ライプニッツ × シェリング

愛と善意


 シェリングは『自由論』のなかで、ライプニッツを批判し、ライプニッツ『弁神論』の立場では、悪を積極的、実在的なものとすることはできず、したがって、そうした悪への自由を持つ人間の意義を十分に捉えることができないと批判していた(→ライプニッツ対シェリング)。しかしシェリングは、他の場所では、むしろ悪を極力否定することになる。
 「悪は、この意志においては、手段としても考慮されていなかったばかりではなく、ライプニッツの言うような、世界の可能な限り最大の完全性のための不可欠な条件としてさえも考慮されていなかったのである。」(VII402)
 「条件としての悪」とは、ライプニッツが善に付随する悪と看做したものである。全体としての善が成り立つために、個別的に善の条件としてあり得る悪。先にライプニッツの悪概念を不十分なものとして批判し、それを積極的なものとして強調したシェリングが、ここでは全く逆にの観点からライプニッツを批判するのである。
 しかし、即座に理解できるように、これはシェリングが矛盾を犯し、首尾一環性を失っているのではない。なぜなら、悪の積極性が強調されたのは、被造物を論じる次元においてであり、それに対して悪が単なる条件としてさえ否定されるのは、ここが神を論じる場所だからである。したがってこれは、矛盾でないばかりか、むしろ必要なことですらあった。なぜなら、シェリングが悪の積極性を強調したのは、それが被造物の自由の基礎付けとして必要だったからである。悪は被造物に至って、否人間に至って初めて発現するのである。したがって、こうした人間における自由、悪が人間に固有のものだとするためには、逆に、神の段階ではむしろ悪はあり得なかったとする方が論旨が貫徹されるのである。
 確かに悪の可能性の根拠は、原理的には神の内に見出されよう。それゆえにこそ悪は積極的となりえたのである。しかし、その悪が実際に発現するのは、人間の内においてであって、もし神そのものが悪の原理であるとするなら、人間における悪の発現は何ら積極的なものとなり得ないだろうからである。
 「神の内では分離不可能なその統一が、それゆえに、人間においては分離可能でなければならないのだ。そして、これこそ善と悪との可能性なのである」(VII 364)。
 シェリングは積極的な悪を基礎付けるために神の「実存」と「根拠」とを区別した。
根拠とは、「神の中の自然」であり、言い換えれば精神でないもの、光でないもの、暗い闇の原理であり、これが光、精神、悟性としての実存とは独立に(勝手に)働くことが人間における悪の根拠なのである。しかし、そうした分裂は飽くまで人間に至って初めて成立するものであって、神にあっては実存と根拠は統一されている、とするのである。神の人格性はここにこそある。
 この立場からすれば、ライプニッツの神は、論理的な可能性とその実現とを担うものが確かに神の知性と意志と呼ばれるものの、それは極めて抽象的なものであり、形式的なものにすぎない。だから、「スピノザでさえもこうした単なる形式的な捉え方は持ってはいなかった」のである。「ところがライプニッツがこの考え方を受け入れたのは、ただ単に、神の内における選択を持ち出し、それによって出来るだけスピノザから遠ざかろるためにすぎないことは明かである」。
 ライプニッツが「実現しえない可能性」を導入し、それによって神における悟性と意志とを差異化したのに対して、スピノザはそうした可能性はむしろ神の完全性を破壊するものだとして拒否していたのだった(→スピノザ対ライプニッツ 必然性)が、このスピノザと全く同じ口吻でシェリングは、ライプニッツ的可能性概念を「空虚な可能性」(398)と呼ぶ。
 このことは、シェリングが全面的にスピノザを称揚することには決して繋がらない。シェリングは続けてこう断定する。
 「スピノザ主義が間違いを犯しているのは、決して神の内におけるこのような破りえない必然性を主張したからではなく、彼がこの必然性を生き生きとしたものと見ず、また人格的なものと見なかったからである。」(398)
 ここには、先ほどに続いてスピノザの絶対的必然性への賛同と、しかしその半面としては、神の非人格化への批判とが、明確に示されている。スピノザは勿論のこと神の人格性を否定した。それは神を人間と同じように看做す、擬人論的な誤謬である。これに対してライプニッツは、それを批判するためにも、神に知性と意志とを認めたのである。それによって絶対的必然性を批判し、形而上学的必然性と道徳的必然性との区別を立てた。シェリングは実際、ライプニッツによる道徳的必然性の導入を評価している(396)。しかし同時に、ライプニッツの神概念を抽象的きわまりないものとして批判する。
 したがって、スピノザの絶対的必然の神に対して、道徳的必然性を持ち込んだライプニッツの神がいわば「善意の神」であるとするなら、シェリングの神は「愛の神」と呼び得るものである。「絶対的必然」でありつつ同時に「生き生きとした人格」であるシェリングの神。これは、そして、同時に「歴史」的展開を持つ神でもある。神の中で実存と根拠とが分離される以前の状態、そして、その分離による人間における悪の登場、更にその分裂を統合する愛の神。これは単に平面的に並べられているのではなく、一つのプロセスにおける各段階として捉えることができる。
 即ち、悪と愛とは、その両者が相まって織り成す神の自己啓示としての歴史においてこそ意味を持つのである。「戦いのないところには、生命はない」(VII 399)。シェリングのこの言葉は、「悪のないところに愛はない」と読み変えることができる。そして、そうした戦い、悪の克服こそ神の自己啓示の意味であり、「歴史」の意味だと、シェリングは考えているのである。


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