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承諾を獲得する


compliance
人間の判断や行動の多くは反射的・自動的に行われる。
この自動反応には、反応を引き出す「シグナル」が決まっている。
「シグナル」を使えば、相手の承諾を自在に引き出すことができる。

 

 常識的なところからはじめよう。
 人間の判断や行動のほとんどは、あれやこれやと意識的に考え尽くされた結果行われるのではなく、反射的・自動的に行われるのが普通である。何となれば、我々の意識が処理できる情報量には限りがあり(しかもかなり手前にその限界があり)、日々刻々と要求される判断や行動のすべてを意識的に行っていては、すぐにもパンクしてしまうからである。逆に言えば、日常の判断や行動のほとんどを反射的・自動的に行うことで、何か特定のことに打ち込んだり、考え込んだりすることができる。
 
 判断・行動の自動化は、あるものは反復練習によって可能になるし、あるものはさほど意識することなく経験が蓄積することで可能になる。またあるものは、人類が進化の過程で獲得してきたと考えられるものもある。たとえば後で見る返報性(人は、他者から何かを与えられたら自分も同様に与えるように努める傾向・自動性)は、世界のあらゆる文化の中に見られる。人間が集団・社会をつくる上で、返報性が果たす役割の大きさは、人類学や社会学などの多くの知見が示している。
 進化の中で生き残ってきた心理的自動反応はこれまで適応的であったし、我々がそれぞれの文化の中で身につける自動反応もその文化の中では多くの状況において適したものである。でなければ、そうした反応を持つことが不利になるのだから、早晩そうした反応はそれを身につけた個体とともに衰退してしまっていただろう。

 心理的な自動反応は、総じて、よくできている。まず速い。そして、たいていの場合正しい。
 自動反応の迅速さは、部分的な情報しか活用しないからである。たとえば、熱いものに触れると反射的に手を引っ込める。この際、「熱いもの」がやかんであるか炎であるかは、どうでもいい。温度が100度か800度かも関係ない。こうした情報は知る必要もなければ、分析する必要もない。処理しなければならない情報が増えれば増えるほど、処理時間がかかる。少なければ処理時間が短くて済む。また余録として、脳の能力(情報処理資源)を節約的に活用できる。能力をあまり割かなくて済むので、他のことをすることだってできる。
 そして自動反応の「正しさ」は、活用する部分的な情報が、多くの場合「核心的・的を得たもの」であるからである。手の皮膚の熱感が捉えた「熱い!」という情報は、手を引っ込めなければならない「危険」を意味している。
 特定の自動反応を引き起こすトリガー(引き金)となるシグナルは、それぞれに決まっている。自動反応は、そのシグナルにだけ反応し、シグナル以外の情報は基本的に無視する。だからこそ、速く概ね正しい反応ができる。

 しかし、反応を呼び出すシグナルがあっても,実際は反応すべきでないこともある。
 ここに悪用の可能性がある。意図的にシグナルを与えれば、人の心理的自動反応が作動して、意図とおりの反応を引き出すことができるのだ。
 また、ここから2つの教訓を引き出せる。
 以下では、様々な心理トリックや「承諾誘導」に用いられる自動反応(の原理)を6つにまとめている。
 この6つの原理で、承諾を引き出すのに用いることができる(現によく用いられる)トリックや誘導技術のほとんどをカバーできると思う。
 これらの原理には、共通点がいくつかあるが、もっとも重要なのは、《ほとんどの文化に広がっており、ほとんどの人に対して広く用いることができる》点である。



承諾を引き出すために使える/よく使われる自動反応リスト

自動反応の原理
内    容
特     徴
返報性
人は、他者から何かを与えられたら自分も同様に与えるように努める
・先に与える方がイニシアティブを握る。
・返礼は贈与以上になることがある(「返礼による搾取」が可能である)。
・しかも、誰から与えられたかに関係なく作動する。
一貫性
人は、自分の言葉、信念、態度、行為を一貫したものにしたい(あるいは他の人にそう見られたい)という欲求がある
・コミットメントによる自己イメージの変化が、ループを形成する(コミット→イメージの変化→コミット・・・ による一貫性の再生産ループ)
・つまり、一旦作動すると、働きかけの追加を必要とせず,自動的に持続する。

社会的証明
人は、他の人々が何を信じているか・どう行動しているかを見て、自分が何を信じるべきか・どう振る舞うべきかを決める
・人間にとって根本的。人は社会で学習する動物であり、今信じているルールや規範も、元々は社会的証明によって与えられ保証されたに過ぎない。
・また集団的沸騰がコミットメントに直結する性質を人間は持っている。
・規模の経済が働く。つまり。対象者自体が、他の対象者に影響を与えるので、大人数ほど一人あたりのコストがさがる

好意
人は、自分が好意を感じている知人に対してイエスと言う傾向がある
・好意は社会的動物である人間の生存条件だから、好意を用いた自動反応には(よくわかっていても)抵抗しにくい。普段から、好意を受けることが足りない、好意が少なすぎると不満な人には、希少な分だけ大きな影響がある。
・好意はすでに社会にネットワーク状に存在している(利用しやすい)。多くの人が持っている。社会的に分散した資本。働きがければ、どこでも現地調達できる。
・横に広がっていく(友達の友達は友達)・・・ねずみ講的ネットワークに最適。コミットメントが、個人の一貫性を再生産=持続するように、好意は社会的に再生産=拡大する(巻き込み型)。

権威
人は、権威に服従しやすい
・権威に従うのは楽で、汎用性広い(ほかの自動反応とちがって、複雑で新しい事態についても、権威者が判断してくれるので、フォロアーとしては適応戦略を変えなくて済む)
・権威は本来は対面的。ただし、権威を委譲することができる。
・権威をつくりあげるのは難しいので、権威は独占しやすい(参入障壁が高い)。

