ヤコービ × カント

汎神論論争余話


 これは「スピノザ対ヤコービ 汎神論論争」の「@」までを読んでから読むこと。読んだかな?では始める。
 しかし、ヤコービのスピノザへの反感には裏がある。ヤコービにとって気に入らなかったのは、実はカントだったのである。哲学と信仰の関係問題(→シゲルス対トマス)に関して、カントは(我々から見れば)スピノザよりも遥かに穏健だったし慎重だった。それでも、信仰や感情よりも理性や科学に傾いているように見えたカントは、この当時やはり反動の波を受けていた。そうしたリアクションの急先鋒の一人がヤコービだったのである。
 カント『純粋理性批判』は大きく二部に分けることができる。前半は自然科学の基礎付けである。感性から始まって悟性に至る、認識過程を構成する。後半は従来の形而上学の批判である。これをカントは、三つに分けた。「純粋理性のパラロギスムス」、「純粋理性のアンチノミー」、「純粋理性のイデー」である。
 これらの中でカントは、魂の不滅(来世、あの世への信仰)、人間の自由、神の存在など、形而上学の根本問題であり、同時にキリスト教の信仰の根本教義に関わる問題を、哲学的に解決できない問題としたのだっただった(→スピノザ対カント)。例えば、人間が自由であるかどうか、という問題について、カントは、「世界の現象すべてが因果関係によって説明できるとは限らない。自由が必要だ」というテーゼと、「自由はない。すべては因果性に従う」というアンチテーゼが両方とも成り立つことを証明し、相互矛盾・二律背反(アンチノミー)に陥らせる。だから、結局どちらとも言えないことになる。魂の不滅については、「間違った推論」(パラロギスムス)だとしたし、神の存在については「純粋理性の理想」という節の中で、伝統的な神の存在証明を批判した(→アンセルムス対デカルト 神の存在証明1/デカルト対カント 神の存在証明2)。
 その代わりカントは、そうした実践的な問題は「要請」という形で認めた。つまり、理論的的には認められない(あるいは、何とも言えない)けれども、実践的には「そうだったとしてもいいじゃないか」としたのである(『実践理性批判』)。しかも、権利の上では実践の方が上だとした(実践理性の優位)。
 しかし、ヤコービからすれば、これは大いに不満である。カントの立場は、信仰を積極的に肯定する立場ではなく、消極的に(仕方なしに)認めた、というにすぎないではないか!逆に言えば、理性が到達できないようなもの(神、自由、あの世)といった超自然的なもの、超理性的なものこそ大事なのだ。
 しかし、ヤコービは単に「信仰だ、感情だ」と叫んだばかりではない。ちゃんとカントの弱点を突いていた。「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、しかも物自体によればカントの体系の中に留まれない」という言葉で知られる物自体批判が最も有名である。
 カントの考えでは、我々が認識できるのは(うわべの)現象だけで、物そのもの、物自体は分らないのだ。しかし、カントは、そうした分らない(不可知の)物自体から感覚を受け取るのだとも言っている。物自体からの刺激(触発)がなければ我々は認識の材料を得ることはできないのだ。だから、物自体は何だか分らないが認識の原因であることになる。何だこれは?という訳である。
 以上がカントの理論哲学(『純粋理性批判』)への批判だとすると、実践哲学(『実践理性批判』)にも文句がある。カントは節度(批判主義的節度→カント対フィヒテ)だとか言うが、間違いをおかすまいとするあまり、カントの道徳哲学は硬直した形式主義に堕落してしまっているのだ。カントの道徳の基本は「定言命法」という言葉に集約される。「汝なすべし」(ゾレンの立場→スピノザ対カント)、「あなたはそうしなければならない」のである。何が「しなければならない」か!とヤコービは思う。むしろ道徳は、人間の本性(本能)から出てくるものでなければならない。カントの言うのは一般的な規則だけで、その中身はないではないか。
 こうした道徳哲学に関する違いはカントとヤコービの最大の対立点を示している。カントは飽くまで形式を問題にする。道徳哲学に限らない、カントの基本的な立場が形式主義である(→スピノザ対カント)。ヤコービはそこに感情を持ち込む。
 実は二人ともルソーに大きな影響を受けているのだが、その受け取り方は全く違ったようだ。また、カントもヤコービも啓蒙主義(理性万能の楽天主義と理解されている)に対する批判者と位置付けられる(ルソーも実は啓蒙の時代にあって反啓蒙的だった人である)。しかし、そのやり方は全く違っていた。カントが理性認識そのものの批判に向かったのに対して、ヤコービはそれを一足飛びに飛び越してしまう。
 いわばカントの形式主義は、間接的媒介的な方法である。直接中身に関わらないで、外堀から埋めていく方法である。ヤコービは一足飛びに、言い換えると、直接的に対象の中に入っていこうとする(これは、フランスにおけるカント主義に反対した、ベルクソンの立場でもあった→カント対ベルクソン)。そうした直接的認識こそ、ヤコービによれば、感情なのである。


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