その方向へ歩いていこうとする人を捕まえて(この人間は美術館へ行く人である可能性が高い→だから美術館への道を知っている確率も高いと考えて)、こう尋ねるのである。
 すると相手はこんな風に答えるだろう。
  1. 「この道をまっすぐいけば看板がありますよ」と言って行ってしまう(知ってはいるが、美術館へは行く人ではなかった)
  2. 「ああ、これから私も行くところです。ご一緒しましょうか?」(知っていて、かつ美術館へ行く人だった)
  3. 「あー、すいません。この辺りの者じゃないんでわかりません」(知りもしなかった)
もちろん「知っていて、かつ美術館へ行く人」なのにもかかわらず、「わかりません」と答えて足早に去っていく可能性もある。しかし、あなたが人相卑しからぬ人物であれば、おそらくは「ご一緒」してもらえる確率はかなり高い。それに、ある人に振られても、そこは美術館の最寄り駅、しばらくまてば、今度こそ「ご一緒」してくれる人がやってくるかもしれない。確率の問題だから、数回これを繰り返せば、あなたは「美術館に興味がある赤の他人」と出会えて、しばらくの間、一緒に歩くことができるだろう。
 もちろんこのアプローチは「美術館」に限ったものではない(「美術館」を他のものに入れ替えれば、いくらでも応用がきくだろう)。「異性に声をかけるなんて、とても」と言った人にも、比較的安全に勧められる。


イエスセットを/とつなぐ


 イエスセットは繰り返すことができる。つまり、イエスセットにイエスセットをつなげることができる。

「あなたは椅子に座っていますね? そして 足の裏に床のカーペットを感じることもできる、そうですね?」
「今のように椅子に座っていると 足の裏が、床のカーペットがざらざらした感じを感じますね?」

 イエスセットは承諾の傾向を相手の中につくり出す。イエスセットに暗示をつなげると、その暗示は抵抗なく受け取られやすい。イエスセットは、暗示の「露払い」にもなる。
 
足の裏に床のカーペットを感じていると、からだ中の力が抜けていくのがわかるかもしれません」

「あなたはしずかに椅子に座っているのでからだ中の力が抜けていくのがわかるかもしれません」
 
 ここで注目すべきは「接続詞の力」である。
 「そして」「〜であると」「〜すると」「〜ので」で結ばれる文(言明)は、必ずしも意味的/論理的なつながりがなくてもよい。
 
 心理学者は、次の3つの文(依頼)を比較する実験を行った。
  1. 「コピーを先に使わせて下さい」
  2. 「急いでいるので、コピーを先に使わせて下さい」
  3. 「コピーしたいので、コピーを先に使わせて下さい」
 心理学者は文章1よりも、文章2の方が(すなわち理由付きの依頼の方が)より多く承諾を得られることを発見した。
 そして注目すべきことに、文章3(すなわち理由になっていない理由付き依頼)もまたより、文章2と同様の効果をあげることをも発見した。つまり必要なのは、正当な理由のあるなしではなく、接続詞(〜ので)の存在であった。

 人は、常にさまざまな要素を分解したり連結したりしている。そしてその性向は、内容の吟味とは独立して働くらしい。したがって、「そして」「〜すると」「〜ので」などの接続詞で結ばれる文(言明)は、必ずしも意味的/論理的なつながりがなくてもよいのである。この点については、後で「リンキング/スプリッティング」の項で改めて取り上げる。


受容法

 相手から肯定や同意(イエス/はい)を得るためには、まずこちらが相手を肯定するとよい。相手を肯定することで、相手も肯定したくなる(返報性の原理)。また相手を受容すれば、相手はこちらに好意を感じるだろう。好意を得ることも無論、相手から肯定や同意(イエス/はい)を得るために非常に役に立つ(好意の原理)。
 しかし、時には自己批判(否定)している相手やこちらを攻撃する相手もいて、そう簡単には相手を肯定することはできない。また、人間はつい相手の言ったことを「理解」したり「曲解」したり「解釈」したり、あるいは「アドバイス」したくなったりするものである(これを我慢するには意識的な努力と、いくらかのトレーニング(そうした努力を注意して繰り返し行うこと)が必要である)。
 どんな相手も受容し肯定する方法を考えてみよう。

うなずき/あいづち

 最もシンプルで重要な受容/肯定のテクニックは、相手の言葉にうなずくこと、またはあいづちを打つことである。

相手の言葉を繰り返す(同語(意)反復)

 次にシンプルな受容/肯定は、相手の言葉をそのまま繰り返すことである。
 その次にシンプルな受容/肯定は、相手の言った意味を(たとえば要約して)、相手に返すことである。
 要約は、「オウム返し」よりも、間違える危険が大きく思える。しかし、うなずき/あいづちや、「繰り返し」を何度も重ねた後ならば、いくらかのラポールが成立しており、失敗は少なくなる。たとえ、こちらの要約が、相手の意にそわない/足りないものであっても、それだけで関係が壊れないまでになっている。
 要約を修正し、相手との関係を常に再構築するためには、要約に対する相手の反応をよく見ること。相手がだまりこんでも、即座に「拒絶」を意味する訳ではない。逆に相手も想いもしなかった形で、要約が相手の言ったことと重なりあうならば、やはり相手はしばらく沈黙するだろうからだ。
 「いや、そうじゃなくて……」と相手が同じことを繰り返し述べるなら、今度こそ「オウム返し」で相手が言ったままの言葉を繰り返せばよい。

