カント × フィヒテ

批判から観念論へ


 カントの試みは、批判主義と呼ばれる。それは、彼以前の哲学者たちがあまりに大袈裟な「形而上学」の建設に狂奔した(ように見えた)からである。そうした形而上学を彼は独断論的と呼ぶ(→カント対ライプニッツ)。つまり、神や来世や人間の魂など、目に見えもしないし触れもしない、つまり確かなことは何も言えないような対象についての勝手な(=独断的な)おしゃべり、という意味である。こうしたおしゃべりを刈り取って、哲学をすっきりしたものにしよう、あまり大袈裟なことは言うまい、としたカントの立場は、批判主義的な節度の枠内でのものである。
 こうした批判を行なうためにカントが考え出したのが、超越論的な立場というものである。我々は、物そのものについて、どうのこうの言うことはできない。我々が語れるのは、我々が持つ認識についてだけなのだと。つまり、超越論的立場とは、認識についての認識(メタ認識)であって、これによって科学的な認識の「基礎付け」ができるとカントは考えたのである。この立場は、物そのものに関わらないで、認識の、しかも構造ないし形式だけを扱うので、形式主義と呼ばれる(→カント対スピノザ)。こうした物そのものから認識の形式への方向転換を、カントは、「コペルニクス的転回」と自称した。
 カントのこうした立場によって、哲学は、繁雑な形而上学から解放され、我々の認識ないしは意識だけに集中すればよいことになった。これはしかし、煩瑣からの解放であるとともに、自由なおしゃべりの抑制としても働く。これに対する反動が起こるのは当然の成り行きである。そうした反動の波を「ドイツ観念論」と呼ぶが、その第一歩がフィヒテの「知識学」であった。
 フィヒテは、自分ではカント哲学の純粋な、ラディカルな推進者であるつもりだった。確かに彼の立場は、研究対象を意識だけに絞ることで始まり、その点ではカントを受け継ぐものだったが、それが極端に行き着くところまで行ってしまったために、却ってカントの基本的な立場、つまり批判主義的な節度を外れてしまうことになった。要するに、カントの方法は受け継がれたが、そのもともとの意図は見失われたのである。
 確かにフィヒテは意識、認識の構造(フィヒテはその中心を「自我」と呼ぶ)についてしか語ろうとしない。彼の「知識学Wissenschaftsllehre」というのも、直訳すれば学問論」であり、つまり学についてのメタ・レベル建設を意図するものだったから、この意味ではカントの超越論的観念論立場を受け継いではいる。しかし、カントでは、直接語るのは避けられたものの、認識の向こう側には物が前提されていた。フィヒテはこれも取り払ってしまう。となると、自我はもう自我としか関わらないのである(非我はない)。こうしてフィヒテによれば(極端に言えば)、世界は絶対者のような自我が自分で勝手に動いて創り出したものである。非我=他者のように見えるものは、実は自我が自分を振り返るために自分自身で創り出したものである。ここに観念論は極まった。後にシェリングやヘーゲルは、フィヒテの立場を「主観的観念論」と呼ぶ。自分たちは「客観的観念論」のつもりなのである。主観的観念論=独我論については既にカントも批判していた。だからこそカントはそれと区別して、自分の立場を超越論的観念論と呼んだのである。
 しかし、幾ら何でも「自我」しかないというのでは動きがとれないから、フィヒテは後に「知的直観」を持ち出すことになった。カントは、そんなものは神でもなければ持てないものだと言って、自分は採用しなかったものである。つまり、カントは飽くまで人間の認識を基準にした節度をもった立場にとどまったのに、フィヒテはそうした制限を破ってしまったということになる。
 しかし、フィヒテの立場からすれば、カントの批判哲学は基礎だけであって、体系として完成されていない。フィヒテはカントを徹底することによって、カントが残した隙間を埋めようとしたのである。実際、フィヒテ自身は非常に道徳的な人間であり、彼の関心は実は実践哲学の方にあったのである。
 カントは『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力理性批判』という三つの書物を著した。しかし、フィヒテ(を始めドイツ観念論者たち)にとっては、それは分断されたままであって、一つの全体へと体系化されていなかったのである。それは、カントからすれば、無節操な拡大解釈だったとしても。


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