希少性
人は、機会を失いかけると、その機会をより価値あるものとみなす
・独占的供給者は、自分のところで蛇口をしめるだけで、効果を社会全体に広げられる(空間的に効率的)。





返報性の原理

 返報性の原理とは、《人は、他者から何かを与えられたら、自分も同様に与えるように努める》という原理である。


返報性を引き出すシグナル

 返報性を引き出すには、何かを先に「与える」だけでいい。
 与えるのは、モノである必要はない(もちろんモノでもいい)。先に情報を与える、先に譲歩する、といったことでもよい。
 

返報性の特徴

 返報性は必ずしも、返礼をもたらすとはかぎらない。相手は「お返し」するものを持ち合わせないかもしれない。だとしたら、相手には「負債感」「負い目」が生じる。返礼はこの「負い目」をぬぐい去るために行われるのだ。
 したがって、先に与えてしまえば、相手は「負い目」の囚人である。ある社会学者は、最小の人間関係におけるミクロな権力の発生をこの「先に与えられた負い目」に求めている。
 つまり、先に与えれば(どれほど与えたものが、つまらないものであっても)、相手をコントロールできる。相手は「負い目」があるため、こちらの「返礼の指示(○○を返してほしい)」にすら従いやすい。それがしたくない返礼であっても、それ故に相手は「負い目」との間の板挟みで苦しむだろう。そうなれば、さらに「返礼の指示」を変更すれば(これは、またひとつ相手に譲歩すること、すなわち新しい贈与を行うことになる)、相手はそれに飛びつこうとする衝動に逆らいがたくなるだろう。
 返報性の発動には、与えるものの価値の大小、そして相手が欲しいものであるかどうかは無関係である。
 このことは、「小さく与えて、大きくお返しを受ける」ことが可能であることを示している。与えたもの以上を受け取れるからこそ、返報性は悪用される。
 むしろ返礼を受け取りたい場合は、与え過ぎないことである。相手の返礼能力を超えると、相手は過剰な「負債感」を抱えることになり、(1)返礼関係を御破算したくなるか(受け取り拒否や、関係からの逃げ出し)、(2)なんとかバランスを取ろうと、与えられたものの価値を、心の中で割り引きたくなる(→後段の「希少制」の項も参照せよ)。
 まずは、断られないためにも、最小限を与えよ(挨拶や笑顔は、このために有用だ)。必要ならば、小さな贈与から始め、贈与—返礼—贈与・・・を繰り返すうちに、贈与するものを大きくする(または、価値を高める)ようにすればいい。
 返報性の発動には、与える人が誰であるか、相手に好かれているか/嫌われているかも関係がない。
 多くの承諾を得る手段が、相手の好意を前提とするのに対して、また相手から好意を得るには少なくない時間をかける必要があるのが通常なのに対して、返報性の強力さは郡を抜く。
 

返報性の具体例

返報性の応用テクニック

 何か欲しいものがあるなら、あらかじめ何かを相手に与えると良い。
 普通なら断られる依頼も、先に些細な贈与があれば、断ることは難しくなる。
 返報性の原理からいって、与えるものの価値や、あいてがこちらに好意を持っているかどうかは、関係がない。

 たとえば、あるアメリカの新興宗教は、道行く人から寄付を集めるのに、まず花を一輪相手に押し付ける(与える)。
 街頭で見知らぬ人から花を貰うことは、通常の体験ではない。だからこそ、人は無防備になってそれを受け取る。
 我に返って、こんなものはいらないから、と返そうとしても、寄付集めの信者は決して受け取らない。かわりに教団に寄付してほしいと言う。
 普段なら、こんな怪し気な教団に寄付しない人々も、この事態からさっさと抜け出せるならばと(つまり彼らは花一輪の贈与が生んだ「負い目」に耐えきれない)、いくばくかのお金を信者に渡して(これで「負い目」も清算される)去って行く。
 おもしろいのはここからだ。寄付者は、その忌わしい花を持ってはいられず、ほとんどその辺りのくずかごにそれを放り込んで行く。すると、回収専門の信者がその花を拾い集めて、寄付を募る信者にそれらを渡す。花は何度も使われる。そして、些細な贈与として人に「負い目」を追わせて、寄付金を吐き出させるトリックとして繰り返し使われるのである。

 さて、先に相手に押し付ける(与える)ものとしては、何も花一輪に限らない。
 もう少し高級な手口になれば、与えるものはもはや「もの」ではなく「譲歩」となる。

 まず1000円の寄付を募ろう。これは見知らぬ相手に渡すには少々高い額だ。道行く人はそれを断るだろう。
 すると、信者は非礼をあやまり、せめて100円だけでも、と食い下がる。するとどうなるだろう。人は相手の譲歩に、譲歩をもって応えようとする。つまりは、自分も「まったく寄付しない」から「100円だけ寄付する」へと譲歩し、立ち去って行く。
 ここにはふたつのトリックが働いている。
 ひとつはいうまでもなく返報性の原理である。あいての「譲歩」に対して、「負い目」が生まれ、その負い目を清算するために、こちらも譲歩する、という訳である。
 もうひとつは「知覚のコントラスト」が働いている。100円の意味合い、重要度は、それを何と対比するかによって変わってくる。0円(寄付しない)と100円を比較するとき、割高に思えた100円も、1000円と比較すれば、ほんのわずかなものに感じられる。
 この例はあまりにも雑だが、最初に高い額を提示し(売り手なら安い額を提示し)、次第に譲歩を重ねることで合意に持ち込もうとするやり方を、多くの人が採用している。
 このテクニックは広く知られたもので、「ドア・イン・ザ・フェイス」という名前がついている。

