ロック × ライプニッツ

個物について


 (実在に関する)原子論と唯名論・経験論(認識に関する原子論(→ガッサンディ対デカルト))は、互いに背き合うだろう。
 唯名論者にとっては、個物のみが唯一実在しており、普遍者などは言葉の取り決めに過ぎない。他方、実念論者にとっては、普遍者(実体とか概念)が無限に自らを限定する力をもち、個物はたんにその偶然的な限定にすぎない。
 ところが原子論は、「個物」を文字通り「粒」へと瓦解させる。今、目の前にしてる、個物だと思っていたこの「机」は、実は非常に多くの原子からできている。では、真の個物とは、原子ではないか(ところがバラバラになると、もはやそれらは「机」ではないのだ)。「この机」とはいったいなんだろう。どうして我々は、「原子の集合」を個物として取り扱うのか。気を抜けば、すべては「感覚の束」とか「原子の集合」に、解体される。
 原子論者のロックにとって、(実在に関する、いわゆる)原子は、感覚の対象でなく、感覚の原因である。ロックは経験論者にして唯名論者でもあって、唯名論者の個物=「認識に関する原子」は、感覚の対象の方であるのだ。ここにバークリーや感覚要素論者のマッハらが原子などの理論的存在を不必要とする一因がある(→ロック対バークリー)。が、もっとちがった方向から、ここにライプニッツのつけこむ隙がありはしないか。
 クラス(「原子の集合」)が個物である困難。無数の断片からなる複合体(物体)が、「個物」として認識されるなら、そこには「個」としての統一を与えるものがあるはずだ。ここでライプニッツは、「実在に関する原子」と「認識に関する原子」を一致させ、唯名論に実念論(普遍主義)を滑り込ませる。あるいは普遍者を個物に作り替える。ライプニッツにとっては、個物だけが存在する。と同時に、それはモナドあるいは精神という概念の力によってなのである。
 モナドは、種(普遍者)を分割したり限定するのとはまるで違った仕方で、個物を成り立たせる。個々のモナドは、個物が「在る」ということだけでなく、どのように在るかも含んでいるのである。この主体=主語となる概念の力は、個物=主体が関わるすべての関係(命題)を有している。ここに至って、世界についてのどんな命題も分析命題(主語に含まれているものだけで真偽が決まる命題)となり、経験論はいつしか蒸発している。


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