選択的な傾聴

 相手が否定的な時まで、肯定すると、相手を否定することになってしまう。

 そこで、肯定的な話が出たときだけうなずく(または繰り返す)、否定的な話が出たときはうなずかない(繰り返さない)、という選択的な傾聴が行われる。

 これを応用すれば、肯定的な話が出たときだけ相手の言葉を繰り返し、否定的なときは沈黙する、あるいは「そうですね」というはっきりとした肯定的相槌と、「はあ」「なるほど」といった曖昧な相槌を、使い分けるなどの方法がある。
 さらに言えば、こちらが導きたい方向へつながりそうな言葉が出たときだけ、選択的に肯定し、そうでないときは肯定しない、という方法も使える(あまりあからさまに行えば、もちろん反感をもたれるので注意が必要だが)。

発言ではなく、気持ちを肯定する

 選択的な肯定といっても、あまり否定的な発言を無視し続けると、相手は「こちらの話を聞いてもらっていない」と感じるかもしれない。特に、否定的な発言ばかりの相手の場合はそうなる可能性が高い。

 しかし相手の否定的な発言さえも、肯定的に捉えなおすことは可能である。

 「私は〜できない」「私はもう駄目だ」という発言に対して、「私は〜できない、と思っているんですね」「もう駄目だと感じてるんですね」と、発言の内容ではなく、(そうしたことを言う)相手の気持ちを肯定するのである。
 ここでのポイントは「私は〜できない」「私はもう駄目だ」を事実としては肯定も否定もしていないことである。

相手の否定話に、And(そして)で肯定をつなげる

 先に触れた通り、人間が物事を連結する機能は、内容の吟味とは独立して働くらしい。
 「そして」「〜すると」「〜ので」などの接続詞で結ばれる文(言明)は、必ずしも意味的/論理的なつながりがなくてもよい。

 極端に言えば、「私はもう駄目だ、と思っているんですね。でも、まだ○○があるじゃありませんか」というよりも、「私はもう駄目だ、と思っているんですね。だったら、○○という手もあるかもしれませんね」と言った方が、(論理的には前者の方が正しいのにもかかわらず)受け入れられやすいかもしれない。


ミラーリング

 ラポール(rapport)とは、もともとは催眠者と被催眠者の間に生まれる(べき)、施術(働きかけ)とその受諾を巡る信頼関係のことをいうが、現在では、心理療法のみならず、社会福祉の分野などでも、支援者と被支援者の間に築き上げるべき関係を指す言葉として使われる。
 人々はお互いに似ていると好きになるものである。ラポールが成立した両者の、呼吸、声の調子、モディ・ランゲージは、一致していることが多い。ミラーリングは逆に、ボディ・ランゲージを映し、声の調子を合わせることで、急速にラポールを成り立たせる技法である。
 しかし、ボディ・ランゲージのあからさまな「まね」は、多くの文化でタブーであり、強い反感を買う(その強力さ故に?)。ミラーリングは、物真似ではない。 それでは目立ちすぎ、演技的すぎ、大げさすぎて、不作法(無礼)だと受け取られる。
 たとえば時機に適ったあいづちは、それだけでミラーリングになっていることがある。また相手が自分の話に夢中になって前に体を傾けてくれば、もしもこちらも相手の話に夢中になっているなら、自然と前に体が傾いているだろう。逆に距離を取ろうと相手が引きぎみの姿勢を取るなら、こちらも同じようにすればいい。こうしたことからミラーリングを行えば、自然に行いやすい。

ペーシングとリーディング

 ペース(pace)を合わせることがペーシング(pacing)である。
 ペーシングは、上記のミラーリングを含むが、ペーシングの範囲はそれよりも広い。わざと行うペーシングもあれば、親しい者同士がお互いに気付かぬままに行っているペーシングもある(この方がずっと多いだろう)。我々はいつも、自分たちが気楽になれるように、また他の人たちも安心していられるように、状況(文脈)に応じて、相手にペースを合わせしたり、逆に外したりする。
 親しい者同士の間で、心理的問題が深刻化するのも、このペーシングによるところが大きい。たとえば親しい者同士は、知らず知らず同じ行為をやろうとしたり、同じリズムでやろうとしたり、また同じ感情になろうとしたりする。こうして一方の悪感情は、もう一方にも悪感情を誘発する(悪い感情にペーシングしてしまう)。どちらか、あるいは、どちらもが、そのことに自覚的であればまだいい(わざと外すことができるから)。しかし、どちらも無自覚だと、お互いの悪感情が悪感情を呼び、相互的な悪循環ループに陥ってしまって、容易なことで抜け出せなくなる。
 だからペーシングという概念の意義のひとつは、「ペース合わせ」だけでなく「ペース外し」を自覚化できるようにすることである。そして「ペース合わせ」についても、必要な時と場合に、必要な程度だけ行うことが肝要である。それにはまず、無自覚に行っているペーシングを自覚せよ。
 たとえば、怒りに震える相手に、こちらがまったくの冷静であっては、どんな働きかけも受け入れてくれない。相手の「怒り」にペーシングする必要がある。怒っている人に対しては、その怒りより少し低いレベルのところに(声の調子や強さ、身ぶりやその大きさ、前構えになる程度など) 「ペース合わせ」すること。あまりに「ペース合わせ」が過ぎると(つまり、我を忘れる程怒りにペーシングしてしまうと)、怒りの相互的な悪循環ループに陥ってしまい、火に油を注ぐことになる+ミイラ取りがミイラになる。うまく「ペース合わせ」ができれば、(今度も自覚的に)少しずつ平静な状態にこちらの態度を変えていけば、一度ペースを合わせることのできた相手ならば、怒りの「外」へ導く(lead)することができるだろう。これをリーディング(leading)という。
 人間は無言語的なコミュニケーションを終始行っている。無言語的なコミュニケーションの結果できた場(field)を前提にしてはじめて、言語的コミュニケーションは行われ得るし、また意味を持つ(場が異なれば、同じ言葉も違った意味で受け取られるだろう)。したがってペーシングはどんな言葉を用いた手法よりも重要であるし、それら手法が活躍する舞台(文脈や場)を作り出すことができる。そしてリーディングもまた、言葉を用いたどんな誘導よりも、しばしば強力である。
 


