ハイデガー × 和辻

時間と場所


 和辻哲郎『風土』は、その序言にあるように、ハイデガーの『存在と時間』を意識したものだった。
 ハイデガーは「存在」そのものの意味への問の通路として、現存在(つまりは人間のこと)の分析(基礎的存在論)を構想した。人間=現存在は、漠然とではあるが、存在について理解を持っており、そして、そうした了解を持っているのは人間だけだからである(現存在の存在論的優位)。しかし、ハイデガーは、一般的な人々(ダス・マン=「世人」などと訳される)の日常的な姿を、本来的な自己に関わらない非本来的な、堕落したあり方だとする。それは本来的な自己に背を向け、死を忌避し、「おしゃべり」(パスカル的に言えば「気晴らし」)に埋もれた在り方である。むしろ、現存在は、本来的な自己へと向かって、自分自身を投げ込む(投企)のでなければならない。そうした人間の本来性を全体として完結させるのが、「死」である以上、死つまり、ハイデガーが「先駆的決意性」と呼ぶものが視野に入らなければ、本来的な自己は完成されない。
 ハイデガーの議論は詳細だが、我々がここで確認しておくべきことは、そうした現存在が、最終的に「時間」との関わりにおいて論じられることである。「死」が既にそうであり、「投企」がそうであるように、現存在は未来へと関わる。現存在が自ら投げ込むのが未来であり、引きずるのが過去である。ここからハイデガーは現存在を超えて、更に「存在」そのものの意味を時間に見出そうとしたのだが、後半部分は結局完成されることがなかった。
 こうしたハイデガーのインパクトを受け止めたのが和辻の「風土」論である。ごく単純化して言えば、ハイデガーが時間に意味を求めようとしたのに対して、和辻はそれを90度折り返して、空間に着目したのである。ハイデガーそのままと言ってよい口調で、和辻は空間的規定=風土を、人間の自己了解だと理解する。例えば、「寒さ」といった気象条件についても、「我々は寒さを感じる。すなわち我々は寒さのうちへ出ている。だから寒さを感ずるということにおいて我々は寒さ自身のうちに自己を見出すのである」10頁。つまり、寒さや暑さ、その他の風土とは、我々の外に客観的に存在しているものではなく、むしろ、我々自身の投企の結果生まれたものなのである。
 しかし、和辻の風土論は、単にハイデガーの時間性を空間性に置き換えただけの意味しか持たないのではない。風土が単なる自然科学的な条件ではないように、空間も客観的なものではなく、人間と人間との「間柄」という意味を持つ。ハイデガーが時間の方向で超越を考えたのに対して、和辻はこの「間柄」に超越を求めるのである。ここで超越というのは、我々が自己を抜け出す(エクスターゼ=「脱自」)ことである。
 しかしハイデガーからすれば、ハイデガーの限界を超えたと信じた和辻の風土論はむしろ、決定的な限界を持つものである。なぜなら、その副題「人間学的考察」からも理解されるように、和辻は飽くまで人間の立場に留まるからである。つまり、ハイデガーの現存在分析=人間学的な部分が、存在そのものの意味への問への通路でしかなかったのと対比すれば、である。
 しかしまた、和辻の本来の関心は、ハイデガー的な存在論とは別の場所にあったと言うこともできる。そして、そうした和辻の関心が新に構成されたのが『人間の学としての倫理学』である。ここでは既に「風土」が主ではなくなっている。むしろ、風土論で萌芽的に示されていた「間柄」が主要な関心となるのである。和辻は、「倫理」の「倫」という漢字が既に共同体の秩序を意味するとし、また「人間」の「間」という文字遣いにも注目する。
 我々はここで、ダーウイン対今西錦司の対立を思い浮かべることができる(→ダーウイン対今西)。今西がダーウインの個体本位の進化論を批判したように、和辻もハイデガーの議論を個人主義的だとする。むしろ、人間は自覚的個人的存在(和辻は「存」の字の解釈からこれを引き出している)であるとともに、社会的存在(同じく「在」の字から)でもあるはずだ。ここにおいて時間性と空間性は一致することになる。歴史と国家社会とが即応することになる。逆に言えば、和辻の議論は、容易に全体主義的な方向へと傾くものだったのである。この傾向からすれば、風土論の杜撰さなどは問題ではないと思えるほどである。
 こうした立場から、風土の考察も含めて体系的に構築された壮大な『倫理学』は、和辻の思想の一つの頂点であると言えるとともに、その著述は日中戦争から太平洋戦争へと向かう日本の進路をも指し示した痛ましいものであった。
 なお、こうした和辻の議論を正面から受けとめたのが精神医学の木村敏である(→ハイデガー対木村敏)。




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