ガッサンディ × デカルト

原子論と真空


 デカルトとガッサンディの対立は一見、極めて明白である。なぜなら、デカルトが(近代の)主観性哲学の祖であるのに対して、ガッサンディは原子論だからである。しかも、文献的にも、デカルトが出版のために用意した「省祭」の原稿に対して、ガッサンディが批判したもの、更にデカルトによる反駁までもが書物として残っている(デカルト「省祭」の付録に収録されている)のだから、話は簡単である。
 上のような対立を敷延すれば、次のように言うことができる。デカルトは二元論であると言われるが、「我思う、故に、我在り」の標語にも見られるように、精神と物質とは並列に並ぶものではない。デカルトがまず見出すのは何よりも精神である。そして、この精神の認識する対象として物体が見出される。ここにある順序関係に注目すべきである。なぜなら、精神の後から、精神の認識対象として見出された物体は、既に精神の認識対象として都合の好いように整理された物体だからである。デカルトの精神が、客観的に認識できるのは、数学的な対象である。したがって、物体も数学的対象として考えられなければならない。数学の対象、ここでは「空間」こそ物体の本質である。そうして出来たのが「延長=拡がり」という概念である。デカルトにとって物質とは座標軸上に表示される空間的な拡がりに他ならなかったのである。
 こうした物体=延長説では、当然空虚=真空は否定されることになる。空間的拡がりは空間そのものではない。つまり逆に言えば、デカルトにとっては空間的拡がりこそ物体なのだから、物体と切り離された何もない・空虚な空間はないのである。こうした空虚の否定論は、すぐにパスカルの実験(実はいんちきだったが)によって批判されることになる。
 一方、ガッサンディの原子論、それは勿論古代の原子論(エピクロス、ルクレティウス)の復活であって、簡単に言えば、自然に三つの原理を仮定するものである。即ち、原子、空虚、原子に内在する力。問題は原子そのものよりも空虚と力である。なぜなら、上に述べたようなデカルト的な物体=延長説では空虚が否定されたからである。したがって理論的に言えば、デカルトのガッサンディ批判は、原子の批判であるよりは、空虚の批判である(実際は、デカルトに対してガッサンディが噛付いたという順序関係なのだが)。次に力だが、これもデカルト的な物体=延長説では受け入れられない。繰り返すが、デカルトの物質とはそれ自体が運動の原因や力を持つものではなく、運動や力はむしろ位置の変化(座標上の)として理解されるからである。逆にガッサンディには、デカルトの物質は「不動のもの」に見えたのである。
 しかし、こうした明白な対立にも拘らず、一般の哲学史では、デカルトとガッサンディが対等の関係で論争したと看做されることはない。飽くまで主役はデカルトであり、ガッサンディは確かにデカルトの敵ではあるが、それはデカルトの敵でしかないのであって、デカルトがガッサンディの敵であるとされることはありえない。
 哲学史は、デカルトこそ近代哲学の祖であり主流であるという偏見に囚われているからこんなことになるのだろうか?
 実は、哲学史はある意味で正しいのである。しかし、そこまで(かゆいところまで)届く孫の手を持っていないだけなのだ。かゆいところとは、つまり、ガッサンディとデカルトの対立の舞台が実はお互いにとってずれていたという事情のことである。なぜなら、上に述べたように、デカルトの議論では、物体は認識の対象として見られていたのであって、つまりはデカルトの物体論は認識論上の問題の展開であるに対して、ガッサンディは古代原子論の復興者として、始めから実在の問題に突入していたからである。もっとも、ガッサンディによる原子論の復活は、単なる古代原子論の反復・模倣ではなく、近代自然科学的な量的自然観の基礎付けという方向を全く含まないわけではない。しかし、デカルトが古代・中世からの切断という文脈で語られるのに対して、ガッサンディは古代復興、即ちルネッサンスの延長上で語られることが多い。そうでなければ、デカルトの単なる反対者であるとされる。
 ここから風呂敷を広げて言うなら、ガッサンディは、デカルトとまともに対抗するためには、実在に関する原子論から認識に関する原子論に踏み込まなければならなかったのである。しかし、感覚的認識の起源について機械論的な説明がある一方で、ガッサンディは理性認識や一般的な概念の形成を認めていた。簡単に言えば、ガッサンディは折衷主義だったのである。
 ガッサンディが認識論においてなすべきであった方向に進んだのがロックであった。ロックは、精神を実体として仮定するというデカルト的な方向を取らなかった。ロックにとって確実にあると言えるのは、むしろ個々の「観念」だったのである。つまり、これは原子である。認識論上の「原子」としての観念(要素としての観念→ジェームズ対イギリス経験論)。こうして、ロックの立場(これを「唯名論」と呼んでも好い)は、ガッサンディ的原子論の認識論的発展なのである。ここに至ってこそ、デカルトと原子論はまともな勝負をすることができるようになるのである。


inserted by FC2 system