ホッブズ × バークリー

唯物論と現象主義


 バークリーは物なんかないんだと言った。ホッブズは物しかないんだと言った。そして二人は真っ当な唯名論者だった。
 唯名論には二つの芽がある。
 唯名論者は、実在するのは個物のみで、普遍者は実在しないという。伝統的論理学の上で考えると、普遍者とは述語ともなり得るところの主語によって指示されるところのもの、逆に個物とは決して述語になり得ない主語によって指示されるところのものである。この論法を押し進めれば、個物とは「このもの」「あのもの」としか言い得ない(指し示し得ない)ものとなる。「このもの」「あのもの」と直接指し示されるものが実在しないというのは考えにくいから(→ラッセル対クワイン)、普遍論争で問題となったのは、主に普遍者の実在/非在の方だった。ところで我々は「このもの」「あのもの」といった言葉で、いったい何を指し示しているのだろう?具体的なこの「机」という物体なのか。それとも、この「机」の見え姿、あるいはセンス・データなのか。
 ホッブズなら、「机」という物体だ、と言うだろう。ホッブズにとっては、すべては「物体」(あるいは物体の運動)だ。物はもちろん物体だ。数学的対象(点や線)も、物体の極限として、物体だ。精神も、感覚にとってはあまりに微細な物体(あるいは運動)だ。具体的にいうなら、例えば「努力は最小の運動」だ(原子が最小の物体であるように)。感覚や表象は、感覚の対象になってる物体の最小部分における変化(運動)だ。政体も共同体もシステムも物体だ。空間は、存在する物体の表象だ。時間は、物体の運動の表象だ。
バークリーなら、「机」という物体なんてものは、表象の結合にすぎない、というだろう。物体なる妄想は不必要だし、その方が却って(物質という概念で説明されるべきとされた)諸現象をよりよく説明できる。なおかつ物体なる考えは、間違っている、矛盾している。感覚や観念から独立した物体があって、それを我々が知覚するいうことは、(その物体の)感覚や観念が、感覚でも観念でもないあるものの模写であるということ、あるいは感覚や観念が、感覚でも観念でもないものと引き比べられる(一致したりする)ということだ。だが異なるものは、たとえば「長さ」と「重さ」は、最初から比べようがないのだ。
 ふたつの主張(そして両極端の間にあるもの)は、同じ根を持っている。言い替えると、唯名論には唯物論と現象主義の契機がある(→マッハ対レーニン)。実はこの根を刈ることで、フレーゲは実在論を引っ提げて登場するが、これはまた別の講釈。



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