クワイン × ローティ

ホーリズムの帰結


 クワインのホーリズム(検証を受けるのは単独命題ではなく体系全体である)と方法論的一元論(分析−綜合の二元論の撤廃)において、経験科学と哲学の境界は本質的に不明瞭なものとなる(→クワイン対論理実証主義)。哲学者クワインは、ここに至って、哲学の使命が「諸学の基礎付けにある」と考える者には、〈自己否定〉にも写るような「哲学に固有の認識論的問題は存在しない」という結論を提出する。
 結果、クワインには(そしてポスト・クワインの人々には)、両極端な、そして互いに相入れないふたつの道が残っている。ひとつは、第一哲学を経験科学へと解消する道、もうひとつは経験科学をも第一哲学の道連れとする道である。もちろんこの間にはより穏健な道もあるのだが、以下に述べる両極は、かつて唯名論に見られた二律背反する二つの契機;唯物論と現象主義を思い起こさせる(→ホッブズ対バークリー)。
 「物理的対象は手ごろな媒介物として----経験的名辞による定義によってではなく、認識論的な措定物として----概念的に状況の中へと持ち込まれるのである。……認識論的立場からは、物理的対象と神々は、程度の違いがあるだけにすぎず、種類が違うわけではない。どちらの存在者も、文化的な措定物としてのみ、われわれの概念に参与するのである」(クワイン「経験主義の二つのドグマ」)。この観点は無論、後者「経験科学をも第一哲学の道連れ」の道である。ここでは科学的言明はなんら特権化されるものでなく、哲学的言明、宗教的言明、文学的言明、冗談的言明等と、程度の差こそあれ本質的な違いはない。現代人の科学もギリシャ人の神話も、世界(宇宙)の語り方、ひとつの「物語」にすぎない。「認識論の自然化」が第一哲学の地位を追い落としたように、「経験科学の神話化」は、科学知識の地位を追い落とす。クワイン自身によっては実現されなかった、クワイン哲学のこのあり得べき徹底化としてのこの道の途上には、あのローティの姿がある。
 さて、クワイン自身は迷うことなく、前者の道を選び、哲学の科学化を通じて「認識論の自然化」へと向かう。科学を基礎付ける第一哲学が確保されない以上、すべては科学内部の問題であり、極端な話、認識論は経験的心理学に、言語学習の発生理論や知覚の神経学的研究に解消されるだろうとクワインは確信している。


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