ライプニッツ × カント

思弁哲学と批判哲学


 哲学には大まかに分けて、思弁的なものと批判的なものがある。
 思弁的なライプニッツの哲学は、すべての問いに答えようとする。それに対して、(実のところこの区分自体がカントに由来しているのだが、)批判的なカントの哲学は、いくつかの問いを排除することによって機能する。
 カントによれば、ライプニッツの思弁的な哲学(モナドロジー)は、その理論に欠陥があるというより、むしろ解決しようとする問いを誤っているのである。
 「精神は〜である」とか「宇宙は〜である」とか「神は〜である」なんて問題は、感性(経験)から離れた考察を行なう理性は妄想を生むだけである。その証拠にと、このような問いの考察が、二律背反のにっちもさっちもいかないところへいくところをカントは示して見せる。ライプニッツは理性が宇宙の究極的な構成要素を知ることができるとしたが(それが彼のいうモナドである)、カントによれば、そのような問いは、その答えが正しくもあり正しくなくもあり得ないような問いなのである。
 思弁的な哲学は、問題に対して理論を構築することで答えようとする。批判的な哲学は、同じ問題に対して、その問いが答えが持ち得ないことを示すことで、答えようとする。
 最近ではH・アルバートという人が、「超越論哲学」の究極的な基礎付けの論理的な手続きが、1)無限遡行、2)循環、3)独断論的な開き直りのどれかに陥ることを示してみせ(「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」)、それにかわるのは「基礎付け」という哲学的オブセッションにとらわれない「批判的」手続きだとした。本人もいっているように、こういうのは批判的な哲学である。


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