=== Reading Monkey =====================================================
           読 書 猿   Reading Monkey
            第98号 (ルック・アラウンド号)
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■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
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 ■読書猿は、本についての投稿をお待ちしています。


■■ダンバー『言葉の起源----猿の毛づくろい、人のゴシップ』(青土社)===■amazon.co.jp

 ダンバーという人は、霊長類(おサルさんの仲間)の大脳新皮質(新しい脳)
の大きさと、それぞれのおサルがつくるグループ(社会集団)の大きさとの関係
を調べました。すると両者の間に、かなりはっきりした関係があることが分かり
ました。
 つまり、それぞれの種がつくる社会集団の平均的な大きさが増加すればするほ
ど、大脳における新皮質の割合もまた増加する、というのです。群で生きるとい
うことは、孤独に生きるよりも、はるかに複雑な情報処理を要求されると考えら
れます。なお、霊長類の脳の大きさを、社会行動の複雑さに由来すると考える仮
説を「社会脳仮説」と言います。
 ダンバーはまた、ヒトの大脳新皮質の大きさ(割合)から、人間という種(ホ
モ・サピエンス=賢いサル!)がつくる社会集団の平均的大きさを逆算しまし
た。すると人間の脳が処理できる集団の大きさは、メンバーが150人程度であ
ることが分かりました。人間の脳はせいぜいがその程度なのです(読書猿の部数
ですら、それよりは多いというのに!)。確かに人類がその歴史の9割以上を過
ごした、狩猟採集生活において、基本的な社会集団であるバンドは100人を越
える程度でしたし、多くの部族社会での集団規模もこの程度です。ローマ時代か
ら近代軍隊まで、「中隊」の人数は100〜200人程度です。
 現代の社会では、我々の関係者や参加している集団の構成員数は、そんな数を
はるかに上回ります(私が通った小学校ですら2000人の生徒が通っていまし
た)。何億もの人たちに情報が伝えられるばかりか、ある一人の人間の生存や生
活は、およそこんな数では収まらないほどの数の人間によって支えられていま
す。しかし、かつてとは違い、いったい誰と誰が支えていてくれるのかを知りま
せん。


■■パブロフ『大脳半球の働きについて』(岩波文庫)==========■amazon.co.jp

 「ガリレオの時代から止まることを知らなかった自然科学の歩みは脳のまえで
はじめて停滞した。なぜならばここで自然科学を生みだした脳そのものが研究の
対象となったからである。ここに自然科学の転回点があったと言ってよいであろ
う」(パブロフ「自然科学と脳」)

 上記も解説に引かれていたものだが、この解説がエピソード満載でおもしろい
(気の抜けたような解説が昨今多い中、文庫の醍醐味が味わえる)。たとえば、

 「この年(1917年)、ソヴィエト社会主義革命が起こったがパブロフは実
験を中断しなかった。第一次大戦における帝政ロシアの敗北とそれに続く内乱に
よる生産活動の停止のため、革命後のソ連では日本の敗戦直後と代わりのない窮
乏の生活が続いた。このなかにあってソ連政府は1919年文豪マキスム・ゴー
リキーをパブロフの下に派遣して、どのような援助を希望するかについて意見を
求めている。このときゴーリキーは街路と同じように寒い研究室で厚い外套を
着、足には深い長靴を履き、防寒帽子をかぶって実験を続けている老いたパブロ
フを見た。パブロフは熱心に「犬がほしい、犬が」と述べ、また「暖炉で暖まっ
ている家はないが、壊した家で暖まっている暖炉はあるそうですね。しかしこの
あたりには薪の材料になる木造家屋もありませんよ」と冗談を言って実験室を暖
める薪を要求したとのことである」

 犬がほしい、犬が。


■■ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』(河出書房新社)==========■amazon.co.jp

 クリント・イーストウッド監督の「ペイル・ライダー」は、まずもって「馬が
少しも前に進まない」西部劇として記憶されるだろう。それは、ウエスタンもの
の極限だ。あるいは、とうとう「海」へ行き止まってしまった西部劇だ。馬は障
害物やその他何者かに邪魔され、前へ進むことを拒まれる。そしてガンマン同士
の対決は、とうとう弾丸の「運動」が埋めるべき距離さえ残しておらず、互いに
殴り合えるほどの近さで行われる。引き金を引く人はじっと動かない。そしてそ
の動きは、目にも止まらない。

 引用。
 「・・・これは巨体を誇る日本の力士に似ている。力士が進み出るときの動き
は目にとまるには遅すぎるし、技を放つ瞬間は目にとまるには速すぎ、あまりに
も唐突だ。だから、相撲の取組でひとつに絡み合うのは、二人の力士というより
も、むしろ待ち時間がもつ無限の遅さ(これから何が起こるのだろう?)と結末
がもつ無限の速さ(いま、何が起こったのだろう?)なのである」(ドゥルーズ
=ガタリ『千のプラトー』)

 映画と呼ぶには、まだあまりに稚拙である、けれど確かにその第一歩であった
にちがいない動画=動いて見える連続写真は、馬のギャロップからはじまったこ
とが知られている。とある、酔狂な貴族が、駆け足する馬の足はどの瞬間にも、
そのいずれかが地面に着いているのか、それとも馬の体はそれぞれの瞬間、やは
り地上数十センチの空中に浮かんでいるのか、知りたかった。運動は、知覚の外
にあった訳だ。その貴族は、馬が駆け抜けるコースをしつらえ、そのコースを横
断し遮るように、何本も細い糸を渡してセットした。つまり馬がそこを駆け抜
け、糸を切ったそれぞれの瞬間、それぞれの糸に連動した写真機のシャッターが
切れ、たった今行き過ぎようとする馬を次々に撮影するという仕掛けなのだ。

