ロック × バークリー

第二性質について


 ロックは感覚という窓から入ってくる単純観念について、次のような線を引いた。つまり事物の性質をそのまま写している観念とそうじゃない観念である。そうじゃない方の観念は、事物と感覚との間の作用によって生じる。事物自身の性質を「第一性質」と呼び、本当は性質ではないんだが、事物と感覚との間の作用によって生じる「性質」を「第二性質」と呼んだ。延長や運動や填充性(solidity)などは第一性質であり、色だとか香だとか味などは第二性質である。
 ところで事物の「第二性質」と呼ばれた方は、みな目や鼻や舌など、一つの外官から入ってきて観念になる。一方、「第一性質」の方は、多くの外官から入ってきて観念になる。延長などは見て触って確かめる。それでもロックがこちらを「第一性質」としたのは、彼が「粒子哲学」の教義、世界はすべてかあるいは少なくとも部分的には「つぶつぶ」からできている、を信じていたからである。「つぶつぶ」には延長がある、「つぶつぶ」は運動する。ところが「つぶつぶ」はそれ自体無色だし匂いも味もしないのである。ロックは、色は「つぶつぶ」が網膜に、味は味蕾に、ぶつかって生じたものであると考えた。目や舌を取り去れば、色や味といった感覚は消え、感覚の原因(つまり「つぶつぶ」の運動)は残る。従って、「第二性質」なるものは、本当は「性質」でなく、我々の内に生じる感覚状態を、誤って事物(対象)側に移したものなのである。
 バークリーは、これを転倒だという。「第一性質」だと呼ばれたものは、みな「第二性質」----一つの外官が捕まえたものから思惟の作用によって付け加えられたものである。延長なしでも、運動なしでも、我々は色を見ることができるし、感触を楽しむことができるし、かぐことができるし、味合うことができる。むしろ延長や運動は、感覚などではなく、感覚的なものから後で組み立てられたものである。であるから「第二性質」が我々の内に生じる感覚状態である以上、「第一性質」だって同じ穴のムジナなのだ。それは対象そのものの性質なんかではない。砂糖の白さや甘さなんかは「第二性質」であり、我々の内に生じる感覚状態でしかないというのは正しい。そして砂糖は(ほかのどんな「物」も)、「第二性質」以外のどんな「性質」も持ち得ないのである。
 甘くなければ砂糖じゃないし、白くなければ白砂糖じゃない。砂糖から「第二性質」をみんな取り除いたら何も残らない。そして砂糖が「持っている」いくつもの「第二性質」は、ロックによれば、砂糖が「持っている」訳でなくて、「我々の内に生じる感覚状態」を我々が「誤って事物(対象)側に移したもの」であった。我々が過ちを犯さなければ、残らず我々の内にとどまるはずであった。今や、甘くて白くて触ると少しべたべたしているこの砂糖が砂糖であり続ける「場所」は、我々の内にある。砂糖は(ほかのどんな「物」も)、「我々の内に生じる感覚状態」の束である。個々の物体は、我々の中における表象の結合にすぎない。逆にいえば、「個々の物体」とは、表象の結合を、誤って(物質界なるスクリーンに)投射したものにすぎないのである。そして我々は、哲学者によって持ち込まれた「原子論」などの臆見を、それこそあらかじめ信じていなければ、外来する観念からそれを構成することはできないのである。


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