 しかし、一回限りのやり取りならともかく、今後も長くつき合う相手には、こうしたテクニックは使えないのではないか? 一度だまされたら、次からはこの手に乗ってこないばかりか、こちらとの取引一切を断ってくるのではないか? すぐ後になって冷静に考えれば、今回のやり取りだって、なんとかなかったことにしようと、訴えにかかるのではないか?
 しかし実験や多くの承諾誘導の経験は、このテクニックが、長期的な付き合いをする間柄であっても有効であることを教えてくれる。
 何が起こるのだろうか? 自らの譲歩で合意に踏み出したがために、この合意についての、より強い責任感とより大きな満足感が生まれるのである。詳しくは、次節の「コミットメントと一貫性」のところで触れるが、合意に対して努力ないし犠牲を支払ったものは、その分だけ、その合意の価値を高く見積もる傾向がある。これによって「ドア・イン・ザ・フェイス」で生まれた合意が、詐術的なものとしてではなく、双方の「犠牲=譲歩」の上に成り立つ、守るべき合意として認知されるのである。



一貫性の原理

 一貫性の原理とは、人が、《自分の言葉、信念、態度、行為を一貫したものにしたい(あるいは他の人にそう見られたい)》という欲求を持つことをいう。

一貫性を引き出すシグナル

 一貫性の原理は常に作動している。人間の口する言葉、持つ信念、あらわす態度、行う行為すべてを、一貫性の原理は貫いている。
 だが、とくに相手を一定の方向へ誘導したいなら、同じ方向への、しかし僅かな「はじめの一歩」を、言葉ないし行動で表立つようにすべきだ。
 外から見える行動(言葉)が、「他の人からそう見られたい」という一貫性の欲望に火を付ける。

 コミットメント(commitment)は、多くの意味を持っているが(=かかわり合い、全力を注ぐこと、献身、参加、意欲、肩入れ、傾倒、本気で関与すること、義務、責務、責任、委託、約束、確約、取引契約、態度表明、公約、言質)、一貫性の原理の「引き金」を包括的にあらわす言葉として便利である。

 一貫性の原理を利用する立場からすれば、引き金になるのは、自分の意見を言ったり立場を明らかにする行動をとったりといった「最初のコミットメント」である。

一貫性の特徴

 人間はそれぞれ自己イメージを持っている。そして自己イメージに合致した行動を取ろうとし、また合致した行動を取ることで自己イメージを再生産=維持する。観察される一貫性は、この自己イメージと行動の再生産サイクルの結果である。
 自己イメージが行動を左右し、行動が自己イメージを再生産する。このサイクルのどこかに介入すれば、行動も自己イメージも変えることができる。
 自己イメージに直接アクセスすることは難しい(催眠と暗示を使うくらいしか手がない)。しかし外にあらわれた行動は、変えることも、どの程度変わったかチェックすることも容易である。
 コミットメントは行動である。我々はささいな、しかし相手の自己イメージからは出てこない行動をさせることで、自己イメージにも変化をもたらすことができる。しかも「最初の一押し」は、とても小さくてもよい。ぐるぐると行動と自己イメージのサイクルが回る中で、うまく行けば変化は雪だるま式に拡大していくだろう。
 ひとたび、行動(コミットメント)から自己イメージに変化をもたらすことができれば、その効果は永続する。
 なんとなれば、行動が自己イメージをもたらし、自己イメージが行動をもたらすサイクルは、ずっと続くからである。
 これは承諾を調達したい我々にとっては好ましい仕組みである(経済的である)。我々の「最初の一押し」が適切であれば、あとはメンテナンスも追加の働きがけもいらない。一貫性の仕組み自体が、必要な行動と自己イメージを持続させてくれる。



より強いコミットメントを得るには

  • 行動化
 「考える」よりも「言う」、「言う」よりも「書く」、「書く」よりも「やってみる」方がより強いコミットメントとなる。
  • 公然性
 いわゆるパブリック・コミットメントの方が、あるいはコミットメントの行為が公表される、公衆の面前でなされる方が強いコミットメントになる
  • コストの大きさ
 コミットメントのコストが高いほど(より嫌な行動、より大変な行動であるほど)強いコミットメントになる
  • 自発性
 外部からの圧力は小さい方がいい(自発的に行ったという思いが強まる)。コミットメントの行為が、何らかの利益をもたらしたり、その行動をしなければ危害が加わったりすると、自発的でなかったとの正当化をもたらすので、コミットメントを小さくする。

一貫性の原理の具体例

  朝鮮戦争時、中国共産党の「洗脳」は、北朝鮮のそれのようには厳しい拷問を行わなかった。むしろ、ちょっとしたこと(作文、例文を書かせる、エッセイコンテストをするなど)を行わせる(コミットさせる)だけで、密告者・転向者が続出し、すべての脱走計画は未然に露見した。戦後、これらの捕虜だった復員兵を対象に行われた調査研究が、アメリカの洗脳研究のはじまりとなった。
 捕虜となった米兵に最初は「反米的なエッセイ」を書くことを、これが断られると(ここではもうひとつドア・イン・ザ・フェイスのテクニックが用いられている)、反米的な内容を含む短い文章をただ書き写すことだけを求められた。あるいは、エッセイコンテストが開催され、そこでは反米的なエッセイを書いた者はもちろん表彰されたが、ただ母国への思いを書いたエッセイも表彰された。どんなないようであれエッセイを書くこと自体が、エッセイコンテストへのコミットメントになるからである。
 参加儀礼に意味がなく大変なほど、定着する。意味があるとその利益のためにやったのだと言い訳できるが、意味がないと「自発的に」やったとしか言い訳できない。また参加儀礼が厳しいほど、投下したコストが高いので、脱出できない。


