クワイン × 論理実証主義

「検証」はできるか


 カルナップをはじめとする論理実証主義の主張を無理に「煎じ詰め」れば、意味のあるまともな命題は、(トートロジーな分析命題をのぞけば)「観測」によって検証される命題、およびそのような命題に還元される命題のみ、ということである。いわゆる自然科学はこのような、ひとつひとつ検証される諸命題で構成されるのであって、検証され得ないような命題は「疑似命題」であり、ようするに「形而上学」でしかない。
 ところがクワインは、デュエムの「決定的実験の否定」を援用して、そのような「還元主義」が前提としている「検証観」を否定した。カルナップらは、実験結果が仮説から予想されるそれと一致すればその仮定は検証され、逆に一致しなければその仮定は反証されたと考える。しかしデュエムは、仮説のテストをこのように考えることは決定的に誤っていると指摘する。つまり仮説Hから、そのとき予想される結果を導き出すには、必ず(しかししばしば暗黙の)補助的な仮説(A1、A2……)が必要であるという事実を見落としている、あるいは故意に無視している、と。したがって実験結果が予想と異なったとしても、反証されるのは仮説Hではなく、仮説Hと補助仮説(A1、A2……)の連言である。
 つまり科学者は、単独の仮説を実験的テストにかけることは決してできない。できるのはただ一連の仮説をテストすることだけである。したがって実験結果が予想と異なったとしても、彼が知るのは、こうした一連の仮説のうちの、少なくとも一つが受け入れ難いのであって、修正されるべきだ、ということだけである。そのうちのどの仮説が修正されるべきか、実験的テストによって知ることはできない。
 経験によって検証されるのは、独立の言明でなく、体系全体である。このことはまず科学と非科学の境界を霧散させる。「体系のどこか別のところで思い切った調整さえ行なうならば、何が起ころうとも、どんな言明に関しても、それが真であると見なし続けることができる」。ここではもはや「経験による検証(テスト)」なるものが意味をなさない。「問題」の方をとりかえることで、どんな主張もその気になれば守り通すことができる、ということだからである。
 さらに「逆に、まったく同じ理由から、どのような言明も改訂に対して免疫をもっているわけではない」。体系全体のどこを調整してもかまわないのであれば、経験の衝撃を受け止めるのに、たとえば論理法則の改訂に訴えることもあり得る。実際、排中律の改訂が、量子力学を単純する一手段として提案されている(量子論理)。
 こうしてついには分析命題/綜合命題の区別も撤去されてしまう。つまりどのような言明も、経験から守り通すことができないものはないし、逆に経験によって改訂することができないものもないからである。


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