スピノザ × カント

道徳について


 ホッブズやニーチェの指摘をまつまでもなく、哲学が、一面では言語の問題であることは間違いない。例えば、助動詞中心に見た哲学史というのも可能である。助動詞によってすべての哲学がではないにしろ、幾つかの哲学は説明可能であろう。例えば、WILLを鍵にした意志の哲学。CANを中心に組み立てられた能力の哲学、等など。そして、我々のカントは、こうした観点から見ればSHOULD,SOLLENの哲学である。
 カントが『純粋理性批判』で行なった作業は、人間が自然についての理論的認識を獲得するためには、人間の認識はこうなっていなければならない(そうなっているはずだ)というシステム(認識の条件)を構成してみせることだった。それは、「実際にわれわれはこういう風に認識しているのだ」という議論、カントの言う「事実問題」ではなく、「こうなっているはずだ、こうなっていればよい。(もし、そうでなければ、我々は理論的な認識を得られないのだ。)」という「権利問題」なのである。
 そうした議論によってカントは、人間の「理論的」認識について論じ、その限界を確定しようとした。カントの考えでは、形而上学と呼ばれてきた思考は、自然の認識に適用されるべき悟性を、本来なら使ってはならない超自然的領域に適用したものである。例えば、神の存在について、我々の悟性は本来手を出せないはずなのだが、それについて論じてきた形而上学は、悟性という認識の道具を、まちがった用途に使用してしまったのである。カントにとってそれは多分、スリッパでゴキブリをひっぱたくよりもひどい間違いである。スリッパは、本来は履くものであってもゴキブリは殺せる=役に立つが、悟性は別の用途に用いればその結果は悲惨なことになる。カントの批判主義とは、そうした空しい試みを一掃することだった。そしてその批判は、形而上学の「内容(あるいは事実)」を批判するのではなく、その「形式(あるいは権利、資格)」の不可能性を指摘することだったのである。
 しかし、カントはそうした理論的認識の批判の一方で、実践的な領域については含みを残した。つまり、神の存在や人間の自由などといった問題は、理論的には解決できないものの、実践的には解答できるとするのである。そして、ここでもやはり「ねばならない、であるはずだ」という論理が議論の推進力になっている。つまり、人間は自由でなければならないし、神は存在しなければならない。そうでなければ、道徳は成立しないことになるだろう。これは神や自由や来世の存在を事実として証明するといったものではなく、権利として要求するというものである。
 このように、「であるはずだ、であるべきだ」(これをゾレンとか、日本語に訳して「当為」などと言う)の論理は、事実を論じるものではないのだから、カントの考え方は「形式主義」と呼ばれている。これは大変上手な方法である。なぜなら、そこには常に、逃げ道を残してあるからである。「お前はこんなことを言ったろう!」と言われれば、「いや、それは形式として述べただけで、実際はどうだか」と、これは卑近に過ぎるにしても、それに近い逃げを打つことが出来る。これがカントの自負する「コペルニクス的転回」である。コペルニクスが天動説から地動説へと、それこそ天地をひっくり返したのに対して、カントのひっくり返しは、事実や現実、存在や「物自体」の解明ではなく、我々の主観(精神)に与えられた構造を明かにすることを目指すという仕方で行なわれたのである。この立場では、物や自然が我々の認識に入ってくるのではなく、我々の認識がそうした対象を構成するのである。これをカントは「超越論的な立場」と呼んだ。
 こうしてカントの思考は、ゾレン的形式主義であり、超越論的な批判的観念論である。こうした観念論の立場、我々の外界ではなく、内面こそが重要なのだという立場は、『純粋理性批判』で確立され、その基盤の上に『実践理性批判』、『判断力批判』という批判三部作が現れた。
 ところでカントは、『判断力批判』の中で「神の存在の道徳的証明について」(87節)論じ、その中で興味深い想定をしている。「だから我々は、神はない、来世もない(これらは道徳の対象としては同じ結果になるので)と堅く信じているような、品行方正な人(例えばスピノザのような人)を想定することもできるだろう。」