 美人で有能な女性が「ダメ男」にハマるプロセスは以下のように考えられる。
 まずダメ男の駄目ぶりが目に入り、いらいらしてしまう。親切心からではなく、ましてや好意からではなく、自分のイライラを解消するために、ダメ男に小さな援助の手を差し伸べる。これが「わな」である。「ダメ男」な女性に感謝するだろう。女性は「イライラの解消」だけでなく「感謝」というプラスの強化子を得ることになる。こうしてダメ男の駄目ぶりに援助の手を差し伸べることが強化される。繰り返されることになる。
 好意からは親切が生まれるが、逆に親切を行うことから好意が生まれてしまうことがある。そして尽くせばつくすほど、愛情が増す。親切を施す行動(コミットメント)が自己イメージを変えるのだ。なぜなら「好意する相手に親切する」ことは、多くの文化で常識的な発想である。人は自己イメージと常識的発想の間に矛盾を来す場合は,自己イメージの方を変更するだろう。すなわち、この場合なら「相手に好意があるから、私は親切するのだ」という風に。美人で有能な女性から好意を寄せられることを、ダメ男が喜ばないはずがない。好意を示すというコミットメントが自己イメージをかえ、さらに相手の「喜び」というプラスの強化子が追加される。
 しかし、ダメ男はダメな男である。怠け者であったり、意志が弱かったりして、成功することが少なく、失敗することが多い。これまで尽くしてきた(親切してきた)コストは膨大になっているから、なかなか別れが切り出せない。
 ある日とうとう、女性は愛想をつかして別れようと持ち出すと、ダメ男は「おれはおまえがいなきゃダメなんだ」とすがりつく。世の中に、これほど引き剥がし難く、また甘美な言葉はない。何しろ、ダメ男の最たるダメぶり(=「おれはおまえがいなきゃダメなんだ」)を、「別れない」と一言言うだけで解消できるのだ。ここでも「イライラの解消」だけでなく「感謝」というプラスの強化子を得ることになる。「別れない」と言うことがまたコミットメントになり、自己イメージを変え、一貫性の原理の虜になってしまう。

一貫性の原理の応用テクニック

 最も強いコミットメントは、実際にやらせることである。トリックにせよ、不随意運動を利用するにせよ、一度体を動かして行ったことは、一貫性を刻み込む。

 書くこともまた強いコミットメントである。書かれたものは、たとえば第3者に見せることができ、パブリックコミットメントに使うこともできる。
 一貫性の原理を使って、自分の行動を律することもできる(自分に向けた一貫性の原理の応用)。自分への約束や、今後のやらなければならないことを書き出すこと、とくに書き出したものを張り出すことは(これは心理療法で「パブリック・ポスティング」と呼ばれる手法でもある)、土壇場で逃げたりぐずぐず主義に陥って先延ばしにしたりすることを避けることができる。

 誰もが承諾するような易しい(小さな)要請を出しておいて(実際に承諾してもらい)、その後受け入れさせたい(相対的に大きな)要請を出すという、相手の承認を引き出すテクニック。
 ほんの小さなコミットメントからはじめるのがポイントである。先の中国共産党の例でも、最初はほとんど相手にとってプラスとならない些細なコミットメント(文を書き写す、エッセイを書く、など)から始めている。そして少しづつ、厳しいコミットメントが要求されていくのである。
 コミットメントが次のコミットメントにつながり、最終的に大きなコストをかけたコミットメントを行ってしまい、抜けられなくする。 
 コミットメントによる一貫性はもともと再生産的だが、このテクニックはそれを「拡大再生産」にまで持っていっている。

 具体例で述べた「小さな親切」のわなは、意図的に「しかける」ことができるかもしれない。
 ある説得についての本には、「コインランドリーと傘」という例があげてある。すなわち(1)コインランドリーでお金が足りないという男に、女性はお金(小額)をおごってやる。(2)数日後の雨の日、女性は、傘も持たず途方に暮れている「あの男」に出会う。女性は(普段なら通り過ぎるところ)、その男性を傘に入れてやる。
 ここでは偶然を装って「小さな親切」の連鎖が組み立てられている。男がコインランドリーでお金が足りなかったのは偶然ではない。雨の日に女性に会ったのも偶然ではない。最初の「親切」の方がより些細で施しやすく、一度施した後なので「傘に入れる」という少しばかり躊躇しがちな親切をも実施してしまうことに注目したい。

(嘘でもいいので)非常に良い条件をつけて、まず相手に承諾してもらう。その後、「(嘘の)よい条件」を取り除き、もう一度相手に選択してもらう。すると、すでに自分に有利な選択でないのに、最初の決定を覆さず、そのまま受けていれてしまう傾向が強まる。一貫性に乗って、相手の承認を引き出すためのテクニック。

 あたりまえのこと、イエスという回答が得られることを、つづけて尋ねて、イエスの連続を得ると、その後もイエスが得られやすい。
 被催眠者/クライアントに、催眠者の暗示やものの見方などがよりよく受容されやすくするように、また催眠者に協力的になってくれるように、エリクソンがはじめた/よく用いた技法。被催眠者/クライアントの中に、同意(イエス/はい)の習慣性、あるいは同意のセットを作り出すことから、こう言われる。
 例えば、面接中に、イエスという肯定的な答が返ってくるだろう、と思われるような質問をしていく。例えば、「あなたはある問題のために、私の助けを借りに来られた、そうですね?」「私は精神科医です、正しいですか?」といった具合である。このような質問をいくつかした後に、その人に同意してもらいたいような大事な質問を投げかける。一種のfoot-in-the-doorテクニックとも考えられる。

