デカルト × ライプニッツ

真理の基準


 デカルトは真理の基準として「明晰判明」性を持ち出す。つまり、はっきりと「これは確実だ、自明だ」と思われることである。これをコギトーの明証性と呼ぶ。これは後にフッサールが重視した立場だからよく覚えておきなさい。
 しかし、デカルトのこの立場は、よく考えてみると客観的でない。コギトー(私は思う)の明証性は主観的な基準にすぎないのだ。
 ライプニッツはこの点を批判して、(1)真理の基準は別のもの、客観性を保てるような印しが必要だと考える。更にライプニッツは、デカルトの明晰判明性を批判して、(2)まずもって概念の論理的な可能性を示すことが必要だと考えた。なぜなら、「明晰」であったとして、不可能な(矛盾した)概念というものがあり得るからである(例えば「四角い円」など)。ライプニッツは、(1)については論証が必要だと考え、(2)については定義が重要だと考える。論証というのはあらゆる真理を矛盾律に基づいて自同性に還元するということであり、定義とはこの場合、名目的な定義(「四角い円」などの、名前だけある定義)ではなくて、実在的な定義でなければならないとするのである。
 しかし、デカルトにも言い分はある。というのは、(1)については、もし客観的な基準を求めるとして、それが見付かったとしても、その基準の更に基準が、更に基準がというように無限に遡らなくてはならなくなるだろう、というのである。したがって、真理はそれ自身で自明であり、真理自身が自分は真理だと明かにしているのでなければならない、ということになる。一方ライプニッツは、そうした明証性ではなく、論理的な分析が必要だと考えるのである。要するに、デカルトは直観主義であり、ライプニッツは形式主義であると言える。


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