ライプニッツ × スピノザ

必然性について


 ライプニッツは、スピノザの考えを「獣的必然性」に基づくものだと批判している。「獣的」というのは、スピノザを貶めるために使った言葉で、ライプニッツはその必然性を理論的には「幾何学的、絶対的、形而上学的必然性」と呼んでいる。このことは、ライプニッツにとって、必然性そのものが「獣的」だったのではなく、そうした必然性一本槍が「獣的」(で批判されるべきもの)だったということだ。つまり、ライプニッツの考えでは、別種の「必然性」がある。
 スピノザの考えでは、神にあって、知性と意志とは区別されないのだが、これは伝統的な立場への批判を含んでいる。伝統的な立場では、神のレベルでの知性とは、世界の計画のことである。逆に、神の意志とは、世界の具体的な創造の力である。しかし、神の知性と意志とを区別する伝統的な立場からすれば、神の知性によって認識された世界の計画すべてが、意志によって実現されるのではない。知性によって認識されたのは、あらゆる可能性を含むものであるが、意志によって実際に創造=現実化されるのはその一部である。こうして[、先ほどとは逆であるが]、「差額」がとり出せることになる。知性の可能性マイナス意志の現実性イコール神の自由、完全性である。この場合、可能性は神の能力そのものを意味し、現実性は世界の実在性を意味する。したがってこの差額は、神そのものの内部的な差額であるとともに、神と世界との差額(=神の超越性)でもある。つまり、スピノザが神における知性と意志とを区別しないということは、こうした差額(=超越性)を認めないということなのである(したがって、スピノザは汎神論であることになる)。こうした差額は、「世界の現実性よりも神の能力が大きい→神は世界よりも完全である」と展開されるのだが、スピノザの場合、この差額を逆に解釈する、つまり、差額がある(とするなら、その分)だけ、神の能力は不完全だというわけである。なぜなら、それは世界の実現に至えない部分でもあるからである。スピノザは、神に知性があるなら、その知性が認識したもの(計画)はすべて現実化(実行)されるはずだと考える。しかし、こうなれば既に神の知性と意志とを区別する必要もなくなるわけで、スピノザはそうした二元的な装置代わりに、「神の本性的な必然性」一本槍でいくことになる。
 伝統的な立場を踏まえたライプニッツがスピノザを批判するのは、この意味で当然である。ライプニッツは、スピノザとは逆に、上のような差額こそ神の完全性を基礎付けるものだと考える。ただ、それでは(その差額の分だけ神が完全だということは)、逆に、同じ分だけ世界は不完全だということになりかねない。しかし、ライプニッツの考えではそうではない。なぜなら、世界は、神が計画した無数のもの(可能性)の中で、最善のものを創造したのだから、この世界は最善なのだ、と考えるからである。つまり、この意味では世界は必然的なのである。しかし、それはスピノザのように神の本性の必然性一本槍の必然性ではなく、道徳的な意味での必然性である。ライプニッツが真理に二種類(思惟の真理と事実の真理)を区別し、矛盾律の他に根拠律を持ち出すのは、こうした必然性の二重化(形而上学的必然性と道徳的必然性)に対応している(ライプニッツの理論を詳しく言えば、上の説明で述べた知性に相当する「先行意志」と、意志に相当する「帰結意志」との区別もあるのだが、基本的な原理は上の通りでよろしい)。



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