 させたくないことを「断らせる」ことで,させたいことに(発言という)コミットメントを相手に起こさせる。
 例えば、わざと間違えて、相手に正解を言わせることで(発言という)コミットメントさせる。
 相手がこちらに反発的な態度を取っているときに、用いる。反発的な相手はより強く「自分を維持したい/外から影響されたくない」という構えを取っているので、自分の口で発言したこと(コミットメント)についても、より強い一貫性を自分に課する。したがって、相手が反発的であればあるほど、このテクニックは有効である。




社会的証明の原理

 社会的証明の原理とは、人は、《他の人々が何を信じているか・どう行動しているかを見て、自分が何を信じるべきか・どう振る舞うべきかを決める》という原理である。


社会的証明を引き出すシグナル

 社会的証明を引き出すシグナルは、定義のとおり他人の行動(そして行動に示される信念)である。
 このシグナルは、以下の条件の下でより強いものになる。すなわち
  1. 人数が多いほど……より多くの他人が同じ行動を取っていればいるほど影響をうけやすい。
  2. 類似性が大きいほど……より似ている他人が取っている行動に影響をうけやすい。
  3. 状況が不確かなほど……他に状況を示す情報が少なければ少ないほど、他人の行動に影響をうけやすい
 

社会的証明の特徴

 人間は社会的動物である。あるいは人間は社会の中で学習することで、はじめて人間となる。
 我々が、「自分のもの」と信じている信念や行動にしても、社会的に学習したもの、つまり社会的証明にしたがって獲得したものである。
 社会的証明は、人間の根幹に関わるものであり、そのスイッチを切ることは極めて難しい。

  • 行動・判断だけでなく感情・感覚をも左右する
 返報性が返礼という行動と負い目という感情を引き起こし、一貫性が行動と自己イメージに関わったように、社会的証明はより直接的に行動、判断、信念、そして感情・感覚をも左右する。
 「みんなで渡れば恐くない」というように、社会的証明はときに恐怖心を麻痺させ、ときに喜びを蔓延させる。周りの人間が愉快そうであれば自分も愉快になり、それほど痛がらなければ自分も痛みが軽減する。
 デュルケムのいう集団的沸騰は、それ自体が、社会生成の基底だった。感情の一体感をも呼び起こすことで、社会的証明は集団に凝集性をも提供する。

 影響を与えたい対象者が多数いる場合を考えてみよう。一定数が「寝返る」と、他の対象者に影響を与えるので、大人数ほど限界コスト(一人当たりの追加コスト)が下がっていく。つまり「規模の経済」が働く。
 この特徴は、宗教団体や信条による結社などの集団を考えるときに大切となる。なんとなれば、この特徴が示すことは、集団はより低いコストで信者を獲得することができるということだからである。


社会的証明の具体例

 誰もが録音された笑い声を流しているだけだと知っているのに、ことさらそれを意識していない時には(つまりほとんどの場合には)、笑い声が挿入されたときの方が、テレビの内容を愉快に感じ、また楽し気に笑える。

 社会的証明の効果を確認するには、自分たちでちょっとした実験をしてみるといい。
 たとえば通りに立ち止まって、数人で空の一点を見上げてみる。これを少しの時間続けると、何人もの人が立ち止まり、空の同じところを見上げはじめるだろう。もちろん、空には見上げるべきものだと何もない。しかし人は、この自動反応にほとんど逆らえない。立ち止まらない人ですら、一瞬、空の同じところをひょいと見上げるだろう。
 あるいは、どこかで行列をつくってみるといい。何が得られるか知らなくても行列は伸びていく。宣伝のために、さくらをつかって行列を演出する手法はすでによく知られている。
 これらの実験は、予想されるように、最初の人数が多いほど、うまくいくだろう。

 人々が抗議運動などに参加するのは、他の人たちもその運動に参加して、運動自体が力を持つことがわかるからである。つまり他人が参加するならば、自分も参加するが、他人が参加しないときには自分も参加しない(これは合理的な判断でもある)。
 決起集会は、参加し合う(コミットする)人々が、互いにその参加を(そして参加の大きさや熱心さ)を確認し合い、自らの参加(コミット)を決める機会である。

 社会的証明は、合理的な結果ばかりを生み出す訳ではない。
 ゲーテが『若きウェルテルの悩み』を出版した時、本が売れるのと一緒に、自殺も流行してしまった。主人公ウェルテルが本の中で自殺したからである。 この事から、新聞やテレビなどで自殺を報道すると自殺する人が増える事を、「ウェルテル効果「と言うようになった(この効果は、同性の同じような年頃に多く起こりやすい事が分かっている)。
 ウェルテル効果は、社会的証明のネガティブな例である。人々は悪いこと(自らの害になること)であっても、社会的証明に従うことがあり得るのである。
 
 もうひとつ、社会的証明のネガティブな例として、集合的無知があげられる。
 互いに事情がわからない同士が、互いに事態がどうなっているかを、社会的証明によって知ろうとするとき、おそらく何も得られないだろうと予測される。これは現実に重大事件が起こっている時や危険が迫っている時でさえ、そうなる。

 よく知られた例は、誰かが犯罪に合っているにもかかわらず、誰も被害者を助けなかった多くの事件である(ジェノバーズ事件をはじめとして、多数の事例が報告されている)。この事例は、たまたま冷淡な人々ばかりが居合わせたのではない。電話をかけさえすれば、被害者は助かったかもしれないのに、誰も電話すらしなかったのは、事態が彼らにとって不確かであり、そのため他の人はどう動くかによって行動を決めようとしたために、結局お互いがお互いを様子見しながら、「何かが大変なことが起こっている」という社会的証明を得られなかったからである。
 同様のケースは、災害警報が出ているにも関わらず、「近所の人がそれほど慌ててないから」と逃げなかった事例である。実は、「近所の人々」それぞれが、同じように「近所の人がそれほど慌ててないから」と社会的証明によって逃げない/慌てないだけだったかもしれない。情報源を自分たちの中だけに求めてしまうと、無知がぐるぐると集団を循環するだけになってしまう恐れがある。