ノーセット

相手を「その気にさせたい」ことを相手に言わせる(1)

 イエス・セットから我々が学べることのひとつは、「自分の口でハイ(肯定)と言ったことについて、そう言った本人は従おうとする」ということである。
 であるならば、我々が求めるのは、なにも「イエス(肯定)」に限らなくてもよいかもしれない。
 
 エリクソンが講演をしていたとき、やかましい男が会場に混じっていた。大声で野次を飛ばして、エリクソンの講演を邪魔していた。
 エリクソンはその男に、挑むように激しい口調でこう言った。
「君は静かにしていなくちゃいけない。二度と口を開くことはできない。立ち上がろうなんてことはしない。二度と詐欺師呼ばわりはできない」
 男はもちろん拒否した。「ノー!」。「お前の言いなりになぞならん」と肩をいからせた。
 エリクソンは続けてこう言った。
 
君はステージに上がって来るのが恐いのだ、デモンストレーションの被験者を見るのが恐いのだ、だから静かにしていようとしないんだ、だから私の話を聞こうとしないんだ、だから被験者用の椅子の所まで歩いて来ようとしないんだ、君はぜったいに座らないだろう、両手を膝の上にゆったりと置いたりなんかしないだろう、それどころか君は両手を頭の後ろで組むだろう……。
 男はもちろん拒否した。「お前の言いなりになぞならん」とばかり、騒ぐのを止め、被験者用の椅子に向かっていき、そこに腰を下ろし、ゆったりと手をひざの上に置いた。
 男は、すべてのエリクソンの予想と挑戦に反抗し、結果的に、エリクソンのトランス誘導に完全に協力している形となってしまった。そして「やかましかった」男はついに、深いトランスに入った
(Rossi,1980,Vol.1,PP.192−193)
 エリクソンがこの時もちいた技法は、ノー・セットと呼ばれる。

 イエス・セットは相手の中に、同意(イエス/はい)の習慣性や傾向を作り出す技法であったが、ノー・セットは相手の拒絶(ノー)の習慣性や傾向に、こちらが望むものを紛れ込ませる技法である。
 基本はシンプル、こちらがさせたいのとは反対の指示/命令を与えて、拒否させることである。相手は拒否したことで「指示/命令の反対のこと」にコミットし、一貫性の原理から、「指示/命令の反対のこと」(=こちらが望んでいたこと)を〈自主的〉に行っていく。

 多かれ少なかれ、人は誰かの「いいなり」になることを好まない。命令に逆らうことは、それだけで「自主性が発揮できる」という好ましさを持っている。普通は、命令に逆らうことには対価が必要である(命令に逆らうと、もっと痛い目に遭うことが予想されるから、いやいやでも人は命令に従う)。
 では、「命令に逆らう」ことをサポートしてやれば、どうだろう? 命令違反を罰することをせず、ただ悔し気に「命令違反」を傍観せざるを得ないといった風でいるならば、相手は嬉々として「命令に逆らう」ことを続けるだろう。もちろん、こちらも相手が「命令に逆らう」ことを望んでいるのだが。

 先ほど見たエリクソンの例がそうである。
 反発的な相手はより強く「自分を維持したい/外から影響されたくない」という構えを取っているので、自分の口で発言したこと(コミットメント)についても、より強い一貫性を自分に課する。したがって、相手が反発的であればあるほど、このテクニックは有効である。
 あれほどエレガントでなくても、「発奮してやる気を起こさせる」といったアプローチは、日常的に用いられている(必ずしも成功するわけではないが、廃れないところを見ると、まんざら悪い方法でもないようである)。
 なぜ「発奮してやる気を起こさせる」方法が、エリクソンの先ほどの大技ほどきまらないかと言えば、「発奮」といった感情が、それ自体としては、それほど長く続かないからである。「やる気」が維持されるには、行動を通じて見返り(達成感など)が与えられるなど、継続的なサポートが不可欠なのである。
 逆に、エリクソンの大技は、「いま・ここ」で相手の感情をたかぶらせ「我を忘れさせる」といった追加効果を効かせている。また多くの聴衆を前に「挑戦」させたことで、相手は強く逆らえば逆らうほど「引くに引けない」立場に追い込まれてもいる。別のページで見たように(→一貫性の原理)、コミットメントは公(おおやけ)にされた方が効き目が高い。
 もちろん、催眠に必ずしも平静でいることが必要ないこと、落ち着くことでなく注意の集中などで十分なこと等を、エリクソンが多くの実験と臨床を通じて知り抜いていたことが、そこまで興奮した「やかましかった男」を催眠に入れることに成功した大きな要因であることは、言うまでもない。

 ノー・セットは、必ずしも相手を怒らせたり激しい感情を覚えさせたりしなくてもいい。
 「肯定(イエス)される質問」によるイエス・セットがあったように、「否定(反対)される質問」によるノー・セットが当然あり得る。
 しかもこれは、相手の感情を揺さぶらないだけに自然に使えて、かえって応用範囲が広い。
 これについては、項を改めて検討することにしよう。

オーバーな提案

   反対される質問による誘導のわかりやすい例である。

 「ねえ、お茶しようよ。1分だけでいいからさあ」
 「えー、1分じゃ、お茶飲めないよー」
 「じゃあ、10分?20分?30分? どうする?」
 「ちょっとだけなら、(お茶しても)いいよ」
 
