デカルト × ライプニッツ

真理の形而上学的基礎


 真理観をめぐっての、デカルトの直観主義とライプニッツの形式主義との差異(→デカルト対ライプニッツ 真理の基準)は、両者の神の概念の違いにも現れている。
 西洋哲学では伝統的に、神における意志と知性を区別することが普通だった。話しは簡単で、知性を重視するか、意志に重きを置くかによって陣営は分かれることになる。
デカルトは意志の立場であり、ライプニッツは知性の立場である。
 ライプニッツにとって、神の知性が重視されるのは、神の知性と人間の知性とが(全く同じではないにしても)通じ合うところがあるとされたからである。ライプニッツは、神の知性とは論理的真理(いわゆる「理性の真理」)を認識するものだと考える。
そして、たとえ神だとても論理的な矛盾が真理であるように世界を作ることはできない。ライプニッツでも世界を実際に作るのは神の意志なのだが(→スピノザ対ライプニッツ)、その意志も無矛盾性=可能性を基盤にしてでなくては何もできない。これに対して、デカルトは、神の意志は計り知れないから人間にとって神は断絶した場所にあって、人間から見れば、神は勝手気ままに世界を作っているのだと考えるのである。ライプニッツが神の知性に帰した論理的な形式は、デカルトの神の意志によって簡単に破られてしまう。デカルトの神は破れかぶれである。しかしデカルトはそれでは困るから、神は誠実だなどと言い出す。神は、我々人間の明証性が真理になるようにうまく配慮してくれているくらいに親切なのである(デカルトは合理主義と呼ばれることが多いが、それがとんでもない間違いだというのはここから分る)。


inserted by FC2 system