 人は、多くの人たちが同じことをしていると、彼らが自分の知らない何かを知っていると思いがちである。特に、自分が確信を持てない状況では、社会的証明に頼り過ぎる傾向がある。しかも、他人も自分と同じく「確信を持てないが故に周りに習っているだけ」だということに、ほとんどの場合、気付けない。事態を把握していない者同士が模倣し合う(言い換えれば、社会的証明を求め合う)ことで、集団としておそるべき無知に陥るのである。

社会的証明の応用テクニック

 エリクソンは、家族の一人を催眠に入れるところを見せることで、(催眠に入ろうとしなかった)他の家族を催眠に入れた。
 バンデューラたちは、「犬を怖がらず遊んでいる子ども」を見せるだけで、犬恐怖症の子を治すことが出来た(のちに見せるのは実物でなくとも、映画やビデオで十分であることも分かった)。
 集団療法では、悩みを打ち明け改善していく「自分と同じ悩みをもつ」他人たちを、お互いに目の当たりにすることで、同様に悩みを打ち明け合い、改善し合う。

 さくら(decoy)の原理はいうまでもなく、社会的証明である。
 他に買う人がいる、というのを見て、人々は購入を決心する。募金がある程度集まっているのを見て、人々は募金する。他人が盛り上がるんを見て、その芝居に、自分たちも盛り上がる。などなど。
 
 ※ 芝居で、役者に声を掛けるよう頼まれた無料の見物人のことを「さくら」という。「桜が咲くと人が集まるから」「さんざん賑わしておいてパッといなくなるのが桜が散るのに似ているから」というのが語源である。ここから転じて、露店商などで、業者と通謀し、客のふりをして他の客の購買心をそそる者。また、まわし者を指していうようになった。英語では「おびき寄せる人,ペテン師のぐる,おとり役,おとり用の鳥の模型」をdecoyという。日本語の
さくら」とほぼ同じ意味である。
 
 外からの情報の入らない密室で(つまり他に情報が乏しい状態で)、他の参加者が「入信」していくところを見せられれば、入信に傾くのも時間の問題である。

 「反対の人は70%」と書けば、サンプリングに偏りがあろうが、多くの人は「かなりの人は反対しているらしい」と思う。世論調査は、ある程度の範囲ではあるが、世論を左右できる。

 アメリカでは、スーパーボールの視聴率はとても高い。そして国民は、そのことを知っている。
 スーパーボールでの広告は、多くの人の目に触れるだけではなく、「多くの人の目に触れたであろう」という情報を、みている一人一人に与える。
 つまりその宣伝は、何かの商品(たとえばApple社の新製品)の存在を人々に知らせただけではなく、他大多数の人が「その商品(Apple社の新製品)の存在を知ってしまった」ことをも人々に伝えているのである。

 まだ誰も書いていない署名には、そのテーマにかかわらず、署名しにくい。
 逆に、大勢の人がすでに署名しているのなら、簡単に署名してしまうだろう。
 つまり、署名を集めるときには、白紙の用紙ではなく、(仲間内でもかまわないから)何人も署名した用紙を使うべきだ。
 




好意の原理

 好意の原理とは、《人は自分が好意を感じている知人に対してイエスと言う傾向がある》ことをいう。


好意の原理を働かせるシグナル

 好意の原理の内容については、ほとんどの人にとって自明であろう。問題は、どのようにして好意の原理を利用するかである。

 外見の魅力については、効果の大きさについても、影響の範囲についても、多くの人が過小評価している。しかもそのことを気付いていない。
 心理学の研究は、美人/美男子は、才能・親切心・誠実さ・知性といった面でより高く評価され、説得力に富み、援助されることが多く、それどころか同じ犯罪をおこなっても有罪になることが少ないことを示している。
 外見の魅力は、好意を引き出す一大源泉である。しかし、身なりを整えることはできても、顔などを整形することができても、限界がある。美形に生まれつかなかった人は、別の手を考える必要がある。

※ 美形の人は、このことを自覚している。自分に向けられる評価が「かさ上げ」されていると知っているので、自己評価と他者評価のギャップから、美形の人は、自己イメージが曖昧になりがちである。 

 人は自分に似ている人を好む。外見(服装)、経歴、趣味、年齢、宗教、喫煙の習慣など、同じである人の方が違う人よりも好意を得られやすい。これらの類似性は、少しの手間で演出できる。しかも外見の魅力と同様に、我々は類似性が好意に及ぼす影響を過小評価しがちなので、より効果が高い(油断をつきやすい)。

 これは、上に見た「返報性の原理」の活用でもある。好意を示されたものは、好意を返す可能性が高い。
 しかし、安易に使われがちであるために、いわゆる「おせじ」として警戒されがちであるために、きちんと相手に好意を示すには、注意が必要である。(1)好意を示すことにコストがかかっているか、またそれとも関係があるが(2)具体的で的を射たほめことばとなっているか(これは長期にわたる観察と評価にコストが必要である)、などが必要である。(3)そして(いやがれない程度に、しかし普通なら忘れてしまうほど長期間にわたって=これにもコストが必要)繰り返す、などが行なわれる。

 何度も会う機会があると、好意が芽生える可能性が高い。しかしこれは、よい感情が維持された上で、繰り返す場合に限る。敵意や緊張など、マイナスの感情が接触に伴うと、逆に敵意が芽生える可能性が高い。

