結合通信(2回生配当) 4:

 帝王学の先生は、現役の王さまです(亡命中だけど)。王さまは唯物論の先生も兼ねてます。王さまの唯物論は、今流行(はやり)のものではありませんが、それでも時折私たちの胸をひどく打つことがあります。
 亡命中なので、少ししか家来を連れてないけど、血統はばっちりであちこちの国の王さまと親戚だし、王さまの前の領土は今では違う国になってるけど、王さまの「王国」は今も国際法制上はちゃんとした国(国家)です。紙幣も切手も発行してるし(学園の印刷機を貸して上げてるの)、あちこちの国に大使館だってあります(国交もあるという訳です)。
 帝王学というのは、王さまを全うするための学問です。亡命してても立派な王さまである先生は、帝王学の立派な実例です。王さまも、王さまになる前(皇太子の時ですね)、何人もの家庭教師の先生から帝王学を習いました。「若い頃、しっかりやってないと、とてもこうはいかないよ」だそうです。王さまも若い頃はしっかりやってたのです(今は亡命中だけど)。

 奴隷じゃあるまいし「上を見て働け、下を見て暮らせ」とか「死ぬまで努力しなくてはいかん」とかは、帝王学ではありません。王さまには「上」なんかないし、死んでしまってはなんにもならないからです。
 「人物鑑識眼」とか「人心掌握術」とか「人望」とか「リーダーシップ」とかいうのも、帝王学ではありません。そういうのは家来とか部下をやってくれる人がいないと成立ちようがないからです。帝王学はそんな甘えたものではありません。周りが土人ばかりで言葉が通じる人が誰もいなくても、無人島でたった一人になっても、王さまを全うするのが帝王学です。
 偉くない人が、偉そうにしたり、偉く見せたり、偉い人になろうとしたりするのは、ぜんぜん帝王学じゃありません。
 王さまに必要なものは、情勢判断でも深謀戦略でもありません。本物の教養です。教養のない人は、世界では何も語ることがないからです。教養のない人なんか恥ずかしくって「外」には出せません。
 王さまの仕事は、たとえよそへ行っても(外国や異境へ行っても)王さまであることです。でないと「外交」なんかできません。自分の国の内だけでエライ人なんて、何の役にも立ちません。おまけに「外」では恥ずかしい。そういう王さまはすぐに首を切られるか、どっか奥に閉じ込められてしまいます。そうしないとその国自体が恥ずかしく思われるからです。国内もつまらなくなるからです。
 少しくらい目が利いたり、仕事の段取りがうまくても、そんなもの王さまの長所ではありません。奴隷だったら、器用でちょっと口うるさい奴隷になれるでしょうけど。おまけにそんなことを誇ったりしたら、頭がどうかしていると思われます。王さまの王さまたるところを判ってないことになるからです。
 もちろん奴隷にも、奴隷の帝王学があります。百姓にも帝王学があります。でもそれは奴隷学や百姓学と呼ばれるべきでしょう。奴隷にはいくらでも努力することが許されます。今より多くの人に命じたりお金を支払ってやったり、そういう人になりたいと願うことが許されます。ショウガチンキにアルコールを混ぜて禁酒の国で売ることだって許されます。その分お金持ちになることも構いません。けれど王さまは、はなっから王さまであることを知っていてもらわなくてはなりません。そして最後まで王さまたることを全うしてもらわなくてはなりません。そのために(王さまの)帝王学はあるのです。
 「王さまの最後」ってどんなでしょう?跡取りを定め、王位を譲り、自分はどこか日当たりのいい小さめのお城で余生をおくること。あるいは土民の反乱にあって、広場に連れ出され、公開でギロチンにかけられること。うちの王さまのように、在位半ばで追放されちゃうことだってままあります。けれどだからといって、王さまを「降りる」ことはできません。帝王学は「王さまを全うするためのもの」なので、亡命はその中にプログラムされています。どこへ行っても通訳抜きで用が足せるように、多くの外国語とボディランゲージを、帝王学では学びます(マルクスも言うように、語学は生活の武器です)。水泳や木のぼりの術は剣術や馬術より重要です。敵味方親戚関係を把握するのに紋章学は欠かせませんし、山岳地帯で岩塩の見つけ方や「タバコ紙巻き」や「パイプ吸い慣らしの術」(これらは手に職をつけるという意味です)は生活の手段です。





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