ライプニッツ × シェリング

「悪」の問題


 ライプニッツは世界の産出のプロセスに二つの段階を区別した(→ライプニッツ対アリストテレス)。形而上学的必然性と道徳的必然性である。前者は論理的な無矛盾性を意味し、後者は実在的な原理を意味する。つまり、無矛盾であれば、存在の可能性は得られる。それを認識するのが神の知性である。しかし、それは単なる可能性であって、まだ現実には至らないのである。それを実現するのが神の善なる意志である(→スピノザ対ライプニッツ)。逆に言えば、ライプニッツの考える神の知性はそれ自体として考えれば善でも悪でもないのだが、まだ神の善意を通していないのだから、そうした善なる意志から見れば、悪を含むことになる。
 ライプニッツの『弁神論』は善の原理を強調して、神の意志によって選ばれたのだから、この世界は完全で最善だと主張するものだった。この点では、ライプニッツはいわゆる主意主義である。しかし、一筋縄で捉えられないのがライプニッツである。彼は真理に関しては主知主義者なのだ。つまり、真理の基準は神の意志にあるのだから、1+1=2でないような世界がありえたとするデカルトと違って、ライプニッツは、真理の基準としての矛盾律は、神の知性が認識したものであって、神の意志には依存しない。神だとて1+1=2でないような、論理的に矛盾した世界は作れなかったのだとするのである(→デカルト対ライプニッツ)。
 こうして、ライプニッツにあっては、神の知性と意志とは、それぞれ論理的/道徳的な意味を持っていた(当たり前といえば当たり前)。
 しかし、シェリングはこれが気に入らない。道徳的な意味を持たない神の知性が悪の原理だ、というライプニッツの考えは、シェリングにとっては「消極的」すぎるのだ。
何が消極的なのか?「悪」がである。シェリングは、「悪」が積極的な原理でなければ困るのである。なぜなら、善という普遍的原理に対して、悪は個別性を意味するものだというのがシェリングの考えだからである。シェリングは、個別的なものの「自由」を、普遍に対する反逆として捉えるのである。だから、シェリングにとって、「自由」を強調するためには、「悪」が必要であり、「悪」が積極的であればあるほど「自由」だということになるのである。それなのに、ライプニッツは、神の知性という論理的なものに「悪」の根拠を持ち出してきたりして、これでは折角の「悪」が意味のないものになってしまうじゃないか、というのがシェリングのライプニッツ批判なのである。


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