ダーウィン × 今西

進化論について


 今では高校の生物の教科書にも載っている「棲み分け」理論だが、今西の理論は、生物たちが単に環境にしたがって棲み分けている、というだけのものではない。そうした棲み分けはむしろ「縄張り」と呼ぶべきものであって、今西の「棲み分け」理論には独特の含意がある。これは、例えばダーウインの進化論との次のような対比によって明確になるだろう。
 例えば、今西進化論を特徴付ける「主体性の進化論」とは誤解を招き易い名称である。むしろ今西進化論は生物と生物、種と種との「間柄」に着目したものであって、それはむしろ「共同体の進化論」とでも呼ぶべきものだからである。そうした今西理論がダーウインを批判するのは、ダーウインの議論が個体主義的、人間で言えば個人主義的であるためである。個体と個体とが対立関係にある生存競争ではなく、今西は種と種とが「棲み分け」する、一種の調和的な生物世界を提示する。「この生物の世界というのは、はじめから調節が効いていたうえで成り立ったシステムなんだということです」(『ダーウインを超えて』16頁)。
 したがって、今西は、ダーウインのように、全ての生物の全ての個体が進化しようとしているのだとは考えずに、むしろ、生物の間には分業がなりたっているのだと考える。その分業のシステムが「棲み分け」なのである。
 しかし、こうした今西の基本的な発想が全体主義的であることは明かである。つまり、「同種の個体というものは、どれが死んでもどれが生き残ってもいいようにはじめからできている」というのが今西の「私の理論」なのである(同18頁)。
 なお、こうしたシステムの秩序は、最初期の『生物の世界』で強調されるところでは、「均衡」であると表現されている。即ち種と種との「間」の均衡関係である。こうした、「間」、社会的な秩序、均衡、調和の強調は、和辻の風土論および倫理学、木村敏の精神医学理論などと共通の土台となっているものである(→ハイデガー対和辻→ハイデガー対木村敏)。




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