 協力する必要があるとき、いっしょに協同作業を行うことは、メンバーの間に好意を発生させる。とくに困難な共同作業では効果が高い。

 連合は、好ましいものについても、好ましくないものについても、同じように働く。
 つまり、好ましいものと対になって提示されたものには好意が生じる。好ましくないものと対になって提示されたものには敵意や悪意が生じる。たとえば、晴れを伝えるお天気キャスターには好意が生じ、雨を伝えるお天気キャスターには敵意が生じる。
 好ましいものについては、これまで見てきた身体的魅力や類似性などから生じた好意が利用できる。
 新しく連合ができるときも、すでにできた連合に基づいて好意/敵意が生じるときも、無意識になされるので、抵抗しにくい。
 

好意の原理の特徴

 好意は人間の社会であれば、どこにでも存在している。すべての人は好みを持っている。ほとんどの人に親しい人や仲間がいる。
 利用する側からすれば、好意はどこでも調達できる。

 好意は社会にやたらとあるので、その存在が改めて注意を引かない。存在が知られても(トリックに使われてさえ)その効果は過小評価されやすい。

 友達の友達はみな友達であり得る。好意を辿って行くことで、ネットワーク状の広がりができる。コミットメントが、個人の一貫性を再生産=持続するように、好意の連鎖は社会的/ネットワークに拡大する(巻き込み型)。

 強い好意は、好意の対象への投影や同一化を生む。熱心な野球ファンは、ひいきのチームの浮沈に自らの人生を投影できる。また、愛着の度合いを積極的に周りに示すことで、自らの投影/同一化を再生産=強化したりする。

好意の原理の具体例

 CMで商品と「からむ」のは、美男美女である。俳優の「外見の魅力」と商品が、連合によって結び付けられる(対提示された商品もまた魅力的にみえる)。CMは繰り返し放映されるので、何度もCMを見る人は、より商品に魅力を感じるだろう(最も他の商品もほとんど同じ戦略でCMに登場することも忘れてはならない)。

 アメリカで一番のセールスマンは、毎月15000人もの顧客にカードを送る。それはクリスマスカードだったりバースデイカードだったりするが、かかれるのはいつも同じ一言である「I Love You.」。このあまりに機械的で見えすいた「好意の提示」は、しかし顧客をしてかのセールスマンに好意を抱かしめ、彼から自動車を買いたくさせる。

 困難なプロジェクトに取り組みメンバー達は、ひとつの目標へ向けて長い時間、繰り返しミーティングを行い、協同作業に取り組む。プロジェクトでのよき仲間が、プロジェクト終了後にはよき友人やよき恋人になることも珍しいことではない。
 人質が犯人に好意を抱き,協力すらしてしまう場合がある。
 1973年、スウェーデン・ストックホルムで武装強盗らが人質をとって6日間警察と対立した事件で初めて観察され、こうした名前が付いた。 人質は犯人が自分を害しないことをむしろ有難く思い、徐々に犯人たちに温情を感じながら、結局、自分を救出した警察に反感まで持つまでになる。
 様々な説明が可能だが、
 (1)事件最初の犯人の乱暴さと、籠城時の人質に対する(相対的に)丁寧な扱いが「知覚のコントラスト」で強く感じられる(ひどい奴らだと思ったが、そうでもないじゃないか→むしろ、やさしいくらいだ)。
 (2)籠城によって狭いスペースの中に犯人と人質は一種の協同生活を余儀なくされる。最初はお互いに不信感が大きいが、籠城生活をより低い負担で行っていくためには、お互いに信用できる部分は信用した方がよい。そして人質は犯人に信用され拘束を解かれ、人質側も返報性の原理から犯人を信用していく。
 (3)一定の信頼関係が生まれると、籠城下での共同生活者として互いに協力活動が生まれる。協力活動は当然、好意を育てる。こうしてストックホルム・シンドロームが生起する。


好意の原理の応用テクニック

 好意の原理の応用は、ほとんど好意の原理を働かせる「引き金」を使うことと同じである。
 好意の数だけ、つまり無数に、テクニックは存在する。

 詐欺師グループのリーダーは、新人詐欺師にまず「笑顔の練習」を繰り返し繰り返しさせる(それはあらゆる接客業にもまして徹底している)。
 人の表情はかなりの部分が自動反応であり(わざと笑うことや怒ることは意外に難しい/不自然でかなりの努力を必要とする)、我々の表情認知システムはそれを(心情と関係のない表情をつくり出すのは難しいことを)前提にしている。早い話が、(つくり)笑顔や(うそ泣きの)涙にコロっとだまされる。われわれの心システムは、表情に自動反応してしまう。これはもう、古今東西の文学がくりかえしモチーフにしている。

 誰もがすでに使っているはずのテクニックに、好意を得られるものとの連合を使ったものがある。
 たとえば、仲をよくしたい(深めたい)とたくらむ人は、おいしい料理に相手を誘うだろう(まずい料理には誘わないだろう)。あるいは、楽しい場所へつれていき、愉快な思いをさせるだろう。
 ランチョン・テクニックは、交渉などのコミュニケーションを(うまい)食事中に行うことで、説得効果を生もうとするものである。政治家の料亭での会合から、ボーイハントしたいティーンエイジャーがつかう手作りお弁当作戦まで、このテクニックは広い応用可能性を持っている。


 もうひとつ恋に使えるものを。このテクニックも、連合の原理を用いる。
 初恋の話は、多くの場合、良い(好い)思い出である。遠い過去のものであれば、かなり美化される。思い出を話すときには、当然ながら、その思い出を思い出し、頭の中に描き出している。頭の中の良きイメージと、目の前のあなたとを,連合させよう(初恋への好意と、あなたを結び付けよう)というものである。
 しかし、相手にどのようにして、初恋ばなしをさせれば良いのだろう。それには返報性の原理を使って、つまりあなたの側から初恋ばなしをするとよい。あなたが十分ディテールの凝った話ができれば、相手もかなり詳しく大切な思い出を語ってくれるだろう(あなたが嬉しそうに話すことで、一種の対抗意識も相手を後押しする)。
 この手を使うまでには、相手とある程度(異性の友人程度には)親しくなっておく必要があるだろう。なんとなれば、親しくもない相手に大切な思い出を語るのは抵抗があるだろうし、また親しくもない相手の初恋話などうっとうしい可能性もあるからだ。
 