 上の会話には、いくつかの心理的トリックが含まれている。
 ひとつは、あとで検討する「選択の幻想」というテクニックである。「10分」を選択しようが「30分」を選択しようが(はたまた「1分」を選択しようが)、「お茶を飲む」ことには変わりはない。誘惑者の目的は「お茶を飲む」ことなのだから、どれを選ばれても目的は達せられる。
 もうひとつは、否定したくなるような「オーバーな提案」が含まれているところである。
 いくらなんでも「1分」でお茶は飲めない。「オーバーな提案」の「オーバー」な部分に注意が集まり、「オーバーな部分」を否定することで、かえって「お茶をする」ことが、スルー(不問に)されている(無意識に「受け入れてられている」とまで言う人もいる)。少なくとも、この提案の「打ち消し」として、普通の「お茶をすること」(のイメージ)が、相手の意識にのぼってくる。
 加えて「オーバーな提案」には、「拒否したら譲歩(ドア・インザ・フェイス)」の側面もある。返報性の原理から、「ある提案」を拒否しそれを相手に受け入れられると、今度はこちらも受け入れた方がいいという、心の構えが生じる(相手が譲歩したのだから、こちらも譲歩すべきだ、という自動性が発動する)。しかも「拒否したら譲歩(ドア・インザ・フェイス)」の特徴は、これによって生まれた「相互承諾」が、詐術的なものとしてではなく、双方の「犠牲=譲歩」の上に成り立つ「守るべき合意」として認知されるのである。
 また通常の(最初に高い値段をふっかけて、それから値引きしていくパターンの)「拒否したら譲歩(ドア・インザ・フェイス)」とは違い、最初から「1分間のお茶」という「破格」の提案をしているところも興味深い。普通なら「値切る」立場の相手が、逆に「そんなのでいいの?もっと時間とらなくていいの?」と、立場を忘れてかえって前向きになってしまうような、逆提案となっているのである(ノー・セットの例としてすばらしい)。
 「オーバーな提案」には、一種の混乱技法(これもあとで検討する)も含まれている。人間の頭は、はいってきた刺激の束を、できるだけ「つじつまを合わせて」処理しようとする。1分間の「お茶をする」という、あり得ない状況を示す言語刺激に対して、脳は情報処理の資源の多くを使って、なんとか「つじつま」を合わせようとする(意味を理解しようとする)。「オーバーな提案」を「まともなもの」として理解するという報われない努力のために情報処理の多くを費やすことで、「ナンパ」に対して普通に行ってきた「あしらい」や「警戒」のための情報処理が抑制され一時的に中断してしまう。要するに「びっくり」して、ガードが一時的に解かれる。

 大げさに解説したが、もちろん「オーバーな提案」がいつも有効な訳ではない(この誘惑者も、最初の「オーバーな提案」は、いずれにせよ否定されるだろうから、その否定の仕方によって次の手を変えていこう、と考えるだろう)。だが、盛り込まれた心理的トリックの多さとアプローチのシンプルさは、この方法の優秀さを物語っている。
 すぐれた心理トリックは、みかけは簡素であり、しかも何段構えにもなっていて、機能において複雑である。それには、心理トリックの部分が、それぞれいくつもの役割を果たすことが必要である。とりあげた例は、そうした要件を満たしている。

わざと間違える

    これに似ているのが、「わざと間違える」テクニックである。
 応用範囲が広いために、様々な例が考えられるが、たとえば、セラピストが何を言っても「わかりません」としか答えないクライエントと面接しているとしよう。
セラピスト 「いま、どういった気分ですか?」
クライエント「わかりません」

(これではしかたがないので、セラピストは「わざと間違える」テクニックを使うことにする)

セラピスト 「たとえば、嬉しくて楽しくてしかたがない、って訳ではありませんよね?」
クライエント「楽しい訳ないじゃないですか。こんなところに来てるんだから、苦しいに決まってます!」

あるいは、これも面接の例だが、認知療法ではある感情を引き起こした考え(自動思考)を同定する作業をセラピストとクライエントとで行うが、クライエントが自分の思考をうまく表現できない場合がある。

セラピスト 「『学校はどう?』と聞かれて悲しく感じたと言われましたが、そのときどんなことが頭に浮かびました?」(自動思考についての質問)
クライエント「……わかりません。本当にわからないんです」

(セラピストは「わざと間違える」テクニックを使うことにする)

セラピスト 「たとえば、すべてがすばらしく順調であると、考えていたとか?」
クライエント「いいえ、その逆です。問題はあるんです。授業についていけなくて。それを思い出して悲しくなったんだと思います」
いずれも、当然に予想されるものとは「反対」を提示することで、クライエントの発言や思考への「呼び水」にしている

*「わざと間違える」テクニックはしかし、すぐわかるように、危うい誘導をもたらす可能性もある。
 たとえば「治療の効果が感じられない」というクライエントに対して、「いや、そんなことはない。すべてがよくなった訳ではないが、この部分やこの部分についても改善が見られる」とセラピストが反論・力説すれば、クライエントはいよいよ態度を硬化させ「そんな改善など取るに足らない。ほとんどまったく私はよくなっていない」とより激しく主張するだろう。
 しかし「わざと間違える」テクニックをセラピストが使うならば、クライエントの主張を受け入れ、「そうですね、どうしたものでしょうか」と半ば困って見せ黙っていると、不安になったクライエントの方から「いや、この部分やこの部分については、よくなったような気もする」と言ってくれる確率が高い。さらに「ううん、そうでしょうか?」とセラピストがなおも続けると、クライエントは「そうですとも。昨日だって電車に乗りましたが、以前感じたよりもずっと不安は少なかったのですから。それに……」とますます(結果的に)セラピストと治療の効果を弁護してくれるだろう。
 しかしこのテクニックが、たとえば臨床の場で多用されると危険なのことはいうまでもないだろう。インチキ療法の面々も、こうしたテクニックについては実によく御存知で、一方で治癒率の高い疾患をあたかも「難病」であるかのように宣伝し、自然な経過による改善をこうしたテクニックで浮かび上がらせる、といった手法を多用してくる。




