フレーゲ × ウィトゲンシュタイン

実在論について


 フレーゲの論理学に、認識の問題が(つまり主観の問題が)入り込むのは、同一性の概念を巡っての、「意味Sinn」と「指示Bedeutung」の区別を通してである。フレーゲ自身があげている例でいえば、「宵の明星」と「明けの明星」とは、その名のとおり我々(主観)に異なった与えられ方をしている。つまり「意味Sinn」が異なっている。だがしかし金星という同一物を指示している。つまり「指示(対象)Bedeutung」は同じである。したがって、「a=b」という判断、意味aと意味bは実は指示対象についていえば同じであるのだという判断は、(それがもし真であるならば)トートロジー「a=a」にはない認識的価値を有するのである。
 意味から指示への「前進」が認識であるという、素朴な(そして健全な)フレーゲの主張に対して、ウィトゲンシュタインはそっぽを向く。「二つのものについて、それらは同一であるというのは意味をなさないことであり、同一のものについて、それ自体と同一であるというのは、何も云わないことである」(『論考』5.5303)。なんとなれば、ウィトゲンシュタインにとっては、主観は世界の(記述の)中には含まれない。「私とは世界の限界」であり、したがって主観に与えられるところの「意味」も、(記述の)世界の中には含まれないのである。語は、「指示」を持つが、「意味」を持たない。このようにして、彼のいう「純粋な実在論」には「認識」が登場しない。


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