 本当の(または架空の)成功話をし、相手にも成功願望と達成可能性をかき立たせる勧誘法。自分とそれほど歳もかわらぬ者が成功話を語ることで、類似性をテコに、「私にもできる」という成功イメージをつくり出す。成功イメージを体現した勧誘者は、それだけ好ましく思え、好意の原理も後押しする。
 初恋はなしが、本人の経験・記憶というリソースを活用するのに対して、サクセス・ストーリーは本人の想像力(そして成功欲)を活用するところにポイントがある。

 刑事の取り調べは、こわい刑事とやさしい刑事の2人組で行われる。知覚のコントラストが働き、こわい刑事は余計に恐く、やさしい刑事はまるで味方のように感じられる。取り調べされるものは、恐怖から逃れるために、味方(に思える)刑事が促す「自白」の申し出をやすやすと受け入れてしまう(たとえ、自白するようなことが何もなくても)。
 恐怖を強調するバリエーションが、一人で二役をやる「ジキルとハイド・テクニック」である。この場合は、「やさしいジキル」ではじめて、いきなり激昂する、というパターンとなる。つまり恐怖による説得を全面に出した方法となる。




権威の原理

 権威の原理は、《人は権威に服従しやすい》ことをいう。

自動的服従を呼ぶシンボル

 人は権威に対して、(多くの場合)ほとんど考えることなしに、自動的/反射的に服従する。
 権威自体は目に見えないものだから、結局のところ、人は「権威のシンボル」に反応することになる。
 よく使われるシンボルは以下の通りである。
 
医者、大学教授、政治家などの「先生」と呼ばれる人たちの肩書き、など
医者の白衣、警察官の制服、など
宝石、高価な時計や車など

権威の原理の特徴

 権威は、あなたの「判断」を肩代わりしてくれる。しかも、ほかの自動反応とちがって、複雑で新しい事態についても、権威者がそれに応じて判断してくれるので、フォロアー(追随者)は「ただついていく」だけで、様々な事態に対応できることになる。

 服従者は、権威者から命令されれば、かなり残酷なこと(自主的になら、決してやらないレベルのこと)をやってのける(ミルグラムの服従実験)。

 権威となるのは難しく、多くの時間や努力、資源が必要である。言い換えれば、権威への「参入障壁」は高く、権威者は独占的な便益を得ることができる。

 ある権威者が本当に権威を持つにふさわしいかどうか、一般人には判断が付きがたい。たとえば専門家がその肩書きに相応しい実力を持っているかどうかは、別の専門家でないと判断できない(判断に高度な専門知識が必要)。
 したがって、一般人は、権威を実力で判断することができず、権威のシンボルで判断するしかない。しかし、権威となることは難しいが、権威のシンボルを偽造することはたやすいため、権威の詐称が絶えないことになる。

具体例

権威の原理の応用テクニック

組織
 組織は権威だけでは成り立たないが(参加コストに見合う見返りが必要)、また権威なしでは機能しない。
 

命令・報告
 命じる/命じられる(あるいは報告される/報告する)というやり取りが上下の系列を形作る(逆ではない)。それ故に、組織内のフォーマルな地位が低くても、何らかの理由で(ごねるとうるさいなど)継続的に報告されるようになると、その者のインフォーマルな地位が高くなる。
 




希少性の原理

希少性の原理とは、《人は、機会を失いかけると、その機会をより価値あるものとみなす》傾向をいう。

 

希少性の原理を働かせるシグナル

 とくに他人と争って求める場合は、争い自体が希少性の社会的証明になり、希少性の原理が強く働く。
 これまで豊富にあった(供給されていた)ものが、新たに希少となった(供給が制限された)場合も、とくに希少性の原理が働く。

 情報等の物品でないものにも(数量はこの場合無意味である)、アクセスを制限することで希少性の原理が働く。

 いわゆる「締め切り」が設定されると、ここでも希少性の原理が働く。

 一度手にしたもの(機会や権限など含む)を取り上げられると、誰しも反抗する。そして取り上げられようとしているものの価値がどうであれ、それに大きな価値があるように思う。


希少性の原理の特徴


希少性の原理の具体例

 「あの銀行が危ない!」「トイレットペーパーがなくなる!」といったパニックは、個人(ミクロ)レベルでは希少性の原理によって駆動(drive)される。
 そして社会(マクロ)レベルでは、こうした個人の行動が集積されることによって、懸念された事態(銀行の倒産、トイレットペーパーの品不足)がかえって実現してしまうのである(これを社会的ジレンマ)という。




希少性の原理の応用テクニック

 秘密結社への参加には、厳しい資格と審査がある。秘密結社内部のことを外に漏してはならない。こうして中身がたいしたことなくても(ただ集まってお茶を飲みムダ話をするだけでも)、秘密結社じしん、そこへの参加、それについての情報の価値は上がっていく。それらに高い「値」がつけば、希少性を維持する形でほんのわずかだけ売り渡すだけで、秘密結社は大きな利益を上げられる。
 会員制クラブから企業談合まで、あるいは「競争率」の高い参加資格を伴うもの(中身を伴わない「一流」大学、独占的な資格など)も、レント(追加的利益)を得る仕組みの裏には、同様のメカニズムが働いている。

※これには高いコストを支払ったが故の「一貫性の原理」も働いている。





























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