ポパー × 論理実証主義

検証について


 論理実証主義の「検証」は、全称命題をめぐって早晩行き詰まってしまった。全称命題は検証できないために「疑似命題」に追いやられてしまう。つまり「すべては〜だ」といった命題を、確かめようとしたら、すべての場合について実験なり観察なりをしなきゃならない。そんなことは実際には不可能だ。そして「科学法則」というのは、いつでもどこでも妥当であるのだから、全称命題の形を取るのである。「科学」と「うそ科学」の峻別を行なおうとする論理実証主義の企図は、経験と普遍を巡るあのアポリアに再び頓挫する。「Humean predicament is human predicament.(ヒュームの窮状は人間の窮状)」とはよく云ったもんである。
 それで彼らは「累進的確証」といった「一種の帰納法」まで後退する。個々の証拠は、それだけで全称命題を検証することはできないが、しかしまるっきり無駄という訳でもない。また一歩、確証に近付くことになるからである。けれど、「すべてのカラスは黒い」という命題について、たった一つ「黒いカラス」を見つけただけではたいした証拠にはならず、非常にたくさん「黒いカラス」を見つけても確証度が上がるだけで依然として覆される可能性がある。「累進的確証」で手に入ったのは蓋然性だけだ。しかし、それに対して「黒くないカラス(カラスであって黒くないもの)」は、それだけでもう「反証」になる。つまりその全称命題を捨てさせる事例となる。たった一つの事例を見つけただけで、完膚なきまで件の全称命題を叩きつぶせているのだ。
 ポパーはこの「検証と反証の非対称性」に着目した。そうして科学的命題がクリアしなければならない基準を(「検証」や「累進的確証」でなく)「反証可能性」であるとした。つまり経験(実験)によって覆される可能性があるものだけが、科学であると。たとえば占星術はしばしば正しい予想をすることがあるが、どのような反証もかわすことができるように作られているが故に(つまり間違えようがないが故に)、疑似科学であるのだ。逆の例を出せば、ニュートン力学は、太陽の側を通った星の光が曲がったという観測でもって「反証」された。が、それ故に間違ってはいるけれど、(ポパーの基準からすると)やはり「科学」であるのだ。
 ところで「経験によって覆される可能性があるものだけが、科学である」と言ったが、それは正確じゃない。科学的言明(命題)と(論理的に)関係できるのは、ただ言明(命題)だけであることをポパーは忘れなかった。観察(観測)とその言明とをごっちゃにすることは決してなかった。論理実証主義者の方は、観察(観測)とその言明(原子命題)がどんな関係にあるかは、あえて問うこともしなかった。すべては彼らの導きの書であった『論理哲学論考』にある。その書で、ウィトゲンシュタインは徹底的に「認識」を排して、貫徹された独在論=純粋的実在論を展開しているのだから(→フレーゲ対ウィトゲンシュタイン)。彼にはそもそも観察と言明の関係を問う必要なない。だから独在論を貫徹できず「科学的認識」に色目を使った連中は、はなっから『論考』などに追随すべきではなかったのだ。
 科学的言明は、観察と対応するような「基礎言明」によって「反証」される。しかし「単純言明」もまた「科学」の内にある以上、「反証」をまのがれない。もう少し適当に言うと、どんな観察結果も「そんなもの間違いだ」と否認することだってできる(クワイン対論理実証主義)。
 ポパーは、観察(の代りの「基礎言明」)を、科学の外に置いて「神聖視」することをしなかった。しかしそうすると、「反証」のために持ち出した観察(の代りの「基礎言明」)も「反証」(くつがえ)されるし、それだって「反証」(くつがえ)されるし……。その無限遡行を止めるためには、どこかで「反証可能命題」を「もうこれ以上反証しないぞ」と確認しなければならない。実際「反証」の基礎となる「基礎命題」とは、「確認された反証可能命題」のことに他ならない。では、その「確認」はどこから来るのか?ポパーは決断だと言ってる。「反証できるのだけど、ぼくらはこれを確認したものとして、もう反証しないでおこう」という〈決断〉。「この観察結果(の言明)を否認しないで受け入れよう」という〈決断〉。


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