 そうして、撮られた連続写真は、馬の「運動」の「断面」となり、映画への先
駆となる。やがて発明家や工場主の兄弟の手を経て、映画が産声を上げるのだ
が、やがてカメラはまたしても、馬の駆け足を撮ることになる。サイレント時代
の、西部劇のヒーローは、ガンマンでなく、カウボーイだった。音抜きの映像で
は、銃はただぼわんと白い煙を立てる筒にすぎなくて、そんなにかっこよくな
かったからだ。だから、ヒーローの武器は、彼が馬上から投げる投げ縄だった。
カウボーイは彼方から、土けむりをあげてやってきて、馬上からひょいと縄を投
げ、いつも何かを虜にする。あるいは、何かを無理矢理、「運動」に投げ込む、
たとえば悪党を引きずっていく。

 ヒーロー達は、常に動いていなくてはならなかった。彼らの武器は「運動」に
他ならなかった。立ち止まっていては話にならなかった。それでは、彼らは何一
つできないからだ。
 ところが、拳銃が導入されて、事態は一変する。ヒーローはもはやかけずり回
らない。愛馬は武器の一環でなく、ただの移動手段に成り下がる。
 引き金を引く人は、わずかしか動かない。たとえば逃げる馬車を襲う馬上のイ
ンディアンたちもまた、馬車と馬の相対速度ゼロの中で、ライフルを打つのだ。
ヒーローもまた、立ち止まることを許される。引き金を引けば、目には見えない
銃弾が、勝手に「運動」してくれる、敵との距離をたちまち無きものにしてくれ
る。第一、早撃ちなんて、《不精な決闘》が、それ以前に考えられただろうか。
引き金を引く人はじっと動かない。勝負の一瞬に際して、ほんのわずかしか動か
ない。そしてその動きは、目にも止まらない。

 引用。
 「……運動は本質的に知覚しえぬものと関係する。運動は本来的に知覚されえ
ないものだ。……したがって運動それ自身を見るかぎり、運動は知覚以外のとこ
ろで生気し続けることになる。たとえ系列的な知覚を設定したところで、運動は
最大閾の手前で、拡大ないしは縮小の状態にある間隙(ミクロの間隙)において
行われるしかないからである。これは巨体を誇る日本の力士に似ている。力士が
進み出るときの動きは目にとまるには遅すぎるし、技を放つ瞬間は目にとまるに
は速すぎ、あまりにも唐突だ。だから、相撲の取組でひとつに絡み合うのは、二
人の力士というよりも、むしろ待ち時間がもつ無限の遅さ(これから何が起こる
のだろう?)と結末がもつ無限の速さ(いま、何が起こったのだろう?)なので
ある。それならば写真や映画の閾に達するしかないということになるが……」
(『千のプラトー』)


■■脇村義太郎『東西書肆街考』(岩波新書)================■amazon.co.jp

 あまりに有名なこともあり、これまで取り上げる気にならなかった(愛書家な
らいざしらず、猿にはその必要が感じられなかった)。
 大正時代から京都及び東京神田・本郷の書肆街(本屋街)に出入りしていた著
者による、出版当時(昭和54年)あたりまでの変遷を綴った名高い本。
 京都については、慶長年間、はじめて私人で書籍を営む店ができたあたりから
はじまるが、筆がさえるのはやはり大正から戦前あたり。
 さて、それを通り越して戦後。
 「戦争が終わって、戦災を受けなかった唯一の学都といってもよい京都には、
多くの人々が書物を求めて殺到した。むろん一般顧客だけではなく、戦災都市の
同業者が買い出しにきたものも少なくなかった。この時、戦災で書物を失うこと
のなかった京都の市民は、蔵書を売ってその日その日の生活の資に当てようとし
たために、大量の書籍が市場に出回った。さらに京都の場合、多数の寺院がやは
り農地改革による所領の喪失、信徒の経済的没落など、戦後の経済的な激変に
よって収入源を失ったが、直接戦災に遇うことがなかったことと、戦後の混乱で
自社の財産管理も放置されたため、心ない住職を持つ寺社は所蔵する古来の蔵書
や書画類を、戦後の混乱期に相当大量に市場に放出した。」
 「京都書肆街の戦後三十年の変化を一言で概括すれば、河原町書肆街の発展と
寺町・丸太町・京大裏通りの衰退である。そして京都市内至るところに相当の新
書店・古書店の散在を見るに至ったことが指摘できる。河原町が新しい書肆街と
して発展したといっても、その数は三十軒以下であり、隣接した丸太町・寺町を
合わせても五十軒前後にすぎない。これが今日の京都の書肆街の中枢部の全貌で
ある」
 この戦後の河原町書肆街(戦後京都で最も発達した「ショッピング・セン
ター」と地域を同じくする)の発展のきっかけになったのが、「若干の店が旧来
の土地を捨てて新たに河原町に店舗を求めたこと」そして「駸々堂(二軒)と京
都書院が河原町に大きな店舗を開いたり、丸善が戦前中止していた新築を完成さ
せたこと」だとある。このうち京都書院は河原町から撤退したしばらく後に倒
産、駸々堂も先日急な倒産が伝えられた。


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