前提法

相手を「その気にさせたい」ことを相手に言わせる(2)

選択の幻想

 エリクソンはよく「いますぐトランスに入りたいですか、それとも後で入りたいですか」と尋ねた。エリクソンは選択を持ちかけている。しかし、いずれにせよトランスに入ることを前提にしている。どちらを選んでも、相手はトランスに入ることを了承することになる。
 この洗練された方法の反対を考えてみよう。「さあ、トランスに入りなさい。いずれにせよ、あなたに選択の余地はありません」。「私に選択の余地がないだって?いいや、私にはお前の言葉にしたがわないという選択があるぞ。だれがトランスになど入るものか」。
 自由意志は、たとえ幻想であれ、人間にとって大切なものだ。自らの意思で選んだものであれば、それを遵守する可能性はとても大きくなる。「選択の幻想」は、人に選択する機会(自由意志を発揮する機会)までは奪わない。それは術者、被術者双方が、尊重されるやり方である(たとえ幻想であっても)。

 冒頭の昼食の例で考えてみよう。
 あなたは、今日は蕎麦屋へ行きたいと思ってる。お昼前、同僚にこんな選択をさせてみる。
「今日の昼飯だけど、中華と蕎麦、どっちにいく?」
 同僚はそれまで昼飯をどうするか考えていなかった。選択の質問によって、「昼飯をどこで食うか?」という議題(アジェンダ)がはじめて意識にのぼり、よほどそれ以前に例えば「今日はカレーだ」と決めていない限り、同僚はこの選択肢(中華か蕎麦か)から、今日の昼食を選ぶだろう。

 しかし反論があるかもしれない。これでは確率は1/2だ。同僚が「中華にしよう」と言ったらどうするのか?
 確かに、いくつか改良の余地がある。たとえば「いきたい方でない選択肢」には、今日は休みの店を置く。「中華は今日休みだよ。蕎麦にするか」となるだろう。

 しかしもっとかたいのは、最初から「どちらを選んでも、こちらの望むものしか選べない」ようにしておくことだ。
 たとえば誰かを泳ぎに誘いたいとする。ならば「泳ぎに行く?」ではなく「プールに泳ぎに行く?それとも海?」と質問し、選ばせればよい。
 「プールにするわ」「海がいいな」。どちらを答えても、相手は「泳ぎにいく」ことについては、「イエス」と答えている(に等しい)。そうして、自らが口に出したことについては、コミットメントとなり一貫性の原理が働く。

ダブルバインド

 ダブル・バインドとは、広義には「従うことも、従わないこともできない指示」である。(1)その支持は論理的に矛盾し合った(両立し得ない)二つのメッセージを含み、(2)しかも指示者ー被指示者の間には密接な関係が存在し(だからこそ、指示そのものを「うっちゃる」ことができない)、(3)しかもそうした関係パターンが自己生産的に持続する。
 ダブル・バインドは無論、病的な関係である。しかし「医原性疾患があるんなら、医原性治療があってもいいじゃないか」といったエリクソン、本来病的なダブル・バインドに対して、治療的ダブル・バインドというのを編み出し、実践した。
 医者やセラピストが出す指示は、しばしば患者やクライアントから抵抗される。無視される。実行されない。水の泡。しかし、エリクソンは「抵抗する患者なんていない。頭の固い治療者がいるだけだ」とも言った。やわらかアタマで、エリクソンは、どうしても逃げられない治療的指示としてダブル・バインドを使った。たとえば、こんなの、だ。
「先生、ふるえ(その他、症状なら、なんでもいい)が、どうしてもとまりません」
「わかりました。では、もっとふるえ(その他、症状なら、なんでもいい)を出してください」
 エリクソンのこの指示は、治療的ダブル・バインドになっている。つまり、この指示に従おうとすれば、ふるえ(などの症状)をわざと(意図的に)出さなければならない。これは今まで不随意だったものを、意識のコントロール下におくことでもある。
 また、この指示に逆らおうとすれば、すなわち、ふるえをとめなければならない。これは万事解決である。
 したがって、指示にしたがっても、従わなくても、問題は解決の糸口をつかむ。こうした指示の出し方をエリクソンは行った。
 これは様々に応用がきくが、しかしいつもこうしたダブル・バインドを使える場面が訪れるとは限らない。


混乱技法

驚愕法

 人間は実に多くのことを、無意識で行っている。意識的な動作も、無意識の下で行われる無数の動作によって支えられなければ、あり得ない。
 たとえば「字を書く」行為は、意識的なものだが、ペンを握る力、指や手や腕のどの筋肉をどれくらいの強さ・速さでどう動かすかといったことは、すべて無意識に行われる。でなければ、とてもじゃないが、字を書いていられない。
 だからこそ「字を書く」ことは、ひとつのスキルである。無意識でペンをスムーズに動かせるようになるためには、多くの練習が必要である。