 行ないは正しいが、道徳的に間違っている人。しかし、こうした人は、カントの考えでは、矛盾に陥ることになる。なぜなら、行ないを正しくするためには、その人はそのための基準を心の中(内面)に持っているはずだし、そうした良心にしたがおうとすれば、そうした道徳の根拠になるような、神の存在を認め「なければならない」からである。
 ここでカントが名前を挙げているスピノザは、実際には、神の存在を否定するどころか、自分の哲学すべてを神によって基礎付けているのだが、カントの考えるような道徳理論をとってはいないので、カントから見れば神を否定しているのと同じなのである。
 これに対してスピノザは、カントから見れば独断的で特殊な方法によってではあるが、神の存在を理論的に証明したと信じた。しかし、その神は目的も人格もない、カントからすれば役に立たない、ただ存在するだけの神なのである。逆に言えば、スピノザにとってはキリスト教的な道徳の方が特殊なのであって、そうした偏頗なものを否定するためにこそ神を持ち出してきたとも言えるのである。いわば、神が道徳的に役立たないことこそ神を持ち出す意義なのである。勿論スピノザの主著が「倫理学」という名付けられているように、スピノザの意図は倫理学にこそあった。しかし、それはカントの道徳とは全く違った場所に立てられているのである。たとえ神を否定しても、超越的絶対的な原理や価値、目的を想定するならそれは神の想定と同じである。逆にスピノザのように、神を置きながら、そこに原理も目的も求めないなら、それは実質的に無神論ではないか。事実、スピノザはそう批判されてきたのである。スピノザ哲学とは、哲学者たちによる理論的な反論を受ける以上に、キリスト教世界そのものが本能的な自己防衛の意志によって排除した思想だったのである。
 つまり、スピノザから見れば、カントの道徳というものは非常に制限されたものである。カントの道徳とは、一言で言えば「内面」的な道徳である。つまり、人がどうあろうとも、自分だけは良心の声にしたがって、神による究極の目的に向かって努力しなければならない、というのである。しかしカントは、そのためにこそ、その道徳の内面的な根拠として、神が存在して「いなければならない」と考えるのである。なぜ「内面」にでなければならないか?それは、カントの形式主義では、究極の目的(つまり神)が現実に、実際に、実体的に存在する(カントはこういう立場を「自然目的論」と呼び、カント自身の内面的道徳の立場を「道徳目的論」と呼んで区別し、前者を批判している)とは言えないからである。これに対してスピノザは、そうした道徳の根拠が考えられないような地点まで進んだ上で、なおかつ倫理学を模索するという、カントからすれば哀れにも絶望的な企てを行なったことになる。ドゥルーズは「スピノザ 実践の哲学」の中で、倫理学と道徳とを区別している。スピノザの「倫理学」とは、(カントに代表されるような)「道徳」と同じものではなく、むしろ道徳のラディカルな批判、解体なのである。スピノザが15年の歳月をかけて完成しつつあった主著『エチカ』の執筆を中断して『神学政治論』を著したのは、この意味では必然的であった(しかも、『神学政治論』が悪評判を呼んだことで、スピノザは『エチカ』の出版を妨害され、それが出版されたのはスピノザの死後、匿名でであった)。スピノザの倫理学は、カントの内面的道徳とは違って、当然社会的な問題を論じなければならなかったからである。 カントの時代、それはまだキリスト教の全面的な支配下にある時代であり、カントの世界、それはキリスト教徒以外は人間であるかどうかが疑わしいとされる「世界」であった。カントの形式主義的観念論に見られるように、キリスト教道徳は現実的実在的問題であるよりも、内面の問題(これはカントだけの問題ではない、カントが育ったのはドイツ・プロテンスタンティズムの内省的な環境、特にその立場を明確にしたピエティズムという内面的な宗教的環境だったし、イエスが頭の中で想像しただけでも姦淫は姦淫だと述べたときに既に成立していた立場でもある)に押し込まれていた。しかし、それは既に我々の現在の世界ではない。ここでカントの道徳はまだ有効だろうか。それとも、スピノザの試みはやはり絶望的なのだろうか。


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