 我々の社会生活もまた、無意識に行われる無数の動作や振る舞いに支えられた、意識的行動によって、できあがっている。人間は、そのための多くの動作/行動/振る舞い、それに感じ方や考え方までも、無意識にできるまで、スキルとして繰り返し数多くの意識的修正を行っていく。この作業は生きている限り続けられるが、日常生活を構成する多くの動作/行動/振る舞い/感性/道徳判断などの多くは、すでに無意識でできるようになっている。
 「習慣」は、こうして個々の人間の身体/無意識に刻み込まれてはじめて習慣となる。それには、個々人が日々それらを繰り返し、さらに周りの人間からのチェックと、間違っていた場合には(嘲笑等の)社会的圧力が加えられること等を通じて修得される。こうして、これこれの場合には、これこれの対応をする/動作をする/感じ方やその表し方をするように、「習慣」としてプログラミングされることになる。このプログラミングのおかげで、日常生活に必要な多くの動作/行動/振る舞い/感性/道徳判断を、無意識に行える。だからこそ、日常生活の瑣末ごとに、情報処理能力のすべてを取られることなく、人は考え事したり悩んだりできる訳である。

 しかし、一旦プログラミングされたパターンから離れてしまうと、改めて一から考え直し、修正し直す必要がでてくる。それには脳の情報処理能力のかなりの部分が投入されよう。そうして、これまでなら普通に(そして無意識に)行っていた「警戒」や「意識の統一/連続性の維持」といったことに、割かれる能力が激減する。そして、言葉や指示が、すっと胸の奥に届いたりする。

ハンドシェイク・インダクション

 たとえば、エリクソンの催眠導入のなかでも最も有名なもののひとつに「ハンドシェーク・インダクション(握手による導入)」がある(Erickson, Rossi and Rossi, 1976, p. 108)
 これは、「握手すること」で相手を催眠に入れるのではなくて、「握手し損なう」ことで催眠にいれる方法である。
 こんなことができるのであれば、初対面の度に握手をする文化では、誰もがいたるところでトランスに入ることになりはしないか?(しかしトランスは日常的にも起こっている、珍しくはない現象である)。 あるいはほとんどの催眠悪用もの(フィクション)が採用している、しちめんどくさい(儀式めいた)催眠導入の手続きとそこに至るまでの不自然で涙ぐましい努力は、アホらしくって全面改訂したくなりはしないか?(多くの催眠フィクションは、ステージ催眠と同じく、かなりアホらしいものである。けれども神聖な宗教儀礼のどれもが、その信仰を持たない者にとってはアホらしいのと同様であって、「大きなお世話だ」と反論される可能性は少なくない)。
 ハンドシェイク・インダクションは、いろんなバリエーションが考えられるけれども、共通するのは「握手をする」のではなく「握手し損なう」こと、それも相手の予想に違えて「し損なう」ことである。たとえばこちらがごく自然に右手を差し出し、それに応じて迎えに来た相手の右手に対して、あろうことか左手でその手首をつかみ、相手の顔に向けて相手の右手を近付ける、といったことをする。「初対面の度に握手をする文化」であればこそ、日常に何千何万と繰り返してきた(ほとんど無意識化、自動化していた)「当たり前の動作」が思いもしない形で「裏切られる」ことで、驚愕から脳の情報処理能力の(改めて一から考え直し、修正し直すための)一時的な浪費を通じて、例えば「意識の統一/連続性の維持」にこれまで割かれる能力が激減=意識の「空白」が生じることこそ、この催眠導入のキモである。(通常、ハンドシェイク・インダクションは、この驚愕に引き続いて、相手の意識の「空白」の間に次々と行われる催眠導入のための指示、たとえば顔を覆うように近付いてきた「手のひらをじっと見て」「じっと見ていると、そこから目をそらせなくなる」「じっと見つけていると、自然にまぶたが閉じていく」などが、後を引き継ぐ。)

突然の意味不明なことば

 こう考えていくと、使えそうなのは何も「ハンドシェイク」ばかりではないのではないか、と思えてくる。
 たとえば、我々の会話は、これも無意識的に、かなり精巧に構造づけられている。たとえば誰かがしゃべると、他の人は通常、声を出すのを止めて聞き手に回る。こういう細かいルールが、我々が成長する中でプログラミングされており、相手も同様のプログラミングをされていて、自分がするように相手もそうすると期待できるからこそ、会話は円滑に進む。あるいは、そうした細かいルールを無意識下に実行できるようになっているからこそ、人間はその情報処理能力を会話の内容を考えコントロールすることに振り向けることができるのだとも言える。
 では、こうしたルールを突き崩すイレギュラーな行為を行えば、「握手をし損なう」ことと同様の効果が得られるのではないか?
 先ほど、「1分だけお茶を飲む」という、常識的でない提案が、相手にちょっとした混乱を引き起こし、通常は昨日しているはずの「警戒」などの働きを一時的にマヒさせ「ガードを下げさせる」事例を見たが、同様に我々は「相手の話を理解し、その流れに沿った発言を行う」という会話ルールのひとつを蹴倒すことでも同様の効果が得られるかもしれない。要するに「いきなりワケのわからないこと」を言うだけなのだが、一方で「こちらの努力を無視して、ワケの分からないことを言うだけの人とは会話できない(しない)」という会話ルールに引っ掛かると、去られるだけになってしまうので、そのあたりをうまくやりすごさなければならない。
 「やっぱりサンマは目黒に限るよね」
といきなり言われても、何が「やっぱり」なのか、さっぱりわからない。それでも「相手の話を理解し、その流れに沿った発言を行う(はずだ)」という会話ルールと、それをプログラミングされた脳の情報処理は、それを無下に「ナンセンス」だと拒絶しない(できない)。なんとか事前情報やら相手の意図の推測やらを動員して「つじつま」を合わせて理解しようとする(こうした情報処理があればこそ、ミスマッチや場違いは、時に笑いを生む)。例えば「あたかも正しい(理由がある/根拠になっている、など)」ように見える形式をもった発言は、正しくなくても、脳の情報処理が「正しい」かのように補完してしまう。あるいは矛盾をはらんだ言明なのに、あたかも矛盾がないかのように、なんとか「良いように」解釈しようとしてしまう。

「疑わずにいられないほど、あなたのこと信用したいのよ」
「ぼくがモテないこと知ってて、ヤキモチ焼いてくれてうれしいよ」
(石井裕之『コミュニケーションのための催眠誘導』 p.153)

 この脳の情報処理(認知)は、感情や身体状態の制御とも密接に関係しているから、情報処理(認知)が変われば、それと「つじつま」が合うように感情や身体状態も変わってしまう。たとえば「好き」でもないのに、あたかも「好きである」ような状況や自分自身の反応を情報処理(認知)すると、「好き」という感情やそれに伴う身体状態(たとえば鼓動がはやくなるなど)が引き起こり、それをまた情報処理(認知)することでフィードバックがかかり、「好き」という感情やそれに伴う行動、そしてそれが引き起こす相手の反応………と、ループがループを呼び、「ウソからでたマコト」になってしまう。
※この本は、誘惑をテーマにエリクソンの催眠技法を解説した日本で最もわかりやすい本でもある。ご一読をお勧めする。

「シナモン・フェイス」あるいは足を踏まれた女の子のケース

 再びエリクソンにもどると、二つの実にエレガントな「驚愕法」の例がある。どちらもいわゆる催眠トランスを伴わないが、その効果はそれに匹敵する。「当たり前の事実」を受け入れられないほど凝り固まった相手に対して、驚愕法を用いて、エリクソンはその「当たり前の事実」を瞬時に受け入れさせるのである。

 ひとつは「そばかす」を気に病んで、すっかり周りへの激しい敵意をもった女の子の事例である。
 エリクソンは会うなり、その娘をなんと、いきなり「どろぼう呼ばわり」する。
「みつけたぞ、よくも盗んだな!」
「なにも盗んでなんかないわ!」と少女は当惑しながらも当然そう答える。
「いいや、すっかりわかってるぞ。証拠だってあるぞ!」と、とんでもないことを言い出すエリクソン。
「証拠なんてある訳ないわ!」
「いいや、あるとも。お前がシナモン・クッキーの箱を開けたことは分かってる!」
「シナモン・クッキーですって?そんなもの……」
「お前の顔についたのが動かぬ証拠だ!おまえはシナモン・フェイスだ!」
「シナモン・フェイス!?」(あまりのばかばかしさに少女はぷっと吹き出し、笑い出す)
 エリクソンが結局やろうとしたのは、「みっともないそばかす顔」を「シナモン・フェイス」という素敵な名前をもつ何かに、リフレーミング(後述)することである。
 ゆっくり相手の話を聞いてやり、ラポールをつくりあげたのちに、その「そばかす顔」を「私はなかなか素敵だと思うよ」と言うこともできただろう。ただ、空間的にだけでなく「みっともない私」という観念の中にも引きこもった彼女が、そうした新解釈に耳を傾けるかどうか、そもそもラポールができるまでコミュニケーションを持ってくれるかどうか難しい。
 エリクソンは相手の敵意を利用し、またしても怒らせることで、相手をしっかりとこちらに引き付けている。当惑を越えて、相手を「どろぼう」よばわりすることで、対抗せざるを得ない(ということはつまり、真剣にコミュニケーションせざるを得ない)状態に一気に陥れている。対抗するために、おかしなところがあればすかさず反論するために、相手の一言一句に真剣に耳を傾けさせ、しかもどうあっても「言い返し」たくなるほどメチャクチャな主張を投げかけ、反応を引き出している。この驚愕法は相手のガードをさげさせるどころか、「前のめり」にさえさせている。
 その上で、ここでのエリクソンの驚愕法は、二段構え(あるいはさらに多段構え)になっている。「どろぼう」は「シナモン・クッキーどろぼう(?)」に、そして「シナモン・クッキーどろぼう」は「(怪盗?)シナモン・フェイス」にと、次々に驚愕の事実(笑)が明らかになっていく。
 果たして、この呼び名を彼女はよほど気に入ったらしい。後年、彼女からの手紙をエリクソンは受け取っている。「先生は私が誰だか覚えていらっしゃらないかもしれません。でも「シナモン・フェイス」という名前を聞けば、私が誰だかきっと思い出して下さるでしょう……」。手紙には、そばかすだらけの女の子が笑っている絵が添えてあった。エリクソンはもちろん覚えていて、このケースを何度も話した(ので、我々が読めるものになって「シナモン・フェイス」は全世界の心理臨床家に知られることとなった。例えば My Voice Will Go With You, pp152-154.)。

 次の事例は、自分の「足の大きさ」を苦にして、引きこもってしまった女の子のケースである。
 何しろ引きこもっているのであるから、エリクソンがその家に出向いていく。表の用向きは、少女の母親の診察である。
 診察に立ち会わせ、母親のベッドのそばに少女を立たせたエリクソンは、ベッドの脇で母親を一通り診察する。それが終わって立ち上がり、おっととっととバランスをくずした「振り」をして、後ろに立っていた少女の「問題の足」を後ろ足で踏んづけるのである。
 少女はあまりの痛さに声をあげる。エリクソンはくるりと振り返り、謝るどころか、こんなことを言って少女を罵倒する。
「くそ、もっとすぐにわかるほど〈大きな足〉だったら、踏んづけなくて済んだのに!」
怒りと痛みと混乱のただ中に置かれた少女をそのままに、エリクソンはとっとと帰路につく。
 少女は最初は怒りがおさまらなかったが、落ち着くにつれて、「足の大きさ」をすでに気にしていない自分に気付く。エリクソンが家を出る頃にはもう、お芝居でも見に行きたいと少女は母親に告げていた。引きこもりはこうして幕を引いた。


あいまい表現

ディテールは相手に補完させる

 「相手の話を理解し、その流れに沿った発言を行う」という会話ルールは強力で、たとえば「そうだ、アレどうなった」とか「アレはアレで、アレして、アレですね」などと言った「曖昧すぎて訳の分からない発言」についても、我々(の脳)は、なんとか文脈や事前情報等を総動員して、意味を補完して理解しようとしてしまう。たとえば母国語で話をしているとき、音の単位で言えば正確に捉えられているのは4割程度に過ぎない。我々の会話は半分以上が、推測による補完によって成立しているのである。

 たとえばカウンセラーは、大したことを言う訳ではない。クライエントが語ることにただ耳を傾け、相槌をうち、あるいはオウム返し、時には話を要約して返すぐらいしかしない(少なくとも大半の時間はそうである)。どれほど感情を乗せた言葉を語っても、「大変でしたね」「悲しかったんですね」などと、わかったようなわからなかったようなことしか言わない。そこがミソである。まず多くを語らなければ、それだけ間違いが少なくて済む。「悲しかったんですね」と曖昧なことを言っておけば、「どう悲しかったか」を理解できてようとできてまいと、話した相手は「この人は理解してくれている」と思う可能性が高まる。必要な情報は「悲しかったんですね」と聞いた人の脳が自動的に補完してくれるだろう。

人をほめる


 具体的なほめ方(何についてほめているのか?)
・抽象的なほめ方(「優しい」「勇気がある」)
・「I」メッセージ(自分の気持ちを合わせて伝える)


もっとも、筆者が強調したいのは、
「承認」と「確認」という考えでしょうね。

承認 :相手の「いいところ」を「無条件」で認めてあげる
確認 :相手と自分の考えが共有できたことを確認する。






「新しい私」=自分が発見したいものを発見する
いずれにも取れる指示
いずれにも取れる質問



リフレーミング

 出来事自体には、意味はない。意味は、出来事をどう解釈するかに左右される。言い換えれば、どんな出来事の意味も、どんな枠組みに収めるかで決まる。枠組みを変えれば、意味も変わる。

 下に汎用性の高そうな、リフレーミングのテンプレートを示そう(しかしすべてがよい効果を生むわけではないことに注意)。

 否定的な言明「仕事がうまくいかないで私は落ち込んでいる」に対して、
  1. 気持ちの肯定=「仕事がうまくいかないと感じているんですね。だったら落ち込むのは無理ないですよ」
  2. 一般化=「ただ気が滅入っているだけでしょう。仕事は大丈夫よ」
  3. 自分のせい=「そう思うから落ち込むのよ」
  4. 価値または基準を求める=「うまくいかないと貴方が思う仕事のどこが大切なの?」
  5. 積極的な目標=「うまくいかないことは貴方を発奮させるかもしれないわ」
  6. 目標を変える=「仕事を変える必要があるのかもしれない」
  7. 遠い目標を定める=「今の仕事の状況から役に立つことを学べないかしら?」
  8. 隠喩を語る=「それは歩き方を覚えることに似ているわ=…」
  9. 再定義=「貴方が落ち込んでいるのは、仕事の不当な要求に対する貴方の怒りの現われかもしれない」
  10. 一段下がる=「仕事のどの部分がうまくいかないのかしら?」
  11. 一段上がる=「景気はどうなの?」
  12. 反対の例=「仕事がうまくいかないでも貴方が落ち込まないこともあったでしょう?」
  13. 良い意図=「それは貴方が仕事熱心なせいよ」
  14. 時間枠=「良い時期も悪い時期もあるわ」


スプリッティングとリンキング

 人間が四六時中行っている情報処理は、(1)複数の要素を分割し(splitting スプリッティング)、そして(2)要素と要素を結びつける(linking リンキング)という、大きく分けて二つのプロセスからなっている。
 スプリッティングとリンキングは大抵の場合、同時に用いられる。新しい結びつきをつくるためには、古い結びつきを切り離す必要があるだろうし、元の結びつきが回復しないように切り離したままにするためには別の結びつきをつくるに越したことはないからである。
 
 スプリッティングとリンキングは、催眠とともに使うことも、催眠なしに使うこともできる。臨床の場面でも当然使われるが、日常的にもやたらと登場する。
 たとえば「言い訳」は、ある行為を、その行為を正当化もしくは「いたしかたなし」とする理由や事情に結びつけ(link)、そうやって批判されるべき行為のカテゴリーから切り離す(split)ことでなされる。

リンキング

 リンキングについては、すでに「イエス・セットの連結」や、「驚愕法」の応用のところで、いくつかの例に触れた。
 ここではまず、ほとんど混じり気なしの「純粋なリンキング」の例を示そう(何かと何かを結び付けるリンキングに「混じり気なし」というのは、語義矛盾だが)。
 
異なる命令の結合
複雑なほど判断力に負荷がかかり,ノーと言いにくい
「手術台の上の結婚」
意外なものをいっしょにすることで,煙に巻く
理由にならない理由
「〜ので,○○」といえば,理由になってなくても,ただ依頼するより聞き入れやすい
好ましいものとの結合
好きになる
スプリティングとのあわせ技
リフレーミングの重要な手段
一旦切り離して,別のもの(対象,場面,文脈)とくっつける



スプリッティング

ちがう自分/本当の自分
言っていいこと/いけないこと
モダリティ(感覚)の分離
位置/場所のスプリッティング(いやなことを置いてくる)
限定話法(いま・ここだけに,限定する)
過去完了話法



人称技法

 命令のかわりに「(私は)〜〜だと助かる/嬉しい」とつたえる
 まず自己開陳して、相手に尋ねる「私は○○です。あなたは?」=返報性によるインタビュー



催眠トランス

催眠導入の副産物としての信頼感
癖になるトランス
好意者への賛意(既出)




























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